16話 会計事務所への脅迫状
「今夜は、私の滞在先へ移ってほしい」
クロードは言った。
机の上には、差出人のない手紙が置かれている。
古い帳簿を開けば、新しい事務所が閉じることになる。
たった一行だった。
リディアは紙から顔を上げた。
「わたくしだけですか」
「まず、君を」
答えかけて、クロードの視線が玄関へ向いた。
そこには、封筒を受け取った書記官見習いが立っていた。
帰ってよいと言われても帰れず、自分が何か間違えたのではないかという顔をしている。
リディアは彼へ椅子を勧めた。
「まず、ここにいる人の帰り道を決めましょう」
◇
運河沿いの事務所は、戸を閉めた。
護衛が裏口を確かめ、窓の留め金も調べる。何も壊されてはいなかった。だからといって、何も起きないと決まったわけではない。
手紙は折り直さず、封筒とともに保管用の紙へ載せた。
受け取った時刻。使いが述べた言葉。服装と、立ち去った方向。
見習いが思い出す間、リディアは先回りして特徴を尋ねなかった。
青い服ではなかったか、と聞けば、彼は青い服だった気がしてしまうかもしれない。
「顔は、よく覚えていません」
彼は申し訳なさそうに言った。
「急いでいるというので、中の方へ声をかけて」
「覚えていない、と書いてください。想像で補わなくて結構です」
リディアは答えた。
「手紙を受け取ったことが、あなたの落ち度なのではありません」
クロードが、護衛へ指示を出した。
一人で帰らせない。戸締まり後に誰が残るかを曖昧にしない。夜の来客を、見習いだけで応対させない。
その途中で、彼は言葉を止めた。
「私は、王都の警備担当へ届ける。ここの守りは君に任せたい。足りない人手があれば、先に言ってくれ」
護衛は頷いた。
命令を増やすより先に、判断できる範囲を渡す。
リディアは机の下で、握っていた手をほどいた。
◇
手紙の筆跡から商人の名を言い当てることは、できなかった。
紙の値段を見積もることはできても、買った人の名までは分からない。
【数学者】は、そういう力ではない。
「調査で不利益を受ける者が、送ったとは限りません」
リディアが言うと、クロードは静かに頷いた。
「私たちに、そう思わせたい者もいる」
「ええ。手紙と取引の調査は、分けます」
とはいえ、無関係だと決める理由もなかった。
警備担当へ現物を渡す際には、受領の控えを残した。事務所には写しを置く。
夜の確認が済むと、書記たちは護衛の手配した同行者と帰った。
リディアも一人では帰らない。
クロードが待つ玄関で、外套の留め具をつけようとした。
指先が、うまく穴へ入らなかった。
二度試して、彼女は手を止めた。
怖くない、と言うのは簡単だった。
言ったところで、指は動くようにならない。
「少し、待ってください」
クロードは手を伸ばさず、待った。
それがありがたかった。
彼女は一度息を吐き、留め具を通した。
「お待たせしました」
「待つ時間はある」
彼が戸を開ける。
外には、護衛の確認した馬車が止まっていた。
◇
翌朝、月末まで七日となった。
事務所の窓はいつもどおり運河へ向いていたが、玄関での受付は二人で行うことになった。訪問の目的を聞き、帳簿を持ってきた人は受渡し場所へ案内する。
昨日の手紙を理由に、すべての仕事を止めるわけではない。
しかし、何事もなかったように一人ずつ外回りへ出すこともしなかった。
最初に来たのは、商人の代理人だった。
名と委任の範囲を確かめてから、会議机へ通す。
代理人は、いくつかの取引先が名を連ねた申入書を出した。
「帳簿の追加提出は、当面見合わせたいとの意向です」
リディアは、書面の日付を見た。
前日の午後。
脅迫状が届くより前に作られている。
だが、その事実だけで同じ送り主だとは言えない。
「理由をお聞かせください」
「王宮から承認された請求を、後になって疑われては、取引ができません」
代理人は続けた。
「アーヴェル様が調査から退かれるなら、話し合いには応じると」
クロードの指が、椅子の肘掛けへ置かれた。
リディアは申入書を、机の中央へ戻した。
「わたくしが退くことと、納めた品の記録が残っていることには、どのような関係がありますか」
代理人は一瞬黙った。
◇
「調査が公正か、疑問があるのです」
彼は言い直した。
「以前、王太子殿下の婚約者でいらした。王家への私怨が、ないとは言えないでしょう」
胸の奥へ、古い言葉が戻ってきた。
数字しか見ない。
可愛げがない。
断る理由を持てば感情的と言われ、黙って直せば当然の仕事になった。
リディアは扇の親骨を二度なぞった。
「わたくしの感情を信用なさらなくても、照合はできます」
彼女は、注文と納品を別々に記す様式を出した。
「照会への回答は、王家の担当者も受け取ります。異議があれば記録し、元の資料と一緒に保管します。わたくし一人の手元で結論を作ることはありません」
「ですが」
「疑われたくないという理由で資料を出さず、調査担当だけを替える要求には、応じられません」
クロードが口を開いた。
「私の名で、商務事務所からの返答も出す。彼女の辞退を、ここで約束する権限は私にもない」
庇うために、彼女の仕事を取り上げない。
その線を、彼は代理人の前ではっきり引いた。
◇
申入書に載る全員が、不正をしたとは限らなかった。
一人ずつ、何の提出を止めているのか確かめる必要がある。
リディアは署名欄から顔を上げた。
「控えのない品まで、納めたと証明せよとは求めていません。分からないものは、分からないとお答えください」
「それでは、代金をすべて止められるのでは」
「わたくしには、一律に止める権限はありません。確かめられた請求と、追加確認の必要な請求を分けるよう、すでに提案しています」
代理人の目が、書面へ落ちた。
一緒に拒んだ方が安全だと、聞かされていたのかもしれない。
だがそれも、彼女の推測にすぎない。
「各社へ、この回答をそのままお渡しください。提出先と期限も記します」
彼は控えを受け取った。
帰り際、クロードが呼び止めた。
「なお、事務所への威嚇には、取引交渉とは別に対応する」
代理人が振り返る。
「それは、どういう」
「心当たりがないなら、そう記録する。今ここで君の責任だと決めているのではない」
彼は、知らないと答えた。
その言葉も残した。
◇
昼前、硝子工房のエステル・ロアンが来た。
今日は品物を運ぶためではない。以前の相談に関する確認書類を、自分で届けに来たのだ。
受付が変わった理由を、リディアは必要な範囲だけ説明した。
脅迫状の写しを、仕事机へ広げはしない。
エステルは眉をひそめた。
「うちへ来るときも、一人はやめてください。裏の搬入口からなら目立たない、なんて言わないで」
その先を言うつもりだったリディアは、口を閉じた。
「……分かりました」
「仕事を続けるのと、平気な顔をするのは別でしょう」
机へ置かれた手には、小さな傷があった。
炉を扱い、硝子を運ぶ手だ。
危ないと思ったら止める。その判断を、怯えたとは呼ばない人の手だった。
リディアは、予定表の外出時刻へ線を引いた。
同行できる人がいる時間へ移す。
遅れを連絡する。
それだけのことを、自分のためにしてもよかった。
◇
午後には、申入書に名のあった取引先から、個別の回答が届き始めた。
一社は、提出する資料の範囲を尋ねてきた。
別の一社は、保管担当が戻る日を知らせてきた。
すべてが解決したわけではない。
それでも、全員が同じ理由で黙っていたわけではなかった。
リディアは、代理人への回答と到着した資料を、同じ欄へ混ぜなかった。
交渉が進んだことと、金額が確かめられたことは別だ。
書記が受取時刻をつけ、封を切った資料は枚数を確認する。
その中に、王宮側の請求控えと見比べるべき一組があった。
納品した日の記録。
受領を確認した人の名。
その後に届いた、もう一通の請求。
リディアは日付を順に追った。
【数学者】が、同じ品の数と単価を拾い上げる。
しかし、同額だから二重取りとは限らない。
交換品か。追加注文か。最初の請求を取り消したのか。
彼女はまだ、赤い線を引かなかった。
「支払済みの証書を、双方から確認してください。片方が未払いなら、二度支払ったことにはなりません」
書記は頷いた。
脅された翌日に、急いで犯人を作ってはいけない。
間違った結論は、こちらが相手へ渡す一番便利な道具になる。
◇
書記が、別の相談票を持ってきた。
王宮とは関係のない、小さな仕立屋からの依頼だった。注文を取り消された仕事について、どこまで作業代を求められるか知りたいという。
「本日の相談は延期した方がよろしいでしょうか」
見習いが尋ねる。
リディアは予定表を確かめた。
王家の照合作業を進めるために、その人の時間を黙って使うことはできない。
「予定どおり、お話を聞きます。資料の確認には後日のお返事が必要と、最初にお伝えください」
やってきた仕立屋の女性は、畳んだ布を膝へ置いていた。
針を通した跡が、端に残っている。
「品物になっていないなら、払うものはないと言われまして」
リディアは布へ触れる前に、許可を求めた。
縫い終わってはいない。
だが、切った布は元の反物へ戻らない。
「注文を受けたときの書面と、取り消しを伝えられた日が分かるものはありますか」
彼女は鞄から、小さな束を出した。
「これで、勝てますか」
「今すぐには申し上げられません。まず、どこまで合意していたかを読みます」
期待に満ちた顔を見ても、約束できないことは約束しない。
ただ、出来上がった品がないから何もしていない、とは扱わなかった。
女性が帰った後、リディアは相談票へ次の返答日を書いた。
王家の大きな数字だけを見るために、この事務所へ来たのではなかった。
守りたい場所があることを、脅迫状に教えられたのは悔しい。
けれど、その場所を守る仕事は、戸締まりだけではないのだと思った。
◇
クロードが戻ったのは、その確認を依頼した後だった。
王宮側と、翌日の資料照合の立会いを整えてきたという。
「代理人は、また来るかもしれない」
「お一人で会うおつもりですか」
リディアが尋ねると、彼は答えを止めた。
彼女が無理をするのには気づく。
自分が席を代われば、その無理がなくなると思ってしまう。
その癖を、彼女もよく知っていた。
「護衛と書記を同席させる」
少しして、クロードは言った。
「君に言ったことを、自分にも適用する」
リディアは微かに笑った。
「その方が、わたくしも守りやすくなります」
「私を?」
「はい。あなたのお返事が、後で別の言葉に変えられないように」
彼は机の端へ手を置いた。
黙ったまま、少しだけ視線を落とす。
守られる側に回るのは、彼にも得意ではないのだろう。
リディアは急がせず、待った。
昨夜、外套の留め具を通すまで待ってもらったように。
◇
夕刻、警備担当から連絡が来た。
封筒を持ってきた使いの確認は続いている。現時点で差出人は特定されていない。
捕まったという知らせではなかった。
リディアは落胆を覚え、それから受領の時刻を記してもらった。
一日で名が出なかったからといって、届けた意味がなくなるわけではない。
帰る前、見習いが玄関の机で訪問記録を閉じた。
「明日も、ここで仕事をしてよいのでしょうか」
問われて、リディアは手を止めた。
彼にとっては、犯人の名より明日の出勤の方が近かった。
「同じ応対のままにはしません。二人で受付をし、判断に困るものは中へ回してください。帰宅の同行も続けます」
「はい」
「ただ、怖いと思うことは、言ってよいのです」
彼女は続けた。
「わたくしも、昨夜は怖かったので」
見習いが顔を上げた。
驚かれるほど、隠せていたのかもしれない。
隠したままにしなくてよかったとも思った。
◇
翌日の照合へ送る箱には、確かめる順序を書いた目録をつけた。
最初の五十八万リールの予定一覧。
そこから、何が支払われ、何が残り、何が重複していたのか。
別に見つかった公国への債務は、別の欄に置く。
返すべき金が確定しても、返還の約束と実際の入金は分ける。
リディアは最後の行まで指を滑らせた。
匿名の手紙には、金額がなかった。
こちらの返事には、誰が見ても追える記録をつける。
クロードが封をする前に尋ねた。
「君の名は、どこへ載せる?」
「照合を担当した欄へ」
彼女は答えた。
王家の負債を引き受ける欄ではない。
脅した相手へ頭を下げる欄でもない。
仕事をした人の名を、仕事をした場所へ残す。
窓の外で、運河を渡る荷船が灯をつけた。
リディアは机を片づけ、玄関へ向かう。
明日は、この箱が王宮で開かれる。
帳簿を閉じさせるために届いた一行は、開く順番を変えられなかった。




