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【完結】門出屋の親父  作者: アズマユージ


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2/12

第二話 三課の鬼課長

 小田急線経堂駅から農大通りを歩いて五分。細い路地を曲がった先に、えんじの暖簾がかかった居酒屋が一軒。


 カウンター七席に、四人掛けのテーブルが二つ。親父が一人で切り盛りする、こぢんまりとした店だ。


 メニューはない。その日仕入れた新鮮な魚や旬の野菜を、親父が気の向くままに料理する。


 親父は無愛想で、客の話にも気のない返事をするばかり。


 それなのに、不思議と客たちは悩みを打ち明ける。


 親父は答えを出さない。ただ料理を作り、酒を注ぐだけだ。


 それでも、店を出る頃には、なぜか少しだけ前を向いている。


 多分偶然なのだろう。


 だが、偶然も重なれば必然となる。


 口さがない常連客たちは、この店を「門出屋」と呼ぶという。


 その店の名は「居酒屋ユージ」。


 今夜も静かに営業中。


◇


 その女が店の引き戸を開けたとき、ユージはカウンターの奥で魚を捌いていた。


 まだ三十代だろう。


 仕立てのよさそうなジャケットに、きちんと手入れされた上品なパンプス。肩まで伸びた髪も、化粧も、隙がない。


 ただ、顔色はよくなかった。


 目の下にはうっすらと隈があり、肌も少し荒れている。何より、その険しい表情が、ひどく疲れて見えた。


 どう見ても、こんな裏通りのくたびれた居酒屋に、一人で入ってくるような女ではない。


 彼女自身も、そう思っているようだった。


 女は引き戸を開けたまま、しばらく店内を見回していた。


「一人かい?」


「ええ……」


「好きなところに座んな」


 ユージは顔も上げずに答えた。


 女はカウンターの端に腰を下ろした。


「とりあえずビールを」


「うちは瓶しかねえよ」


「はい、じゃあそれを」


「あいよ」


 ユージは冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、グラスと一緒にカウンターに置いた。


 続いて、小鉢を一つ差し出した。


「お通しだ」


 小松菜と油揚げの煮浸しだった。


 女はグラスにビールを注ぎ、一口飲んで、小さく息を吐いた。


 それから、何気なく小鉢に箸を伸ばした。


「……あら、美味しい」


 ユージは何も答えず、魚を捌く手を動かしていた。


「油揚げが大きいのね」


「ああ、それな。分厚い油揚げに湯をかけて油抜きしてから煮ると、あっさり仕上がるんだ」


 女はもう一切れ、油揚げを口に運んだ。


 見た目よりもずっと軽い味だった。噛むと出汁がじんわりと染み出してくる。


「へえ。こういうお料理、久しぶりに食べたわ」


「そうかい」


 ユージは包丁を置き、まな板を拭いた。


「メニューを頂けるかしら」


「うちには、そんな気の利いたもんはねえよ」


「えっ?」


「その日仕入れたもんを出すから、何か欲しいもんがあれば言ってくれ」


「う〜ん、最近あまり食欲が無いの。何か軽いおつまみをお願い出来るかしら」


「魚は食えるかい?」


「ええ」


「じゃあ、ちょっと待ちな」


 ユージは捌いたばかりの鯛の刺身を皿に盛り、女の前に置いた。


 透き通るような白身に、淡い桜色が差している。


「春の鯛は美味いんだ」


 女は一切れ口に運んだ。


「……美味しい。すごい歯応えね」


「獲れたてだからな」


 噛むほどに、鯛の淡い甘味が広がっていく。


「日本酒が欲しくなっちゃった」


「じゃあ、これでも飲んでみな」


 ユージは冷蔵庫から一本の酒瓶を取り出した。


「鳳凰美田の純米大吟醸。栃木の酒だ」


 女は差し出されたグラスを口に運んだ。


「……あら。華やかだけど、しっかりした味なのね」


「鯛に負けねえだろ」


「本当。よく合うわ」


 女はもう一切れ刺身を食べ、酒を口にした。


 そして、小さく息を吐いた。


「……今日は、本当に最悪な日だったわ」


「そうかい」


「聞かないの?」


「聞いてほしいのか?」


「……別に」


「じゃあ、聞かねえよ」


 女は呆れたようにユージを見た。


「変わったお店ね」


「普通の居酒屋だよ」


 ユージはそう言って、まな板を洗い始めた。


 女はしばらく黙っていた。


 だが、酒が少し進んだ頃、再び口を開いた。


「私ね、会社で課長をやってるの」


「へえ」


「三課の課長。うちの会社じゃ、ちょっとした有名人なのよ」


「そりゃ結構なこった」


「三課の鬼課長、って呼ばれてる」


「鬼ねえ」


「レディに向かって、失礼しちゃうわよね」


「そうだな」


 相変わらず、気のない返事だった。


 女は少し不満そうにグラスを傾けた。


「同期の中では、私が一番早く課長になったのよ」


「へえ」


「誰よりも仕事ができる自信もある。実際、ずっと結果を出してきたし」


「そりゃ大したもんだ」


「……でもね」


 女はグラスを置いた。


「今日、同期の女性が部長に昇進したの」


「そうか」


「私より仕事ができるわけじゃないのよ。専門知識だって、判断の速さだって、私の方が上だと思う」


 ユージは黙って包丁を拭いている。


「彼女、部下に仕事を任せてばっかりなの。自分でやった方が早いようなことまで、人に振ってさ。何かあれば部下を褒めて、失敗したら自分が頭を下げる。そんなやり方なのよ」


「ふうん」


「それで部長よ。納得いかないわ」


「そりゃ、本人に言いな」


「言えるわけないでしょ!」


 女は声を荒らげ、それから自分で苦笑した。


「……まあ、そうよね」


 しばらくして、女はぽつりと言った。


「若い頃ね、すごく厳しい上司に鍛えられたの」


 ユージは何も言わなかった。


「毎日、『今日のお前の付加価値は何だった?』って聞くのよ。そんな、毎日毎日付加価値なんて作れるわけないじゃない」


 女は笑った。


 けれど、その笑顔にはどこか懐かしさがあった。


「でもね、あの頃はそれに応えなきゃと思って、必死だった。毎日遅くまで働いて、誰よりも勉強して。何を聞かれても答えられるようにして、誰にも負けないようにして……」


 女は刺身を一切れ口に運んだ。


「おかげで、ずいぶん鍛えられたわ。いろいろあったけど、あの上司には感謝してるのよ。あの人がいなかったら、今の私はなかったと思う」


「そうかい」


「でも、そのせいで彼氏にフラれちゃった」


 ユージが少しだけ顔を上げた。


「大学の頃から付き合ってたの。まあ、このまま結婚するんだろうなって思ってたんだけどね」


 女は自嘲気味に笑った。


「会う約束をしても仕事でキャンセル。旅行の予定を立てても急な出勤。そんなことばっかりだったから」


「……」


「そのうち、もう無理だって言われたわ…」


女はそう言うと、手元に目線を落として続けた。


「学生時代なんて、試験前になると私のノートコピーさせてくれってやって来てさ…。自分は授業サボって遊んでたのよ。一体、誰のお陰で大学を卒業できたと思ってるのよ! ホントにもう……」


 そう言うと、女は、益子焼の徳利から、お猪口に酒を注いだ。


「後で聞いたら、結婚したんですって。なんてことない、普通の女の人と」


 そう言ってから、女は少しだけ唇を噛んだ。


「私だって、頑張ってたのよ。仕事も、将来のことも、全部ちゃんとしようと思ってた。それなのに、ひどいと思いませんか?」


「さあな。俺はそいつじゃねえから、わからんよ」


 女は目を丸くした。


「……は?」


「お前さん、相手を間違ってないか? 慰めて欲しいんなら、他を当たりな」


 一瞬、女の顔が強張った。


 だが、次の瞬間、声を上げて笑った。


「あはは。自慢じゃないけど、三課の鬼課長にそんな口の利き方をする輩は、うちの会社には一人もいないわよ」


「そりゃ、気の毒にな」


「誰が?」


「部下に決まってんだろうが」


「失礼ね!」


 女は思わず背筋を伸ばした。


「これでも部下のためを思って厳しくしてるのよ」


「そうかい」


「私に出来たんだもの。あの子たちにだって、できないはずないわ」


「ふうん」


「できないことを、できないままにしておく方が無責任でしょ?」


「さあな」


「もう! さあな、ばっかり!」


「俺は会社勤めなんかしたことねえんだから、仕方ねえだろ」


 ユージはそう言って、洗い終えた皿を棚に戻した。


 女は不満そうに口を尖らせた。


 けれど、しばらくすると、その表情が曇った。


「……でもね」


 声が少し低くなった。


「彼氏の話も、出世の話も、まあそれはいいのよ。だけどさ……」


 女はお猪口を握りしめた。


「一番目を掛けて育ててたつもりの部下が、私のこと、パワハラだって人事部に言いつけやがったのよ」


 ユージの手が、ほんの一瞬止まった。


「自分でも信じられないくらいショックだった」


 女は俯いた。


「あの子、光るものは持ってたんだけど、最初は本当に仕事ができなくてね。報告書はまともに書けないし、取引先との打ち合わせでも、何を聞かれてるのか理解できない。だから私、何度も何度も教えたのよ」


「……」


「自分の仕事を後回しにしてまで付き合ったこともあるわ。厳しいことも言ったけど、全部あの子のためだった」


 女の声が震えた。


「なのに、パワハラですって」


 ユージは黙っていた。


「私がどれだけ時間を使ったと思ってるのよ。どれだけ期待してたと思ってるのよ」


 女は唇を噛んだ。


「……あの子にまで、そんなふうに思われてたなんて」


 最後の言葉は、ほとんど独り言だった。


 ユージは何も答えなかった。


 女も、それ以上は何も言わなかった。


 しばらく、店内には換気扇の低い音だけが響いていた。


 やがて、ユージが冷蔵庫から小さな容器を取り出した。


「もう一皿、食うかい?」


 女は顔を上げた。


「……ええ。いただくわ」


「あいよ」


 ユージは容器の蓋を開け、昆布に挟まれた白身魚を取り出した。


 丁寧に昆布を外し、薄く切って皿に盛る。


 それから、先ほどとは別の酒瓶を取り出した。


「こっちも飲んでみな」


 女は少し首を傾げた。


「さっきのお酒とは違うの?」


「ああ」


 女はまず、魚を一切れ口に運んだ。


「……あら?」


 思わず箸を止める。


「これも鯛?」


「ああ。一晩寝かせた昆布締めだ」


「さっきのお刺身とは、ずいぶん違うのね」


「まあな」


 先ほどの刺身には、みずみずしい弾力と淡い甘味があった。


 だが、こちらは違う。


 身がしっとりと締まり、噛むほどに昆布の旨味が広がっていく。鯛そのものの味も、先ほどより深く感じられた。


「でも、どっちも美味しい」


 ユージは小さく頷いた。


 女は新しく出された酒を口に含んだ。


 すっきりとした辛口の酒だった。


 昆布締めの旨味を引き立てながら、後味をきれいに流してくれる。


「お酒も変えたんですね」


「ああ。酔鯨っていう土佐の酒だ」


「土佐?」


「前に来た客が送ってきやがったんだ」


「へえ。いいお客さんじゃない」


「まったく、余計な気を遣いやがって」


 ユージはそう言って、酒瓶を冷蔵庫に戻した。


 女はもう一度、昆布締めを味わった。


 同じ鯛なのに、これほど違う。


 新鮮なまま食べるのもいい。


 一晩寝かせて、昆布の旨味を移すのもいい。


 女はふと、昼間の会議室を思い出した。


 部長に昇進した同期の女性。


 彼女は、部下の仕事が遅くても、すぐには手を出さなかった。


 自分なら十分で終わる仕事に、部下が一時間かけている。


 それを見て、何度苛立ったことだろう。


 だが、あいつの部下たちは、いつの間にか自分たちで仕事を進めるようになっていた。


 女は残った酒を口に含んだ。


 そして、苦笑した。


 ――まったく。今日は、余計なことばかり思い出すわね。


「どうした?」


「ううん。何でもない」


 女は小さく首を振った。


「それにしても、美味しいわね。この昆布締め」


「そりゃよかった」


 女は残っていた魚をゆっくり味わった。


「……ねえ、大将」


「あん?」


「なんか、大将の料理を食べてたら、久しぶりに食欲が湧いてきたわ」


「そりゃ結構なこった」


「何か温かいもの、作ってもらえないかしら?」


「ちょっと待ちな。ちょうどいいのがあるから、温め直してやるよ」


 ユージはそう言って、厨房の奥にある寸胴鍋の蓋を開けた。


 中には、大きめに切った牛肉と、野菜やキノコがたっぷり入っていた。


 そこから一人前を小鍋に取り分け、火にかける。


 やがて、店内に温かな香りが広がり始めた。


「いい匂い……」


「もうちょっと待ちな」


 女はカウンターに肘をつき、湯気の立つ鍋を眺めた。


 しばらくして、ユージが深めの器を差し出した。


「あいよ」


 柔らかく煮込まれた牛肉に、ニンジン、ゴボウ、シイタケ。


 どれも、箸で無理なく切れるほどよく煮えている。


「いただきます」


 女はまず、牛肉を口に運んだ。


「……ああ」


 思わず声が漏れた。


 決して味付けが濃いわけではない。


 柔らかく煮込まれた牛肉に、さまざまな野菜やキノコの旨味が溶け合い、なんとも優しい味に仕上がっていた。


「これ、美味しい……」


 ユージは何も言わず、カウンターの奥で洗い物を始めた。


 女は今度はゴボウを口にした。


 牛肉の旨味を吸いながらも、ゴボウ特有の香りがちゃんと残っている。


 ニンジンには自然な甘味があり、シイタケは噛むとじんわり出汁が染み出してきた。


「不思議ね」


「何が?」


「牛肉だけでも美味しいんでしょうけど、野菜もキノコも、ちゃんと美味しい」


「そりゃ、そういう料理だからな」


「この料理はなんていう名前?」


「ははっ。名前なんてねえよ」


「えっ、ないの?」


「まあ、強いて言やぁ、肉と野菜とキノコの煮物だ」


「そのまんまじゃない!」


 女は声を上げて笑った。


 そして、もう一口、煮物を味わった。


「そうね。主役だけじゃ、プロジェクトも成り立たないものね」


「……何の話だ?」


「ふふっ。こっちの話」


 女はもう一口、牛肉を頬張った。


 そういえば、最近は食事をしても、ほとんど味がしなかった。


 昼は仕事をしながらコンビニのおにぎりを食べ、夜は帰宅してから適当なものを口にする。


 それでも腹は減るし、食べなければ体がもたない。


 だから食べていただけだった。


 こんなふうに、料理を美味しいと思いながら食べたのは、いつ以来だろう。


「大将、この料理に合うお酒をくださいな」


「あいよ」


 ユージは棚から別の酒瓶を取り出した。


 小さなグラスに酒を注ぎ、女の前に置く。


 それから、冷たい水の入ったグラスも隣に置いた。


「手取川の吉田蔵だ。石川の酒だな。あと、こっちは和らぎ水だ」


「和らぎ水? 何か特別なお水なの?」


「ただの水道水だ」


「えっ?」


「金沢じゃあ、利き酒で酔っ払う奴が多かったんで、水を飲ませるようにしたんだとさ。それを和らぎ水って呼ぶようになったらしい」


「へえ、そうなんだ」


「まあ、嘘かホントかは知らねえけどな。金沢らしいだろ」


「ふふっ。そうね」


「頼まれりゃ酒くらい出すが、ここで酔い潰れられるのはごめんだからな。加減して飲んでくれよ」


「あはは……ありがとうございます」


「礼を言われるようなことじゃねえよ。まあ、あんたも少しは和らいだんじゃねえか。最初に店に入ってきたときは、ひどい顔してたからな」


「まあ、ずいぶんね!」


 女は笑いながら、冷たい水を一口飲んだ。


 そして、ふと、あの部下の顔を思い浮かべた。


 自分が何かを教えるたび、真剣な顔で頷いていた若い女の子。


 最近は、目を合わせなくなっていた。


 それでも女は、仕事ができるようになれば自信もつくだろうと思っていた。


 厳しくするのも、今だけだと。


 けれど、あの子にとっては、違ったのかもしれない。


 女は小さく息を吐いた。


 自分がやってきたことを、すべて間違いだったとは思わない。


 あの上司に鍛えられた日々を、今でも感謝している。


 それでも。


 ――よし。とりあえず悔しいけど、明日あの子に謝ろう。


 そう決めると、なんだか少し体が軽くなった気がした。


 彼女は、もう一口、酒を飲んだ。



挿絵(By みてみん)

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