第五話 香水
小田急線経堂駅から農大通りを歩いて五分。細い路地を曲がった先に、えんじの暖簾がかかった居酒屋が一軒。
カウンター七席に、四人掛けのテーブルが二つ。親父が一人で切り盛りする、こぢんまりとした店だ。
メニューはない。その日仕入れた新鮮な魚や旬の野菜を、親父が気の向くままに料理する。
親父は無愛想で、客の話にも気のない返事をするばかり。
それなのに、不思議と客たちは悩みを打ち明ける。
親父は答えを出さない。ただ料理を作り、酒を注ぐだけだ。
それでも、店を出る頃には、なぜか少しだけ前を向いている。
多分偶然なのだろう。
だが、偶然も重なれば必然となる。
口さがない常連客たちは、この店を「門出屋」と呼ぶという。
その店の名は「居酒屋ユージ」。
今夜も静かに営業中。
◇
ある夜。
店の引き戸が、勢いよく開いた。
「やっぱこういう店にフラッと入るのが、大人の男ってやつだよな。お前もそう思うだろ?」
「そうね、なかなかいい感じじゃん」
二十代半ばくらいの男が、若い女性を連れて、得意げな顔で入ってきた。
男は流行の服を身につけ、髪を丁寧に整えている。女性も負けず劣らず華やかだった。
長い睫毛に、くっきりと引かれたアイライン。鮮やかな口紅。服もバッグも、いかにも流行の最先端といった雰囲気だ。
「へえ、こういうお店、初めてかも」
「だろ? こういう隠れ家的な店を知ってると、ちょっと違うんだよ」
カウンターの向こうでは、親父が魚を捌いていた。
男は、人差し指と中指を立てて言った。
「二人だけど。カウンター空いてる?」
「……ああ」
親父は顔を上げた。
そして、女性の方を見ると、わずかに眉をひそめた。
「悪いが、姉ちゃん。その香水、なんとかならねえか」
「……え?」
「うちは飯を食わせる店だ。そんなに匂いがきついと、ほかの客が困るんだよ」
女性は、ぽかんと口を開けた。
その隣で、男の顔がみるみる赤くなった。
「おい! 客に向かってなんてこと言うんだ! 失礼な店だな!」
「しかしな……、悪いな、兄ちゃん。今日は帰ってくれ」
「あー、分かったよ! こんな小汚い店、二度と来てやんねーからな!」
男は女性の腕を引っ張り、乱暴に引き戸を閉めて出ていった。
店内に、しばし沈黙が流れた。
カウンターの端で飲んでいた中年の常連が、ぽつりと言った。
「……親父、相変わらず商売下手だなあ」
「うるせえ」
親父は何事もなかったように、魚を捌き始めた。
◇
それから数日。
彼女は、どうにも気分が晴れずにいた。
あんな言い方をしなくたっていいじゃない。
今流行のブランドの香水だ。
臭いだなんて、あんまりだ。
最初はそう思っていた。
けれど、時間が経つにつれて、別のことが気になり始めた。
――ほかのお客さんが困る。
あの大将は、そう言っていた。
自分がいい香りだと思っているものを、苦手に感じる人もいる。
そんな当たり前のことを、考えたことがなかった。
それに、あの夜一緒にいた男には、幻滅した。
大将に注意された途端、怒鳴り散らして出ていった。
彼女がどう思っているかなんて、一度も聞かなかった。
――小汚い店。
男はそう言った。
でも、そんなことはなかった。
古びた店ではあったけれど、カウンターはきれいに磨かれていた。調理場も整頓されていた。
何より、店の中に流れる空気が、柔らかくて、どこか懐かしかった。
あいつの言い方には、腹が立った。
でも、言っていることは間違っていなかった。
……それが、余計に腹立たしかった。
そんなことを考えているうちに、無性にもう一度、あの店に行きたくなった。
◇
数日後の夕方。
彼女は一人で、えんじののれんをくぐっていた。
「……こんばんは」
カウンターの向こうで、親父が顔を上げた。
「おう。こないだの姉ちゃんか」
「……覚えてたんですか?」
「そりゃ、あんだけ騒いで帰りゃな」
「騒いだのは私じゃありませんよ……」
「ああ、そうだったな」
そう言うと、親父は鼻をひくつかせた。
「今日は大丈夫だな」
「もう! 高かったんですよ、あの香水」
「そうかい。そりゃ悪かったな」
「……いえ、まあ、気を遣えなかった私が悪いんですけど……」
「まあ、今日は問題ねえ。座んな」
彼女は、素直にカウンターに腰を下ろし、ひとしきり店内を見回した。
「メニューを頂けますか?」
「あはは! お嬢さん、この店にはメニューなんてないんだよ」
隣から、陽気な声がした。
振り向くと、赤ら顔の中年男が、焼酎のグラスを片手に笑っていた。
「えっ? メニューがないんですか?」
「そうそう。その日仕入れたもんを、親父が勝手に料理して出してくれるんだ」
「じゃあ、何が出てくるか分からないんですか?」
「まあ、そういうことだな。なあ、親父!」
「うるせえ。あんたは黙って飲んでろ」
「あはは! ほら、こんな調子なんだよ!」
彼女は思わず笑った。
「私、こないだこの店に来たんです。そしたら、大将から、香水が臭いから帰れって言われて、追い返されちゃったんです」
「あはは! 俺もいたぜ! ホント親父らしいって思って笑ったぜ!」
「ええっ!? そこ、笑うところですか?」
「いやあ、親父は昔っからそうなんだよ。誰が相手でも遠慮しないからな」
「ほんっと、失礼ですよね!」
「まあなあ。でも、料理は間違いなく美味いぞ」
常連は焼酎を一口飲んだ。
「それに、俺も香水の匂いは少し苦手だな。特にエレベーターな」
「エレベーター?」
「何人かの若いねーちゃんが出た後の、いろんな香水の匂いが入り混じった空間に入ったときの絶望感ったらないぜ」
「あはは! 大袈裟ですよ!」
「いやいや、マジの話だ。息止めて次の階まで我慢するくらいだ」
「息止めたら死んじゃうから!」
「あはは、でも本当だって!」
彼女は声を上げて笑った。
初めて会った、名前も知らないおじさん。
なのに、不思議と気を遣わずに話せた。
その陽気なおじさんが、しみじみ言った。
「何故かこの店は居心地がいいのさ」
常連は、店内をぐるりと見回した。
「老若男女にかかわらず、一癖も二癖もある連中が、この店で馬鹿話して帰っていく。しかも親父は、とんでもない無愛想ときたもんだ」
「無愛想で悪かったな」
親父が、調理場から声をかけた。
「で、姉ちゃん。何が食いたい?」
「あっ、そうでした」
彼女は慌てて姿勢を正した。
「なんでもいいので、美味しいのお願いします!」
「……ちょっと時間がかかるから、これでも食って待ってな」
親父が差し出したのは、色鮮やかなサラダだった。
真っ赤なトマトに、黄色とオレンジのパプリカ。瑞々しい野菜が、白い皿の上に美しく盛り付けられている。
「わあ、綺麗!」
彼女は思わずスマホを取り出した。
「写真、撮ってもいいですか?」
「好きにしな」
何枚か写真を撮ってから、フォークを手に取る。
トマトは甘く、パプリカはシャキシャキしていた。新鮮で、美味しかった。
「どうだい、お嬢さん」
常連が尋ねた。
「美味しいです! すごく新鮮で」
「そりゃよかった。親父、腕だけは確かだからな」
「腕だけ、ってなんだ」
「あはは!」
その間にも、親父は黙々と料理を続けていた。
魚を下ごしらえし、アサリを鍋に入れる。ニンニクの香りが立ち、やがて白ワインと魚介の旨味が混じり合った湯気が、調理場から漂ってきた。
しばらくして、大きな皿が彼女の前に置かれた。
「ほらよ。アクアパッツァだ」
「わあ……!」
白身魚の周りに、アサリとトマト、パプリカがたっぷりと添えられている。
見た目は先ほどのサラダほど鮮やかではない。トマトは少し煮崩れ、パプリカもしんなりとしていた。
彼女は魚の身をほぐし、スープと一緒に口に運んだ。
「……!」
思わず、目を見開いた。
魚とアサリの濃厚な旨味。そこにトマトの酸味が溶け込み、何とも言えない深い味わいになっている。
柔らかくなったパプリカは、魚介の出汁をたっぷり吸っていた。
「……何これ。すっごく美味しい!」
「そうかい。姉ちゃん、白ワインでも飲むか?」
「えっ、ワインもあるんですか?」
「一応な。こいつにはよく合うぞ」
「じゃあ、お願いします!」
親父は冷蔵庫から一本の白ワインを取り出した。
「チリのシャルドネだ」
「へえ、チリですか。フランスじゃないんですね」
「おう。カサブランカ・ヴァレーってところのだ。海に近くてな、酸味のいいワインができるんだよ」
「へえ……」
「値段は手頃だが、なかなか美味いぞ」
親父はグラスにワインを注いだ。
彼女はまず一口飲んでみた。
「……あ、美味しい。すっきりしてるけど、果物みたいな香りもする」
「だろ?」
続いて、アクアパッツァの白身魚をほぐし、スープと一緒に口に運ぶ。
「……あっ! さっきより美味しく感じる!」
「魚介の旨味と、ワインの酸味が合うんだよ」
「へえ……。ワインって、フランスの高いやつが美味しいんだと思ってました」
「まあ、高いのには高いなりの理由があるんだろうけどな」
親父は肩をすくめた。
「俺は、値段よりも料理に合うかどうかだと思うね」
「……なるほど」
彼女は、もう一度グラスを傾けた。
確かに、ブランドの名前だけでは分からないものがある。
「さっきのサラダと、同じトマトとパプリカですよね?」
「おう」
「なのに、全然違う……」
「サラダと比べりゃ、手間暇かかってるからな。そりゃ深みも出るさ」
「……手間暇、か」
彼女は、もう一口スープを飲んだ。
じんわりと広がる旨味が、何だか胸の奥にまで染み込んでくるようだった。
「……私も、中身を磨かないとダメね」
「ん? 何の話だ?」
「ううん。こっちの話!」
彼女は笑った。
「そういえば嬢ちゃん、こないだの男は、今日は一緒じゃないのかい?」
「ああ、振ってやったわよ、あんな奴。なんて言うか、薄っぺらいのよね」
彼女は大きくため息をついた。
「はあ。なんで私には、あんな男しか寄って来ないのかしら」
「だってさ。親父、どう思う?」
「そりゃあんた、そんな連中の好みに合うようなナリばっかしてたからだろ」
「……!」
彼女は、ぽかんと口を開けた。
「ちょっと! それ、どういう意味ですか!」
「言ったとおりだよ」
「もうっ! 大将って、本当に失礼!」
常連が、隣で腹を抱えて笑っていた。
「あはは! 親父にかかっちゃ、かなわねえな!」
彼女は頬を膨らませた。
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
この店では、誰も彼女の服やバッグのブランドを気にしない。
化粧が上手かどうかも、流行に詳しいかどうかも、関係ない。
ただ、美味しい料理を食べて、くだらない話をして、笑っている。
こんな時間を過ごしたのは、いつ以来だろう。
◇
それから、さらに二週間ほどが過ぎた。
ある日の夕方。
居酒屋ユージの引き戸が、静かに開いた。
「こんばんは!」
「おう、いらっしゃい」
親父は顔を上げ、彼女を見た。
以前とは、ずいぶん雰囲気が違っていた。
アイラインは控えめになり、口紅も自然な色合い。服装も落ち着いている。
香水の強い匂いもしなかった。
「おう、あんた。なんか、落ち着いたな。そっちの方がよく似合うぞ」
「……えっ?」
「こないだの場末のホステスみたいな化粧とは大違いだ」
「ちょっと!」
彼女は思わず声を上げた。
「それ、褒めてるんですか!?」
「褒めてるだろうが」
「ひどい褒め方ですね!」
「そうかい?」
親父は涼しい顔で答えた。
彼女は呆れたようにため息をつき、それから笑った。
「……でも、ありがとうございます」
「おう。で、今日は何食う?」
「今日も、大将のおすすめで!」
「分かったよ」
親父は冷蔵庫から、一尾の鯛を取り出した。
「明石の鯛だ」
「明石?」
「兵庫県の明石だよ。潮の流れが速いところで育った鯛は、身が締まって美味いんだ」
「へえ……」
「今日は、これを塩焼きにする」
親父は手際よく下ごしらえを始めた。
軽く塩を振り、しばらく置いてから、滲み出た水分を丁寧に拭き取る。
「そうすると、臭みが抜けるんだ」
「へえ。塩を振るだけで?」
「おう。それから、こいつを使う」
親父が取り出したのは、小さな容器に入った塩だった。
「能登の知り合いから送ってもらった天然塩だ」
「能登って、石川県の?」
「そうだよ」
親父はそれ以上説明せず、鯛に少し酒を振って水気を拭き取った。
それから身に軽く塩を振り、ヒレと尾には焦げを防ぐための化粧塩を施して、じっくりと焼き始めた。
「なんだか、意外とシンプルなんですね」
「まあな。いい魚だから、余計なことする必要はねえんだよ」
しばらくすると、香ばしい匂いが漂ってきた。
焼き上がった鯛は、皮がこんがりと色づき、見るからに美味しそうだった。
「ほらよ」
「いただきます!」
彼女は箸で身をほぐし、口に運んだ。
「……美味しい!」
ふっくらとした白身から、上品な旨味が広がる。
塩加減は控えめなのに、魚の味が驚くほど濃い。
「すごい……。本当に、魚の味がする」
「魚なんだから当たり前だろ」
「そういう意味じゃなくて!」
彼女は笑った。
「なんていうか……余計な味がしないんです。なのに、すごく美味しい」
「いい魚は、そんなもんさ」
親父はそう言って、また調理場に戻った。
彼女は、しばらく黙って鯛を味わっていた。
やがて、ぽつりと言った。
「私、地方から東京の大学に出てきたんです」
「おう」
「最初は訛りが抜けなくて。服も安いのばっかりで、化粧もほとんどしたことなくて……」
親父は、黙って手を動かしている。
「東京育ちの女の子って、すごいんですよ。ほんと、芯から垢抜けてて。それに引き換え、私なんて……」
彼女は苦笑した。
「だから、一生懸命バイトして、おしゃれな服を買って、化粧も覚えて。必死に周りに合わせようとしたんです」
「そうかい」
「でも、それでできた友達なんて、上っ面でしかなかったんですよね……」
少しの間、沈黙が流れた。
「それなのに、大将からは帰れとか、場末のホステスとか、めちゃくちゃ言われて。ほんとムカついたんだから!」
「ははっ。そりゃ悪かったな」
「全然悪いと思ってないでしょ!」
「まあな」
「もうっ!」
彼女は吹き出した。
親父も、口元をわずかに緩めた。
「……でもね」
彼女は、もう一度鯛を口に運んだ。
「最近、ちょっとだけ楽になったんです」
「ほう」
「別に、誰かに合わせなくてもいいのかなって。自分の好きな服を着て、自分に似合う化粧をして……それでいいのかなって」
「そうかい」
「まあ、こんな地味な化粧じゃ、また誰からも相手にされなくなっちゃうかもしれないけどね」
親父は、手を止めずに答えた。
「若い奴なんて、たいてい自意識過剰なんだよ。あんたが思ってるほど、周りは気にしてねえぞ」
「……ひどい! また悪口?」
「ははっ。俺も若い頃はそうだったからな」
「えっ、大将にも若い頃があったの?」
「当たり前だろうが!」
彼女は声を上げて笑った。
親父は呆れた顔をしていたが、どこか楽しそうだった。
ひとしきり笑った後、彼女は言った。
「……でも、何かに夢中になれるもの、見つけたいな」
親父は、洗い終えた皿を棚に戻した。
「いいじゃねえか。何かに真剣に打ち込んでる奴ってなあ、それだけで魅力があるんだぜ」
「……そうかな?」
「おう。俺はそう思うね」
彼女は、少しだけ考え込んだ。
そして、ふっと笑った。
「大将も、たまにはいいこと言うのね」
「たまには余計だ」
カウンターの端から、聞き慣れた笑い声が上がった。
「あはは! 一本取られたな、親父!」
「うるせえ。あんたは黙って飲んでろ」
店内に、また笑い声が広がった。
やがて、彼女は最後の一口を食べ終えた。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかった!」
「おう」
会計を済ませ、立ち上がる。
「大将。また来てもいいですか?」
親父は、少し不思議そうな顔をした。
「何言ってんだ。ここは居酒屋だぞ」
「……え?」
「腹が減ったら、いつでも来りゃいいんだよ」
彼女は、目を細めた。
「……はい!」
引き戸を開けると、夜の風が頬を撫でた。
彼女は、いつもより少し軽い足取りで、駅へ向かって歩き始めた。
背後では、えんじの暖簾が、静かに揺れていた。
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※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・出来事を題材とした部分がありますが、登場人物や物語上の出来事は創作です。




