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婚約破棄は承りました。では、王家の赤字もそちらでお引き受けください  作者: ハッピーミラクルエンジョイ


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18/20

18話 契約満了の日

「アーヴェル様が、明日からいらっしゃらないのでしたら」


納入業者の使いが、請求書を引っ込めかけた。


「この支払いは、誰が見てくださるのですか」


リディアは伸ばしかけた手を、膝へ戻した。


会計室の窓際には、以前なら彼女の机へ積まれていた紙がある。


今は、二人の書記が向かい合って座っていた。


一人が、使いのために椅子を引く。


「私が受け付けます。承認を求める先も、この控えへ記します」


使いはまだ、リディアを見ていた。


彼女が頷くと、ようやく椅子へ腰を下ろした。


王家と契約してから、三十日。


今日が、最後の日だった。


◇


公開の照合会から、季節は少し進んでいた。


月末は、すでに越えている。


契約に三十日と書いたからといって、支払期限まで三十日延びたわけではなかった。月末までの六日間には、照合済みの請求を支払局へ渡し、未確定のものには確認先と回答日をつけた。


資金の足りない支払いは、王家の担当者が相手へ説明に出向いた。


延期のお願いだけを送って済ませず、承諾を得たものと、合意できなかったものを分けて残す。


怒鳴られた担当者もいた。


次の注文を断られた取引先もある。


帳簿が読みやすくなれば信用も戻る、というほど都合よくはいかなかった。


公国への八万六千四百リールも、リディアの契約とは別の債務のままだった。権限を持つ双方の担当へ返済交渉が渡り、その返事を待っている項目には、決着済みの印を押していない。


彼女が引き渡すのは、借金を消した帳面ではなかった。


残った仕事を、もう誰のものでもない仕事にしないための帳面だった。


◇


試験運用は、月が替わってから段階を分けて進めた。


最初は、写しを使った練習。


次に、権限のある担当者の監督下で実際の一件を扱う。


担当の書記を入れ替えても、続きを辿れるか確かめる。


一度、確認済みの印をつけた紙から、原本の保管先が抜けていた。


印をつけた本人は覚えていた。だが、隣の書記は探せなかった。


「わたくしが覚えておりますので」


そう言いかけた書記が、リディアの顔を見て口を閉じた。


彼女にも、何度も口にしてきた言葉だった。


「明日、あなたが熱を出したときには?」


「……棚の名と、綴りの番号を書きます」


失敗した一件を、その人の不得意として終わらせなかった。


保管先の欄を広げ、受け取る人が実物を見つけられたところまで確かめる。


その試験の受領が認められた日に、報酬の二百五十リールを受け取った。


着手金五百リールと合わせて、七百五十。


最後の二百五十は、まだ王家側にある。


終わったことだけを、終わった欄へ書く。


自分の仕事にも、同じようにした。


◇


最後の日に持ち込まれたのは、厨房へ納めた油の請求だった。


納入業者の使いは、膝の上で帽子を握っている。


納品の控えはある。受領印もある。


だが、支払局から戻った紙には、確認待ちとだけ書かれていた。


「何を確認しているのかが、分からないのです。店では、また止まるのかと」


書記は印の日付を確かめ、もう一人へ受領記録の照合を頼んだ。


その間に、自分は支払局からの返答を開く。


リディアには、二枚の品名の違いがすぐに見えた。


一方は厨房用油。もう一方には、灯火用油とある。


数字は合っていた。


ただ同額というだけで、同じ品だと決めてよいわけではない。


彼女は黙って座っていた。


書記が眉を寄せる。


「品名が違います。厨房の受取担当へ確かめます」


「書き間違いです。いつもの油ですから」


使いが言った。


「でしたら、その確認を残します。間違えた方を消して終わりにせず、訂正した方の名と理由も」


書記は呼出しの札を渡した。


リディアへ、正解を求める目は向けなかった。


◇


待っている間、使いは何度も戸口を見た。


このまま昼になれば、店へ戻るのが遅れる。


それを気にした書記が、問合せの控えに時刻を記した。


「確認が長引く場合は、先に状況をお伝えします。こちらの不備で、何度も来ていただかないようにします」


彼は、リディアから教わった文をそっくり読むのではなかった。


使いの帽子と戸口を見て、自分で言葉を選んでいた。


やがて厨房の係が来た。


元の注文票と、納入業者側の控えを並べる。支払用の紙へ転記するとき、別の油の品名を写してしまったことが分かった。


納入業者へ請求を出し直させるのではなく、王宮側の転記を訂正する。


訂正後の資料は、承認担当へ回された。


その間も、現金を渡したことにはしない。


使いへ渡された控えには、受付番号、訂正した内容、次の連絡日、問合せ先があった。


「この方へ聞けばよいのですね」


使いは、書記の名を指した。


「はい。私が不在なら、隣の者が同じ記録を開きます」


彼は初めて、帽子を握る手を緩めた。


リディアは膝の上で、指をほどいた。


全部、自分で説明できた。


説明しなくても、終わった。


そのことが、少し寂しくて、思っていたよりずっと嬉しかった。


◇


引渡しの机には、完了した案件と継続する案件を別々に置いた。


取引先へ返還を命じた七百二十リールには、返還通知と入金確認の記録を綴じる場所がある。通知があるだけの案件を、受領済みには数えない。


衣装費の未確認分も、調査が残るものは新しい担当の欄へ移す。


ベルナールの退職によって、彼への照会まで消えることはなかった。


元財務官の回答が届いた日、何を尋ね、何に答えていないのかを、二人の書記は分けていた。


リディアが訪ね歩かなければ動かない形には、戻さなかった。


「この欄が残っていても、引渡しはできるのですか」


立会いの係官が尋ねた。


リディアは契約書を開いた。


「この契約は、三十日で全債務をなくす約束ではございません。必要な記録と手順を整え、担当者が運用できるようにする約束です」


白いままの回答欄を指す。


「誰が、いつまでに、どこへ確かめるかがないのであれば、引渡しが足りません。答えがまだ届かないこととは、分けてください」


係官は目録へ戻った。


未回答の三文字を、完了に変えさせようとはしなかった。


◇


最後に、勤務記録を読み合わせた。


王家との契約に使った時間と、公爵事務所や個人からの依頼に使った時間は、別々だ。


王宮で会ったからといって、ミレーユの個人相談を王家へ請求することもない。


合計は、契約上限の四十時間以内に収まっていた。


そのために、毎日ここへ来たわけではない。


担当者だけで処理する日を作り、迷った点をまとめてから次の確認時間に持ってきてもらった。


自分がいない日を、不備が起こる日として恐れなくなるまでには、時間がかかった。


「今後、分からないことが出たら」


書記が尋ねた。


「まず、こちらの手順と、王宮内の担当者へ。制度の変更や新しい調査が必要なら、依頼内容をまとめて事務所へお送りください」


「お手紙で、すぐにお答えをいただけるのではなく」


「新しい仕事でしたら、条件をご相談します」


書記は少し考え、頷いた。


「では、その窓口も目録に書いておきます」


突き放された顔ではなかった。


次に頼む方法が分かった人の顔だった。


受領の署名が揃った後、リディアは出納室へ向かった。


最後の二百五十リールを、係とともに数える。


受領証の日付を確かめ、署名した。


五百、二百五十、二百五十。


千リールの仕事が、千リールの報酬で終わった。


余った善意を、どこかへ無記名で差し出す必要はなかった。


◇


廊下へ出ると、エドガーが待っていた。


彼の手には、小さな封筒がある。


「少し、時間をもらえるだろうか」


「お話の内容を伺っても?」


「今後の仕事についてだ」


リディアは立ち止まった。


扉を開けたままの小応接室へ入り、侍従が離れた席につく。


エドガーは封筒を机へ置いた。


「王宮の会計顧問として、残ってほしい」


彼は続けた。


「婚約とは関係のない役職だ。報酬も職務も明文化する。私一人では決められないので、正式には評議会の審議にかけることになる」


今の彼に、思いつきで席と金を与える権限はない。


それを隠さない申し出だった。


リディアは封筒を開かなかった。


「ありがとうございます。ですが、お引き受けいたしません」


エドガーの指が、机の上で止まった。


「条件も、見ずにか」


「はい。王宮へ常勤で戻るつもりがないからです」


声は、自分でも驚くほど静かだった。


◇


「やはり、あの夜のことを」


言いかけて、彼は口を閉じた。


忘れたのかと問われれば、忘れてはいない。


大勢の前で、自分のしてきた仕事ごと退けられた痛みは、謝罪一つで別の思い出にはならない。


けれど、戻らない理由は、それだけではなかった。


「事務所には、わたくしの返事を待っている方がいます」


リディアは言った。


「工房も、仕立屋も。王宮の外で始めた仕事を、続けたいのです」


「君ほどの力があれば、もっと大きなことを」


「小さな工房が、来月も仕事を続けられるようにすることも、わたくしには大きな仕事です」


彼は黙った。


リディアは、扇の親骨を一度なぞった。二度目には、もう手を止めていた。


「八年前、転びかけたわたくしを助けてくださったことは、今でも感謝しています」


エドガーが顔を上げた。


「ですが、その思い出のために、ここへ戻ることはしません」


助けられた夜を、悪い出来事に書き換える必要はない。


その後の八年間まで、よかったことにする必要もない。


彼が差し出した手を覚えたまま、自分の足で別の場所へ行ける。


今なら、そう思えた。


◇


エドガーは封筒を引き取った。


「分かった。辞退の意思を、そのまま伝える」


少しして、もう一度口を開く。


「君を傷つけた。働いてくれたことも、当然のものとして扱った。すまなかった」


リディアは彼を見た。


謝ってもらうための説明を、今日は自分で付け足さなくてよかった。


「お言葉は、受け取ります」


許すとも、昔へ戻るとも言わなかった。


彼も、それ以上は求めなかった。


立ち上がった彼へ、侍従が次の支出報告の時刻を伝える。


王太子は頷き、手元の報告書を確かめた。


リディアへ、それを預けようとはしなかった。


◇


門へ向かう途中、ミレーユと会った。


アンナを伴い、厚い紙挟みを抱えている。


「今日で、おしまいなのですね」


「王家との今回の契約は」


リディアが答えると、ミレーユは頷いた。


「わたし、知らないものに署名しないことしか、まだ上手にできません」


「それを続けるのは、大事なことです」


「殿下にも、聞きます。誰が払うのか、誰のものになるのか。嫌な顔をされても」


少し唇を結んでから、ミレーユは微笑んだ。


リディアを安心させるために、何もかも引き受けるとは言わない。


その答えが嬉しかった。


門の外には、クロードの馬車があった。


彼は車内から急かすことなく、御者の横で待っている。


「終わったか」


「はい」


リディアは軽くなった鞄を持ち直した。


「預けていた仕事も、受け取るはずのお金も、最後まで」


彼は笑った。


「では、帰ろう」


どこへ、と尋ねる必要はなかった。


◇


運河沿いの事務所では、書記が翌週の予定を整えていた。


玄関では、今も二人で来客を迎えている。脅迫状の差出人が捕まったとの知らせは、まだない。王宮との契約が終わったから安全になったと決めず、警備担当との連絡と帰宅時の同行は続けていた。


リディアは、今日も帰りの時刻を受付へ伝えた。


王家の枠が空いたところへ、勝手に別の依頼を詰めてはいない。


リディアは窓辺へ座り、順に相談票を読んだ。


仕立屋の追加資料。工房の新しい注文条件。相談に来られる曜日を尋ねる便り。


この町で暮らす人の、まだ終わっていない仕事だった。


「ここを、続けたいのです」


彼女が言うと、クロードは向かいの椅子へ座った。


「王国に、という意味だね」


「はい。あなたが公国へ戻るときにも」


言ってから、胸の奥が少し痛んだ。


一緒にいたい気持ちを、仕事の都合で隠したくはない。


けれど、そばにいたいから自分の仕事を畳む、とも決めたくなかった。


クロードは窓の外を見て、それから答えた。


「商務事務所を私の不在中にも動かすために、人へ任せる練習をしてきた。君の仕事まで、私の馬車へ積み込む必要はない」


リディアは顔を上げた。


「王国に残すなら、そのための運営と費用を一緒に考えよう。君が残りたい理由も、聞かせてほしい」


答えを先に作って渡さない。


彼の変わったところを、彼女はよく知っていた。


「それから」


クロードが、わずかに言葉を切った。


「仕事とは別に、明日、君に聞いてほしい話がある」


「新しい契約ですか」


「君が望むなら、そうなるかもしれない」


いつもの商談より、ずっと頼りない返事だった。


リディアは予定表を開いた。


明日の夕方には、まだ何も書かれていない。


彼女はそこへ、小さく丸をつけた。


誰かの未処理の仕事を引き受けるためではなく、自分が聞きたい話のために。

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