20話 わたくしの帳簿
小さな帳簿の一行目に、何を書くか。
それが決まらないまま、朝食のパンが半分になった。
事務所の窓の下を、荷を積んだ舟が通り過ぎていく。運河の水面で跳ねた光が、食卓に置いた深緑の指輪を照らした。
昨夜いただいたものだ。
婚姻の手続きも、契約書の確認も、これから。けれど、あの人と生きたいと答えたことだけは、もう取り消すつもりがなかった。
「購入した日と金額からでは、いけませんか」
向かいに座ったクロード様が、帳簿をのぞき込む。
「それでしたら、昨日のうちに書けました」
「なるほど。難しい注文だ」
彼は笑って、わたくしの皿へジャムを寄せた。
以前なら、食べながらでも仕事の説明を始めていただろう。わたくしも、聞きながら収支を整えていたと思う。
今朝、食卓に仕事の書類はない。
朝食が済むまでは持ち込まないと、二人で決めたからだ。
「では、今日したいことは」
「父にご報告を。そのあと、近くの店でお茶を買いたいです」
「私も一緒に?」
「ええ。お嫌でなければ」
「その条件は、不要です」
おかしくなって、筆を取った。
日付の隣に、父に会う、と記す。
その下には、お茶を選ぶ、と。
「金額がありませんね」
「帰ってから書きます。まだ買っていませんもの」
買う前から、欲しいものを諦めるための帳簿にはしたくなかった。
父は、昼前に訪れたわたくしたちを、しばらく黙って見つめていた。
指輪を見たあとで、クロード様の顔を見た。そのあと、わたくしを見る。
「リディア。お前が決めたのだな」
「はい」
八年の婚約を解かれたときには、こんなにまっすぐ顔を上げられなかった。
父に申し訳なかった。期待に応えられなかったのだと思っていた。
けれど父は、わたくしを責めなかった。
今日も、相手の爵位や財産より先に、わたくしの気持ちを聞いてくれた。
「仕事は続けます。事務所も、わたくしの責任で」
「うむ」
「だからといって、一人で何もかも抱えるつもりはありません」
そこで、父の口元がほころんだ。
「そこまで聞ければ、十分だ」
クロード様が居住地や手続きについて説明を始めると、父は手を上げた。
「その話も聞こう。ただ、その前に」
父は席を立ち、わたくしの肩に両手を置いた。
「おめでとう、リディア」
喉が詰まった。
うまく返事ができず、うなずく。
父は、幼いころと同じように背を撫でてくれた。
母にも、聞いてほしかった。
そう思った瞬間、涙が落ちた。悲しいだけではない涙を、父の前で流せたことが、少し嬉しかった。
*
婚姻の書類が整うまでには、ひと月以上かかった。
二つの国では、財産の名義も、相続の手続きも、同じではない。わたくしたちはそれぞれ専門家に相談し、分からない条文に印をつけて持ち寄った。
クロード様が用意した契約だからといって、そのまま署名はしなかった。
わたくしが計算した数字だからといって、彼が黙って受け入れることもなかった。
「こちらの滞在費は、私が負担します」
「仕事のための滞在と、二人で過ごすための滞在を分けませんか」
「……確かに。今、まとめました」
そうやって、一つずつ直した。
署名の日、専門家から最後に確かめられたのは、互いの借入れの保証人になる条項が含まれていないことだった。
「助けたいときまで、助けられないという意味ではありませんね」
わたくしが尋ねると、必要なときに、金額と条件を改めて相談できるのだと説明された。
隣のクロード様もうなずいた。
生涯を共にすることと、知らない負債まで引き受けることは違う。その違いを話せる相手を、わたくしは選んだのだ。
仕事で使う名前は、リディア・アーヴェルのままにした。婚姻後の公的な届け出については両国の担当者に確認し、どの書類を出せば本人だと証明できるかも、受付の手順に加えた。
名が変わることより、名義の違いを理由に仕事を止められる方が困る。
そして、結婚の準備をしている間にも、王都の事務所には依頼が来た。
ある午後、エステルさんが小さな包みを持って現れた。
中から出てきたのは、底の厚い硝子のインク入れだった。
「お祝いよ。値札は入れてないから、そこまで探さないでね」
「まだ探しておりません」
「顔に書いてあったわ」
窓にかざすと、硝子の中に小さな泡が見えた。
傷ではない。形が歪まないよう、熱い硝子を整えた職人の手が、この厚みを作ったのだという。
「今度は納品書も一緒に見るようになったの。帳簿だけなら合っているのに、物が足りないこともあるでしょう」
「はい。数字だけでは分からないことがあります」
神から授かった【数学者】の力で、間違った足し算はすぐに見つけられる。
けれど、届けられていない品物を、受け取ったと書いた紙の上だけで見破れるわけではない。
わたくしが強くなれたのは、誰にも頼らなくなったからではなかった。
現場を知る人に尋ね、証拠を残す人を守り、分からないことを分からないと言えるようになったからだ。
エステルさんが帰るころ、受付から相談の声がした。
若い職人が、今月中の確認を求めている。けれど、担当者の予定は埋まっていた。
わたくしが席を立ちかけると、受付の女性がこちらを見た。
「所長。急ぎの理由を伺ってから、空いている時間をお伝えしてもよろしいですか」
立ち止まった。
以前のわたくしなら、夜に読めば間に合う、と言っただろう。
「お願いします。期日に間に合わない場合は、ほかの相談先もご案内してください」
受付の女性はうなずき、職人のところへ戻った。
わたくしの手を離れたところで、仕事が進んでいく。
少し落ち着かなかった。けれど、その落ち着かなさを理由に、また奪い返してはいけない。
机に座り直すと、インク入れの硝子が、こつりと小さく鳴った。
*
王家からは、決められた書式で進捗の報告が届いた。
未払いは、まだ残っている。
支払ったもの、期日を変更したもの、相手の確認を待っているもの。それぞれに担当者の名前があり、遅れた理由も記されていた。
以前のように、赤字の欄を空白にして、わたくしに渡してくる報告ではなかった。
ただし、その数字を見て安心できるかどうかは、別のことだ。
未確認の金額を、返済済みとして扱うわけにはいかない。返還を命じた金銭も、入金を確認するまでは未回収のまま残す。
王家の帳簿が、わたくしの機嫌で綺麗になることはない。
公開の場で決まった王太子の財務権限の制限も、新しい娯楽費を認めない措置も、続いていた。
エドガー殿下の署名の横には、今は必ず、確認した担当者の署名がある。
ある報告に、短い手紙が添えられていた。
『君ならどれほどの時間で終えただろうと考え、その考えをやめた。今、担当している者が確かめるために必要な時間を取ることにした』
読み終えて、封筒に戻した。
これで何もかも許せる、とは思わなかった。
仕事を奪われ、責任だけを押しつけられた人たちにとっても、それは同じだろう。
けれど、変わろうとする人の一歩まで、なかったことにする必要もない。
昔、つまずきかけたわたくしを支えてくれた手。その一度の優しさは、本当にあった。
あったからこそ、待ち続けた。
もう、待たなくていい。
手紙は私信の箱へ入れ、報告書は事務所の受領簿に記した。わたくし宛てに届いたからといって、王家の仕事を無償で引き受け直すことはしなかった。
ミレーユ様からの便りには、アンナさんと一緒に衣装の受領記録を確かめたことが書かれていた。
分からないまま署名を求められ、断ったことも。
『聞くことは、恥ではないのですね』
その一文に、わたくしは、はい、と小さく答えた。
名を使った虚偽の連絡や、差出人の分からない手紙についての調査は、すべて終わったわけではない。
事務所では受付を通す決まりも、必要なときに護衛を頼む決まりも残した。調査が続いていることと、毎日を恐れて暮らすことは、同じではない。
窓を開ける。
通りから焼いた菓子の匂いがした。
今日は、自分で買いに行こうと思った。
*
季節が変わるころ、公国側にも相談を受ける小さな事務所を開いた。
最初から立派な建物を借りたわけではない。
商会の建物の一室に机を置き、現地の実務を知る人を雇った。担当する仕事、報酬、休みを先に決め、受けられる件数を計算してから、看板を出した。
クロード様の屋敷の一角を、無償で借りる案もあった。
便利だと思った。家賃も節約できる。
けれど、彼の許可がなければ入れない場所では、彼と利害の違う人が相談しにくい。
そう説明すると、クロード様は、少し残念そうに笑った。
「昼食に誘いやすくなると思ったのですが」
「お誘いは、別の建物からでもできます」
「断られることも?」
「仕事中でしたら」
「では、早めに約束しておきます」
その日の昼食の約束は、すぐに決まった。
二つの事務所の間を、わたくしが毎日往復することはできない。
書面を送る日を決め、現地の担当者が判断できる範囲を決めた。難しい案件は待ってもらう。待てない依頼を、安請け合いはしない。
最初の月、公国の事務所は黒字にならなかった。
机と棚を買い、人を雇えば、開いたばかりの窓口に必要な支出が先に来る。予定していた範囲ではあったけれど、赤い数字は、やはり気になった。
夕食のあと、何度もその頁を開いていると、クロード様が隣に座った。
「今夜中に、何か変わりますか」
「……計算は変わりません」
「それなら、明日の担当者の報告を待っては」
彼自身にも言い聞かせるような口調だった。
わたくしは帳簿を閉じた。
赤字を見ないのではない。見たうえで、決めた計画が守られているかを、次の報告で確かめる。
人に待てと言う方が、自分で待つより簡単なのだと知った。
結婚式は、その翌月に挙げた。
招く人数は、二人で決めた。借金をしてまで大きな式にしようとは思わなかったし、誰にも祝わせないほど小さくする必要もなかった。
父が隣を歩いてくれる。
友人たちの顔が見える。
クロード様が、わたくしに手を差し出した。
転ばないよう支えてもらうためだけではない。
自分で進んだ先で、つなぐための手だった。
指を重ねると、少し冷えていた。
「緊張していらっしゃるのですか」
小声で尋ねると、彼も小声で答えた。
「ええ。とても」
「わたくしもです」
それを聞いて、彼の肩が少し下がった。
どちらかが、いつも平気なふりをする必要はない。
誓いの言葉を口にするとき、わたくしは、扇の親骨をなぞらなかった。
片方の手に花を持ち、もう片方を彼に預けていたからだ。
*
さらに数か月が過ぎた、王都の夕方。
事務所の戸締まりをしていると、厨房勤めのマルタさんが通りかかった。
今日は、弟さんも一緒だった。
「お薬をもらった帰りなんです」
弟さんは姉の手を握ったまま、わたくしに会釈した。元気になったからといって、薬がすぐ不要になるわけではないのだという。
「お給金は、予定どおりに?」
「はい。この前は確認の紙も渡されました。違っていたら、どこへ言えばいいかも書いてあって」
よかった、と言いかけて、胸が熱くなった。
それは、本来、当たり前でなければならないことだった。
働いた人が、決めた日に報酬を受け取る。
病気の家族の薬を買い、夕食の支度をする。
その当たり前に、少しずつ戻っている。
「今夜は煮込みなんです。冷める前に帰りますね」
二人を見送ると、運河の向こうからクロードが歩いてきた。
人前での呼び方には、まだ迷うことがある。けれど二人きりのとき、わたくしはもう、名前のあとに距離を置かなくなった。
「遅くなりました」
「お仕事が?」
「途中まで。残りは明朝、担当者と確認します」
抱えていた書類を、今日は鞄から出さなかった。
わたくしも事務所の鍵をしまう。
帰ってから、小さな帳簿を開いた。
最初の頁には、父に会う、お茶を選ぶ、と書いてある。
次の頁には式の相談。借りた部屋の寸法。雨で散歩をやめた日。二人とも仕事を持ち込んでしまい、冷めた夕食を温め直した日。
事務所の会計は、別の帳簿にある。
この本には、数字にならないことも残すようになった。
母が教えてくれたのは、数字の向こうを見ることだった。
幼いころ、外れだと笑われた力を、母は人の暮らしを守るために使わせてくれた。
今なら、分かる。
その暮らしの中に、わたくしの暮らしも入れてよかったのだ。
「何を書いているのですか」
クロードが湯気の立つカップを置いた。
「今日、嬉しかったことです」
「私のこともありますか」
「あります。でも、まだ内緒です」
彼は少し考えてから、椅子を寄せた。
「では、明日の希望を。夕方、あなたと歩きたい」
わたくしは翌日の欄に、その約束を書き加えた。
誰かの赤字を、黙って背負うためではない。
欲しい未来を、自分で選ぶために。
帳簿を閉じ、差し出されたカップを受け取る。
「喜んで。わたくしも、あなたと歩きたいです」




