第六話 晩秋
小田急線経堂駅から農大通りを歩いて五分。細い路地を曲がった先に、えんじの暖簾がかかった居酒屋が一軒。
カウンター七席に、四人掛けのテーブルが二つ。親父が一人で切り盛りする、こぢんまりとした店だ。
メニューはない。その日仕入れた新鮮な魚や旬の野菜を、親父が気の向くままに料理する。
親父は無愛想で、客の話にも気のない返事をするばかり。
それなのに、不思議と客たちは悩みを打ち明ける。
親父は答えを出さない。ただ料理を作り、酒を注ぐだけだ。
それでも、店を出る頃には、なぜか少しだけ前を向いている。
多分偶然なのだろう。
だが、偶然も重なれば必然となる。
口さがない常連客たちは、この店を「門出屋」と呼ぶという。
その店の名は「居酒屋ユージ」。
今夜も静かに営業中。
◇
十一月も半ばを過ぎ、日が落ちると急に冷え込むようになった。
農大通りを行き交う人々も、いつの間にか厚手の上着を羽織っている。
そんな晩秋の夕暮れ時。
居酒屋ユージの引き戸が、ゆっくりと開いた。
「こんばんは」
顔をのぞかせたのは、七十歳ほどの女性だった。
その後ろには、杖をついた白髪の男性が立っている。
「おう、いらっしゃい」
ユージは二人を見ると、一瞬、怪訝そうな顔をした。
「あれっ? 今日は予約なしとは珍しいな」
「おい、お前。予約したって言ってなかったか?」
夫が妻に顔を向けた。
「あら、そうだったかしら」
妻は小首をかしげると、ユージに尋ねた。
「大将、席空いてる?」
「ああ。いつもの奥の席なら空いてるぜ」
「ああ、よかった。あなた、気をつけて」
妻は夫の手を取り、ゆっくりと奥のカウンターへ向かった。
夫は八十二歳。妻は七十二歳。
二人は、開店当初からこの店に通っている常連だった。
もっとも、2、3ヶ月に一度の贅沢として来ているので、いつもは必ず予約を取ってからやって来る。
以前は、夫が先に店に入り、妻がその後ろをついてきた。
それが、いつの頃からか逆になった。
夫は数年前から足腰が弱り、最近では杖が手放せない。
カウンターの椅子に腰を下ろすのにも、少し時間がかかる。
ユージは何も言わず、二人が落ち着くのを待った。
「さて、今日は何にする?」
「そうねえ。何か温かいものがいいわね」
「酒は?」
「俺は燗酒を一合もらおうかな」
「私はお茶でいいわ」
「あいよ」
ユージは湯を沸かしながら、二人の様子をちらりと見た。
以前の夫は、冷酒を二合ほど平気で飲んでいた。
妻も一緒に盃を傾け、よく笑っていたものだ。
最近は一合頼んでも、半分ほど残すようになっていた。
妻に至っては、酒を飲まない日が増えた。
長く店をやっていると、客の変化というものは嫌でも目につく。
もっとも、ユージはそれを口に出したりしない。
「大将、お手洗い借りるわね」
「ああ」
妻はゆっくりと立ち上がり、店の奥へ歩いていった。
夫はその後ろ姿を見送ると、盃を置いた。
「なあ、親父さん」
「ん?」
「あいつ、最近ちょっとおかしいんだ」
ユージは燗酒の徳利を置き、夫の顔を見た。
「今日も予約するの忘れてただろ? それに、同じもんをいくつも買ってきたり、大事な手紙をなくしたり……」
「……」
「この前なんか、醤油が三本も戸棚に入っててな。どうしたんだって聞いたら、買った覚えがないって言うんだよ」
夫は小さく息をついた。
「一度、病院に行こうって言ったんだが、本人は大丈夫だって言って、行こうとしないんだ」
「そりゃ心配だな」
「ああ……」
夫は盃に残った酒を見つめた。
「俺の方が十も上だろ?」
「……ああ」
「あいつを一人残していくのは、心配なんだよな」
ユージは黙っていた。
「息子も娘もいるにはいるんだがな。二人とも家庭を持ってるし、仕事だって忙しい。孫もまだ学校に通ってるし」
「そうか」
「親のことまで背負わせるのも、気の毒でな」
夫は力なく笑った。
「俺も気付いたらそろそろ平均寿命だしな」
「そうだな」
それ以上、ユージは何も聞かなかった。
やがて妻が戻ってきた。
「冷え込んで来たわねえ。でもあなた、寒いからって飲み過ぎはダメよ」
「わかってるよ」
夫は苦笑した。
ユージは二人の前に小鉢を置いた。
ほうれん草と焼いた茸のおひたしだった。
「とりあえず、こいつを食っててくれ」
「あら、美味しそう」
妻は箸を取り、ひと口食べた。
「相変わらずいいお味ねえ」
「そりゃどうも」
ユージは冷蔵庫を開けた。
「そうだ。今日はちょっといいもんがあるんだ」
「おや、何だい?」
「クエだよ」
「クエ?」
「ああ。いいのが入ったんで仕入れたんだが、今日は客が少なくてな。どうしようかと思ってたところだ」
ユージは厚く切った白身魚を二人に見せた。
「よけりゃ食ってくれ。鍋にしてやる」
「クエかあ。そりゃ高いんじゃないのか?」
「残しといても、俺の晩酌の肴になるだけだからな。しかも、一人じゃこんなに食いきれねえ」
ユージは何でもないことのように言った。
「どんなに高級なもんでも、腐らせちまったら意味がねえ。新鮮なうちに美味しく食ってやるのが一番だ」
そして、付け加えた。
「食材も、その方が喜ぶはずだ」
「……そういうもんかね」
「そういうもんだ」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「あら、楽しみねえ」
「あいよ。ちょっと待ってな」
ユージは鍋の支度を始めた。
昆布で引いた出汁を土鍋に張り、クエの骨やアラを加えて旨味を引き出す。
丁寧にアクをすくい、長ねぎ、白菜、椎茸、豆腐を入れる。
そして、厚めに切ったクエの身を加えた。
ほどなくして、カウンターに小ぶりの土鍋が置かれた。
蓋を取ると、白い湯気がふわりと立ち上った。
昆布と魚の、上品で豊かな香りが漂う。
鍋の中では、ふっくらと火の通ったクエの白身が、野菜の間から顔をのぞかせていた。
皮の周りには、ぷるりとしたゼラチン質がついている。
「まずは、そのまま食ってみな。味が足りなきゃ、ポン酢もあるぜ」
ユージが二人の器にクエを取り分けた。
夫は身を少しほぐし、息を吹きかけてから口に運んだ。
しっとりとした白身には、ほどよい弾力がある。
噛むほどに濃厚な旨味が広がり、皮際のゼラチン質がとろりと舌の上でほどけていく。
「こりゃ、驚いた……美味いな」
夫は思わず箸を止めた。
妻もひと口食べ、目を細めた。
「あら、本当。お野菜までこんなに美味しいのね」
「クエは骨からもいい出汁が出るからな。最後は雑炊にしてやるよ」
「そりゃ楽しみだ」
夫はもう一切れ、クエを口に運んだ。
「そういえば、出張で金沢に行ったときに食った魚も、驚くほど美味かったな」
「あら、そうなの?」
「ああ。何の魚だったか忘れちまったが、あれは美味かった」
「私、金沢には行ったことないわ」
「そうだったか?」
「あなたは仕事であちこち行ってたけど、私はずっと家にいたもの」
「……そうだったな」
夫は箸を置いた。
若い頃は、仕事に追われる毎日だった。
給料は決して多くなかった。
妻もパートに出て、二人で家計を支えてきた。
息子と娘の教育費に、住宅ローン。
子供が大きくなれば塾代がかかり、大学に入れば学費がかかる。
家の修繕にも金がかかった。
毎月の給料が入っても、右から左へ消えていった。
妻は食費を切り詰め、安い店を探して買い物をした。
夫も小遣いを節約し、出張先で美味しいものを食べることなど、滅多になかった。
それでも、たまには仕事仲間に連れられて、土地の名物を口にすることがあった。
金沢の魚も、そんな思い出の一つだった。
今では子供たちも独立し、住宅ローンも払い終わった。
年金で何とか暮らしていけるし、少しばかりの蓄えもある。
けれど、何十年も続けてきた節約生活は、そう簡単には変えられない。
旅行は二人の共通の楽しみだったが、それでも年に一度くらい。
行き先を決めるときも、まず気になるのは費用だった。
「なあ、お前」
「なあに?」
「今度、金沢に行ってみるか」
「金沢に?」
「ああ。今度は仕事じゃなくて、二人でな。美味い魚でも食いに行こう」
「まあ、いいわねえ」
妻は嬉しそうに笑った。
だが、すぐに少し考え込んだ。
「でも、高いんじゃない?」
「まあ、そりゃ多少はかかるだろうな」
「それに、できれば子供たちにも少しは残してあげたいし……」
「そりゃ、俺だってそう思うさ」
夫は頷いた。
「息子も娘も、今が一番金のかかる時期だろうしな」
「そうなのよねえ」
夫はしばらく黙っていた。
そして、鍋に残ったクエを眺めながら、ぽつりと言った。
「でもな、金なんか、あの世に持っていけないからな」
「……そうねえ」
「考えてみりゃ、俺たちもあと何年元気でいられるかわからないだろ」
妻は黙って夫を見た。
「今のうちに少しくらい贅沢しても、バチは当たらないんじゃねえか?」
「あなたがそんなこと言うなんて」
「何だよ」
「だって、昔から無駄遣いするなって、いつも言ってたじゃない」
「そりゃ、あの頃は金がなかったからな」
「ふふ。そうだったわねえ」
夫は、もう一度鍋に目を落とした。
「考えてみたら、金だって置いといたら腐ってしまうのかもしれないな」
その言葉に、ユージが手を止めた。
「あはは! そりゃそうだ。ご主人、上手いこと言うな!」
夫婦は驚いたように顔を見合わせてから、笑った。
無愛想なユージが声を上げて笑うなど、滅多にないことだった。
「じゃあ、金沢に行きましょうか」
妻が言った。
「おう。そうするか」
「ちょっといい旅館に泊まりたいわねえ」
「いいぞ。温泉でも入って、美味いもん食おう」
「まあ、楽しみ」
妻は少女のように笑った。
その顔を見て、夫も嬉しそうに頷いた。
しばらくして、妻がふと思い出したように言った。
「でも私、その前にちょっと病院に行ってみるわ」
「おお? どういう風の吹き回しだ?」
「だって、旅行先でみんなに迷惑かけたくないもの」
「そうだな……」
夫はそれだけ言って、盃を手に取った。
妻は、最近自分が忘れっぽくなっていることを気にしていた。
買い物に出かけて、何を買いに来たのか分からなくなることがある。
置いたはずのものが見つからず、家中を探し回ることも増えた。
夫に病院へ行こうと言われるたび、大丈夫だと答えていた。
本当は、怖かったのだ。
けれど、金沢には行きたい。
夫と二人で、温泉に入り、美味しい魚を食べたい。
それなら、一度診てもらってもいいかな。
そう思った。
「大将、そろそろ雑炊をお願いできるかい?」
「おう、任せとけ」
ユージは鍋に残った骨を取り除き、旨味の溶け込んだ出汁にご飯を加えた。
ひと煮立ちさせてから溶き卵を回し入れ、蓋をして火を止める。
仕上げに刻んだ三つ葉を散らすと、湯気の向こうにふんわりとした卵が浮かんだ。
「熱いから気をつけな」
ユージが二人の器によそった。
妻はれんげですくい、ゆっくりと口に運んだ。
「ああ……美味しい」
クエの旨味をたっぷり吸ったご飯が、優しく喉を通っていく。
「これなら、いくらでも食べられそうね」
「おいおい、まだ食うのか?」
「あら、こんなに美味しい雑炊なら、いくらでも入るわよ」
そう言う妻を見て、夫は苦笑しながら、自分の雑炊を食べた。
やがて、土鍋はきれいに空になった。
「はあ、美味しかったぁ。それに、久しぶりにこんなに食べたわ」
妻は満足そうにお腹をさすった。
「お前、いつもは半分も食わねえのにな」
「だって、本当に美味しかったんですもの」
「そりゃよかった」
ユージは空になった土鍋を引き寄せた。
「大将、ごちそうさん。いやあ、贅沢させてもらったな」
「何言ってんだ。こっちこそ助かったぜ」
夫は笑った。
「ところで、金沢って今でも魚が美味いのかねえ」
「そりゃ美味いだろ。ノドグロに甘エビ、ガス海老ってのもあるし、富山だが、氷見の寒ブリもあるしな」
「寒ブリか。そいつはいいな」
「醤油を弾くくらいの脂の乗りだからな。ありゃ美味いぜ。 あと、金沢って言えば、やっぱりカニだな」
「私はカニが食べたいな」
「金沢のズワイガニは、毎年11月6日解禁だ。加能ガニって名前ついてるが、オスはかなり高い」
「あら残念」
「でも、メスは安いぜ。 香箱ガニって呼んでてな、小さいんだが、身とミソと、内子に外子の四つの味が凝縮されてるんだ」
「おお、そりゃ美味そうだな。カニも食おう」
「ふふ。なんだか、今から楽しみになってきたわ」
二人は顔を見合わせた。
いつの間にか、店に入ってきたときの沈んだ空気は消えていた。
もちろん、夫の足腰が急によくなったわけではない。
妻の物忘れが治ったわけでもない。
これから先、どんなことが待っているのかも分からない。
それでも、二人には新しい楽しみができた。
金沢に行こう。
美味しい魚を食べよう。
少しいい旅館に泊まって、温泉に入ろう。
そんな話をしているうちに、夜も更けていった。
「さて、そろそろ帰るか」
夫が杖を手に取った。
「そうね。大将、ごちそうさま」
「おう、気をつけてな」
妻は夫の腕を支え、ゆっくりと立ち上がった。
「あなた、足元に気をつけて」
「わかってるよ」
二人は狭い通路を、少しずつ歩いていく。
引き戸の前で、夫が振り返った。
「大将、また来るよ」
「ああ。いつもの席、空けとくぜ」
「頼むよ」
妻が暖簾をくぐると、晩秋の冷たい風が店の中に流れ込んだ。
「ねえ、あなた。いつ行きましょうか」
「そうだな。あんまり寒くならねえうちがいいか」
「でも、寒ブリは冬が美味しいんでしょう?」
「そうだったな。じゃあ、少し寒くなってからにするか」
「ふふ。どっちなのよ」
二人の笑い声が、路地の向こうへ遠ざかっていった。
ユージは引き戸を閉め、奥のカウンターに戻った。
二人が座っていた席には、空になった湯呑みと徳利が残っている。
ユージはそれらを片づけ、布巾でカウンターを拭いた。
そして、すっかり空になった土鍋を見て、口元を少し緩めた。
店の外では、冷たい風がえんじの暖簾を揺らしていた。
冬は、もうすぐそこまで来ている。
それでも、今夜の二人には、冬を待つ楽しみが一つ増えた。
そのとき、再び引き戸がガラガラと開いた。
「大将、まだやってる?」
「おう、いらっしゃい」
居酒屋ユージ。
今夜も静かに営業中。
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