第三話 幸せのかたち
小田急線経堂駅から農大通りを歩いて五分。細い路地を曲がった先に、えんじの暖簾がかかった居酒屋が一軒。
カウンター七席に、四人掛けのテーブルが二つ。親父が一人で切り盛りする、こぢんまりとした店だ。
メニューはない。その日仕入れた新鮮な魚や旬の野菜を、親父が気の向くままに料理する。
親父は無愛想で、客の話にも気のない返事をするばかり。
それなのに、不思議と客たちは悩みを打ち明ける。
親父は答えを出さない。ただ料理を作り、酒を注ぐだけだ。
それでも、店を出る頃には、なぜか少しだけ前を向いている。
多分偶然なのだろう。
だが、偶然も重なれば必然となる。
口さがない常連客たちは、この店を「門出屋」と呼ぶという。
その店の名は「居酒屋ユージ」。
今夜も静かに営業中。
◇
「そういや、こないだの婆さん、その後どうなったんだろうな」
カウンターに座った男が、ふと思い出したように言った。
「さあな。酒が送られてきたから、少なくとも里帰りはしたんじゃねえか」
ユージは冷蔵庫から一本の酒瓶を取り出した。
酔鯨。
高知の酒だ。
「ほれ」
グラスに注がれた酒を、男は嬉しそうに受け取った。
「おっ、ありがとよ。元気にしてるといいな」
「さあな」
「相変わらず愛想のねえ親父だなあ」
「うるせえ。飲まねえなら返せ」
「飲む飲む!」
男は慌ててグラスを持ち上げた。
ひと口含むと、すっきりとした辛口の酒が喉を通っていく。
「美味えなあ」
男は満足そうに息をついた。
「しかし、あの婆さんも、最初はずいぶん思い詰めた顔してたよな」
「そうだったか?」
「おいおい。あんた、客の顔くらい覚えとけよ」
「そんなもん、いちいち覚えてられるか」
「ははっ、そりゃそうか。しかし、客捕まえて、そんなもんはねえだろ」
男は笑いながら、もうひと口酒を飲んだ。
「まあ、俺も初めてこの店に来たときは、ひどい顔してたからな……」
◇
数年前のある晩。
いつものように取引先との接待を終えた男は、疲れた足取りで帰路についていた。
その夜も、都心の高級料理店で会食だった。
料理は申し分なかった。酒も上等なものが揃っていた。
先方の機嫌もよく、商談はまずまずの手応えだった。
いつもなら、それで十分満足していたはずだ。
だが、その夜はなぜか、まっすぐ家に帰る気になれなかった。
駅から自宅へ向かう道を外れ、あてもなく歩く。
どこかで少し飲み直そうか。
そう思ったものの、賑やかな店に入る気にもなれない。
しばらく歩いているうちに、細い路地の奥から、温かな灯りが漏れているのに気づいた。
えんじ色の暖簾がかかった、小さな居酒屋だった。
男はしばらく暖簾を眺めていたが、やがて引き戸に手をかけた。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから、低い声がした。
客は誰もいなかった。
店内はこぢんまりとしていたが、掃除が行き届いている。どこか落ち着く雰囲気だった。
「一人だけど、いいかな?」
「どうぞ」
男はカウンターに腰を下ろした。
「メニューは?」
「ねえよ」
「え?」
「その日あるもんを出す。それでよけりゃな」
ずいぶん変わった店だ。
男は少し面食らったが、今夜は料理を選ぶのも面倒だった。
「じゃあ、とりあえずビールくれ」
「瓶しかねえぞ」
「構わねえよ」
ユージは冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、グラスと一緒に差し出した。
男は自分でビールを注ぎ、一気に半分ほど飲んだ。
「ふうっ……」
ようやく肩の力が抜けた気がした。
「何か食うか?」
「ああ。軽いもんで頼むよ。さっき飯を食ってきたばかりなんだ」
「わかった」
ユージはそれだけ言うと、厨房の奥へ引っ込んだ。
男はネクタイを緩めた。
高級懐石、フレンチ、黒毛和牛のステーキ。
連日、人が聞けば羨むような食事を続けてきた。
ただし、接待だ。
取引先の顔色をうかがい、好みを探り、言葉の端々に神経を尖らせる。
相手が笑えば笑い、話が弾めば酒を勧める。
すべては契約を取るためだった。
料理が運ばれてきても、気になるのは相手の反応ばかり。
いつしか、自分が何を食べているのかさえ、ろくに意識しなくなっていた。
「ほれ」
目の前に、小ぶりの椀が置かれた。
澄んだ汁に、白い魚の身が少し。
細く刻んだ長ねぎと針生姜が浮かび、柚子の皮が一片添えられている。
ほのかな磯の香りが立ち上っていた。
「なんだ、汁物かよ」
男は少し拍子抜けした。
だが、せっかく出されたものだ。
椀を持ち上げ、ひと口すすった。
「……!」
思わず動きが止まった。
鯛の旨味が、じんわりと口の中に広がっていく。
塩加減は控えめなのに、物足りなさがない。
生姜が後味を引き締め、柚子の香りが鼻に抜ける。
男はもうひと口すすった。
「……美味いな」
自然に言葉が漏れた。
高級料理店で何度も口にしてきた言葉だった。
だが、今の「美味い」は、それまでのものとはどこか違っていた。
誰かに聞かせるためでも、料理人を褒めるためでもない。
ただ、本当に美味いと思った。
そんな当たり前のことが、ひどく久しぶりに感じられた。
「あんた、ひどい顔してるぜ」
不意に、カウンターの向こうから声がした。
「え?」
「鏡、見てねえのか?」
「……そんなにひどいかい?」
「ああ」
ユージはそれだけ言うと、洗い物に戻った。
男は思わず苦笑した。
「ははっ。初めて来た客に、ずいぶんなこと言う親父だな」
「そうか?」
「そうだよ」
だが、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、少しおかしかった。
接待の席では、誰もそんなことを言わない。
男自身も、疲れた顔など決して見せないようにしてきた。
それなのに、初対面の居酒屋の親父に、あっさり見抜かれてしまった。
「……まあ、疲れてるのは確かだな」
男は残った潮汁をゆっくり飲み干した。
「大将、酒をもらえるかい?」
「何にする?」
「日本酒がいいな。冷やで頼む」
「あいよ」
ユージが酒を注ぐ。
「菊姫だ」
男はグラスを受け取り、ひと口飲んだ。
「これも美味いな」
「加賀の菊酒って言ってな。一説によると、かの豊臣秀吉が花見をしたときに振る舞われたらしい。よう知らんけど」
「なるほどね……」
そう言って、男はもうひと口、酒をすすった。
「しかし、参ったな」
「何がだ?」
「この歳になって、何やってんだろうと思ってさ」
ユージは返事をしなかった。
男は気にせず話を続けた。
「俺な、ずっと営業畑でやってきたんだ。若い頃から数字を追いかけて、契約取って、上を目指してさ」
男は少し誇らしげに笑った。
「そりゃ楽しかったぜ。ライバルに勝つのも、でかい契約をまとめるのもな。努力した分だけ結果が出る。あれはあれで、たまらねえもんがある」
「ふうん」
「気がついたら、結構いいところまで来てた。給料も悪くねえ。家だってある。娘にも、金のことで不自由させたことはねえと思う」
そこで、男はグラスを置いた。
「……もっとも、女房と娘は出ていっちまったけどな」
ユージは黙っていた。
「仕事ばっかりだったからなあ。休みの日もゴルフだ接待だって、ほとんど家にいなかった」
男は自嘲気味に笑った。
「家族のために働いてたつもりなんだが、肝心の家族がいなくなっちまった。笑えるだろ?」
「別に。昭和の男なんて、みんなそんなもんじゃねえのか」
「ははっ。それもそうだな」
男は酒を飲んだ。
「でもな、つい最近、女房から連絡があったんだよ」
「ほう」
「娘が結婚したい男を連れてきたらしい」
「そりゃめでてえな」
「まあ、そうなんだが……」
男は少し顔をしかめた。
「相手が介護施設で働いてる男なんだと」
ユージは黙って聞いていた。
「いや、まだ会ったことはねえんだ。女房の話じゃ、真面目でいい青年らしい」
「なら、いいじゃねえか」
「そう簡単に言うなよ」
男は苦笑した。
「介護職って言えば、ハードワークの割に待遇が悪いので有名だろ? 腰を痛めて働けなくなる奴もいるって聞くしな」
グラスを指先で回しながら、言葉を続ける。
「出世って言っても、せいぜいが施設長だろ? 知れてるよな」
「……」
「もちろん、この国のこれからを考えたら、介護が大事ってのはわかってるぜ」
男は少し声を落とした。
「でもな……いざ、娘がそんな男と結婚したいと言い出すと、やっぱり躊躇しちまう」
そう言って男は、グラスに残った酒を飲み干した。
「親父、もう一杯頼む」
「同じのでいいか?」
「ああ、むしろ同じのがいい」
「あいよ」
グラスに酒が満たされる。
「どうせ俺には、あいつら以外に家族はいねえからな。俺が稼いだ金は、全部あいつらにくれてやったっていいんだ」
男はグラスを見つめた。
「家族を蔑ろにして仕事ばっかりしてた俺の、ちょっとした贖罪だと思えば、なんてことねえ」
「ふうん」
「でもな、あからさまにそんなこと言うと、なんかいやらしいじゃねえか」
男は困ったように笑った。
「金でヨリを戻そうとしてるみたいで、嫌なんだよ」
「面倒くせえな」
「ん? ああ、俺のことか? まったくな」
男は寂しそうに笑った。
しばらくして、ユージがぽつりと言った。
「よくわかんねえが、自分で納得して、社会の役に立つ仕事をしてりゃいいんじゃねえのか?」
「……簡単に言ってくれるなあ、大将」
「そうか?」
「そうだよ。こっちは娘の一生がかかってんだぜ」
「そりゃそうだ」
「子供が生まれて、しばらくすると、兄弟を作ってやりたいと思うだろ?」
男は少し身を乗り出した。
「そしたら今度は教育だ。小学校から私立に入れようと思ったら、とりあえず金がかかるんだよ」
「ふうん」
「子供の目の前にいくつも道があるのに、金がねえってだけで、そのうちの一つを諦めさせるのは切ないぜ」
ユージは布巾でカウンターを拭きながら、首をかしげた。
「そんなもんなのかねえ……」
「何がだよ」
「別に、身の丈に合った生活しても、幸せになってる連中は山ほどいるだろ」
男は口を開きかけた。
だが、何も言わずに閉じた。
しばらく、店の中に静かな時間が流れた。
「……幸せのかたちかぁ」
男は独り言のように呟いた。
「そんなこと、考えたこともなかったぜ」
家族を幸せにしたかった。
そのために金を稼いだ。
金を稼ぐために出世を目指した。
いつしか、出世すること自体が目的になっていたのかもしれない。
もちろん、仕事が嫌いなわけではない。
今でも大きな契約を取れば嬉しいし、ライバルに勝てば気分がいい。
ただ――。
自分が思い描いていた幸せと、妻や娘が望んでいた幸せは、同じだったのだろうか。
「大将、何かもう一品もらえるか?」
男は考えを振り払うように言った。
「今日は存外に客が入ってな。もう、里芋の煮っころがししか残ってねえぞ」
「里芋か。いいねえ。それを頼むよ」
「あいよ」
ほどなくして、小鉢が差し出された。
照りのある里芋が三つ。
男は箸で一つつまみ、口に運んだ。
ほくりと崩れたあと、ねっとりとした舌触りが残る。
甘辛い煮汁が、芋の中までほどよく染みていた。
「……美味えなあ」
男はしみじみと言った。
そして、ふと思い出した。
「そういや、出てった家内もよく作ってたっけ」
もう一つ、里芋を口に運ぶ。
「俺、いつも帰りが遅くてさ。飯が用意してあっても、仕事のことばっか考えてた」
男は小鉢を見つめた。
「味わいもしないで食ってたぜ」
しばらく箸が止まった。
「……今から思うと、悪いことしたな」
ユージは何も言わなかった。
男も、それ以上は話さなかった。
ただ、残った里芋を一つずつ、ゆっくりと口に運んだ。
◇
「お客さん、そろそろ店を閉めたいんだが」
不意に声をかけられ、男は顔を上げた。
「おう、もうそんな時間か」
時計を見ると、ずいぶん遅くなっていた。
「いやあ、すっかり長居しちまったな」
「まったくだ」
「ははっ。最後まで愛想のねえ親父だ」
男は財布を取り出し、勘定を済ませた。
「世話になったな」
「ああ」
「また来るわ」
そう言って、男は店を出ていった。
外に出ると、夜風が思いのほか心地よかった。
男は誰もいない家に向かって歩き始めた。
いつもと変わらない帰り道だった。
それなのに、今夜は少しだけ、足取りが軽い気がした。
しばらく歩いたところで、男はふと立ち止まった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
妻とのやり取りを開いた。
最後に届いていたのは、娘の結婚相手についての相談だった。
男はしばらく画面を見つめていた。
そして、短い文章を打ち込んだ。
『今度、娘の彼氏に会わせてくれないか』
読み返してみる。
別に、結婚を認めたわけじゃない。
不安がなくなったわけでもない。
「とりあえず……会って話してみるか」
それから考えたって、遅くはないはずだ。
男はもう一度だけ画面を見つめたあと、送信ボタンを押した。
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