第二話 三課の鬼課長
小田急線経堂駅から農大通りを歩いて五分。細い路地を曲がった先に、えんじの暖簾がかかった居酒屋が一軒。
カウンター七席に、四人掛けのテーブルが二つ。親父が一人で切り盛りする、こぢんまりとした店だ。
メニューはない。その日仕入れた新鮮な魚や旬の野菜を、親父が気の向くままに料理する。
親父は無愛想で、客の話にも気のない返事をするばかり。
それなのに、不思議と客たちは悩みを打ち明ける。
親父は答えを出さない。ただ料理を作り、酒を注ぐだけだ。
それでも、店を出る頃には、なぜか少しだけ前を向いている。
多分偶然なのだろう。
だが、偶然も重なれば必然となる。
口さがない常連客たちは、この店を「門出屋」と呼ぶという。
その店の名は「居酒屋ユージ」。
今夜も静かに営業中。
◇
その女が店の引き戸を開けたとき、ユージはカウンターの奥で魚を捌いていた。
まだ三十代だろう。
仕立てのよさそうなジャケットに、きちんと手入れされた上品なパンプス。肩まで伸びた髪も、化粧も、隙がない。
ただ、顔色はよくなかった。
目の下にはうっすらと隈があり、肌も少し荒れている。何より、その険しい表情が、ひどく疲れて見えた。
どう見ても、こんな裏通りのくたびれた居酒屋に、一人で入ってくるような女ではない。
彼女自身も、そう思っているようだった。
女は引き戸を開けたまま、しばらく店内を見回していた。
「一人かい?」
「ええ……」
「好きなところに座んな」
ユージは顔も上げずに答えた。
女はカウンターの端に腰を下ろした。
「とりあえずビールを」
「うちは瓶しかねえよ」
「はい、じゃあそれを」
「あいよ」
ユージは冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、グラスと一緒にカウンターに置いた。
続いて、小鉢を一つ差し出した。
「お通しだ」
小松菜と油揚げの煮浸しだった。
女はグラスにビールを注ぎ、一口飲んで、小さく息を吐いた。
それから、何気なく小鉢に箸を伸ばした。
「……あら、美味しい」
ユージは何も答えず、魚を捌く手を動かしていた。
「油揚げが大きいのね」
「ああ、それな。分厚い油揚げに湯をかけて油抜きしてから煮ると、あっさり仕上がるんだ」
女はもう一切れ、油揚げを口に運んだ。
見た目よりもずっと軽い味だった。噛むと出汁がじんわりと染み出してくる。
「へえ。こういうお料理、久しぶりに食べたわ」
「そうかい」
ユージは包丁を置き、まな板を拭いた。
「メニューを頂けるかしら」
「うちには、そんな気の利いたもんはねえよ」
「えっ?」
「その日仕入れたもんを出すから、何か欲しいもんがあれば言ってくれ」
「う〜ん、最近あまり食欲が無いの。何か軽いおつまみをお願い出来るかしら」
「魚は食えるかい?」
「ええ」
「じゃあ、ちょっと待ちな」
ユージは捌いたばかりの鯛の刺身を皿に盛り、女の前に置いた。
透き通るような白身に、淡い桜色が差している。
「春の鯛は美味いんだ」
女は一切れ口に運んだ。
「……美味しい。すごい歯応えね」
「獲れたてだからな」
噛むほどに、鯛の淡い甘味が広がっていく。
「日本酒が欲しくなっちゃった」
「じゃあ、これでも飲んでみな」
ユージは冷蔵庫から一本の酒瓶を取り出した。
「鳳凰美田の純米大吟醸。栃木の酒だ」
女は差し出されたグラスを口に運んだ。
「……あら。華やかだけど、しっかりした味なのね」
「鯛に負けねえだろ」
「本当。よく合うわ」
女はもう一切れ刺身を食べ、酒を口にした。
そして、小さく息を吐いた。
「……今日は、本当に最悪な日だったわ」
「そうかい」
「聞かないの?」
「聞いてほしいのか?」
「……別に」
「じゃあ、聞かねえよ」
女は呆れたようにユージを見た。
「変わったお店ね」
「普通の居酒屋だよ」
ユージはそう言って、まな板を洗い始めた。
女はしばらく黙っていた。
だが、酒が少し進んだ頃、再び口を開いた。
「私ね、会社で課長をやってるの」
「へえ」
「三課の課長。うちの会社じゃ、ちょっとした有名人なのよ」
「そりゃ結構なこった」
「三課の鬼課長、って呼ばれてる」
「鬼ねえ」
「レディに向かって、失礼しちゃうわよね」
「そうだな」
相変わらず、気のない返事だった。
女は少し不満そうにグラスを傾けた。
「同期の中では、私が一番早く課長になったのよ」
「へえ」
「誰よりも仕事ができる自信もある。実際、ずっと結果を出してきたし」
「そりゃ大したもんだ」
「……でもね」
女はグラスを置いた。
「今日、同期の女性が部長に昇進したの」
「そうか」
「私より仕事ができるわけじゃないのよ。専門知識だって、判断の速さだって、私の方が上だと思う」
ユージは黙って包丁を拭いている。
「彼女、部下に仕事を任せてばっかりなの。自分でやった方が早いようなことまで、人に振ってさ。何かあれば部下を褒めて、失敗したら自分が頭を下げる。そんなやり方なのよ」
「ふうん」
「それで部長よ。納得いかないわ」
「そりゃ、本人に言いな」
「言えるわけないでしょ!」
女は声を荒らげ、それから自分で苦笑した。
「……まあ、そうよね」
しばらくして、女はぽつりと言った。
「若い頃ね、すごく厳しい上司に鍛えられたの」
ユージは何も言わなかった。
「毎日、『今日のお前の付加価値は何だった?』って聞くのよ。そんな、毎日毎日付加価値なんて作れるわけないじゃない」
女は笑った。
けれど、その笑顔にはどこか懐かしさがあった。
「でもね、あの頃はそれに応えなきゃと思って、必死だった。毎日遅くまで働いて、誰よりも勉強して。何を聞かれても答えられるようにして、誰にも負けないようにして……」
女は刺身を一切れ口に運んだ。
「おかげで、ずいぶん鍛えられたわ。いろいろあったけど、あの上司には感謝してるのよ。あの人がいなかったら、今の私はなかったと思う」
「そうかい」
「でも、そのせいで彼氏にフラれちゃった」
ユージが少しだけ顔を上げた。
「大学の頃から付き合ってたの。まあ、このまま結婚するんだろうなって思ってたんだけどね」
女は自嘲気味に笑った。
「会う約束をしても仕事でキャンセル。旅行の予定を立てても急な出勤。そんなことばっかりだったから」
「……」
「そのうち、もう無理だって言われたわ…」
女はそう言うと、手元に目線を落として続けた。
「学生時代なんて、試験前になると私のノートコピーさせてくれってやって来てさ…。自分は授業サボって遊んでたのよ。一体、誰のお陰で大学を卒業できたと思ってるのよ! ホントにもう……」
そう言うと、女は、益子焼の徳利から、お猪口に酒を注いだ。
「後で聞いたら、結婚したんですって。なんてことない、普通の女の人と」
そう言ってから、女は少しだけ唇を噛んだ。
「私だって、頑張ってたのよ。仕事も、将来のことも、全部ちゃんとしようと思ってた。それなのに、ひどいと思いませんか?」
「さあな。俺はそいつじゃねえから、わからんよ」
女は目を丸くした。
「……は?」
「お前さん、相手を間違ってないか? 慰めて欲しいんなら、他を当たりな」
一瞬、女の顔が強張った。
だが、次の瞬間、声を上げて笑った。
「あはは。自慢じゃないけど、三課の鬼課長にそんな口の利き方をする輩は、うちの会社には一人もいないわよ」
「そりゃ、気の毒にな」
「誰が?」
「部下に決まってんだろうが」
「失礼ね!」
女は思わず背筋を伸ばした。
「これでも部下のためを思って厳しくしてるのよ」
「そうかい」
「私に出来たんだもの。あの子たちにだって、できないはずないわ」
「ふうん」
「できないことを、できないままにしておく方が無責任でしょ?」
「さあな」
「もう! さあな、ばっかり!」
「俺は会社勤めなんかしたことねえんだから、仕方ねえだろ」
ユージはそう言って、洗い終えた皿を棚に戻した。
女は不満そうに口を尖らせた。
けれど、しばらくすると、その表情が曇った。
「……でもね」
声が少し低くなった。
「彼氏の話も、出世の話も、まあそれはいいのよ。だけどさ……」
女はお猪口を握りしめた。
「一番目を掛けて育ててたつもりの部下が、私のこと、パワハラだって人事部に言いつけやがったのよ」
ユージの手が、ほんの一瞬止まった。
「自分でも信じられないくらいショックだった」
女は俯いた。
「あの子、光るものは持ってたんだけど、最初は本当に仕事ができなくてね。報告書はまともに書けないし、取引先との打ち合わせでも、何を聞かれてるのか理解できない。だから私、何度も何度も教えたのよ」
「……」
「自分の仕事を後回しにしてまで付き合ったこともあるわ。厳しいことも言ったけど、全部あの子のためだった」
女の声が震えた。
「なのに、パワハラですって」
ユージは黙っていた。
「私がどれだけ時間を使ったと思ってるのよ。どれだけ期待してたと思ってるのよ」
女は唇を噛んだ。
「……あの子にまで、そんなふうに思われてたなんて」
最後の言葉は、ほとんど独り言だった。
ユージは何も答えなかった。
女も、それ以上は何も言わなかった。
しばらく、店内には換気扇の低い音だけが響いていた。
やがて、ユージが冷蔵庫から小さな容器を取り出した。
「もう一皿、食うかい?」
女は顔を上げた。
「……ええ。いただくわ」
「あいよ」
ユージは容器の蓋を開け、昆布に挟まれた白身魚を取り出した。
丁寧に昆布を外し、薄く切って皿に盛る。
それから、先ほどとは別の酒瓶を取り出した。
「こっちも飲んでみな」
女は少し首を傾げた。
「さっきのお酒とは違うの?」
「ああ」
女はまず、魚を一切れ口に運んだ。
「……あら?」
思わず箸を止める。
「これも鯛?」
「ああ。一晩寝かせた昆布締めだ」
「さっきのお刺身とは、ずいぶん違うのね」
「まあな」
先ほどの刺身には、みずみずしい弾力と淡い甘味があった。
だが、こちらは違う。
身がしっとりと締まり、噛むほどに昆布の旨味が広がっていく。鯛そのものの味も、先ほどより深く感じられた。
「でも、どっちも美味しい」
ユージは小さく頷いた。
女は新しく出された酒を口に含んだ。
すっきりとした辛口の酒だった。
昆布締めの旨味を引き立てながら、後味をきれいに流してくれる。
「お酒も変えたんですね」
「ああ。酔鯨っていう土佐の酒だ」
「土佐?」
「前に来た客が送ってきやがったんだ」
「へえ。いいお客さんじゃない」
「まったく、余計な気を遣いやがって」
ユージはそう言って、酒瓶を冷蔵庫に戻した。
女はもう一度、昆布締めを味わった。
同じ鯛なのに、これほど違う。
新鮮なまま食べるのもいい。
一晩寝かせて、昆布の旨味を移すのもいい。
女はふと、昼間の会議室を思い出した。
部長に昇進した同期の女性。
彼女は、部下の仕事が遅くても、すぐには手を出さなかった。
自分なら十分で終わる仕事に、部下が一時間かけている。
それを見て、何度苛立ったことだろう。
だが、あいつの部下たちは、いつの間にか自分たちで仕事を進めるようになっていた。
女は残った酒を口に含んだ。
そして、苦笑した。
――まったく。今日は、余計なことばかり思い出すわね。
「どうした?」
「ううん。何でもない」
女は小さく首を振った。
「それにしても、美味しいわね。この昆布締め」
「そりゃよかった」
女は残っていた魚をゆっくり味わった。
「……ねえ、大将」
「あん?」
「なんか、大将の料理を食べてたら、久しぶりに食欲が湧いてきたわ」
「そりゃ結構なこった」
「何か温かいもの、作ってもらえないかしら?」
「ちょっと待ちな。ちょうどいいのがあるから、温め直してやるよ」
ユージはそう言って、厨房の奥にある寸胴鍋の蓋を開けた。
中には、大きめに切った牛肉と、野菜やキノコがたっぷり入っていた。
そこから一人前を小鍋に取り分け、火にかける。
やがて、店内に温かな香りが広がり始めた。
「いい匂い……」
「もうちょっと待ちな」
女はカウンターに肘をつき、湯気の立つ鍋を眺めた。
しばらくして、ユージが深めの器を差し出した。
「あいよ」
柔らかく煮込まれた牛肉に、ニンジン、ゴボウ、シイタケ。
どれも、箸で無理なく切れるほどよく煮えている。
「いただきます」
女はまず、牛肉を口に運んだ。
「……ああ」
思わず声が漏れた。
決して味付けが濃いわけではない。
柔らかく煮込まれた牛肉に、さまざまな野菜やキノコの旨味が溶け合い、なんとも優しい味に仕上がっていた。
「これ、美味しい……」
ユージは何も言わず、カウンターの奥で洗い物を始めた。
女は今度はゴボウを口にした。
牛肉の旨味を吸いながらも、ゴボウ特有の香りがちゃんと残っている。
ニンジンには自然な甘味があり、シイタケは噛むとじんわり出汁が染み出してきた。
「不思議ね」
「何が?」
「牛肉だけでも美味しいんでしょうけど、野菜もキノコも、ちゃんと美味しい」
「そりゃ、そういう料理だからな」
「この料理はなんていう名前?」
「ははっ。名前なんてねえよ」
「えっ、ないの?」
「まあ、強いて言やぁ、肉と野菜とキノコの煮物だ」
「そのまんまじゃない!」
女は声を上げて笑った。
そして、もう一口、煮物を味わった。
「そうね。主役だけじゃ、プロジェクトも成り立たないものね」
「……何の話だ?」
「ふふっ。こっちの話」
女はもう一口、牛肉を頬張った。
そういえば、最近は食事をしても、ほとんど味がしなかった。
昼は仕事をしながらコンビニのおにぎりを食べ、夜は帰宅してから適当なものを口にする。
それでも腹は減るし、食べなければ体がもたない。
だから食べていただけだった。
こんなふうに、料理を美味しいと思いながら食べたのは、いつ以来だろう。
「大将、この料理に合うお酒をくださいな」
「あいよ」
ユージは棚から別の酒瓶を取り出した。
小さなグラスに酒を注ぎ、女の前に置く。
それから、冷たい水の入ったグラスも隣に置いた。
「手取川の吉田蔵だ。石川の酒だな。あと、こっちは和らぎ水だ」
「和らぎ水? 何か特別なお水なの?」
「ただの水道水だ」
「えっ?」
「金沢じゃあ、利き酒で酔っ払う奴が多かったんで、水を飲ませるようにしたんだとさ。それを和らぎ水って呼ぶようになったらしい」
「へえ、そうなんだ」
「まあ、嘘かホントかは知らねえけどな。金沢らしいだろ」
「ふふっ。そうね」
「頼まれりゃ酒くらい出すが、ここで酔い潰れられるのはごめんだからな。加減して飲んでくれよ」
「あはは……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃねえよ。まあ、あんたも少しは和らいだんじゃねえか。最初に店に入ってきたときは、ひどい顔してたからな」
「まあ、ずいぶんね!」
女は笑いながら、冷たい水を一口飲んだ。
そして、ふと、あの部下の顔を思い浮かべた。
自分が何かを教えるたび、真剣な顔で頷いていた若い女の子。
最近は、目を合わせなくなっていた。
それでも女は、仕事ができるようになれば自信もつくだろうと思っていた。
厳しくするのも、今だけだと。
けれど、あの子にとっては、違ったのかもしれない。
女は小さく息を吐いた。
自分がやってきたことを、すべて間違いだったとは思わない。
あの上司に鍛えられた日々を、今でも感謝している。
それでも。
――よし。とりあえず悔しいけど、明日あの子に謝ろう。
そう決めると、なんだか少し体が軽くなった気がした。
彼女は、もう一口、酒を飲んだ。
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