第四話 襷をつなぐ
小田急線経堂駅から農大通りを歩いて五分。細い路地を曲がった先に、えんじの暖簾がかかった居酒屋が一軒。
カウンター七席に、四人掛けのテーブルが二つ。親父が一人で切り盛りする、こぢんまりとした店だ。
メニューはない。その日仕入れた新鮮な魚や旬の野菜を、親父が気の向くままに料理する。
親父は無愛想で、客の話にも気のない返事をするばかり。
それなのに、不思議と客たちは悩みを打ち明ける。
親父は答えを出さない。ただ料理を作り、酒を注ぐだけだ。
それでも、店を出る頃には、なぜか少しだけ前を向いている。
多分偶然なのだろう。
だが、偶然も重なれば必然となる。
口さがない常連客たちは、この店を「門出屋」と呼ぶという。
その店の名は「居酒屋ユージ」。
今夜も静かに営業中。
◇
「親父さん、いつものお願いします!」
暖簾をくぐって入ってきた青年が、元気よく声をかけた。
「あいよ」
親父はそれだけ答えると、手元の魚を捌き続けた。
青年はカウンターの端に腰を下ろし、背負っていた大きなリュックを足元に置いた。
東京農業大学の四年生。
すらりとした長身に、日に焼けた顔。引き締まった身体つきは、いかにも運動部の学生らしい。
「今日はずいぶん遅いじゃねえか」
「バイトが長引いちゃって。もう腹ペコですよ」
「そうかい」
しばらくすると、青年の前に大きなお盆が置かれた。
豚肉と白菜、人参、きのこ、うずら卵、ナルトなどがたっぷり入った中華丼。
それに、わかめのスープと、きゅうりの浅漬けが添えられている。
「うわっ、今日もすげえ!」
「冷めねえうちに食え」
「いただきます!」
青年は勢いよくレンゲを動かし始めた。
とろみのついた熱々のあんをご飯と一緒に頬張る。
「くうっ、美味い!」
その食べっぷりを、隣の席にいた常連客が感心したように眺めていた。
「兄ちゃん、いい食いっぷりだねえ」
「すみません。腹減ってたもんで」
「いやいや、若いってのはいいねえ。しかし親父、その中華丼、ずいぶん豪勢じゃねえか」
「余りもんだよ」
「余りもんねえ……」
常連客は、具がこぼれそうなほど盛られた中華丼を眺めた。
「で、兄ちゃん。それ、いくらなんだ?」
「五百円です!」
「五百円!?」
常連客は思わず声を上げた。
「おい親父、俺にもそれ出してくれよ」
「千五百円だ」
「なんでだよ!」
「うるせえ。酒飲んでる奴と一緒にすんな」
店内に笑い声が広がった。
青年も笑っていた。
もっとも、最初からこんなふうに笑えていたわけではない。
青年が初めてこの店を訪れたのは、二年ほど前のことだった。
◇
その日、店の暖簾をくぐった青年は、ひどく疲れた顔をしていた。
まだ夕方の早い時間で、店に客はいなかった。
「あの……すみません」
「いらっしゃい」
「ちょっと、お聞きしたいことがあるんですけど」
「なんだい」
「こちらで、アルバイトは募集していませんか?」
親父は青年を見た。
「してねえよ。見てのとおり、一人でやってる店だからな」
「そうですか……」
青年は肩を落とした。
「すみません。お邪魔しました」
頭を下げ、帰ろうとする。
「おい、兄ちゃん」
「はい?」
「農大の学生か?」
「はい。そうです」
「なんでこんな小せえ居酒屋でバイト探してんだ。駅前に行きゃ、いくらでもあるだろうに」
「それが……」
青年は少しためらった。
「陸上部に入ってるんです。練習があるんで、なかなか時間が合わなくて」
「陸上?」
「はい。長距離をやってます」
「ふうん。箱根とか走るやつか」
「まあ……そうです。まだ登録メンバーにも入れてませんけど」
「で、なんでそんなに働きてえんだ?」
青年はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりぽつりと話し始めた。
実家は石川県の能登にある、小さな酒蔵だった。
何代も続いてきた蔵で、父親が酒を造っている。
青年は幼い頃から、蒸した米の匂いや、麹の甘い香りに囲まれて育った。
将来は父親の跡を継ぐつもりだった。
だから、醸造を専門に学べる東京農業大学に進学した。
せっかく東京に出るのだからと、高校時代から続けていた陸上にも打ち込むことにした。
いつか箱根駅伝を走れたら。
そんな夢もあった。
ところが、二〇二四年の元日。
能登半島を大きな地震が襲った。
実家の酒蔵も被害を受けた。
建物が傷み、設備が壊れ、酒造りを続けることが難しくなった。
幸い、家族は無事だった。
しかし、蔵を立て直すには金がかかる。
それまで送ってもらっていた仕送りも、途絶えた。
「親には、大学を辞めて帰るって言ったんです」
青年は俯いた。
「でも、親父が……お前はちゃんと勉強してこいって。こっちは何とかするからって」
「そうか」
「だけど、家のこと考えると、金なんか送ってくれって言えなくて」
青年は唇を噛んだ。
「バイトはしてるんです。でも、練習もあるし、授業もあるし……なかなか思うように稼げなくて」
「陸上、辞めりゃいいじゃねえか」
親父はあっさりと言った。
青年は顔を上げた。
「……そうですよね」
「そうすりゃ、働く時間も増えるだろ」
「はい」
「大学は酒造りを勉強しに来たんだろ?」
「……はい」
「じゃあ、そっちが本業じゃねえのか」
青年は答えなかった。
しばらくして、小さな声で言った。
「でも……走りたいんです」
「ふうん」
「馬鹿みたいですよね。箱根なんて、走れるかどうかもわからないのに」
「まあな」
親父は否定しなかった。
青年は困ったように笑った。
「ですよね……」
「ところで兄ちゃん」
「はい?」
「飯は食ったのか?」
「え?」
「晩飯だよ」
「いえ、まだですけど……」
「そこ座ってろ」
親父はカウンターの椅子を顎で示した。
「あの、でも俺……」
「うるせえな。まずはこれ食え」
親父は厨房に戻ると、フライパンを火にかけた。
豚肉を焼き、生姜の香りが立ち上る。
皿には千切りキャベツをたっぷり盛り、焼き上がった肉を載せる。
大きな茶碗にご飯をよそい、豆腐とわかめの味噌汁を添えた。
「ほらよ」
「えっ、こんなに……」
「食え」
「でも、お金が……」
「五百円だ」
「五百円?」
「足りねえのか?」
「いえ! あります!」
「じゃあ食え」
青年は恐る恐る箸を取った。
「……いただきます」
まず、生姜焼きをひと口。
甘辛いタレと生姜の香りが、口いっぱいに広がった。
続けて、白いご飯を頬張る。
「……美味い」
もうひと口。
そして、味噌汁をすすった。
突然、ぽたぽたと涙が落ちた。
「あれ……」
青年は慌てて目をこすった。
「すみません。なんか……」
親父は何も言わなかった。
ただ、背を向けて洗い物を始めた。
青年は泣きながら飯を食った。
それでも、箸を止めなかった。
最後の一粒までご飯を食べ、味噌汁も飲み干した。
「……ごちそうさまでした」
「おう」
「あの、本当に五百円でいいんですか?」
「そう言っただろ」
青年は財布から五百円玉を取り出し、カウンターに置いた。
「ありがとうございました」
「おう」
立ち上がろうとした青年に、親父が声をかけた。
「兄ちゃん」
「はい?」
「うちじゃバイトは雇えねえ」
「はい……」
「でも、腹が減ったら飯くらい食いに来い。安く食わせてやる」
青年は驚いたように親父を見た。
「……いいんですか?」
「ただし、忙しいときは後回しだぞ」
「はい!」
「あと、酒は出さねえからな」
「まだ二十歳になってません!」
「じゃあ、ちょうどいいじゃねえか」
青年は、久しぶりに声を出して笑った。
それ以来、青年は週に一度、店に顔を出すようになった。
ある日は、鶏胸肉の唐揚げを載せた大盛りカレー。
またある日は、脂の乗った魚の照り焼きに、野菜の煮物。
豚肉と野菜をたっぷり使った炒め物が出る日もあった。
料理は毎回違った。
だが、どれも運動選手の身体を気遣った、腹いっぱい食べられる定食だった。
それでいて、値段は五百円。
そこだけは毎回変わらなかった。
◇
季節が巡った。
青年は四年生になっていた。
実家の酒蔵は、少しずつ再建に向かっていた。
まだ以前のように酒を造れるわけではない。
それでも、父親は諦めていなかった。
青年も、大学を辞めずに済んだ。
アルバイトを続けながら、醸造の勉強に励み、陸上部の練習にも参加した。
そして、二〇二五年の秋。
「親父さん!」
その日、青年はいつになく興奮した様子で店に飛び込んできた。
「今年は予選会を勝ち抜いて、箱根の出場が決まったんです!」
「ほう、そりゃ良かったじゃねえか」
「去年は、たった一秒差で出られなかったんですよ」
「一秒?」
「はい。予選会は十二人が、それぞれ二十キロちょっとのハーフマラソンを走って、そのうち上位十人の合計タイムで決まるんです。それで去年は、たった一秒足りずに箱根を逃しちゃったんです」
「十人合わせて一秒か。そりゃ悔しいな」
「はい! だから今年は、本当に嬉しくて!」
「で、お前は走るのか?」
「それはまだ……でも、最後のチャンスなんで、頑張ります!」
「そうか。じゃあ、とりあえず飯食え」
「はい!」
青年は嬉しそうに、いつもの席に座った。
それから二か月ほど経った、十二月の終わり。
青年はまた、店にやってきた。
「親父さん! 俺、箱根の登録メンバー十六人に選ばれました!」
「ほう、そりゃ良かったじゃねえか」
「でも、走れるのは十人だけだから、補欠なんですけどね」
青年は少し照れたように笑った。
「そうかい! でも補欠ってこたあ、もしかしたら回って来るかもしれんってことなんだろ?」
「……はい! そうですね!」
「だったら、しっかり飯食って備えとけ」
「はい!」
青年はいつものように、山盛りのご飯に箸をつけた。
それが、その年最後の来店になった。
◇
年が明けた。
正月休みが終わり、店にもいつもの常連たちが戻ってきた。
「おい、親父!」
暖簾をくぐるなり、常連の一人が大きな声を上げた。
「あの兄ちゃん、箱根走ってたぞ!」
「おう! 俺も見た!」
先に来ていた別の常連も、嬉しそうに身を乗り出した。
「七区だったよな?」
「そうそう。まあ、テレビにはちょっとしか映らなかったけどな」
「順位は落としちまったけど、ちゃんと繰り上げにならずに襷をつないでたぜ」
「いやあ、俺、家族に自慢しちゃったよ。『あいつ、俺の知り合いなんだぜ』って」
「俺もだ! 補欠だって言ってたのにな」
「なんか、当日の朝に急きょメンバー変更になったらしいぞ。体調不良かなんかかな?」
「へえ、そりゃ大変だったろうなあ」
「でも、よく走ったよな。あの兄ちゃん」
「まったくだ」
小気味よくネギを刻んでいた親父の包丁の音が、ほんの一瞬、止まった。
だが、すぐにまた、トントントンと規則正しい音が響き始めた。
「親父、聞いてんのか?」
「聞いてるよ」
「すげえよなあ。あの兄ちゃん、箱根走ったんだぜ!」
「そうかい」
「なんだよ、もっと喜べよ!」
「うるせえな。飲むならさっさと注文しろ」
「相変わらず愛想のねえ親父だなあ」
常連たちは笑った。
親父は黙ってネギを刻み続けた。
◇
三月。
東京にも、少しずつ春の気配が漂い始めていた。
その晩、青年はいつもより少し早い時間に店を訪れた。
「親父さん、こんばんは!」
「おう」
「いつもの、お願いします!」
「あいよ」
いつものカウンター。
やがて青年の前に、大きなお盆が置かれた。
山盛りの千切りキャベツを添えた豚の生姜焼き。
大盛りの白いご飯に、豆腐とわかめの味噌汁。
青年は、しばらく料理を見つめていた。
「……親父さん、これ」
「なんだい」
「初めてここに来たとき、食べさせてもらったやつですよね」
「そうだったか?」
青年は小さく笑った。
「覚えてますよ。忘れるわけないじゃないですか」
「冷めねえうちに食え」
「……はい。いただきます」
青年は生姜焼きをひと口食べた。
あのときと同じ味だった。
続けて、ご飯を頬張る。
「……やっぱり美味いや」
青年の目から、涙がポタリと溢れた。
親父は、背を向けて洗い物を始めた。
青年は、いつもよりゆっくりと食べた。
ひと口ずつ、噛みしめるように。
やがて食べ終わると、箸を揃えて置いた。
「ごちそうさまでした」
「おう」
「あの、親父さん」
「なんだい」
「俺、大学卒業しました」
「そうか」
「来週、能登に帰ります」
「そうかい」
「実家の酒蔵、まだ完全には直ってないんですけど、親父と一緒に立て直そうと思って」
「そりゃいい」
親父は皿を片づけながら、ふと思い出したように言った。
「しかしまあ何だ。箱根走れて良かったじゃねえか」
青年は驚いたように顔を上げた。
「……はい!」
「正月早々マラソンなんて、俺には信じられんけどな」
「ははは。マラソンじゃなくて駅伝ですよ」
「似たようなもんだろ」
「全然違いますって!」
青年は笑った。
それから、少し真面目な顔になった。
「でも、本当に嬉しかったです」
「そうか」
「タイムも良くなかったし、順位も落としちゃったんですけど……」
青年は少しだけ目を伏せた。
「でも、ちゃんと襷を渡せたんです」
「そうかい」
「四年間、走ってきて良かったです」
親父は何も言わなかった。
ただ、空になった皿を重ねた。
青年はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「親父さん」
「なんだい」
「全部、親父さんのおかげです」
「俺は何もしてねえよ」
「そんなことないです」
青年は首を振った。
「あのとき、ここで飯を食わせてもらってなかったら、俺、大学も陸上も辞めてたかもしれません」
「大げさだな」
「本当です」
青年はまっすぐに親父を見た。
「俺、どうやってお礼したらいいかわかんなくて……」
「礼を言われるようなことなんか、何にもしてねえ」
「いや、でも……」
親父は少し考えた。
「……だったら、人に自慢できる酒ができたら、送ってくれや」
「えっ?」
「美味けりゃ、うちの店に置いてやる」
青年は目を見開いた。
それから、嬉しそうに笑った。
「少しだけ待っていてください。必ず、とびきり美味い酒を送りますから!」
「おう。期待しねえで待ってる」
青年は立ち上がった。
カウンターに、いつもの五百円玉を置く。
「親父さん、本当にありがとうございました!」
「おう。気をつけて帰れよ」
「はい!」
青年は深々と頭を下げた。
そして、暖簾をくぐって店を出ていった。
親父はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
やがて厨房に戻り、まな板に向かった。
包丁を手に取る。
そして、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
「……頑張れよ」
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※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・出来事を題材とした部分がありますが、登場人物や物語上の出来事は創作です。




