第九話 見栄という名の鎧
小田急線経堂駅から農大通りを歩いて五分。細い路地を曲がった先に、えんじの暖簾がかかった居酒屋が一軒。
カウンター七席に、四人掛けのテーブルが二つ。親父が一人で切り盛りする、こぢんまりとした店だ。
メニューはない。その日仕入れた新鮮な魚や旬の野菜を、親父が気の向くままに料理する。
親父は無愛想で、客の話にも気のない返事をするばかり。
それなのに、不思議と客たちは悩みを打ち明ける。
親父は答えを出さない。ただ料理を作り、酒を注ぐだけだ。
それでも、店を出る頃には、なぜか少しだけ前を向いている。
多分偶然なのだろう。
だが、偶然も重なれば必然となる。
口さがない常連客たちは、この店を「門出屋」と呼ぶという。
その店の名は「居酒屋ユージ」。
今夜も静かに営業中。
◇
その男が店に現れたのは、午後八時を少し回った頃だった。
仕立てのよい濃紺のスーツに、磨き上げられた革靴。左手首には、いかにも高そうな腕時計が光っている。
年の頃は五十代半ばだろうか。
「よう、大将。久しぶりだな。まだ潰れてなかったんだな」
「何だ? 嫌味言いに来たなら帰れや」
「すまんすまん、ついな」
「まあいい。そこに座んな」
「ああ、ありがとう」
男は慣れた様子でカウンターの端に腰を下ろした。
この男、経堂界隈ではちょっとした有名人だった。
飲食店を中心に、いくつもの事業を手がける経営者である。羽振りがよく、夜の街でも顔が広い。
部下や取引先を引き連れ、あちこちの店で気前よく酒を振る舞っているらしい。
だが、今夜は一人だった。
「とりあえず、ビールでももらおうか」
「瓶でいいな」
「ああ」
ユージは冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、グラスとともに差し出した。
男は自分でグラスに注ぐと、一気に半分ほど飲み干した。
「ふうっ」
大きく息を吐く。
「疲れてるみてえだな」
「まあな。経営者なんて、そんなもんさ」
「そうかい」
ユージはそれ以上聞かなかった。
しばらくして、男の前に小鉢が置かれた。
ほうれん草とシメジのお浸しだった。出汁がよく染みている。
「お、いいねえ」
箸を伸ばし、一口食べる。
「こういうのが、最近は妙に美味いんだよな」
「歳じゃねえか?」
「ははっ。違いねえ」
男は笑った。
だが、その笑いには、いつもの勢いがなかった。
「……なあ、大将」
「なんだい」
「人間、何のために働いてるんだろうな」
「さあな。人それぞれじゃねえか?」
「そりゃそうなんだけどよ」
男はグラスを持ち上げた。
「昔はさ、仕事が面白くて仕方なかったんだ」
「今は違うのかい?」
「それが今じゃ、店も増えたし、従業員も大勢いる。金だって、昔とは比べものにならねえ」
「結構なことじゃねえか」
「そうなんだよ。結構なことのはずなんだ」
男は苦笑した。
「昔は夜遊びだって楽しかったんだぜ。いい酒飲んで、綺麗な女にちやほやされて。成功したって実感があった」
グラスに残ったビールを見つめる。
「でもなあ。最近、何やってても楽しくねえんだ」
ユージは返事をせず、鍋に火をかけた。
「実際、商売の方もな。最近はあんまり芳しくねえんだ」
男は声を落とした。
「人件費も材料費も上がる一方だ。売上はそう簡単に増えねえ。店が増えりゃ、問題だって増える。毎日、金のことばっかり考えてるよ」
「そうかい」
「おまけに、最近は身体までおかしくなってきやがった。寝ても疲れが取れねえし、胃も重い」
「そりゃ、少し休んだ方がいいんじゃねえか?」
「簡単に言ってくれるぜ」
男は肩をすくめた。
「休めるもんなら、とっくに休んでるよ」
ユージは鍋の中身をゆっくりとかき混ぜた。
やがて、湯気の立つ器が男の前に置かれた。
「なんだ、これ?」
「鶏のつくねだ。蓮根を入れてある」
器には、ふっくらとした鶏つくねが三つ。
細かく刻んだ蓮根が混ぜ込まれ、生姜の香りが立つ、とろりとしたあんに包まれている。
赤いクコの実と、柔らかく煮たナツメが添えられていた。
「今日はずいぶん変わったもの出すじゃないか」
「つべこべ言わずに食ってみな」
男は匙を取り、まずはスープを一口啜った。
食道から胃にかけて、温かくも柔らかいスープが流れて行く。気付かないうちに、体が冷え切っていたのだろうか。
「……美味いな」
もう一口啜る。
生姜の香りが鼻に抜け、ほんのりとした甘みが口に残った。
続いて、つくねを一つ口に運ぶ。
柔らかな鶏肉の中で、蓮根が小気味よい歯触りを立てた。
「こりゃいい。何だか身体が温まってきたよ」
「鶏肉、蓮根、生姜、ナツメ、クコの実。どれも薬膳で使われる食材だ。生姜を利かせて、身体が温まるようにしてある」
「へえ。大将、そんなことまで考えてるのか」
「あんた、鏡見た方がいいぜ」
「……そんなにひどい顔してるか?」
「まあな」
ユージはそれだけ言うと、再び調理場へ戻った。
男はしばらく無言で食べ続けた。
いつもなら、この時間には次の店へ向かっている。
馴染みのクラブでは、きっと今夜も誰かが自分を待っているだろう。
だが、今日はどうにも、その気になれなかった。
「……なあ、大将」
「なんだい」
「俺、最近は飲みに行くのも嫌になってきてるんだよ」
「じゃあ、行かなきゃいいじゃねえか」
「そういうわけにもいかねえんだよ」
「なんでだ?」
「付き合いってもんがあるだろ。それに、急に顔を出さなくなったら、何を言われるか分かったもんじゃねえ」
「そんなに辛けりゃやめりゃいいじゃ無いか」
「簡単に言ってくれるじゃないか。お前と芝刈りして遊んでた時とは訳が違うんだぜ」
男は吐き捨てるように言った。
「あんたの店は違うかもしれんけどな、この世界は評判が全てなんだ」
そして、声を潜めた。
「通ってた店に行かなくなっただけで、銀行が飛んで来るんだぜ」
「へえ。そんなもんかい」
「そんなもんなんだよ」
男は苦々しげに笑った。
「羽振りが悪くなったなんて噂が立ってみろ。取引先だって警戒するし、銀行だって黙っちゃいねえ。だから、こっちは苦しくても、苦しい顔なんかできねえんだ」
ユージは腕を組んだ。
「まあ、俺みたいなちっぽけな居酒屋の親父には、一生縁のない世界だな」
「そりゃそうだろうよ」
男は少しむっとした顔をした。
しかし、ユージは気にする様子もなかった。
「で、あんたさ」
「なんだよ」
「自分はどうしたいんだい?」
「……は?」
「何が大切なんだい?」
男は答えられなかった。
何が大切か。
そんなこと、いつから考えなくなったのだろう。
会社を立ち上げた時のことを思い出した。
最初は苦しかった。
人を雇う余裕もなく、一人で切り盛りしていた。
日々の売上に一喜一憂して、上手くいったら妻と二人で祝杯をあげた。
あの頃は、安い缶ビール一本でも十分に美味かった。
妻はいつも笑っていた。
売上がよかった日は、まるで自分のことのように喜んでくれた。
店を増やした時も、初めて従業員を雇った時も、妻は一緒に喜んでくれた。
それがいつの間にか、妻と話す時間さえなくなっていた。
帰宅するのはいつも深夜。
朝は慌ただしく家を出る。
たまの休日も、ゴルフだ何だと付き合いに出かけてしまう。
最後に妻とゆっくり食事をしたのは、いつだっただろう。
「良くわかんねーけどよ」
ユージの声に、男は顔を上げた。
「あんたが思うほど、周りはあんたのこと気にしてねえかもしれねえぜ」
「……そうかねえ」
「さあな」
ユージは肩をすくめた。
男はしばらく黙っていた。
そして、ふっと笑った。
「大将、あんた変わってるな」
「よく言われる」
「ははっ。そうだろうな」
男は残っていたつくねを口に運んだ。
ゆっくりと噛み締める。
不思議なことに、さっきまで重苦しかった気分が、少しだけ軽くなっていた。
「……そういや、税理士にも散々言われてたっけな」
「何をだ?」
「交際費が多すぎるとか、経費を見直せとか、資金繰りをもっとちゃんと考えろとかさ」
「そりゃ、もっともな話じゃねえか」
「分かってるよ」
男は苦笑した。
「分かってるから、余計に腹が立つんだよな」
ユージは何も言わなかった。
「面倒なことばっかり言って来るのですっかり疎遠にしてた税理士と、久しぶりに腹割って話してみるか」
「そうかい」
「耳の痛い話ばっかりだろうけどな」
男は笑った。
今度の笑いは、少しだけ明るかった。
時計を見ると、午後十時半になろうとしていた。
「おっと。もうこんな時間か」
男は財布を取り出した。
「今日は帰るよ」
「毎度」
男は立ち上がり、上着を羽織った。
そして、ふと思い出したように言った。
「それと、そうだな。たまにはあいつに土産でも買って帰ってやるか」
「もう菓子屋なんか閉まってるぞ」
「そうか。そうだよな……」
「明日買ってやりゃいいじゃねえか」
男は少し考えた。
「……そうだな。明日は寄り道せずに帰るか」
ユージは小さく頷いた。
「ごちそうさん。美味かったよ」
「あいよ」
男は店を出ていった。
ガラガラと引き戸が閉まる。
ユージは空になった器を下げ、洗い物を始めた。
今夜はもう客も来ないだろう。
カウンターを拭き、床を掃き、調理場を片づける。
時計の針は、午後十一時を指していた。
「さてと」
ユージは店の明かりを少し落とし、暖簾をしまおうと表に出た。
すると、店の前に人影があった。
大きな荷物を抱えた女が一人、寒そうに立っている。
「……おい」
「あら、大将。やっと終わったの?」
見覚えのある顔だった。
いつも仕事の愚痴をこぼしながら酒を飲んでいく、あの女課長である。
「何やってんだ、こんなところで」
「見れば分かるでしょ。待ってたのよ」
「……その荷物は何だ?」
「いろいろあって、会社を辞めたのよ」
「えらく急だな」
「住んでたアパートも、社宅扱いだったから引き払って来た」
「それでその大荷物か?」
ユージは女の傍らに置かれた大きなキャリーケースと、足元のボストンバッグを見た。
「あっ、残りは送ったから、明日届くわ」
「……は?」
「で、何よ?」
「いや、だから、どこに行くんだ?」
「何言ってるの! こんな時間から行けるとこある訳無いじゃない!」
「……は?」
「しばらく大将のところでお世話になりに来たに決まってるじゃない」
「いや、お世話になるって、お前なあ……」
「うぅっ、寒い」
女は大げさに肩をすくめた。
「待ってる間にすっかり冷えちゃったわよ。ホント気が利かないわね」
「おいおい……」
「これ以上レディをこんな寒空の下に立たせたままにしておくつもり?」
「はぁ……」
ユージは大きくため息をついた。
「まあ、とにかく中に入れ。残り物しかねえぞ」
「うん! ありがと! お腹ぺこぺこなの!」
女は満面の笑みを浮かべた。
ユージはもう一度ため息をつくと、女の荷物を抱え、店の中へと入っていった。
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いつも居酒屋ユージをご愛顧いただき、ありがとうございます。
さて、連作短編集としてスタートした本作も、いよいよ次回最終回を迎えます。
無愛想な親父と、気のおけない常連客たちのお話、是非最後までお付き合いください!
よろしくお願いしますm(__)m
なお、気に入った、や、続きが読みたい、など思って頂けましたら、ブクマや評価、感想など、何でも良いのでリアクション宜しくお願いします!




