第七話 ステップアップ
小田急線経堂駅から農大通りを歩いて五分。細い路地を曲がった先に、えんじの暖簾がかかった居酒屋が一軒。
カウンター七席に、四人掛けのテーブルが二つ。親父が一人で切り盛りする、こぢんまりとした店だ。
メニューはない。その日仕入れた新鮮な魚や旬の野菜を、親父が気の向くままに料理する。
親父は無愛想で、客の話にも気のない返事をするばかり。
それなのに、不思議と客たちは悩みを打ち明ける。
親父は答えを出さない。ただ料理を作り、酒を注ぐだけだ。
それでも、店を出る頃には、なぜか少しだけ前を向いている。
多分偶然なのだろう。
だが、偶然も重なれば必然となる。
口さがない常連客たちは、この店を「門出屋」と呼ぶという。
その店の名は「居酒屋ユージ」。
今夜も静かに営業中。
◇
引戸がガラガラと開いた。
「いらっしゃい」
入ってきたのは、三十歳前後の女性だった。
紺色のブルゾンに黒いパンツ。手には小さなトートバッグだけ。
背筋は伸びているのに、どこか疲れた様子だった。
「一人なんですけど、いいですか?」
「ああ。好きなとこ座んな」
女性は苦笑しながら、カウンターの端に腰を下ろした。
「はあ、疲れた……ビールください」
「うちは瓶しかねえぞ」
「あ、はい。それでお願いします」
親父は冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、グラスと一緒に置いた。
女性は自分でビールを注ぐと、一気に半分ほど飲んだ。
「……美味しい」
「そりゃよかった」
「一息ついたらお腹空いちゃった。メニューありますか?」
「ねえよ」
「え?」
「今日あるもんで、適当に作る。それでよけりゃ出すよ」
「お任せってことですか?」
「まあ、そんなとこだ」
「じゃあ、お願いします。お腹ぺこぺこ」
「あいよ」
親父は冷蔵庫から一尾のアジを取り出した。
丸々と太った、銀色に輝くアジだった。
「わあ、立派なアジですね」
「今日、いいのが入ったんだ」
親父は手際よく三枚におろし、腹骨をすき取った。血合い骨を抜き、皮を引く。
包丁がまな板を叩く小気味よい音が響いた。
しばらくして、白い小皿が差し出された。
アジの刺身だった。
淡い桃色の身が美しく並べられ、脇には生姜と小ねぎが添えられている。
「まずは刺身だ」
「いただきます」
女性は一切れを醤油につけ、口に運んだ。
「……美味しい!」
「そうかい」
「すごく新鮮ですね。脂も乗ってるし、全然臭みがない」
「瀬付きだからな」
「瀬付き?」
「ああ。アジってのは回遊魚なんだが、中には瀬の周りに居着いてる奴もいるんだ」
「へえ……アジにもいろんな奴がいるんですね」
「まあな。今日のは脂が乗って美味いぞ」
親父は短く答えると、残ったアジの身を刻み始めた。
女性は二切れ目を口に運び、ゆっくりと味わった。
「私、昔はこういうの、あんまり分からなかったなあ」
「何が?」
「素材の良さっていうんですかね。若い頃は、何でも勢いでやってたから」
「ふうん」
親父は包丁を動かし続けた。
◇
「お客さん、スポーツでもやってるのかい?」
親父が何気なく尋ねた。
「分かります?」
「よく日焼けしてるからな」
「ゴルフです」
「へえ」
「一応、プロなんです」
親父の包丁が一瞬止まった。
「プロゴルファー?」
「はい。まあ、全然勝てないんですけど」
「そうかい」
「プロになって十年近くになるのに……ここ数年はなかなか試合にも出られないんです」
「プロになるのも大変なんだろ?」
「そうですね。でも、私の場合は案外すんなりいったんですよ」
「へえ」
「中学生の頃から全国大会に出てて、ジュニアの大会でも何度か優勝したんです。高校を卒業して、プロテストも一発合格」
「そりゃ、たいしたもんじゃねえか」
「でしょう?」
女性は少し得意げに笑った。
「周りからも期待されてたし、自分でも、すぐにツアーで優勝できると思ってたんです」
「ふうん」
「でも、現実は甘くなかったですねえ」
女性はグラスに残ったビールを一口飲んだ。
「レギュラーツアーのシード権も失っちゃって。今はステップ・アップ・ツアーが中心なんですけど、出場できる試合も限られてて」
「そうか」
「賞金だけじゃ食べていけないから、インドアゴルフでレッスンしたり、アマチュアの人とラウンドしたりして、何とか続けてるんです」
「そりゃ大変だな」
「まあ、好きでやってることですから」
女性は笑った。
だが、その笑顔にはどこか疲れが滲んでいた。
「それにしても、最近の若い子って、すごいんですよ」
「何が?」
「飛距離です。私より三十ヤードも四十ヤードも飛ばす子がいるんです」
「ほう」
「同じホールで、向こうはウェッジ。私は七番アイアンなんてこともあって」
「そりゃ大変だ」
「でしょう? だから私も、もっと飛ばさなきゃって」
女性はグラスを持ち上げた。
「筋トレして、スイング改造して、シャフトも替えて……でも、全然うまくいかないんです」
「ふうん」
「今日も試合だったんですけど、予選落ちしちゃって」
「そうか」
「もう、才能がないのかなあ」
親父は何も答えなかった。
まな板の上では、刻まれたアジに味噌、生姜、長ねぎ、大葉が加えられていた。
親父はそれらを包丁で叩き、混ぜ合わせていく。
「ほら、次だ。アジのなめろう」
差し出された小鉢には、大葉の上になめろうが盛りつけられていた。
「これ、さっきのアジですか?」
「そうだよ」
「へえ。なめろうって言うんだ」
女性は箸で少しつまみ、口に運んだ。
「うわっ、美味しい!」
「大げさだな」
「いや、本当に。さっきの刺身と全然違いますね」
「そりゃ、味噌も薬味も入ってるからな」
「刺身も美味しかったけど、こっちもいいですねえ」
「だろ?」
親父は少しだけ口元を緩めた。
「同じアジなのに、こんなに変わるんだ」
「素材が良けりゃ刺身でも美味い。手を加えりゃ、また違う味になる。それだけのことだ」
「なるほど……」
「別に、どっちが上って話でもねえしな」
女性は箸を止めた。
◇
「大将って、ゴルフやったことあります?」
女性が尋ねた。
「昔、付き合いでな」
「へえ! どのくらい?」
「当時のドライバーは、ヘッドが木だったな」
「パーシモン?」
「……ああ、そうだな」
「聞いたことあるけど、実物はあんまり見たことないな」
「そうだろうな」
「スコアは?」
「さあ。百くらいだったかな」
「ふうん。じゃあ、今度教えてあげましょうか?」
「いらねえよ」
「遠慮しなくていいですよ。私、一応プロなんですから」
「若い女の後ろを、おっさんが一日中ついて回るんだろ? 変な目で見られちまう」
「あはは! 確かに!」
「そこは否定しろ!」
女性は声を上げて笑った。
店に入ってから初めて見せる、屈託のない笑顔だった。
「でも、大将。ゴルフって難しいんですよ」
「そりゃそうだろうな」
「特に今は、飛ばないと勝負にならないんです」
「飛ばせる奴は飛ばしゃいいんじゃねえのか?」
「そうですけど……じゃあ、私は何で勝負すればいいの?」
「さあな。それを聞くのは俺にじゃねえ。まあ、強いて言えば、出来ることをやるだけだろ」
「簡単に言いますねえ」
親父は小判形にしたなめろうを大葉で包み、熱したフライパンに並べた。
ジュッ、と香ばしい音が立つ。
「アプローチだって、転がしたっていいし、上げてスピンで止めたっていいだろ?」
「……まあ、そうですけど」
「ラフが深けりゃ打ち込んで、風が強けりゃ低い球打ちゃいいだろうよ」
「スティンガーショットね……。難しいのよね」
「トップしねえように、しっかりフェースに乗せりゃいいんだ」
「……え?」
「なんだよ」
「大将、今、なんて?」
「ああ、スピンコントロールも大事だな。吹き上がらねえようにしないとな」
女性は親父の顔をまじまじと見つめた。
「ってか、大将、ホントにスコア百くらいだったの? 嘘っぽいんだけど」
「何がだよ」
「今の話、百叩く人の話じゃないですよ」
「そうか?」
「そうですよ! ベストスコア、いくつだったんですか?」
「……忘れた」
「絶対嘘!」
「うるせえな。つべこべ言わずに早く食いな。もうすぐ次の料理が出来るぞ」
そう言うと、親父はさんが焼きを裏返した。
大葉の縁が少し色づき、味噌の香ばしい匂いが立ち上った。
「ほら、焼けたぞ」
皿に盛られたさんが焼きから、湯気が立っていた。
女性は箸で一つを割った。
中から、しっとりとしたアジの身が現れる。
「いただきます」
一口食べると、女性の表情が変わった。
「……あ、これも美味しい」
「だろ?」
「なめろうを焼いただけなのに、また全然違う」
「本当はな、少し寝かせてから焼くのも美味いんだよ。味が馴染むからな」
「どのくらい?」
「一晩くらいかな。まあ、生魚だから保存には気を遣うけどな」
「一晩かあ……」
「もっとも、今焼いたって十分美味いだろ?」
「はい!」
「だったら、それでいいじゃねえか」
女性は、もう一口さんが焼きを食べた。
「大将」
「なんだい」
「刺身と、なめろうと、さんが焼き。どれが一番好きですか?」
「そうだなあ……」
親父は少し考えた。
「刺身は刺身で美味えし、なめろうは酒に合う。さんが焼きは飯にも合うしな」
「結局、全部じゃないですか」
「美味えもんに、いちいち順位つける必要もねえだろ」
「……そうですね」
女性は小さく笑った。
そして、残っていたビールを飲み干した。
◇
「大将」
「今度はなんだよ」
「ゴルフ、今もやってるんですか?」
「いや」
「またやればいいのに」
「しつこいな」
「だって、絶対上手いと思うんですもん」
親父はフライパンを洗いながら、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「ゴルフは、とうの昔に辞めたんだ……」
女性は、その横顔を見た。
さっきまでの軽口とは違う、静かな声だった。
「ほら、飯はどうする? まだ腹減ってんだろ」
「あ、はい。食べます!」
「さんが焼き、もう一つ焼いてやろうか?」
「お願いします!」
親父は炊飯器を開け、茶碗に白いご飯をよそった。
湯気の立つご飯に、焼きたてのさんが焼き。
さらに、豆腐とわかめの味噌汁、きゅうりの浅漬けが並んだ。
「うわあ、最高!」
「大げさだっての」
女性はさんが焼きを一口かじり、ご飯を頬張った。
「……本当に美味しい」
「そうかい」
「なんか、元気出てきました」
「そりゃ、腹が減ってたんだろ」
「あはは。そうでした」
女性は笑いながら、もう一口ご飯を食べた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「私、昔からショートゲームは得意だったんですよ」
「ふうん」
「アプローチも、パターも。ジュニアの頃は、それで何度も勝ってたんです」
「そうか」
「でも最近、飛距離のことばっかり考えてたなあ……」
親父は黙って聞いていた。
「飛ばすのが得意な子には、飛ばさせておけばいいのかもしれませんね」
「さあな」
「私は私のゴルフをすればいいんだ」
「そりゃ、あんたが決めることだろ」
「ですよね」
女性は茶碗を持ち上げた。
さっきよりも、ずっと美味しそうにご飯を食べていた。
◇
「ごちそうさまでした!」
女性は空になった茶碗を置いた。
「美味しかったです。本当に」
「そりゃよかった」
「また来てもいいですか?」
「店が開いてりゃな」
「じゃあ、今度勝ったら報告に来ますね」
「勝てなくても来りゃいいだろ」
女性は一瞬きょとんとした。
それから、ふっと笑った。
「……そうですね」
会計を済ませ、席を立とうとしてから言った。
「大将、最後に一つだけ」
「まだ何かあんのか」
「ベストスコア、本当に忘れたんですか?」
「しつこい女だな」
「あはは! じゃあ、また来ます!」
「ちょっと待ちな。おにぎり作ってやるから、持って帰んな」
「えっ、嬉しい! でも、いいんですか?」
「おう。具は梅干しだけだけどな」
「はい! 梅干し大好き!」
親父は炊飯器からご飯をよそい、手早くおにぎりを二つ握った。
海苔を巻いて、アルミホイルで包む。
「ほらよ」
「ありがとう、大将!」
「よせやい」
女性はおにぎりを大切そうにトートバッグにしまい、笑顔で店を後にした。
ガラガラと引戸が閉まった。
親父は空いた皿を片づけながら、小さく息をついた。
「……まったく」
そして、何事もなかったように、次の仕込みを始めた。
◇
それから、数か月が過ぎた。
ある夜、カウンターでは、いつもの常連客たちが軽口を飛ばし合っていた。
「そういや親父、あのお嬢ちゃん、ステップ・アップ・ツアーで優勝したらしいじゃないか!」
「ああ、そういやこないだ報告しに来たな。ほれ」
そう言ってユージが指さした先には、彼女のサイン色紙が丁寧にラップで包まれ、飾られていた。
「へえ! 親父が色紙を飾るなんて珍しいじゃないか」
「うるせえな。せっかくもらったんだから、飾っとかなきゃ悪いだろ」
「ははは。そういうことにしといてやるよ」
「余計なお世話だ」
「しかし、めでたいねえ! 親父、熱燗もう一本!」
「何でも酒の口実にするんじゃねえ」
カウンターに笑い声が広がった。
◇
客が引け、店には静けさが戻っていた。
ユージはいつものように片付けを済ませ、明日の仕込みを始めた。
ふと手を止め、壁に飾られた色紙に目をやる。
「……負けるなよ」
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