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婚約破棄は承りました。では、王家の赤字もそちらでお引き受けください  作者: ハッピーミラクルエンジョイ


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19話 結婚契約書の修正箇所

結婚契約書の一行目で、リディアの指が止まった。


〈妻は夫の家の務めを助け、その財を守る〉


机の向こうで、クロードが息を詰めた。


「そのまま署名してほしいという意味ではない」


「では、どこを変えてもよろしいのですか」


「必要なところを、全部」


彼女は顔を上げた。


普段なら、必要な資料が足りないときの顔だった。


今日は少し違う。クロードの手元には、まだ開かれていない小箱がある。


「その前に、一つ確かめても?」


「もちろん」


「これは、お仕事のお申し込みですか」


彼はすぐに首を振った。


「違う。順番を間違えた」


◇


約束した夕方、リディアは事務所の階段を上がった。


王宮へ通うための書類鞄は、自分の机に置いてきた。


相談の予約も、今日の分は終わっている。受付の二人は、彼女が帰るまで建物にいることを知っていた。帰宅には護衛が同行する。脅迫状の件を忘れて二人だけで夜の街へ出る予定ではなかった。


運河に面した小さな応接室には、茶と、焼いた林檎の菓子が用意されていた。


仕事の話をする部屋と同じ机なのに、中央の書類箱がないだけで、広さが違って見える。


クロードは椅子を引いた。


座ると、窓から来た夕日の端が彼の指にかかった。


「今日は、来てくれてありがとう」


「わたくしが聞きたいと、お約束しましたので」


彼は頷き、用意していた紙へ手を伸ばした。


どう切り出すか考えた末に、慣れている書類から始めてしまったのだろう。


表紙に書かれた文字を見て、リディアは胸の鼓動を数えそうになった。


数えても、落ち着ける気はしなかった。


◇


クロードは契約書を裏返した。


小箱にも、まだ触れない。


「リディア。君と結婚したい」


彼女は扇の親骨を二度なぞった。


聞きたい言葉だった。


それなのに、返事は簡単には出てこなかった。


「わたくしの仕事が、必要だからではなく?」


「必要だと思っている。そこを嘘にはできない」


彼は少し考え、続けた。


「だが、仕事なら、君は私と結婚しなくても引き受けられる。断ることもできる。それは変えたくない」


茶の湯気が、二人の間を上っていく。


「君が仕事をしているところも好きだ。けれど、一日働いた後で何を食べたいのか、腹を立てたときに誰へ話したいのか、そんなことも知りたい。役に立つ話がなくても、明日また会いたい」


リディアは膝の上の扇を見た。


能力を褒められる言葉なら、最近は受け取れるようになっていた。


何も差し出さない日の自分を望まれることには、まだ慣れていない。


「わたくしが、何も計算したくない日でも?」


「菓子を二つとも食べないよう、私が数える」


彼女は思わず笑った。


クロードも笑い、それから真剣な顔に戻った。


「君が私を選ぶ理由があるなら、聞かせてほしい。なければ、今までの契約も仕事も、それを理由に変えない」


◇


リディアはすぐには答えず、冷めかけた茶を一口飲んだ。


自分へ値段をつけてくれた人だから。


それだけなら、敬意で足りる。


彼を好きになったのは、いつからだったのだろう。


最初から間違えない人ではなかった。説明せず仕事を抱え、彼女の顧客の情報が外交の報告に使われることを、十分に伝えなかったこともある。


彼女が止まったとき、彼は自分の立場を盾に先へ進ませなかった。


謝り、条件を直し、次の依頼では返事を待った。


守るためと言って、彼女から仕事を取り上げようとしたときにも、話し合う場所へ戻ってきた。


「あなたは、わたくしが嫌だと言ったことを、嫌だと知った後で変えてくださいました」


クロードは黙って聞いていた。


「わたくしも、あなたのことを知りたいと思っています。困っているときだけでなく、何も起きなかった日のお話も」


喉の奥が、少し熱くなった。


「ですから、お受けしたいです。ただ、その紙を読まずに、一生のことまでお約束はできません」


彼の肩から力が抜けた。


「読んでほしい。そのために持ってきた」


◇


紙は、公爵家で用いてきた婚姻の書式を写したものだった。


クロードが今回のために、すべての条文を書いたわけではない。


ただし、古い書式だからといって、そこにある約束を他人のせいにはできない。


彼は一行目を指した。


「家務も領地の収支も、君へ任せるつもりはなかった。だが、これに署名すれば、私のつもりとは別の根拠になる」


「誰かが善意で解釈してくださることを、前提にしない方がよいですね」


リディアは細い線を引いた。


文字が読めなくなるほど、塗り潰しはしない。


何を変えたのか分かるように、余白へ書く。


〈互いの仕事を尊重し、婚姻を理由として相手の職務を無償で引き受けさせない〉


書き終えてから、彼女はペンを止めた。


これでは、好きな相手に茶を淹れることまで、いちいち請求するように読まれないだろうか。


クロードへそう伝えると、彼は机の茶器を見た。


「今日の茶は、私から招いた客へのもてなしだ。明日から毎日、帳簿も茶も君の担当だとは思っていない」


「わたくしも、あなたに休んでいただきたくて、お茶を用意する日はあると思います」


「その日だけの好意を、翌日からの義務にしない」


彼女は余白に、小さくその言葉を書いた。


契約の正式な文言は、専門の者に整えてもらえばいい。


二人が何を守りたいのかは、自分たちで言わなければ伝わらなかった。


◇


次は、仕事をする場所だった。


昨日、王国に事務所を残す意思は伝えてある。


公爵夫人になることを理由に、今日それが消えた扱いにはしたくなかった。


「公国に、ずっと住むと決めることはできません」


「分かっている」


「ですが、あなたに会うための時間を、空いたら作るとも言いたくありません」


言ってから、リディアは彼の顔を見た。


クロードは、予定を書く白紙を自分の方へ引いた。


「私にも、公国へ戻らなければならない務めがある。王国に残る君へ、何も言わず待っていてほしいとは言えない」


まず、次に戻る必要のある時期を双方の予定で確かめる。


二つの国を移動する旅費を、顧客への請求へ紛れ込ませない。


私用の滞在と仕事の出張は分ける。


離れる期間が長くなると分かったら、決めてから知らせるのではなく、先に相談する。


書いてみれば、当たり前のことにも見えた。


だが、彼女は当たり前と思って言わなかったことで、自分の時間を何度も失ってきた。


「どちらかが寂しいと言ったら、予定表だけで返事をしないことも」


クロードが言った。


リディアはペンを止めた。


「……はい。それは、わたくしにも必要です」


◇


財産の項では、彼女の手が速くなった。


婚姻前の財産と、仕事によって得た報酬は、それぞれのものとして区別する。


生活のために二人で使う費用は、用途と負担を相談して決める。


どちらかの借入れを、知らないうちにもう一方の保証へ変えない。


リディアはそこで、父の顔を思い出した。


王家との婚約を信用の根拠に、短期立替をしていた父。


家と家が近くなることと、どこまで金を出すかは、別々に決めてよかったのだ。


「父の財産については、わたくしに決める権利はありません」


「私も、君の父君の資金を見込んではいない」


「公爵家の領地や公務のお金も、わたくしたちの生活費とは別ですね」


クロードは頷いた。


「私個人の贈り物を、公費で用意するつもりもない」


机の小箱へ目が向いた。


リディアは慌てて視線を戻したが、彼には気づかれていた。


「それも、後で確かめてくれてかまわない」


「まだ、お受けしていないので」


二人とも、少し笑った。


◇


その笑いが消えたのは、彼女の姓を記す欄を読んだときだった。


公爵家に入る者として、フェルゼンの名を用いる書式になっている。


リディアは、余白へ自分の名を書いた。


リディア・アーヴェル。


会計調査人として初めて名乗ったとき、声が震えた名前だ。


顧客の相談票にも、彼女が署名した受領証にも残っている。


「仕事では、この名を使い続けたいのです」


クロードは、彼女の書いた文字を見た。


「公の場での呼称や届け出は、公国側にも確認が要る。今ここで、すべて問題ないとは言えない」


リディアは頷いた。


できないかもしれないことを、喜ばせるためだけに約束されるよりよかった。


「確認して、難しいと言われたら、一緒に理由を聞いていただけますか」


「聞く。書式にないというだけでは、諦めない」


彼はその欄へ、要確認と記した。


結婚すれば、彼女の名が帳簿から消える。


そんな結末を、二人のどちらも望んでいないことは、今日確かめられた。


◇


後継者についての条文には、もっと長い沈黙があった。


子をもうけることを、家の継続のための務めとして記している。


リディアは、字を追う目が冷えていくのを感じた。


「わたくしは、子どもを持てると約束することはできません」


クロードは背筋を伸ばした。


「私もだ」


「望むかどうかも、その時の身体や暮らしを含めて、二人で考えたいです。約束どおりにならなかったときに、誰かを不出来だと言う条件にはしたくありません」


彼は条文の横へ線を引いた。


「爵位や家の継承には、公国の定めがある。私たち二人だけでは決められない。だからこそ、君が子を産むという約束で、その問題を片づけてはいけない」


養子を含めてどのような手続きがあるかは、別に調べる。


まだ存在しない子の人生を、今日の契約で職務にしてしまわない。


彼女はゆっくり息を吐いた。


数字なら、条件が足りなければ足りないと言える。


自分の身体のことになると、なぜか言ってはいけない気がしていた。


「わたくしが、わがままを言っているように聞こえませんか」


「君だけが我慢すれば済む話にしたくない。私も、結婚した後で困ったと言える方がいい」


クロードは窓の外を見た。


「不得意が、一度の話し合いでなくなるとは思えないから」


彼女は、その横顔を好きだと思った。


◇


気づけば、茶はすっかり冷えていた。


クロードが呼び鈴へ手を伸ばしかけ、菓子を見て止めた。


「先に、食べようか」


リディアは笑って頷いた。


林檎の端が、少し硬くなっている。


彼は詫びたが、彼女は首を振った。


「待たせてしまったのは、わたくしも同じです」


一口食べると、酸味の後から甘さが来た。


母は、帳簿の向こうに誰かの夕食があると言った。


その誰かの中へ、自分を入れてよかったのだ。


仕事を終えて、好きな人と冷めた菓子を食べる。


誰のための計算もしない時間を、惜しいと思わずに過ごす。


こんな日のために働いても、能力を無駄にしたことにはならない。


「どうした?」


クロードに問われ、彼女は目元へ指を当てた。


「母に、話したくなりました」


彼は理由を聞き重ねず、清潔なハンカチを差し出した。


受け取る手が触れた。


今度は、彼女から少しだけ指を残した。


◇


二人は、修正した紙へその場で正式な署名をしなかった。


それぞれが相談できる法律の専門家へ見せ、王国と公国の手続きに照らして確かめる。財産の扱いも姓も、曖昧なまま美しい言葉で覆わない。


父へは、許可を取る前に相手と条件を決めたのかと驚かれるかもしれない。


それでも、リディアは自分の意思を先に伝えたかった。


「父には、わたくしから話します。その後で、一緒に来ていただけますか」


「喜んで」


クロードが、ようやく小箱を開いた。


派手な宝石ではなかった。細い指輪の中央に、深緑の石が一つ留められている。


「私の個人の金で買った。受け取ってくれるなら、君への贈り物だ。家の貸与品ではない」


リディアは石を見つめた。


返さなくてよい物だから嬉しい、というだけではない。


彼女が尋ねにくくなる前に、彼が確かめておいてくれたことが嬉しかった。


「お受けします」


クロードが左手を差し出した。


彼女も手を重ねる。


指輪が収まるまで、二人とも少し不器用だった。


「結婚のお返事も、同じです」


リディアは彼を見た。


「条件は、最後まで一緒に確かめたい。でも、あなたと生きたいと思っています」


彼の指が、彼女の手を包んだ。


「私もだ」


◇


帰りの馬車へ向かう前に、リディアは自分の机へ寄った。


相談票の横へ、修正した紙の控えを置く。


公爵夫人になる約束をしたからといって、明日の依頼がなくなるわけではない。


逆に、明日の仕事があるから、今夜の喜びを後回しにする必要もなかった。


クロードが戸口で待っている。


彼女は机を閉め、灯りを確かめた。


鞄には、まだ何も書いていない小さな帳面が入っている。


王家の支払いでも、工房の売掛金でもない。


自分たちの暮らしのために、一冊を使ってみようと思った。


その最初の頁を何から書くか、明日、彼にも聞いてみたい。


リディアは指輪のある手を差し出した。


今度は、転びかけたからではなかった。

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