17話 五十八万リールの行方
「五十八万リールを、誰が盗んだのですか」
傍聴席から出た声に、リディアは首を振った。
「五十八万リールは、最初の一覧にあった月末の支払予定額です。盗まれたと確認された金額ではありません」
王宮の会議室が静かになった。
彼女は机の上へ、あの日の写しを置く。
支払予定、五十八万。
支出可能な資金、十二万。
不足、四十六万。
「最初に、この三つを分けてください」
誰か一人の懐から大金を取り戻せば、全部が元に戻る。
そういう話を期待している人がいるのは、分かった。
けれど、期待どおりの悪人を用意するのは、彼女の仕事ではなかった。
◇
月末まで六日。
公開の照合会には、王家の担当者と取引先、代表として選ばれた職人たちが集まっていた。
個人の生活や私信まで、傍聴席へ配ったわけではない。共有するのは、支出の根拠と、公表を認められた資料だった。
非公開の契約を、腹立ち紛れに机へ投げることもしない。
クロードは公国側の説明が必要な席についた。
ベルナールは証言者の席。
エドガーは、国王の隣ではなく、質問を受ける担当者の列にいた。
リディアの席には、照合担当と記された札がある。
支払いを承認する人とも、処分を決める人とも違う。
「資料の訂正は、その場で受け付けます」
進行役の書記が告げた。
「ただし、元の記載と訂正理由は残します」
昨日までなら、赤い線を引かれた人は、その紙を取り下げれば済んだかもしれない。
今日は、消すだけでは終わらなかった。
◇
王家の資料を開く前に、リディアは説明用の写しを一枚掲げた。
以前、公爵事務所とロアン工房、運送組合の間で起きた二重請求の記録だ。今回の説明に必要な箇所だけを示すことについて、三者の了承を得ていた。
硝子四箱の代金百リールが二度請求され、工房が負担する保管料も、一回十二リールのところ二回分になっていた。
工房が品を二度納めたわけではない。
支払われるべき一回分まで、不審な請求として止めれば、作った人だけが困る。
リディアは、取り消した重複百リールと保管料十二リールを示した。
「公爵事務所への余分な百リールの請求と、工房への余分な保管料十二リールを取り消した例です。王家の取引ではありませんので、先ほどの五十八万リールからは引きません」
彼女は写しの『取消し』の欄を指した。
「まだ払っていなかった請求を取り消すことと、払ったお金を返してもらうことは違います。この百十二リールも、どこかの金庫へ戻ってきたお金ではありません」
傍聴席でエステル・ロアンが頷く。
その隣の職人が、小さく息を吐いた。
不正を調べると聞いて、自分の正当な請求まで消されるのではないかと恐れていたのかもしれない。
説明用の写しでは、取り消した請求と、正当に支払う一回分が別々の欄に記されていた。
金を使わないことだけを、手柄にしない。
それは、この場で最初に確かめておきたいことだった。
◇
説明用の写しを脇へ置くと、王家の過去の衣装取引の資料が運ばれた。
昨日、個別に提出された記録を受け、支払済みの証書が王宮側と取引先側から揃ったものだった。
前年度に納品された一組の布と仕立て代、七百二十リール。
ミレーユの今回の衣装一覧とは別の取引だった。日付と受領者を、先に書記が読み上げた。
同じ納品に、二度の支払いがあった。
リディアは二枚の受領証を並べた。
「追加注文ではありませんね」
商人の代理人は、注文票を見た。
「最初の請求に不備があり、出し直したものです」
「では、先の支払いを返した証書は」
答えはなかった。
リディアは待った。
黙ったから有罪だ、と言うためではない。示せる資料があるなら、出してもらうために。
代理人が奥の商人と短く話し、戻った。
「返金は、行っておりません」
書記がその答えを記した。
「この二度目の七百二十リールについては、受領が確認でき、対応する追加納品がありません。返還対象として審査へ提出します」
彼女は言い切った。
最初の五十八万リールに、これを足しはしない。
これは、すでに過去に支払われた別の取引だ。
今月の予定を減らすことと、過去に払いすぎた金を取り戻すことは、別々の帳簿に残る。
◇
「しかし、王宮の承認印があります」
商人が初めて自分で口を開いた。
リディアは頷く。
「あります。その使われ方も、確認します」
ベルナールへ順番が移った。
彼は、印を衣装局へ継続して預けたことを認めた。
一件を八百リール未満に分ければ、合計額を見る担当者がいない。
それを直すよう求めた照会を、受け取ったまま止めていたことも。
「商人が二度受け取った責任と、王宮が二度支払った責任は、別々に問われます」
進行役が確かめた。
どちらかが悪ければ、もう片方は無関係になるわけではない。
ベルナールは証言の写しを見て、頷いた。
商人は、印のある紙を下ろした。
守ってくれると思っていた印が、誰の判断だったかを辿る目印になっていた。
◇
ミレーユも、呼ばれていた。
彼女は栗色の髪をまとめ、飾りの少ない服を着ていた。
手元には、自分が受け取った品を確認した一覧がある。
総額三千八百四十リールとされる記録のうち、受領を確かめた千百二十リール分。
残る二千七百二十リール分は、彼女が受け取ったと確認できていない。
それを、受け取っていない証拠と勝手に置き換えることもしない。
「わたしの名があるので、全部に署名するよう言われました」
ミレーユは話した。
「でも、知らない品まで受け取ったとは、言えません」
傍聴席から、覚えていないだけではないかと声が出た。
彼女の指が紙の端を掴む。
「だから、覚えている分と、分からない分を分けました」
震えていたが、言葉は変わらなかった。
リディアは、その顔を見た。
何もかも分かる女性になったわけではない。
分からないと言うために、ここへ座れるようになったのだ。
エドガーは彼女の代わりに答えなかった。
最後まで聞いてから、資料を受け取る書記へ頷いた。
◇
舞踏会関係の一万二千四百リールも、一括で消えはしなかった。
発注のない見積もり二千六百リールと、王家所有設備の維持費として不明点がある千九百リールは、保留の経緯を確認する。
それ以外の品まで、同じ理由で不払いにはしない。
ミレーユの一覧と重なる可能性があるものは、伝票を合わせるまで二度数えない。
その説明の途中で、職人の代表が手を挙げた。
「結局、いつ払ってもらえるのでしょう」
部屋が静かになった。
数字が整うことと、夕食を買えることは違う。
リディアは、自分へ向けられた問いを、王家の支払担当へ渡した。
ここで彼女が日付を約束すれば、また同じことになる。
担当者は手元の一覧を開いた。
確定した請求には個別の支払予定を通知する。資金の裏づけが取れていないものは、確約とせず協議日を示す。
期待していたほど気持ちのよい返事ではなかった。
代表は厳しい顔で聞き、最後に言った。
「では、その日に誰へ聞けばいいかも、書いてください」
担当者が、自分の名を書いた。
◇
公国への債務は、別の資料で扱った。
元の借入十二万リールから、二万リールずつ二度返している。
残元金八万リールに、延滞金六千四百リール。
八万六千四百リールは、最初の五十八万リールの一覧に載っていなかった。
「一覧の見栄えを保つために、別の債務を外すことはしません」
リディアは説明した。
委員会の仕事が終わっても、借金は終わらない。
次の担当が決まるまで書類を止めても、相手との期限は止まらない。
クロードは、返済や延長の交渉は権限を持つ者同士で行うと確認した。
リディアに、両国の約束を代わりに結ばせはしなかった。
傍聴席では、最初より静かに紙をめくる人が増えていた。
五十八万の行方を追えば、五十八万だけを見ていてはいけないことが分かる。
彼女が帳簿から離れた日に、借金が生まれたわけではなかった。
見えなくしていたものが、ようやく同じ机に載ったのだ。
◇
照合が進む間、二人の書記が別の机で日付を確かめていた。
元の一覧へ、ただ新しい合計を書きつけるのではない。
取り消した日、支払いを指示した日、相手の受領を確認した日。それぞれを、根拠の紙へ繋げていく。
一人が首を傾げた。
「この支払いは、王太子殿下からの貸付金を使っています。一般の資金からも減らすと、二度引くことになりませんか」
リディアは、すぐにペンを取らなかった。
「元の資金の欄へ、その貸付を入れていますか」
書記は別紙をめくった。
「別勘定のままです」
「では、支払った方も同じ勘定で辿ってください。一覧から未払いが減ったことと、どの金庫を使ったかの両方が分かるように」
彼は頷いた。
もう一人が、貸付二千七百リールから千九百三十四リールを使い、七百六十六リールが残る記録を読み合わせる。
これは、新しい入金ではない。
すでに処理したものを、今日の成果としてもう一度数えないための確認だった。
リディアは二人が同じ行へ辿り着くまで待ち、席を離れた。
戻りかけたとき、傍聴席の職人が小声で言った。
「先生が全部書けば、もっと早いのでは」
リディアは机の二人を見た。
「今日だけなら、そうかもしれません」
「今日だけ?」
「明日、その方たちが続きを書ける方がよいのです」
片方の書記が、訂正理由の欄まで自分で埋めた。
リディアは頷いた。
金額の大きさとは違うところで、会議の前より進んだことがあった。
◇
昼の休憩で、エドガーが廊下へ出てきた。
彼はリディアの前で足を止めたが、昔の呼び方で近づこうとはしなかった。
「君は、こうなると分かっていたのか」
リディアは首を振った。
「資料を確かめる前から、すべては分かりません」
「では、あの夜は」
「支払予定と、使えるお金を知っていました」
そこまでを、彼女は何度も伝えようとした。
聞かれなかったことを、今ここで全部並べることもできた。
しかし、エドガーは視線を逸らさずに頷いた。
「私が聞かなかった」
リディアは答えなかった。
彼の気づきを、優しく受け止めて完成させる役は、もう引き受けない。
会議室へ戻る合図が鳴った。
彼女は扇を閉じ、先に歩いた。
◇
午後、国王の名で決定が読み上げられた。
二重受領を認めた取引先には、確認された七百二十リールの返還を命じる。返還の履行と取引の監督が確認されるまで、王家との新規取引を停止する。
ほかの疑いまで、同じ決定で処理しない。未確認の案件は、それぞれの資料を追う。
商人は椅子の肘掛けへ手をついた。
王宮の印を盾にしても、次の注文は得られなかった。
ただし、リディアの帳簿には、まだ入金を記さない。
返すよう命じられた金と、戻ってきた金は違う。
書記が、返還の通知と入金確認の担当を記した。
ベルナールの辞任は、受理された。
財務官としての権限と印の管理から離れ、引継ぎと継続調査への説明は求められる。
彼は立ち上がり、頷いた。
その手元には、未回答を残した一覧の写しがあった。
辞めれば持たなくてよくなる紙では、なかった。
◇
エドガーに対する決定が続いた。
王太子個人の判断で支出を増やす権限を停止する。
遊興費は、すでに凍結した当月分に加え、新たな配賦を停止する。公務に必要な費用とは分け、例外を作る場合も別の承認を要する。
元の私用金庫に残る貸付残額まで、取り上げたことにはしない。
誰の金かを曖昧にしたまま罰を与えれば、直している制度を自分たちで壊す。
「王宮内の調整と、支出状況の報告は続けよ」
国王は告げた。
権限を失えば、働かなくてよいわけではなかった。
エドガーは頭を下げた。
「承知いたしました」
傍聴席に、拍手は起きなかった。
けれどリディアは、机の上の署名欄を見た。
殿下がそうお望みだから。
その一言だけで増えていた仕事に、ようやく断るための根拠ができた。
◇
会議の終わりに、書記が報告の表題を読み上げた。
月末支払予定の照合と、未処理債務の引継ぎ。
リディアは、自分の担当欄へ署名した。
すべての資金が揃ったとは、書いていない。
商人全員の不正が証明されたとも、匿名の手紙の送り主が捕まったとも書いていない。
分かったことと、残ったことの両方を渡す。
その上で、いま返すべき金と、今後持たせない権限を決めた。
書記は二人で目録を読み合わせ、箱へ収めた。
一人が枚数を数え、もう一人が原本の所在を確かめる。
リディアへ、持ち帰って整理してほしいとは言わなかった。
彼女は空になった手を見た。
何もしていない手ではなかった。
渡し終えた手だった。
◇
事務所へ戻る馬車で、クロードが尋ねた。
「少しは、気が晴れたか」
リディアは窓の外を見た。
市場の店は、もう夕方の片づけを始めている。
明日もそこで働く人の給金が、今日の会議で全部払われたわけではない。
それでも、誰へ聞けばいいかは残った。
「はい。少し」
彼女は正直に答えた。
「わたくしが困っていたことを、わたくしだけの気のせいにされずに済みました」
クロードは静かに頷いた。
次に何をすべきか、すぐには尋ねなかった。
リディアは扇を膝へ置いた。
契約はまだ終わっていない。
新しい仕組みを試し、彼女がいなくても仕事が続くところまで渡す。
その最後の仕事だけは、昔のように自分の机へ取り戻さずに終えたかった。




