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【完結】門出屋の親父  作者: アズマユージ


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6/12

第六話 晩秋

 小田急線経堂駅から農大通りを歩いて五分。細い路地を曲がった先に、えんじの暖簾がかかった居酒屋が一軒。


 カウンター七席に、四人掛けのテーブルが二つ。親父が一人で切り盛りする、こぢんまりとした店だ。


 メニューはない。その日仕入れた新鮮な魚や旬の野菜を、親父が気の向くままに料理する。


 親父は無愛想で、客の話にも気のない返事をするばかり。


 それなのに、不思議と客たちは悩みを打ち明ける。


 親父は答えを出さない。ただ料理を作り、酒を注ぐだけだ。


 それでも、店を出る頃には、なぜか少しだけ前を向いている。


 多分偶然なのだろう。


 だが、偶然も重なれば必然となる。


 口さがない常連客たちは、この店を「門出屋」と呼ぶという。


 その店の名は「居酒屋ユージ」。


 今夜も静かに営業中。


◇


 十一月も半ばを過ぎ、日が落ちると急に冷え込むようになった。


 農大通りを行き交う人々も、いつの間にか厚手の上着を羽織っている。


 そんな晩秋の夕暮れ時。


 居酒屋ユージの引き戸が、ゆっくりと開いた。


「こんばんは」


 顔をのぞかせたのは、七十歳ほどの女性だった。


 その後ろには、杖をついた白髪の男性が立っている。


「おう、いらっしゃい」


 ユージは二人を見ると、一瞬、怪訝そうな顔をした。


「あれっ? 今日は予約なしとは珍しいな」


「おい、お前。予約したって言ってなかったか?」


 夫が妻に顔を向けた。


「あら、そうだったかしら」


 妻は小首をかしげると、ユージに尋ねた。


「大将、席空いてる?」


「ああ。いつもの奥の席なら空いてるぜ」


「ああ、よかった。あなた、気をつけて」


 妻は夫の手を取り、ゆっくりと奥のカウンターへ向かった。


 夫は八十二歳。妻は七十二歳。


 二人は、開店当初からこの店に通っている常連だった。


 もっとも、2、3ヶ月に一度の贅沢として来ているので、いつもは必ず予約を取ってからやって来る。


 以前は、夫が先に店に入り、妻がその後ろをついてきた。


 それが、いつの頃からか逆になった。


 夫は数年前から足腰が弱り、最近では杖が手放せない。


 カウンターの椅子に腰を下ろすのにも、少し時間がかかる。


 ユージは何も言わず、二人が落ち着くのを待った。


「さて、今日は何にする?」


「そうねえ。何か温かいものがいいわね」


「酒は?」


「俺は燗酒を一合もらおうかな」


「私はお茶でいいわ」


「あいよ」


 ユージは湯を沸かしながら、二人の様子をちらりと見た。


 以前の夫は、冷酒を二合ほど平気で飲んでいた。


 妻も一緒に盃を傾け、よく笑っていたものだ。


 最近は一合頼んでも、半分ほど残すようになっていた。


 妻に至っては、酒を飲まない日が増えた。


 長く店をやっていると、客の変化というものは嫌でも目につく。


 もっとも、ユージはそれを口に出したりしない。


「大将、お手洗い借りるわね」


「ああ」


 妻はゆっくりと立ち上がり、店の奥へ歩いていった。


 夫はその後ろ姿を見送ると、盃を置いた。


「なあ、親父さん」


「ん?」


「あいつ、最近ちょっとおかしいんだ」


 ユージは燗酒の徳利を置き、夫の顔を見た。


「今日も予約するの忘れてただろ? それに、同じもんをいくつも買ってきたり、大事な手紙をなくしたり……」


「……」


「この前なんか、醤油が三本も戸棚に入っててな。どうしたんだって聞いたら、買った覚えがないって言うんだよ」


 夫は小さく息をついた。


「一度、病院に行こうって言ったんだが、本人は大丈夫だって言って、行こうとしないんだ」


「そりゃ心配だな」


「ああ……」


 夫は盃に残った酒を見つめた。


「俺の方が十も上だろ?」


「……ああ」


「あいつを一人残していくのは、心配なんだよな」


 ユージは黙っていた。


「息子も娘もいるにはいるんだがな。二人とも家庭を持ってるし、仕事だって忙しい。孫もまだ学校に通ってるし」


「そうか」


「親のことまで背負わせるのも、気の毒でな」


 夫は力なく笑った。


「俺も気付いたらそろそろ平均寿命だしな」


「そうだな」


 それ以上、ユージは何も聞かなかった。


 やがて妻が戻ってきた。


「冷え込んで来たわねえ。でもあなた、寒いからって飲み過ぎはダメよ」


「わかってるよ」


 夫は苦笑した。


 ユージは二人の前に小鉢を置いた。


 ほうれん草と焼いた茸のおひたしだった。


「とりあえず、こいつを食っててくれ」


「あら、美味しそう」


 妻は箸を取り、ひと口食べた。


「相変わらずいいお味ねえ」


「そりゃどうも」


 ユージは冷蔵庫を開けた。


「そうだ。今日はちょっといいもんがあるんだ」


「おや、何だい?」


「クエだよ」


「クエ?」


「ああ。いいのが入ったんで仕入れたんだが、今日は客が少なくてな。どうしようかと思ってたところだ」


 ユージは厚く切った白身魚を二人に見せた。


「よけりゃ食ってくれ。鍋にしてやる」


「クエかあ。そりゃ高いんじゃないのか?」


「残しといても、俺の晩酌の肴になるだけだからな。しかも、一人じゃこんなに食いきれねえ」


 ユージは何でもないことのように言った。


「どんなに高級なもんでも、腐らせちまったら意味がねえ。新鮮なうちに美味しく食ってやるのが一番だ」


 そして、付け加えた。


「食材も、その方が喜ぶはずだ」


「……そういうもんかね」


「そういうもんだ」


「じゃあ、お言葉に甘えようかな」


「あら、楽しみねえ」


「あいよ。ちょっと待ってな」


 ユージは鍋の支度を始めた。


 昆布で引いた出汁を土鍋に張り、クエの骨やアラを加えて旨味を引き出す。


 丁寧にアクをすくい、長ねぎ、白菜、椎茸、豆腐を入れる。


 そして、厚めに切ったクエの身を加えた。


 ほどなくして、カウンターに小ぶりの土鍋が置かれた。


 蓋を取ると、白い湯気がふわりと立ち上った。


 昆布と魚の、上品で豊かな香りが漂う。


 鍋の中では、ふっくらと火の通ったクエの白身が、野菜の間から顔をのぞかせていた。


 皮の周りには、ぷるりとしたゼラチン質がついている。


「まずは、そのまま食ってみな。味が足りなきゃ、ポン酢もあるぜ」


 ユージが二人の器にクエを取り分けた。


 夫は身を少しほぐし、息を吹きかけてから口に運んだ。


 しっとりとした白身には、ほどよい弾力がある。


 噛むほどに濃厚な旨味が広がり、皮際のゼラチン質がとろりと舌の上でほどけていく。


「こりゃ、驚いた……美味いな」


 夫は思わず箸を止めた。


 妻もひと口食べ、目を細めた。


「あら、本当。お野菜までこんなに美味しいのね」


「クエは骨からもいい出汁が出るからな。最後は雑炊にしてやるよ」


「そりゃ楽しみだ」


 夫はもう一切れ、クエを口に運んだ。


「そういえば、出張で金沢に行ったときに食った魚も、驚くほど美味かったな」


「あら、そうなの?」


「ああ。何の魚だったか忘れちまったが、あれは美味かった」


「私、金沢には行ったことないわ」


「そうだったか?」


「あなたは仕事であちこち行ってたけど、私はずっと家にいたもの」


「……そうだったな」


 夫は箸を置いた。


 若い頃は、仕事に追われる毎日だった。


 給料は決して多くなかった。


 妻もパートに出て、二人で家計を支えてきた。


 息子と娘の教育費に、住宅ローン。


 子供が大きくなれば塾代がかかり、大学に入れば学費がかかる。


 家の修繕にも金がかかった。


 毎月の給料が入っても、右から左へ消えていった。


 妻は食費を切り詰め、安い店を探して買い物をした。


 夫も小遣いを節約し、出張先で美味しいものを食べることなど、滅多になかった。


 それでも、たまには仕事仲間に連れられて、土地の名物を口にすることがあった。


 金沢の魚も、そんな思い出の一つだった。


 今では子供たちも独立し、住宅ローンも払い終わった。


 年金で何とか暮らしていけるし、少しばかりの蓄えもある。


 けれど、何十年も続けてきた節約生活は、そう簡単には変えられない。


 旅行は二人の共通の楽しみだったが、それでも年に一度くらい。


 行き先を決めるときも、まず気になるのは費用だった。


「なあ、お前」


「なあに?」


「今度、金沢に行ってみるか」


「金沢に?」


「ああ。今度は仕事じゃなくて、二人でな。美味い魚でも食いに行こう」


「まあ、いいわねえ」


 妻は嬉しそうに笑った。


 だが、すぐに少し考え込んだ。


「でも、高いんじゃない?」


「まあ、そりゃ多少はかかるだろうな」


「それに、できれば子供たちにも少しは残してあげたいし……」


「そりゃ、俺だってそう思うさ」


 夫は頷いた。


「息子も娘も、今が一番金のかかる時期だろうしな」


「そうなのよねえ」


 夫はしばらく黙っていた。


 そして、鍋に残ったクエを眺めながら、ぽつりと言った。


「でもな、金なんか、あの世に持っていけないからな」


「……そうねえ」


「考えてみりゃ、俺たちもあと何年元気でいられるかわからないだろ」


 妻は黙って夫を見た。


「今のうちに少しくらい贅沢しても、バチは当たらないんじゃねえか?」


「あなたがそんなこと言うなんて」


「何だよ」


「だって、昔から無駄遣いするなって、いつも言ってたじゃない」


「そりゃ、あの頃は金がなかったからな」


「ふふ。そうだったわねえ」


 夫は、もう一度鍋に目を落とした。


「考えてみたら、金だって置いといたら腐ってしまうのかもしれないな」


 その言葉に、ユージが手を止めた。


「あはは! そりゃそうだ。ご主人、上手いこと言うな!」


 夫婦は驚いたように顔を見合わせてから、笑った。


 無愛想なユージが声を上げて笑うなど、滅多にないことだった。


「じゃあ、金沢に行きましょうか」


 妻が言った。


「おう。そうするか」


「ちょっといい旅館に泊まりたいわねえ」


「いいぞ。温泉でも入って、美味いもん食おう」


「まあ、楽しみ」


 妻は少女のように笑った。


 その顔を見て、夫も嬉しそうに頷いた。


 しばらくして、妻がふと思い出したように言った。


「でも私、その前にちょっと病院に行ってみるわ」


「おお? どういう風の吹き回しだ?」


「だって、旅行先でみんなに迷惑かけたくないもの」


「そうだな……」


 夫はそれだけ言って、盃を手に取った。


 妻は、最近自分が忘れっぽくなっていることを気にしていた。


 買い物に出かけて、何を買いに来たのか分からなくなることがある。


 置いたはずのものが見つからず、家中を探し回ることも増えた。


 夫に病院へ行こうと言われるたび、大丈夫だと答えていた。


 本当は、怖かったのだ。


 けれど、金沢には行きたい。


 夫と二人で、温泉に入り、美味しい魚を食べたい。


 それなら、一度診てもらってもいいかな。


 そう思った。


「大将、そろそろ雑炊をお願いできるかい?」


「おう、任せとけ」


 ユージは鍋に残った骨を取り除き、旨味の溶け込んだ出汁にご飯を加えた。


 ひと煮立ちさせてから溶き卵を回し入れ、蓋をして火を止める。


 仕上げに刻んだ三つ葉を散らすと、湯気の向こうにふんわりとした卵が浮かんだ。


「熱いから気をつけな」


 ユージが二人の器によそった。


 妻はれんげですくい、ゆっくりと口に運んだ。


「ああ……美味しい」


 クエの旨味をたっぷり吸ったご飯が、優しく喉を通っていく。


「これなら、いくらでも食べられそうね」


「おいおい、まだ食うのか?」


「あら、こんなに美味しい雑炊なら、いくらでも入るわよ」


 そう言う妻を見て、夫は苦笑しながら、自分の雑炊を食べた。


 やがて、土鍋はきれいに空になった。


「はあ、美味しかったぁ。それに、久しぶりにこんなに食べたわ」


 妻は満足そうにお腹をさすった。


「お前、いつもは半分も食わねえのにな」


「だって、本当に美味しかったんですもの」


「そりゃよかった」


 ユージは空になった土鍋を引き寄せた。


「大将、ごちそうさん。いやあ、贅沢させてもらったな」


「何言ってんだ。こっちこそ助かったぜ」


 夫は笑った。


「ところで、金沢って今でも魚が美味いのかねえ」


「そりゃ美味いだろ。ノドグロに甘エビ、ガス海老ってのもあるし、富山だが、氷見の寒ブリもあるしな」


「寒ブリか。そいつはいいな」


「醤油を弾くくらいの脂の乗りだからな。ありゃ美味いぜ。 あと、金沢って言えば、やっぱりカニだな」


「私はカニが食べたいな」


「金沢のズワイガニは、毎年11月6日解禁だ。加能ガニって名前ついてるが、オスはかなり高い」


「あら残念」


「でも、メスは安いぜ。 香箱ガニって呼んでてな、小さいんだが、身とミソと、内子に外子の四つの味が凝縮されてるんだ」


「おお、そりゃ美味そうだな。カニも食おう」


「ふふ。なんだか、今から楽しみになってきたわ」


 二人は顔を見合わせた。


 いつの間にか、店に入ってきたときの沈んだ空気は消えていた。


 もちろん、夫の足腰が急によくなったわけではない。


 妻の物忘れが治ったわけでもない。


 これから先、どんなことが待っているのかも分からない。


 それでも、二人には新しい楽しみができた。


 金沢に行こう。


 美味しい魚を食べよう。


 少しいい旅館に泊まって、温泉に入ろう。


 そんな話をしているうちに、夜も更けていった。


「さて、そろそろ帰るか」


 夫が杖を手に取った。


「そうね。大将、ごちそうさま」


「おう、気をつけてな」


 妻は夫の腕を支え、ゆっくりと立ち上がった。


「あなた、足元に気をつけて」


「わかってるよ」


 二人は狭い通路を、少しずつ歩いていく。


 引き戸の前で、夫が振り返った。


「大将、また来るよ」


「ああ。いつもの席、空けとくぜ」


「頼むよ」


 妻が暖簾をくぐると、晩秋の冷たい風が店の中に流れ込んだ。


「ねえ、あなた。いつ行きましょうか」


「そうだな。あんまり寒くならねえうちがいいか」


「でも、寒ブリは冬が美味しいんでしょう?」


「そうだったな。じゃあ、少し寒くなってからにするか」


「ふふ。どっちなのよ」


 二人の笑い声が、路地の向こうへ遠ざかっていった。


 ユージは引き戸を閉め、奥のカウンターに戻った。


 二人が座っていた席には、空になった湯呑みと徳利が残っている。


 ユージはそれらを片づけ、布巾でカウンターを拭いた。


 そして、すっかり空になった土鍋を見て、口元を少し緩めた。


 店の外では、冷たい風がえんじの暖簾を揺らしていた。


 冬は、もうすぐそこまで来ている。


 それでも、今夜の二人には、冬を待つ楽しみが一つ増えた。


 そのとき、再び引き戸がガラガラと開いた。


「大将、まだやってる?」


「おう、いらっしゃい」


 居酒屋ユージ。


 今夜も静かに営業中。


挿絵(By みてみん)

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