18話 契約満了の日
「アーヴェル様が、明日からいらっしゃらないのでしたら」
納入業者の使いが、請求書を引っ込めかけた。
「この支払いは、誰が見てくださるのですか」
リディアは伸ばしかけた手を、膝へ戻した。
会計室の窓際には、以前なら彼女の机へ積まれていた紙がある。
今は、二人の書記が向かい合って座っていた。
一人が、使いのために椅子を引く。
「私が受け付けます。承認を求める先も、この控えへ記します」
使いはまだ、リディアを見ていた。
彼女が頷くと、ようやく椅子へ腰を下ろした。
王家と契約してから、三十日。
今日が、最後の日だった。
◇
公開の照合会から、季節は少し進んでいた。
月末は、すでに越えている。
契約に三十日と書いたからといって、支払期限まで三十日延びたわけではなかった。月末までの六日間には、照合済みの請求を支払局へ渡し、未確定のものには確認先と回答日をつけた。
資金の足りない支払いは、王家の担当者が相手へ説明に出向いた。
延期のお願いだけを送って済ませず、承諾を得たものと、合意できなかったものを分けて残す。
怒鳴られた担当者もいた。
次の注文を断られた取引先もある。
帳簿が読みやすくなれば信用も戻る、というほど都合よくはいかなかった。
公国への八万六千四百リールも、リディアの契約とは別の債務のままだった。権限を持つ双方の担当へ返済交渉が渡り、その返事を待っている項目には、決着済みの印を押していない。
彼女が引き渡すのは、借金を消した帳面ではなかった。
残った仕事を、もう誰のものでもない仕事にしないための帳面だった。
◇
試験運用は、月が替わってから段階を分けて進めた。
最初は、写しを使った練習。
次に、権限のある担当者の監督下で実際の一件を扱う。
担当の書記を入れ替えても、続きを辿れるか確かめる。
一度、確認済みの印をつけた紙から、原本の保管先が抜けていた。
印をつけた本人は覚えていた。だが、隣の書記は探せなかった。
「わたくしが覚えておりますので」
そう言いかけた書記が、リディアの顔を見て口を閉じた。
彼女にも、何度も口にしてきた言葉だった。
「明日、あなたが熱を出したときには?」
「……棚の名と、綴りの番号を書きます」
失敗した一件を、その人の不得意として終わらせなかった。
保管先の欄を広げ、受け取る人が実物を見つけられたところまで確かめる。
その試験の受領が認められた日に、報酬の二百五十リールを受け取った。
着手金五百リールと合わせて、七百五十。
最後の二百五十は、まだ王家側にある。
終わったことだけを、終わった欄へ書く。
自分の仕事にも、同じようにした。
◇
最後の日に持ち込まれたのは、厨房へ納めた油の請求だった。
納入業者の使いは、膝の上で帽子を握っている。
納品の控えはある。受領印もある。
だが、支払局から戻った紙には、確認待ちとだけ書かれていた。
「何を確認しているのかが、分からないのです。店では、また止まるのかと」
書記は印の日付を確かめ、もう一人へ受領記録の照合を頼んだ。
その間に、自分は支払局からの返答を開く。
リディアには、二枚の品名の違いがすぐに見えた。
一方は厨房用油。もう一方には、灯火用油とある。
数字は合っていた。
ただ同額というだけで、同じ品だと決めてよいわけではない。
彼女は黙って座っていた。
書記が眉を寄せる。
「品名が違います。厨房の受取担当へ確かめます」
「書き間違いです。いつもの油ですから」
使いが言った。
「でしたら、その確認を残します。間違えた方を消して終わりにせず、訂正した方の名と理由も」
書記は呼出しの札を渡した。
リディアへ、正解を求める目は向けなかった。
◇
待っている間、使いは何度も戸口を見た。
このまま昼になれば、店へ戻るのが遅れる。
それを気にした書記が、問合せの控えに時刻を記した。
「確認が長引く場合は、先に状況をお伝えします。こちらの不備で、何度も来ていただかないようにします」
彼は、リディアから教わった文をそっくり読むのではなかった。
使いの帽子と戸口を見て、自分で言葉を選んでいた。
やがて厨房の係が来た。
元の注文票と、納入業者側の控えを並べる。支払用の紙へ転記するとき、別の油の品名を写してしまったことが分かった。
納入業者へ請求を出し直させるのではなく、王宮側の転記を訂正する。
訂正後の資料は、承認担当へ回された。
その間も、現金を渡したことにはしない。
使いへ渡された控えには、受付番号、訂正した内容、次の連絡日、問合せ先があった。
「この方へ聞けばよいのですね」
使いは、書記の名を指した。
「はい。私が不在なら、隣の者が同じ記録を開きます」
彼は初めて、帽子を握る手を緩めた。
リディアは膝の上で、指をほどいた。
全部、自分で説明できた。
説明しなくても、終わった。
そのことが、少し寂しくて、思っていたよりずっと嬉しかった。
◇
引渡しの机には、完了した案件と継続する案件を別々に置いた。
取引先へ返還を命じた七百二十リールには、返還通知と入金確認の記録を綴じる場所がある。通知があるだけの案件を、受領済みには数えない。
衣装費の未確認分も、調査が残るものは新しい担当の欄へ移す。
ベルナールの退職によって、彼への照会まで消えることはなかった。
元財務官の回答が届いた日、何を尋ね、何に答えていないのかを、二人の書記は分けていた。
リディアが訪ね歩かなければ動かない形には、戻さなかった。
「この欄が残っていても、引渡しはできるのですか」
立会いの係官が尋ねた。
リディアは契約書を開いた。
「この契約は、三十日で全債務をなくす約束ではございません。必要な記録と手順を整え、担当者が運用できるようにする約束です」
白いままの回答欄を指す。
「誰が、いつまでに、どこへ確かめるかがないのであれば、引渡しが足りません。答えがまだ届かないこととは、分けてください」
係官は目録へ戻った。
未回答の三文字を、完了に変えさせようとはしなかった。
◇
最後に、勤務記録を読み合わせた。
王家との契約に使った時間と、公爵事務所や個人からの依頼に使った時間は、別々だ。
王宮で会ったからといって、ミレーユの個人相談を王家へ請求することもない。
合計は、契約上限の四十時間以内に収まっていた。
そのために、毎日ここへ来たわけではない。
担当者だけで処理する日を作り、迷った点をまとめてから次の確認時間に持ってきてもらった。
自分がいない日を、不備が起こる日として恐れなくなるまでには、時間がかかった。
「今後、分からないことが出たら」
書記が尋ねた。
「まず、こちらの手順と、王宮内の担当者へ。制度の変更や新しい調査が必要なら、依頼内容をまとめて事務所へお送りください」
「お手紙で、すぐにお答えをいただけるのではなく」
「新しい仕事でしたら、条件をご相談します」
書記は少し考え、頷いた。
「では、その窓口も目録に書いておきます」
突き放された顔ではなかった。
次に頼む方法が分かった人の顔だった。
受領の署名が揃った後、リディアは出納室へ向かった。
最後の二百五十リールを、係とともに数える。
受領証の日付を確かめ、署名した。
五百、二百五十、二百五十。
千リールの仕事が、千リールの報酬で終わった。
余った善意を、どこかへ無記名で差し出す必要はなかった。
◇
廊下へ出ると、エドガーが待っていた。
彼の手には、小さな封筒がある。
「少し、時間をもらえるだろうか」
「お話の内容を伺っても?」
「今後の仕事についてだ」
リディアは立ち止まった。
扉を開けたままの小応接室へ入り、侍従が離れた席につく。
エドガーは封筒を机へ置いた。
「王宮の会計顧問として、残ってほしい」
彼は続けた。
「婚約とは関係のない役職だ。報酬も職務も明文化する。私一人では決められないので、正式には評議会の審議にかけることになる」
今の彼に、思いつきで席と金を与える権限はない。
それを隠さない申し出だった。
リディアは封筒を開かなかった。
「ありがとうございます。ですが、お引き受けいたしません」
エドガーの指が、机の上で止まった。
「条件も、見ずにか」
「はい。王宮へ常勤で戻るつもりがないからです」
声は、自分でも驚くほど静かだった。
◇
「やはり、あの夜のことを」
言いかけて、彼は口を閉じた。
忘れたのかと問われれば、忘れてはいない。
大勢の前で、自分のしてきた仕事ごと退けられた痛みは、謝罪一つで別の思い出にはならない。
けれど、戻らない理由は、それだけではなかった。
「事務所には、わたくしの返事を待っている方がいます」
リディアは言った。
「工房も、仕立屋も。王宮の外で始めた仕事を、続けたいのです」
「君ほどの力があれば、もっと大きなことを」
「小さな工房が、来月も仕事を続けられるようにすることも、わたくしには大きな仕事です」
彼は黙った。
リディアは、扇の親骨を一度なぞった。二度目には、もう手を止めていた。
「八年前、転びかけたわたくしを助けてくださったことは、今でも感謝しています」
エドガーが顔を上げた。
「ですが、その思い出のために、ここへ戻ることはしません」
助けられた夜を、悪い出来事に書き換える必要はない。
その後の八年間まで、よかったことにする必要もない。
彼が差し出した手を覚えたまま、自分の足で別の場所へ行ける。
今なら、そう思えた。
◇
エドガーは封筒を引き取った。
「分かった。辞退の意思を、そのまま伝える」
少しして、もう一度口を開く。
「君を傷つけた。働いてくれたことも、当然のものとして扱った。すまなかった」
リディアは彼を見た。
謝ってもらうための説明を、今日は自分で付け足さなくてよかった。
「お言葉は、受け取ります」
許すとも、昔へ戻るとも言わなかった。
彼も、それ以上は求めなかった。
立ち上がった彼へ、侍従が次の支出報告の時刻を伝える。
王太子は頷き、手元の報告書を確かめた。
リディアへ、それを預けようとはしなかった。
◇
門へ向かう途中、ミレーユと会った。
アンナを伴い、厚い紙挟みを抱えている。
「今日で、おしまいなのですね」
「王家との今回の契約は」
リディアが答えると、ミレーユは頷いた。
「わたし、知らないものに署名しないことしか、まだ上手にできません」
「それを続けるのは、大事なことです」
「殿下にも、聞きます。誰が払うのか、誰のものになるのか。嫌な顔をされても」
少し唇を結んでから、ミレーユは微笑んだ。
リディアを安心させるために、何もかも引き受けるとは言わない。
その答えが嬉しかった。
門の外には、クロードの馬車があった。
彼は車内から急かすことなく、御者の横で待っている。
「終わったか」
「はい」
リディアは軽くなった鞄を持ち直した。
「預けていた仕事も、受け取るはずのお金も、最後まで」
彼は笑った。
「では、帰ろう」
どこへ、と尋ねる必要はなかった。
◇
運河沿いの事務所では、書記が翌週の予定を整えていた。
玄関では、今も二人で来客を迎えている。脅迫状の差出人が捕まったとの知らせは、まだない。王宮との契約が終わったから安全になったと決めず、警備担当との連絡と帰宅時の同行は続けていた。
リディアは、今日も帰りの時刻を受付へ伝えた。
王家の枠が空いたところへ、勝手に別の依頼を詰めてはいない。
リディアは窓辺へ座り、順に相談票を読んだ。
仕立屋の追加資料。工房の新しい注文条件。相談に来られる曜日を尋ねる便り。
この町で暮らす人の、まだ終わっていない仕事だった。
「ここを、続けたいのです」
彼女が言うと、クロードは向かいの椅子へ座った。
「王国に、という意味だね」
「はい。あなたが公国へ戻るときにも」
言ってから、胸の奥が少し痛んだ。
一緒にいたい気持ちを、仕事の都合で隠したくはない。
けれど、そばにいたいから自分の仕事を畳む、とも決めたくなかった。
クロードは窓の外を見て、それから答えた。
「商務事務所を私の不在中にも動かすために、人へ任せる練習をしてきた。君の仕事まで、私の馬車へ積み込む必要はない」
リディアは顔を上げた。
「王国に残すなら、そのための運営と費用を一緒に考えよう。君が残りたい理由も、聞かせてほしい」
答えを先に作って渡さない。
彼の変わったところを、彼女はよく知っていた。
「それから」
クロードが、わずかに言葉を切った。
「仕事とは別に、明日、君に聞いてほしい話がある」
「新しい契約ですか」
「君が望むなら、そうなるかもしれない」
いつもの商談より、ずっと頼りない返事だった。
リディアは予定表を開いた。
明日の夕方には、まだ何も書かれていない。
彼女はそこへ、小さく丸をつけた。
誰かの未処理の仕事を引き受けるためではなく、自分が聞きたい話のために。




