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婚約破棄は承りました。では、王家の赤字もそちらでお引き受けください  作者: ハッピーミラクルエンジョイ


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15/20

15話 ベルナール財務官の最後の仕事

「この三冊を、わたくしの責任で別にしました」


ベルナールは机へ手を置いた。


その上には、三冊の帳簿が並んでいた。背表紙の色は褪せ、角には何度も出し入れした擦れがある。


一番薄い冊子だけが、新しい紐で綴じられていた。


リディアは、まだ手を伸ばさなかった。


「別にしたとは、支払済みの資料とは分けた、という意味ですか」


「……一般会計へ引き継ぐ資料から、外しました」


立ち会う書記が、言い直した方を書き留めた。


月末まで八日。


ようやく、書類が消えた場所に、責任者の声が届いた。


◇


朝の国王秘書室には、乾いた紙の匂いがこもっていた。


昨日の追加照会を受け、保管担当が立会人とともに別置きの箱を開けた。ベルナール一人に取り出させたものではない。


箱の外には〈旧災害復旧委員会・未決事項〉とある。


受入記録には、この箱が来た日も残っていた。


だが一般会計へ渡した目録には、完了した支払いの冊子しか載っていない。


「秘書室の方が、捨てたわけではありませんね」


リディアが尋ねる。


「違います。保管は、わたくしの指示どおりです」


ベルナールは保管担当を見ずに答えた。


昨日なら、誰が箱を運んだかを先に話したかもしれない。


今日は、自分の名から始めた。


エドガーも席にいた。王宮内の調整責任者として、閲覧に必要な人を揃えるためだった。


「なぜ、未決のものを戻さなかった」


王太子に問われ、ベルナールは唇を湿らせた。


「返済の負担先が、決まらなかったのです。復旧委員会を閉じた後、王家一般会計で引き受けるのか、地方への配分をどうするのか」


「相手への期限は、その間も来ます」


リディアが言った。


「承知しておりました」


答えは小さかった。


「承知したうえで、未決として置きました」


◇


最初の冊子は、復旧用の借入記録だった。


三年前の十二万リール。


すでに照合した公国側の契約と、日付も金額も一致する。


二冊目には、二度目の返済に使った復旧勘定の記録があった。


二万リールの支払済み証書。その後ろに、残元金八万リールと、次の期限を書いた紙が挟まっている。


紙はあった。


次の期限を、誰かが忘れず書いていた。


だが受け渡し欄には、次に管理する部署の署名がなかった。


「この印は?」


リディアは欄外を示した。


〈負担整理後に回付〉。


その横に、ベルナールの確認印がある。


「わたくしが、止めました」


「債務の存在に疑いがあったからですか」


「いいえ」


「返済期限が延期されたという合意は?」


「ありません」


机の端で、書記のペンが止まった。


リディアは答えを待ってから、先へ進んだ。


「では、支払う部署が決まらないことを理由に、支払う義務の記録まで止めたのですね」


ベルナールは頷いた。


その首の動きを見て、彼女の右手が扇の親骨をなぞった。


二度。


以前の彼女なら、ここで空欄を埋める方へ意識が向いた。


誰も書けないなら、自分が書けばいい。


期限までに間に合うなら、なぜ空いたかは後でいい。


だが今度は、空けた人の名を残してからにする。


◇


新しい紐の三冊目には、衣装局を含む簡易承認制度の照会が綴じられていた。


旧復旧勘定そのものとは別件だった。ベルナールが、自分の未回答案件を一緒に保管させていたという。


同じ箱から出たからといって、すべて同じ金の動きになるわけではない。


リディアは机の左右へ分けた。


左に、公国への借入。


右に、王宮内の承認と支出確認。


紐をほどくと、〈同一行事の合計額を確認する担当者〉について、欄を設けてほしいという照会が現れた。


これが採用されていれば、一件ずつ八百リール未満に分けた請求を、まとめて見る人ができていた。


回答欄は空白だった。


「受け取っていない、とはおっしゃいませんね」


「受け取りました」


「なぜ、回答を?」


ベルナールは長く黙った。


窓の外を、荷車が通った。車輪が石畳の溝を越える音だけが、部屋へ入ってきた。


「合計を見る者を決めれば、その者は止めなければなりません」


ようやく彼が言った。


「儀典の希望を。王族の急な注文を。長く取引をしてきた商人の、いつもどおりという説明を」


「止める役を、引き受けたくなかった」


「……はい」


リディアは視線を落とした。


意外ではなかった。


意外ではないことが、かえって腹立たしかった。


彼が受けなかった言葉は、誰かへ行く。


払われない職人へ。叱られる書記へ。帳簿を抱えて呼び戻される婚約者へ。


嫌な役目がなくなったわけではない。


彼の机を通り過ぎていただけだ。


◇


エドガーが椅子から身を起こした。


「私へ報告すればよかっただろう」


ベルナールの指が、机の縁を握った。


リディアは王太子へ顔を向けた。


「報告を受けたとき、殿下がどうお答えになったかも、今後は記録が必要です」


彼の口が閉じる。


「ベルナール様の責任は減りません。ただ、上へ回したという印だけで、その後の判断を追えない仕組みに戻すことはできません」


エドガーはゆっくり座り直した。


「……私の返答も、残せ」


書記は頷いた。


リディアは、ベルナールへ向き直る。


「未決の欄に、期限と、回答を求める相手と、次に催促する日を載せます。決まらなかったことも、その時点で報告する。決まるまで見えなくするのではありません」


「そうすれば、未決が増えて見えます」


「見える数が増えるのです。今日、債務が新しく生まれたわけではありません」


彼は三冊を見た。


本を閉じれば、机は片づく。


その向こうで期日を待つ人は、いなくならない。


「わたくしは……片づいているように、見せたかったのだと思います」


書記が記す間、誰も言葉を足さなかった。


◇


午前の終わりに、証言の読み合わせをした。


ベルナールが指示したこと。書類から確かめられたこと。本人の記憶にしかないこと。


その三つを区別し、書き直した箇所には元の文も残す。


「ここは、承認印を貸した、ではありません」


ベルナールが一行を指した。


「衣装局で継続して使うために預けました。一度だけ使わせたように、読めてしまう」


リディアは彼を見た。


彼は目を逸らさなかった。


使用者を残す仕組みも、合計額を見る者も決めないまま、三年。


それが彼の責任だった。


横領したという証拠は、今もない。


だからといって、金を受け取っていなければ終わりでもない。


彼は修正した証言へ署名し、封印中の承認印を戻すよう求めなかった。


続いて、別の紙を差し出した。


辞任の意向を国王へ伝える書面だった。


「受理されれば、これで……」


言葉が途切れる。


リディアは紙を受け取らなかった。


「わたくしは、人事を決める立場ではありません。秘書室へお出しください。それから、辞任されても、確認中の資料へのご説明は必要です」


「分かっております」


彼が言い切るまで、彼女は待った。


辞任は、これからの権限を離すことだ。


過去へ名前を書かなかったことにする手続きではない。


◇


昼食のために部屋を出ると、若い書記が廊下で立っていた。


手には、昨日のうちに用意した未処理一覧がある。


王家との新しい契約で、リディアが引継ぎを教える二人のうちの一人だった。


「確認をお願いしてもよろしいですか」


紙の上端へ目をやり、リディアは足を止めた。


〈支払済み〉の欄に、まだ送金指示しか出ていない案件が入っている。


彼女はそこを指した。


書記の顔が強張った。


「申し訳ありません。指示書の印がありましたので」


「受領の証書は?」


「まだです」


「では、支払手続き中へ移しましょう。印があることは正しく読めています」


書記は一度瞬いた。


全部間違っている、と言われると思ったのかもしれない。


リディアは紙を返した。


「どこまで進んだかを、別々に書けばよいのです。次は、ご自分で分類し直せますか」


「はい」


彼は机へ戻りかけて、振り返った。


「昼食後に、お持ちします」


リディアは頷いた。


今すぐ、と言わなくてもよかった。


空腹のまま書いた一行を、誰かが夜になって直すより、その方が早いこともある。


◇


午後、ベルナールはもう一度、閲覧室へ来た。


証言は終わっている。


しかし彼の最後の仕事を、署名だけにするわけにはいかなかった。


三冊の所在、未回答の相手、次の期日。それぞれを受け取る部署と担当者を、書記たちと確かめる。


リディアは、王家との契約の範囲で手順を整える。新しい支払いを承認する役にはならない。


途中、古い覚え書きの略称が分からなくなった。


ベルナールは、それが当時の臨時窓口の呼び名だと説明した。


部署はもうない。今の連絡先へ読み替える必要がある。


「知っていれば、すぐ分かることですが」


彼は言いかけ、止めた。


自分しか知らない言い方を、残してきたのだ。


書記が正式名を書き足す。


一冊目を渡す。


相手が目録と冊子を数え、受領欄へ署名する。


二冊目では、まだ所在の分からない添付資料を欠落として記した。揃っているふりをして、受領の印を押させない。


若い書記が、受領欄の脇へ日付を書いた。


「これを受け取ったら、過去の遅れも、わたくしの責任になりますか」


その問いに、ベルナールが顔を上げた。


リディアは首を振った。


「今日から何を預かるかを記すものです。昨日まで誰が持っていたかは、消しません」


書記は、ベルナールの署名が残る欄を確かめた。


それから自分の名を書いた。


仕事を受け取ることを、見知らぬ過失まで背負うことにしない。その区別ができて初めて、紙を渡す手と受け取る手が、同時に離れた。


三冊目の紐を結ぶとき、ベルナールの手が止まった。


「アーヴェル嬢。わたくしは、あなたなら処理できると思っていました」


リディアは、扇を閉じた。


「知っています」


彼の肩がわずかに下がる。


「ですから、あなたへ回せば」


「わたくしが処理できることと、あなたが責任を持たなくてよいことは、違います」


部屋が静かになった。


「わたくしも、それを混ぜてしまいました。できるから引き受けて、できるから、また引き受けて」


彼女は目録へ視線を戻した。


「ですが、今は違います。この三冊の管理者に、わたくしの名は書きません」


ベルナールは何も言わなかった。


謝罪を聞けば、気が晴れると思っていた時期もあった。


今は、明日この部屋へ来なくても、書類が次の人へ届く方がよかった。


◇


初回照合の報告は、その日の夕刻までに提出した。


月末の一覧と、使える資金。支払済み、手続き中、未払い、重複の疑い、証拠不足。


以前の五十八万リールという予定額から何が動いたかを、一件ずつ辿れる形にする。


公国への八万六千四百リールは、元の一覧に入っていなかった別の債務として明示した。衣装費の未確認額を足して、同じ金を二度数えることはしない。


何より、今日見つかった帳簿を入金として扱わない。


負債の所在が分かっても、金庫に硬貨は増えないのだ。


リディアは、確定できない欄を空白ではなく〈追加資料待ち〉とし、回答先と期限を添えた。


ベルナールの証言も添付したが、商人が不当な利益を得たと決めつける文章は入れていない。注文、納品、請求、実際の支払いを揃えて、初めて言えることがある。


エドガーが受領書へ署名した。


「二日で、すべて終わったとは書けないのだな」


「はい。契約どおり、終わっていないことも提出しました」


彼は赤い注記のある欄を見た。


かつてなら、不吉だから消せと言っただろうか。


今は、その欄へ次に答える人の名前を確かめていた。


◇


事務所へ帰ると、窓の外の運河が夕日を返していた。


クロードは机から立ち上がったが、リディアの鞄を開けようとはしなかった。


「今日は、食事の前に話せることか」


「食事の後でもよいことです」


答えると、彼は少し笑った。


温めたスープと、小さなパンが二つ。


リディアは腰を下ろし、指先のインクを布で拭いた。


「謝ってもらえたのか」


彼は慎重に尋ねた。


「責任を認めた証言は、残りました」


「それと、君の気持ちは別か」


彼女は頷いた。


「すぐに許せるとは、思いませんでした」


言ってから、少し息が通った。


正しい手続きが進んだなら、正しい気持ちにならなければいけない。


そんな決まりまで、自分へ課すところだった。


クロードはパンの皿を寄せた。


「今日中に、そちらの結論まで出さなくていい」


リディアは彼を見た。


答えを用意されないことが、これほど楽な日もある。


「ええ。明日に残します」


◇


食後、書記官見習いが玄関で受け取った封筒を持ってきた。


差出人の名はない。


帳簿の調査に関するものだという伝言だけを残し、使いは立ち去ったという。


リディアは、受け取った時刻を控えへ残してもらった。


封筒の中には、小さな紙が一枚入っていた。


金額も、請求先もない。


〈古い帳簿を開けば、新しい事務所が閉じることになる〉


リディアの手が止まった。


食卓の向こうで、クロードが表情を変える。


彼女は紙を握り潰さず、机へ置いた。


今日、閉じたままにされていた帳簿を開いた。


その続きを、やめてほしい誰かがいる。


今度の返事は、一人で書かない方がよさそうだった。

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