13話 国王の署名、王太子の責任
「支出を減らした額と、今ここにある金を、同じ欄に書いてはいけません」
リディアが言うと、長卓の端で羽根ペンが止まった。
国王臨席の審議室だった。
窓際には王太子エドガー。向かいに財務官ベルナール。その間へ置かれた削減案には、取りやめる催しと金額が並んでいた。
合計は大きい。
しかし、その下の〈直ちに利用できる資金〉にも、同じ数字が書かれていた。
「催しをやめれば、その分は使えるのではないか」
国王の問いに、リディアは一礼した。
「まだ買っていないものを買わずに済むだけなら、財布の中身は増えません。前払いを返してもらえる場合も、返金が届くまでは使えません」
彼女は削減案を指で押さえた。
「この紙は、ご決断の案としては必要です。ただ、着手金が用意できた証明にはなりません」
月末まで十日。
昨日、王宮へ戻ることを断った。その代わりに提示した、三十日間の制度作りの契約を、今日ここで審議する。
リディアの署名欄は、まだ白かった。
◇
ベルナールが別の紙を出した。
国庫出納係の確認印がある、当朝の資金確認書だった。
契約報酬の千リールは、王家一般会計の現金から確保する。給金や防衛準備金の専用勘定には手をつけず、すでに支払手続きを進めている送金とも重ねない。
その扱いを出納係と照合したうえで、支出の承認を求める文書だ。
「千リールを、新しく得たわけではございません」
ベルナールが言った。
「ほかの一般支出へ回せる額が、その分減ります」
国王は契約案を見た。
「今、これに金を払う必要があるのか」
リディアは答えを急がなかった。
待っている納入業者がいる。未処理の支払いがある。自分の報酬だけを先に求めているようで、胸の奥がわずかに縮む。
それでも、無償で始めれば同じことになる。
彼女の時間が無料だと見なされ、その時間を使っていることさえ、誰の帳簿にも残らなくなる。
「契約しないというご判断も可能です。その場合は、王宮内で担当者と期限を定めていただくことになります」
「君がしなければ、間に合わないと言うのではないのか」
「わたくしでなければできない仕組みを、これから作るわけにはまいりません」
エドガーが顔を上げた。
「父上。帳簿を作る人間がいなかったのではありません。決める人間が、決めていなかったのです」
声は、演説のときより低かった。
「リディアに、決めていない分まで埋めさせていました」
国王は息子を見た。
「お前の責任だと言うのか」
「私の責任もあります」
エドガーは言い直した。
「財務室に任せたつもりで、返事を求められた書類を置いていました。私の署名が必要なまま、です」
リディアは扇の親骨を二度なぞった。
ようやく言葉になった。
そう思うのと同時に、もっと早く言ってほしかったとも思った。
どちらも、消えなかった。
◇
エドガーの削減案には、翌月の私的な狩猟会の中止が入っていた。
新しい催しで、招待状の発送前。馬車や食材の本発注もまだで、取りやめによる違約金は生じないと、担当係の確認が添えられている。
予算案の段階だから、やめても現金は戻ってこない。
それでも、これから支出を増やさないという決定にはなる。
「陪席する家々には、何と伝える」
国王が尋ねた。
「王家の支払いを立て直すため、私が中止したと」
「財務官の勧告による、とすればよい」
リディアは何も言わなかった。
ベルナールも、顔を伏せたままだった。
エドガーは削減案へ手を置く。
「私が頼んだ催しです。やめる理由だけを、財務官に持たせることはできません」
卓の向こうで、侍従が姿勢を正した。
狩猟会を楽しみにしていた者はいるだろう。王太子と親しくなる機会を、自分の取り分だと思っていた者もいる。
彼らへ会うのはエドガーだった。
リディアの名前を説明に使うことは、できない。
「それから、今月の新規遊興費枠、九百リールは使いません」
彼は続けた。
「未使用分を凍結し、出納記録を確認して返納の手続きを取ります。こちらも、九百リールが今日の国庫へ増えるとは書きません」
ベルナールが頷いて訂正を記した。
先に王太子府へ貸し付けた金の残り、七百六十六リールは別勘定のままだ。それをまた私費として取り出し、同じ金を二度差し出したことにはしない。
リディアは二つの欄が分かれているのを確かめた。
国王は長い沈黙の後、契約案を手元へ引いた。
「千リールを承認する。支払先と目的は、この契約に限る」
ペン先が紙へ下りた。
国王の署名は、大きかった。
その下へエドガーが、資料提供と王宮側の調整を担う責任者として名を書いた。
リディアはまだ、自分のペンを取らなかった。
「もう一件、閲覧許可をお願いいたします」
◇
国王秘書室に残る、旧災害復旧勘定の資料。
その文字を読んだとき、国王の指が止まった。
三年前の洪水で、命を救うために借りた金だった。
助かった村はある。届いた穀物も、架けられた仮橋もある。
だが借りた金の残り八万リールと、延滞金六千四百リールは、消えていない。
「必要な部分を、秘書室から抜き出させる」
「何が必要かを確かめるために、目録と受入記録も拝見したいのです」
リディアは言った。
「返済済みの紙だけが届けば、次の支払日を誰へ渡したのかが分かりません。書類がないのか、別の箱にあるのかも区別できません」
「すべてを持ち出すつもりか」
「いいえ。対象を旧復旧勘定の残務に限り、立会人のいる室内で閲覧します。写しが必要な箇所は記録し、持ち出す前に許可をいただきます」
他国の商務事務所とも契約している立場だ。
秘密に触れる権限と、それを他者へ渡す権限を混ぜない。
国王はエドガーを見た。
「不都合なものが出ても、提出するのだな」
エドガーは頷いた。
「自分に不都合だから抜くのであれば、最初から調べられません」
「私の秘書室も例外ではない、と」
彼の返事は、わずかに遅れた。
「はい」
リディアは視線を落とさなかった。
国王が署名した二枚目の紙は、契約書より薄かった。
それでも彼女には、こちらの方が重く見えた。
ベルナールが教育に充てる書記官二人の勤務割を差し出す。既存の仕事を別の担当へ割り振った欄もある。
リディアは契約と照らし、名前と期間を確かめた。
三十日、上限四十時間、総額千リール。
着手前に五百、試験運用で二百五十、引渡し時に二百五十。
資料が出ない場合の報告先と、追加作業を別途見積もる条件も残っている。
最後に彼女は、自分の名を書いた。
元婚約者としてではない。
会計調査人、リディア・アーヴェルとして。
◇
審議が終わった後、出納室で着手金を受け取った。
銀貨を数える音がした。
五百リール。
リディアは出納係と一緒に額を確認し、受領証へ署名した。王家側の控えに支払日と契約番号が記される。残る五百は、この契約の後払い分として確保し、別の支払いへ流さない。
契約総額を、その場で全部受け取ったことにはしなかった。
これで契約、着手金、閲覧許可が揃った。
二営業日以内の最初の照合が、今日から始まる。
出納室を出たところで、秘書室の係官が待っていた。
閲覧は翌朝。保管箱を室内へ運ぶ前に、受入目録と封印の状態を立会人と確認するという。
「お急ぎでしょうから、返済済みの証書からお出しします」
「その証書も必要ですが、箱の並びは変えずにお願いいたします」
リディアは閲覧許可の写しを示した。
「急いで探すために、元の順番が分からなくなると困ります。何がどこにあったかも、確かめたいのです」
係官は少し戸惑い、頷いた。
「空の封筒まで、記録するのですか」
「はい。中身が別に保管されているか、後で尋ねられますから」
資料を隠した人がいるとは、まだ決まっていない。
閉じた部署の箱を運び、運んだだけで引継ぎが済んだと思った人がいるのかもしれない。
正しい順番を失えば、その違いまで分からなくなる。
リディアは予定表へ、翌朝の閲覧と、立会人を確かめる時刻を書いた。今日できるのは、すでに提供された一般会計の記録を整理し、照合に必要な資料を洗い出すところまでだ。
「公国には、支払いが決まったと伝えてよいでしょうか」
係官が尋ねた。
「決まったのは調査の契約です。八万六千四百リールの返済案も、相手方の承諾も、まだありません」
係官は伝言用の紙を書き直した。
リディアは訂正された文を見届けた。期待だけが正式な通知に変われば、次に訂正するとき、今度こそ信用を失う。
締切が迫っているからこそ、済んだことと、これからすることを混ぜたくなかった。
「先生、こちらへ」
書記官の一人が、空いている席を示した。
リディアは呼ばれ方に少し驚いたが、座る前に仕事の割り振りを確認した。
机の上には、小さな請求書の束が三つ置かれている。
全部を自分の前へ寄せそうになり、手を止めた。
「まず、お二人がどこまで確認なさったか、教えてください」
若い書記官が一枚を開く。
「受領印はあります。金額も合っています。ただ、支払済みかどうかを確かめる帳面が、別の部屋で」
「では、今は未払いと決めず、確認待ちにしましょう。どなたへ尋ねますか」
書記官は勤務割を見た。
「出納係です。控えの場所も、戻ってきたらここへ書きます」
リディアは頷いた。
手を出せば早い。
でも、彼が戻るまでの間に、もう一人が次の伝票を同じ手順で調べ始めた。
自分の手だけで進めるより、少し遅い最初の一枚。
その遅さを、失敗だと思わずに待っていた。
◇
正午、エドガーは王宮の小広間で削減方針を読み上げた。
係官と、王宮へ納入する商人の代表。招待予定の家々へ通知を運ぶ侍従。リディアは後方で、財務室の説明資料に誤りがないか確認するため立ち会った。
「私が依頼した私的な狩猟会を中止し、新規の遊興費の執行を止める」
誰かが、小さく息を吐いた。
「支出を抑えたことだけで、未払いが清算されたとは言わない。確認できた支払予定と、未確定のものを分けて報告する」
一人の貴族が手を上げた。
「リディア嬢のお戻りによって、その処理が可能になるのですかな」
リディアの背がこわばった。
すでに、話が違う形へ流れ始めていた。
エドガーは彼女を振り返らなかった。
「復職ではない。王家が、期限付きの業務を正式に依頼した」
「しかし、婚約についても再考の余地が――」
「ない」
短い声だった。
広間が静かになる。
「仕事の依頼に、彼女の私生活を条件として付け加えることはしない。王家の支出は、王家が決めて責任を負う」
リディアは握っていた扇を緩めた。
守られた、とだけは思わなかった。
彼は今、自分で署名した約束を守ったのだ。
それでも、助かった。
八年前の一度の親切とは違う形で、その言葉を受け取ることができた。
広間を出ると、廊下でエドガーが待っていた。
「これで、少しは取り戻せただろうか」
何を、と聞き返すのは簡単だった。
リディアは彼の顔を見た。
「今日のご説明には、感謝いたします」
彼の肩が少し動く。
「けれど、今日の署名が守られるかどうかは、明日からの仕事で確かめることです」
エドガーは黙った。
「そうだな」
やがて、彼は頷いた。
それ以上の答えを、彼女へ求めなかった。
◇
午後に事務所へ戻ると、クロードは机から立ち上がりかけた。
リディアが鞄を置くまで待ってから、尋ねる。
「契約は」
「成立しました。着手金も受領しました」
「おめでとう」
彼女は思わず笑った。
「王家の赤字は、まだ減っておりません」
「君の契約のことを言った」
その一言で、肩の力が抜けた。
誰かの困り事が全部なくなるまで、自分の仕事を喜んではいけないわけではない。
クロードは予定表を開いた。
「こちらで確認を頼む分は、約束した時間にまとめる。王宮の資料は、その鞄の中のままでいい」
彼女は頷き、国王秘書室の閲覧許可を事務所の一般書類と分けてしまった。
二つの仕事を引き受けたからといって、二つの秘密を混ぜてよいことにはならない。
「お茶を飲んでから、こちらの帳票を拝見します」
「食事は?」
「王宮で軽く。ですが、甘いものなら入ります」
クロードは引き出しから、小さな包みを出した。
焼き菓子が二つ。
「二人分ですか」
「そのつもりだった」
リディアは一つ取り、もう一つを彼の側へ押した。
帳簿を開かない短い時間を、二人で取った。
夕刻、ミレーユから面会の申し入れが届いた。
今度は、支払うのが怖いという相談ではなかった。
〈わたくしが本当に受け取った衣装と、受け取っていないものを、自分の名前で説明したいのです〉
その下に、もう一行あった。
〈ですが、全部わたくしの注文だったと署名すれば、騒ぎを収められると言われました〉
リディアは菓子の包みを閉じた。
誰が金を使ったのかを明らかにする前に、誰か一人の名前で終わらせようとしている。
まだ、返事をしなければならない署名があった。




