14話 ミレーユの小さな反乱
「署名するだけで、もう誰にも聞かれなくなるそうです」
ミレーユが差し出した紙には、彼女が知らない注文まで並んでいた。
末尾には、すべて本人の希望で手配したと認める一文。
その下の署名欄だけが、空いている。
リディアは紙を机へ置いた。
「その説明を、どなたから?」
「衣装局の連絡係を通じて、商会の使いだという方から。わたくしが認めれば、王太子殿下にもご迷惑がかからないと」
ミレーユは両手を膝へ重ねた。
「ですが、認めると、何が終わるのでしょう」
声が小さくなった。
「調べることだけが、終わってしまうのではありませんか」
リディアは彼女を見た。
以前なら、聞けなかった問いだった。
「少なくとも、この紙は支払いを済ませるものではありません。誰が注文したかについて、あなたの名で説明を確定させるものです」
ミレーユの指が強く重なった。
「では、署名しません」
◇
月末まで九日。
その日の午前、リディアは許可どおり、国王秘書室に残る旧災害復旧勘定の資料を閲覧していた。
目録と受入記録を、立会人と一枚ずつ照合した。
二度の返済のうち、復旧勘定から支払った分の証書はあった。だが、委員会を閉じた後、次の返済期限を誰へ渡したかを示す紙は、まだ見つかっていない。
見つからないものを、存在しなかったとは書かない。
空の封筒の表書きと、箱に残る綴じ跡を記録し、追加で確かめたい資料の一覧を残してきた。
王家との契約で約束した初回照合の期限は変わらない。確認済みの額と、資料不足で確定できない額を分け、二営業日以内に提出する。
それは、すべての謎を二日で解く約束ではなかった。
午後のミレーユとの面会は、衣装費について以前から受けている個人依頼の続きだった。
王宮の秘密を、別の依頼人へ持ち込まないよう、秘書室の記録は鞄の別の袋へしまってある。
今、机へ出しているのはミレーユ自身の資料だけだ。
侍女のアンナ・ベルが、隣で包みをほどいた。
青い布の端切れと、仕立て直しの控え。それから、衣装を受け取った日に残した覚え書き。
「お嬢様と、別々に書き直しました。先に答えを合わせない方がよいと伺いましたので」
アンナは二枚を離して置いた。
リディアは礼を言った。
同じことを覚えているのか、片方の言葉をなぞっているのか。独立した記憶を残すための、小さな手間だった。
◇
一覧の総額は三千八百四十リール。
本人と侍女が受領を確認した分は、千百二十リールだった。
青い正装ドレス、六百四十。
舞踏靴、九十。
貸与された装身具の洗浄、七十。
仕立て直し、百二十。
銀糸の刺繍、二百。
ミレーユは一行ずつ、指を置いた。
「この五つは、使いました」
「はい」
「安かったとは、言えません」
リディアは答えを急がなかった。
王都の職人の月収が、およそ百二十リール。千百二十という額を読み上げることが、ミレーユにとって何を意味するかは分かった。
ドレスが似合うと言われた日の喜びまで、笑いものにされるかもしれない。
「高い品を受け取ったことと、存在しない注文を認めることは別です」
リディアは言った。
「仕立てた方のお仕事も、受け取ったあなたの事実も消さずに、その先を調べましょう」
ミレーユは青い端切れを撫でた。
「この袖、最初は腕を上げると痛かったのです。直してくださった方が、何度も試着を待ってくれて」
アンナが頷いた。
「お帰りの馬車へ乗る前に、もう一度動かしておられました」
「それまで嘘だったみたいには、したくありません」
リディアは五つの品目を囲んだ。
確認できるものがあるから、確認できないものを分けられる。
残り二千七百二十リールは、受け取った記憶がないというだけではなかった。注文書、納品記録、受領署名も揃っていない。
そこには、青い正装と同じ控え番号を使った二着目が含まれている。
【数学者】は、二つの番号の一致を一目で拾う。
だが、それだけで誰が書いたかは分からない。
リディアは、以前照合した控えと、今日持ち込まれた確認書を並べた。
新しい紙では、その二つが一つの〈ご用命衣装一式〉という欄へまとめられていた。
「別の二着として説明できないところを、一式にしているのですね」
ミレーユが言った。
リディアは頷いた。
「まとめる前の内訳を、残します」
細かい字が読めないから署名するのではなく、細かいままで残す。
ミレーユは確認書を取り戻さなかった。
「これも、証拠として預けられますか」
「受け取った経緯と一緒に、王宮の調査担当へ。お渡しになった日時と、受領した方の名を控えに残してもらいましょう」
商会の使いと名乗った人物の身元も、連絡係が誰から紙を受け取ったのかも、確認が要る。
その場で犯人の名を決めることはしなかった。
◇
ミレーユは、もう一枚の紙を出した。
自分で書いたという、翌月の衣装についての希望だった。
新しい私用のドレスは注文しない。
手持ちの品を着回し、直すときには見積もりを先にもらう。
公務に必要だと言われた品は、用途と承認者、支払者が決まるまで依頼しない。
「費用を全部なくすことは、できませんでした」
「着るものは必要です」
リディアが答えると、ミレーユは少しだけ肩を落とした。
安心したときの動きだった。
「ゼロと書けば、立派に見えると思ったのです。でも、靴が壊れたら、また誰かに黙って払ってもらうことになるかもしれなくて」
「それなら、必要な費用を消さなかった方が正直です」
翌月の希望を、今月の返金として扱うことはしない。
リディアは紙の上へ〈今後の注文方針〉と書き足した。
今までに使った額。まだ分からない額。これから使うか決めるもの。
三つに分かれると、机の上が少し見やすくなった。
「以前の、王太子妃になるための費用は?」
ミレーユが尋ねた。
四か月、十一行事、総請求一万二千四百リールの一覧だ。
未発注の見積もりや王家所蔵品の手入れを分け、負担者を調べている途中だった。
「今日の衣装一覧と同じ品が含まれていないか、照合を続けます。二つの合計を、そのまま足すことはしません」
「両方に同じものがあれば、わたくしは二度買ったように見えるのですね」
「はい。ですから今日公表する数字の範囲を、衣装局のこの一覧に限ると明記します」
ミレーユは自分で、その一文を書いた。
◇
説明の場は、衣装局の小広間になった。
ミレーユが書面で、自分名義の衣装費の内訳を示すことに同意した。衣装局長も、調査済みの区分を明らかにする範囲で説明会を認めた。
席にいるのは、王宮の会計担当、衣装局の職員、納入業者の代表、そして記録を各部署へ持ち帰る書記たち。
未確認の商人名を並べて裁く場ではない。
リディアは出席者向けの紙を確かめた。
他の依頼人の名前や、公国の非公開資料は載せていない。ミレーユが使ったと確認できるものと、まだ調べるものだけが並んでいる。
入口で、エドガーが待っていた。
「私から説明することもできる」
ミレーユは一度、彼を見上げた。
それから首を振った。
「わたくしが、申し上げます」
「だが、厳しいことも聞かれるだろう」
「そのときに、知らないことまで答えたことにしないでください」
エドガーの口が閉じた。
ミレーユは彼の手にすがらず、小広間へ入った。
リディアは半歩後ろを歩いた。
誰かの代わりに話すのは、得意だった。
言葉に詰まりそうなところも、先に分かる。
それでも今日は、ミレーユが言うまで待つと決めていた。
◇
「衣装局の一覧にある、わたくし名義の三千八百四十リールについて、ご説明いたします」
ミレーユの声は、最初の数字で少し震えた。
アンナが脇の卓へ、受領控えを置いた。
「このうち、千百二十リール分の品と仕事は、確かに受け取りました」
紙を持つ両手が動く。
「その費用を知らず、用意されるままに受け取っていたことを、今は反省しています。ですが、残る二千七百二十リールについて、わたくしが注文したと署名することはできません」
広間の奥で、椅子が鳴った。
「ご自分が覚えていないだけでは?」
納入業者の代表の一人が言った。
ミレーユは紙を握った。
リディアは一歩出かけて、止まった。
「覚えていないだけのものがあれば、記録で確かめたいと思います」
ミレーユが答えた。
「ですから、注文書と受領の控えを、見せてください。受け取ったものなら、受け取っていないとは申しません」
大きな声ではなかった。
しかし最後まで、誰かに代わってもらわなかった。
衣装局の支払書記、オスカー・ベイルが、保管状況を説明した。
未確認分の証憑が揃っていないこと。同じ控え番号の重複があること。今後の提出物には、誰がいつ受け取ったかを記すこと。
以前の簡易承認印は、封印されたままだった。
ここで新しい確認書を一枚作っても、過去の注文書の代わりにはならない。
「では、千百二十リールは、もう支払済みなのですか」
別の人が聞いた。
ミレーユはリディアを見た。
「そこは、わたくしでは分かりません」
言ってから、唇を結ぶ。
リディアが前へ出た。
「本日確認しているのは、品と仕事の受領です。支払の有無と、どの会計が負担するかは、出納記録を別に照合します。千百二十リールを、本人が現金で支払った額としては記録しないでください」
書記たちのペンが動いた。
ミレーユは息を吐いた。
知らないと言っても、そこで話が壊れなかった。
それを確かめたような顔だった。
◇
一人の儀典担当が、眉をひそめた。
「王太子の選ばれた方が、自ら倹約を語るのは、王家の威信にも関わります」
ミレーユは彼を見た。
「新しい私用のドレスを、来月は頼まないと決めました」
「そのようなことまで公にせずとも」
「黙っていれば、またわたくしが頼んだことにされるかもしれません」
声が、今度は震えなかった。
「公務に必要な衣装は、誰が必要と決めたのか、どこから払うのかを、先に確認します。作ってくださった方に、後から払えないとは申し上げたくありません」
彼女は翌月の方針を、書記へ渡した。
使っていない金を節約しただけで、今日の赤字が減ったとは言わない。
それでも、新しい注文に勝手に名前を使わせないという意思は、残せる。
エドガーが席を立った。
「この方針を、本人の希望として記録する。私の名で追加を求める場合も、支出の手続きを省くな」
ミレーユの説明を取り上げるのではなく、王太子側の責任だけを引き受けた。
リディアは、少しだけ扇を緩めた。
昨日彼が署名した約束が、今日一度守られた。
一度で全部を信じる必要はない。
ただ、守られた一度を、なかったことにする必要もなかった。
説明会の記録には、受領確認済み千百二十、未確認二千七百二十、合計三千八百四十と記された。
未確認分を、本人の浪費として説明しない。
提出された新しい確認書と、署名を勧められた経緯は、調査担当が受領した。
ミレーユはその控えを、自分の手で受け取った。
◇
広間を出てから、ミレーユは壁際の椅子へ座った。
膝の上で、紙が小さく震えていた。
「途中、代わっていただきたくなりました」
「わたくしも、代わりに答えそうになりました」
リディアが言うと、彼女は顔を上げた。
二人は少しだけ笑った。
それで、何もかもが近しくなったわけではない。
建国祭の夜にあったことは消えない。王太子が選び直した相手と、その場で捨てられた相手だった事実も。
だが今日、ミレーユが自分の名前を守ろうとしたことは、別に受け取れた。
「わたくしの名前は、注文を隠すための袋ではないのですね」
ミレーユが呟いた。
「はい」
リディアは答えた。
「知らないまま背負わなくてよいのです」
ミレーユは受領控えを折らず、アンナの持つ硬い表紙へ挟んだ。
青いドレスは、捨てないと言った。
次に着るときは、自分が何を受け取ったのか知っていたい、と。
◇
事務所へ戻ると、クロードが湯を用意していた。
「発表は済んだのか」
「ご本人が、最後まで説明なさいました」
「君が全部話さずに?」
リディアは彼を見た。
クロードは、からかったのではないと分かる顔をしていた。
「はい。少し、難しかったです」
「分かる」
短い返事だった。
彼女は椅子へ座り、湯気の立つ茶碗を受け取った。
クロードは、公開された説明資料だけを読んだ。聞き取りの原本を見せてほしいとは言わなかった。
二人で進める仕事でも、開けてよい封筒は同じではない。
リディアは今日の作業時間を記入し、明日の予定を確かめた。
王家の月末支払いは未解決だ。公国への元金八万と延滞金六千四百も、返済が決まったわけではない。
それでも、一人の名前で終わらされかけた調査は、続けられる。
そのとき、王宮から封書が届いた。
差出人は、ベルナール財務官だった。
午前の閲覧で残した、追加資料の照会への返事だ。
〈旧復旧勘定の残務は、すべてが秘書室の箱へ入ったわけではありません〉
リディアは茶碗を置いた。
〈引継ぎの際、わたくしの判断で、未処理のまま別にした綴りがあります。明朝、その所在を説明いたします〉
署名の下に、もう一行あった。
〈今回は、部下だけを差し向けることはいたしません〉
リディアは翌朝の予定へ、彼の名を書き足した。
今度こそ、責任者本人に尋ねるべき問いがあった。




