12話 王家の帳簿を買いますか
「戻ってきてほしい」
エドガーは、椅子へ座る前に言った。
王宮の小応接室だった。リディアの前には、以前使っていた執務室の鍵が置かれている。
婚約を破棄された夜に返した三本の鍵ではない。私室に隣接した執務室の、細い真鍮の鍵だ。
触れれば、指が覚えている。
朝食の皿を端へ寄せて帳簿を開いた机。夜会へ出るために羽織った肩掛けを、そのまま背もたれへ残した椅子。
そこへ戻れば、仕事を始めるまでに一刻もかからないだろう。
だから、リディアは手を伸ばさなかった。
「何をするために、でしょうか」
「財務を立て直すためだ。君が必要だ」
「わたくしをお戻しになれば、誰が何を決めるのかは、決まっておりますか」
エドガーの視線が鍵へ落ちた。
傍らのベルナールが、厚い書類包みを持ち直す。
返事がない。
その沈黙だけで、戻った後の暮らしが見えた気がした。
公国の債務が見つかった翌朝だった。
月末まで、あと十一日。
国王秘書室が災害復旧勘定の残務を保管していることは分かった。しかし、保管場所が分かっただけでは、中身を開く権限までは手に入らない。
今回の面会は、クロードを通じて届けられた、王太子からの契約協議の申し入れだった。
まだ調査を引き受けたわけではない。
リディアは提案書と空の見本帳票だけを持ってきた。クロードの事務所で預かった顧客の記録は、一枚も鞄へ入れていない。
「爵位に見合う待遇を用意する。部屋も、このまま使っていい」
エドガーが言った。
「待遇より先に、仕事の終わりを決めたいのです」
「終わり?」
「何ができれば、わたくしが毎朝ここへ来なくても済むのか。その条件です」
窓の外で、庭師が枝を切っていた。
乾いた音が一度響く。
かつてのリディアなら、財務を立て直すと言われただけで頷いた。
支払日に困っている人の顔が浮かぶ。自分が手を動かした方が早い。説明している間にも、待たせた時間が増える。
その繰り返しで、彼女のいない朝には食事まで止まった。
必要とされていたことは、嬉しかった。
必要とされ続けなければ居場所がないことは、苦しかった。
今度は、その二つを同じものにしない。
「王宮への復職は、お受けしません」
エドガーの唇が強く結ばれた。
リディアは提案書を、鍵の隣へ置いた。
「代わりに、王家の会計を動かす仕組みをお作りします。期限を決め、担当者へ渡す契約として」
◇
ベルナールは一枚目を読み、眉を寄せた。
「三十日間。作業時間の上限は四十時間。報酬は千リール……帳簿を整えるだけで、ですか」
「帳簿の清書ではありません」
リディアは空の見本帳票を開いた。
左に、支払いの理由。
その隣に、受け取った物と確認した人。
次に、支払いを決める人。
最後に、実際に支払った日と、その記録の場所。
「請求書を受け取った人が、支払いを許したことにはなりません。許した人が、自分で品物を確かめたことにもなりません。別々の仕事を、別々に記します」
ベルナールが包みの紐へ指をかけた。
「では、早速これを――」
「契約前ですので、未処理の実物はお預かりできません」
彼の手が止まった。
リディアにも、紐をほどきたい気持ちはあった。
角から見える請求書に、赤い催促印が押されている。困っている誰かが、確かにいる。
けれど、今日ここで一束受け取れば、明日にはもう一束増える。
「仕組みの説明には、仮の伝票を使います」
彼女は〈見本・支払い不可〉と大きく書いた紙を三枚並べた。
台所用の薪、二十束。
納品時に十八束を受け取り、残り二束は翌日届ける予定。
一枚は納品書。もう一枚は二十束分の請求書。最後の一枚は、翌日届く二束に添えられる受領票だった。
「こちらは、同じ注文の続きです」
リディアは三枚の端へ、同じ番号を書いた。
「紙が三枚あるからといって、三回買ったわけではありません」
「それくらいは分かります」
ベルナールが言った。
「では、受領票だけが別の日に、別の係へ回った場合は」
リディアは最後の一枚を裏返し、彼の前へ滑らせた。
注文の控えを探さなければ、どの二束なのか分からない。
ベルナールは黙って紙を戻した。
「番号を照合し、未着の二束が届いたと記す。新しい支払予定は増やしません。ただし、この注文が一括払いなのか、分納のたびに払う契約なのかは、注文書で確かめます」
「番号を振れば済むのではないか」
エドガーが言う。
「振る人が休んだ翌日にも、同じやり方で振れるようにします。誰が控えを保管し、誰が代わりに確認するかも決めます」
リディアは二枚目の提案書を開いた。
期限順の支払一覧。
未払いと支払い済みを区別した債務の記録。
部署が閉じたとき、残務を受け取った部署が署名する引継書。
「箱を文書庫へ運んだだけでは、引継ぎを終えたことにしません。次の支払日を、受け取った側の一覧へ写したところまで確認します」
ベルナールの指が、そこで止まった。
公国への借金が、まさにその途中で見えなくなっていた。
「わたくしの記憶を、王家の記録の代わりにしないでいただきたいのです」
言ってから、リディアは言い直した。
「わたくしだけでなく、誰の記憶も」
ベルナールは顔を上げた。
「担当の書記官を二人つけます。一人が休んでも、もう一人が確認できるように」
「通常の仕事をそのまま残して、二人分の担当を増やすことはできません。教育に充てる時間を確保してください」
「承知しました。既存業務の割り振りも提出します」
初めて、具体的な返事があった。
◇
千リールは、五百、二百五十、二百五十に分けて支払う提案だった。
着手前に五百。
試験運用を確認した時点で二百五十。
担当者への引渡しを終えて、残る二百五十。
足せば千になる。
だが足した数字が正しいだけでは、契約は結べない。
「最初の五百は、どこから出しますか」
リディアは尋ねた。
エドガーがベルナールを見た。
ベルナールはすぐに答えなかった。
以前なら、財務室で用意すると言ったかもしれない。
「他の支払いに充てていない財源を確認します。現時点では、確保したとは申し上げられません」
「では、開始日はまだ決められませんね」
「月末まで十一日しかない」
エドガーの声が強くなった。
「三十日では間に合わないだろう」
「三十日は制度を引き渡すまでの期間です。月末の支払いを三十日後へ動かせるという意味ではありません」
リディアは最初の作業を示した。
契約と着手金、閲覧許可が揃ってから二営業日以内に、月末までの支払予定と利用可能な資金を照合する。
見つからない書類は、見つかったことにしない。
不明な金額は、不明のまま別に載せる。
「その一覧で、何を払えるかを判断していただきます。公国への分割を求める場合も、承認された交渉担当者が申し入れる必要があります」
「君が交渉すれば早い」
「わたくしは、公国の商務事務所とも契約しております」
リディアはエドガーを見た。
「双方の資料を無断で混ぜず、王家の支払いを決める代理人にもなりません。それを条件に、この仕事を提案しています」
クロードから届いた通知の数字は、王宮側にも正式に共有されている。だから八万六千四百リールは、この席で扱える。
けれど彼との相談で知ったことを、何でも持ち込めるわけではなかった。
「王家の未公表資料を公国へ渡す場合は、別途書面で許可をいただきます。逆も同じです」
「それでは、遠回りにならないか」
「誰のために集めた記録なのかを曖昧にすると、次から誰も正しいことを話してくれなくなります」
エドガーは提案書を読み直した。
リディアが心配しているのは、帳簿の扱いだけではない。
彼がそれに気づいたのかどうかは、分からなかった。
「千リール払えば、足りない金は作れるのか」
しばらくして、彼は尋ねた。
「いいえ」
答える声は、自分でも驚くほど静かだった。
「払える額と、払えない額を、見誤らないようにします。やめられる支出と、やめれば別の損害が出る支出を分けます。何を諦めるかは、殿下方に決めていただきます」
「奇跡ではないのだな」
「初めから、奇跡ではありませんでした」
八年間、帳簿の端に書いた小さな注記を思い出した。
こちらを先に払う。こちらは承諾を得て待ってもらう。明日までに返事がなければ、別の納入先へ連絡する。
数字を並べるより、頭を下げる時間の方が長い日もあった。
エドガーは鍵を拾い上げた。
「私は、君が帳簿を開けば、済むものだと思っていた」
「開く前に、誰かが返事をしてくださらなければ済まないこともありました」
鍵が、彼の手の中へ隠れた。
「それを私へ言っていたのだな」
リディアは頷いた。
今さら気づいてもらえたことが、嬉しいのか、遅すぎて悲しいのか。
今日は、どちらか一つに決めなくてもよかった。
◇
「最後の支払いは、何をもって引渡し完了とするのですか」
ベルナールが尋ねた。
リディアは最後の頁を示した。
「担当者が見本の伝票を受け取り、承認を求め、支払一覧へ載せるところまで、わたくしの助言なしで進めます。途中で止まれば、どこで止まったかを確かめ、手順を直して再試験します」
「実物で試すのでは?」
「試験で国庫から誤払いはできません。見本で確かめた後、実際の一件を、権限のある方の監督下で処理していただきます」
「君がいない日の試験か」
エドガーが呟いた。
「はい」
リディアは、ここで初めて少し笑った。
「わたくしがいなくても動いたら、成功です」
エドガーは笑わなかった。
けれど、やめろとも言わなかった。
ベルナールが閲覧の対象を指で数えた。
一般会計。旧災害復旧勘定。王太子府の未処理支出。
「財務室の分は準備できます。しかし国王秘書室の書類は、私の判断では出せません」
「ですから、閲覧許可を契約の条件へ入れました」
リディアは空の署名欄を見た。
契約の依頼主は王家。
国王の承認を受けた責任者が、資料の提供と支出判断を引き受ける。
書類を渡さず、結果だけを要求することはできない。
「私が陛下へ持っていく」
エドガーが言った。
「予算の見直しも必要です」
「分かっている」
リディアはその返事だけでは頁を閉じなかった。
彼は少し考え、言葉を足した。
「決裁を求める支出削減案と、契約の財源を一緒に出す。削減すれば、誰に説明しなければならないかも」
「それを、殿下のお名前で」
彼の顔が硬くなった。
これまで、晩餐会が縮めば財務室が渋ったと言えた。納入が遅れれば、会計が処理しないと言えた。
自分の署名で止めれば、不満は自分へ来る。
「……私の名前で」
エドガーは答えた。
署名は、まだなかった。
合意したのは、条件を正式に審議へ上げることだけだ。
それでもリディアは、書類を受け取る彼の手を見届けた。
八年前、転びかけた自分を支えた手だった。
あの一度の優しさを、嘘にする必要はない。
だからといって、もう一度その手へ人生を預ける必要もなかった。
◇
事務所へ戻ると、クロードが階段の下で待っていた。
「迎えの馬車へ行こうか迷った」
「お待ちいただけて助かりました」
「どうだった」
「復職は断りました。制度を作る契約は、正式承認待ちです」
クロードの肩が、わずかに下がった。
「君が戻るのを恐れていた、と言えば、困らせるだろうか」
リディアは立ち止まった。
「決める前に止められたら、困りました」
「今なら?」
「少し、嬉しいです」
口にしてから、頬が温かくなった。
クロードはそれ以上聞かなかった。二人で階段を上がると、机には湯気の消えかけた茶があった。
「冷めてしまったな」
「すぐ飲めます」
リディアはカップへ手を添えた。
仕事が決まらなければ、千リールは入らない。
決まれば、四十時間を今ある仕事と両立させなければならない。
彼女は予定表を開いた。王家の契約が成立した場合も、公国事務所の既存契約を勝手に後回しにはできない。
着手可能な日と、確保できる時間を書き出す。
「こちらの納品予定は変えません。もし調整が必要になれば、先に相談いたします」
「私も、急ぐという理由で君の空き時間を決めない」
クロードは向かいへ座った。
「今日は、昼食を取れたか」
その質問で、リディアは初めて空腹に気づいた。
答える前に、お腹が小さく鳴った。
彼は笑わず、階下へ温かいものを頼みに行った。
リディアは予定表を閉じた。
食事の間まで、帳簿を開いている必要はない。
その夕刻、王宮から返事が届いた。
翌朝、国王臨席の場で契約案と支出削減案を審議する。
エドガーの名で出された通知だった。
ただし、添えられた文には、もう一つ条件があった。
〈国王秘書室保管分の開示には、国王陛下の署名を要する〉
リディアは通知を伏せずに、机へ置いた。
明日必要なのは、彼女がいくつ数字を合わせられるかではない。
その数字を、自分の責任で見ると決める人の署名だった。




