15話 ベルナール財務官の最後の仕事
「この三冊を、わたくしの責任で別にしました」
ベルナールは机へ手を置いた。
その上には、三冊の帳簿が並んでいた。背表紙の色は褪せ、角には何度も出し入れした擦れがある。
一番薄い冊子だけが、新しい紐で綴じられていた。
リディアは、まだ手を伸ばさなかった。
「別にしたとは、支払済みの資料とは分けた、という意味ですか」
「……一般会計へ引き継ぐ資料から、外しました」
立ち会う書記が、言い直した方を書き留めた。
月末まで八日。
ようやく、書類が消えた場所に、責任者の声が届いた。
◇
朝の国王秘書室には、乾いた紙の匂いがこもっていた。
昨日の追加照会を受け、保管担当が立会人とともに別置きの箱を開けた。ベルナール一人に取り出させたものではない。
箱の外には〈旧災害復旧委員会・未決事項〉とある。
受入記録には、この箱が来た日も残っていた。
だが一般会計へ渡した目録には、完了した支払いの冊子しか載っていない。
「秘書室の方が、捨てたわけではありませんね」
リディアが尋ねる。
「違います。保管は、わたくしの指示どおりです」
ベルナールは保管担当を見ずに答えた。
昨日なら、誰が箱を運んだかを先に話したかもしれない。
今日は、自分の名から始めた。
エドガーも席にいた。王宮内の調整責任者として、閲覧に必要な人を揃えるためだった。
「なぜ、未決のものを戻さなかった」
王太子に問われ、ベルナールは唇を湿らせた。
「返済の負担先が、決まらなかったのです。復旧委員会を閉じた後、王家一般会計で引き受けるのか、地方への配分をどうするのか」
「相手への期限は、その間も来ます」
リディアが言った。
「承知しておりました」
答えは小さかった。
「承知したうえで、未決として置きました」
◇
最初の冊子は、復旧用の借入記録だった。
三年前の十二万リール。
すでに照合した公国側の契約と、日付も金額も一致する。
二冊目には、二度目の返済に使った復旧勘定の記録があった。
二万リールの支払済み証書。その後ろに、残元金八万リールと、次の期限を書いた紙が挟まっている。
紙はあった。
次の期限を、誰かが忘れず書いていた。
だが受け渡し欄には、次に管理する部署の署名がなかった。
「この印は?」
リディアは欄外を示した。
〈負担整理後に回付〉。
その横に、ベルナールの確認印がある。
「わたくしが、止めました」
「債務の存在に疑いがあったからですか」
「いいえ」
「返済期限が延期されたという合意は?」
「ありません」
机の端で、書記のペンが止まった。
リディアは答えを待ってから、先へ進んだ。
「では、支払う部署が決まらないことを理由に、支払う義務の記録まで止めたのですね」
ベルナールは頷いた。
その首の動きを見て、彼女の右手が扇の親骨をなぞった。
二度。
以前の彼女なら、ここで空欄を埋める方へ意識が向いた。
誰も書けないなら、自分が書けばいい。
期限までに間に合うなら、なぜ空いたかは後でいい。
だが今度は、空けた人の名を残してからにする。
◇
新しい紐の三冊目には、衣装局を含む簡易承認制度の照会が綴じられていた。
旧復旧勘定そのものとは別件だった。ベルナールが、自分の未回答案件を一緒に保管させていたという。
同じ箱から出たからといって、すべて同じ金の動きになるわけではない。
リディアは机の左右へ分けた。
左に、公国への借入。
右に、王宮内の承認と支出確認。
紐をほどくと、〈同一行事の合計額を確認する担当者〉について、欄を設けてほしいという照会が現れた。
これが採用されていれば、一件ずつ八百リール未満に分けた請求を、まとめて見る人ができていた。
回答欄は空白だった。
「受け取っていない、とはおっしゃいませんね」
「受け取りました」
「なぜ、回答を?」
ベルナールは長く黙った。
窓の外を、荷車が通った。車輪が石畳の溝を越える音だけが、部屋へ入ってきた。
「合計を見る者を決めれば、その者は止めなければなりません」
ようやく彼が言った。
「儀典の希望を。王族の急な注文を。長く取引をしてきた商人の、いつもどおりという説明を」
「止める役を、引き受けたくなかった」
「……はい」
リディアは視線を落とした。
意外ではなかった。
意外ではないことが、かえって腹立たしかった。
彼が受けなかった言葉は、誰かへ行く。
払われない職人へ。叱られる書記へ。帳簿を抱えて呼び戻される婚約者へ。
嫌な役目がなくなったわけではない。
彼の机を通り過ぎていただけだ。
◇
エドガーが椅子から身を起こした。
「私へ報告すればよかっただろう」
ベルナールの指が、机の縁を握った。
リディアは王太子へ顔を向けた。
「報告を受けたとき、殿下がどうお答えになったかも、今後は記録が必要です」
彼の口が閉じる。
「ベルナール様の責任は減りません。ただ、上へ回したという印だけで、その後の判断を追えない仕組みに戻すことはできません」
エドガーはゆっくり座り直した。
「……私の返答も、残せ」
書記は頷いた。
リディアは、ベルナールへ向き直る。
「未決の欄に、期限と、回答を求める相手と、次に催促する日を載せます。決まらなかったことも、その時点で報告する。決まるまで見えなくするのではありません」
「そうすれば、未決が増えて見えます」
「見える数が増えるのです。今日、債務が新しく生まれたわけではありません」
彼は三冊を見た。
本を閉じれば、机は片づく。
その向こうで期日を待つ人は、いなくならない。
「わたくしは……片づいているように、見せたかったのだと思います」
書記が記す間、誰も言葉を足さなかった。
◇
午前の終わりに、証言の読み合わせをした。
ベルナールが指示したこと。書類から確かめられたこと。本人の記憶にしかないこと。
その三つを区別し、書き直した箇所には元の文も残す。
「ここは、承認印を貸した、ではありません」
ベルナールが一行を指した。
「衣装局で継続して使うために預けました。一度だけ使わせたように、読めてしまう」
リディアは彼を見た。
彼は目を逸らさなかった。
使用者を残す仕組みも、合計額を見る者も決めないまま、三年。
それが彼の責任だった。
横領したという証拠は、今もない。
だからといって、金を受け取っていなければ終わりでもない。
彼は修正した証言へ署名し、封印中の承認印を戻すよう求めなかった。
続いて、別の紙を差し出した。
辞任の意向を国王へ伝える書面だった。
「受理されれば、これで……」
言葉が途切れる。
リディアは紙を受け取らなかった。
「わたくしは、人事を決める立場ではありません。秘書室へお出しください。それから、辞任されても、確認中の資料へのご説明は必要です」
「分かっております」
彼が言い切るまで、彼女は待った。
辞任は、これからの権限を離すことだ。
過去へ名前を書かなかったことにする手続きではない。
◇
昼食のために部屋を出ると、若い書記が廊下で立っていた。
手には、昨日のうちに用意した未処理一覧がある。
王家との新しい契約で、リディアが引継ぎを教える二人のうちの一人だった。
「確認をお願いしてもよろしいですか」
紙の上端へ目をやり、リディアは足を止めた。
〈支払済み〉の欄に、まだ送金指示しか出ていない案件が入っている。
彼女はそこを指した。
書記の顔が強張った。
「申し訳ありません。指示書の印がありましたので」
「受領の証書は?」
「まだです」
「では、支払手続き中へ移しましょう。印があることは正しく読めています」
書記は一度瞬いた。
全部間違っている、と言われると思ったのかもしれない。
リディアは紙を返した。
「どこまで進んだかを、別々に書けばよいのです。次は、ご自分で分類し直せますか」
「はい」
彼は机へ戻りかけて、振り返った。
「昼食後に、お持ちします」
リディアは頷いた。
今すぐ、と言わなくてもよかった。
空腹のまま書いた一行を、誰かが夜になって直すより、その方が早いこともある。
◇
午後、ベルナールはもう一度、閲覧室へ来た。
証言は終わっている。
しかし彼の最後の仕事を、署名だけにするわけにはいかなかった。
三冊の所在、未回答の相手、次の期日。それぞれを受け取る部署と担当者を、書記たちと確かめる。
リディアは、王家との契約の範囲で手順を整える。新しい支払いを承認する役にはならない。
途中、古い覚え書きの略称が分からなくなった。
ベルナールは、それが当時の臨時窓口の呼び名だと説明した。
部署はもうない。今の連絡先へ読み替える必要がある。
「知っていれば、すぐ分かることですが」
彼は言いかけ、止めた。
自分しか知らない言い方を、残してきたのだ。
書記が正式名を書き足す。
一冊目を渡す。
相手が目録と冊子を数え、受領欄へ署名する。
二冊目では、まだ所在の分からない添付資料を欠落として記した。揃っているふりをして、受領の印を押させない。
若い書記が、受領欄の脇へ日付を書いた。
「これを受け取ったら、過去の遅れも、わたくしの責任になりますか」
その問いに、ベルナールが顔を上げた。
リディアは首を振った。
「今日から何を預かるかを記すものです。昨日まで誰が持っていたかは、消しません」
書記は、ベルナールの署名が残る欄を確かめた。
それから自分の名を書いた。
仕事を受け取ることを、見知らぬ過失まで背負うことにしない。その区別ができて初めて、紙を渡す手と受け取る手が、同時に離れた。
三冊目の紐を結ぶとき、ベルナールの手が止まった。
「アーヴェル嬢。わたくしは、あなたなら処理できると思っていました」
リディアは、扇を閉じた。
「知っています」
彼の肩がわずかに下がる。
「ですから、あなたへ回せば」
「わたくしが処理できることと、あなたが責任を持たなくてよいことは、違います」
部屋が静かになった。
「わたくしも、それを混ぜてしまいました。できるから引き受けて、できるから、また引き受けて」
彼女は目録へ視線を戻した。
「ですが、今は違います。この三冊の管理者に、わたくしの名は書きません」
ベルナールは何も言わなかった。
謝罪を聞けば、気が晴れると思っていた時期もあった。
今は、明日この部屋へ来なくても、書類が次の人へ届く方がよかった。
◇
初回照合の報告は、その日の夕刻までに提出した。
月末の一覧と、使える資金。支払済み、手続き中、未払い、重複の疑い、証拠不足。
以前の五十八万リールという予定額から何が動いたかを、一件ずつ辿れる形にする。
公国への八万六千四百リールは、元の一覧に入っていなかった別の債務として明示した。衣装費の未確認額を足して、同じ金を二度数えることはしない。
何より、今日見つかった帳簿を入金として扱わない。
負債の所在が分かっても、金庫に硬貨は増えないのだ。
リディアは、確定できない欄を空白ではなく〈追加資料待ち〉とし、回答先と期限を添えた。
ベルナールの証言も添付したが、商人が不当な利益を得たと決めつける文章は入れていない。注文、納品、請求、実際の支払いを揃えて、初めて言えることがある。
エドガーが受領書へ署名した。
「二日で、すべて終わったとは書けないのだな」
「はい。契約どおり、終わっていないことも提出しました」
彼は赤い注記のある欄を見た。
かつてなら、不吉だから消せと言っただろうか。
今は、その欄へ次に答える人の名前を確かめていた。
◇
事務所へ帰ると、窓の外の運河が夕日を返していた。
クロードは机から立ち上がったが、リディアの鞄を開けようとはしなかった。
「今日は、食事の前に話せることか」
「食事の後でもよいことです」
答えると、彼は少し笑った。
温めたスープと、小さなパンが二つ。
リディアは腰を下ろし、指先のインクを布で拭いた。
「謝ってもらえたのか」
彼は慎重に尋ねた。
「責任を認めた証言は、残りました」
「それと、君の気持ちは別か」
彼女は頷いた。
「すぐに許せるとは、思いませんでした」
言ってから、少し息が通った。
正しい手続きが進んだなら、正しい気持ちにならなければいけない。
そんな決まりまで、自分へ課すところだった。
クロードはパンの皿を寄せた。
「今日中に、そちらの結論まで出さなくていい」
リディアは彼を見た。
答えを用意されないことが、これほど楽な日もある。
「ええ。明日に残します」
◇
食後、書記官見習いが玄関で受け取った封筒を持ってきた。
差出人の名はない。
帳簿の調査に関するものだという伝言だけを残し、使いは立ち去ったという。
リディアは、受け取った時刻を控えへ残してもらった。
封筒の中には、小さな紙が一枚入っていた。
金額も、請求先もない。
〈古い帳簿を開けば、新しい事務所が閉じることになる〉
リディアの手が止まった。
食卓の向こうで、クロードが表情を変える。
彼女は紙を握り潰さず、机へ置いた。
今日、閉じたままにされていた帳簿を開いた。
その続きを、やめてほしい誰かがいる。
今度の返事は、一人で書かない方がよさそうだった。




