第一話 船中七策
小田急線経堂駅から農大通りを歩いて五分。細い路地を曲がった先に、えんじの暖簾がかかった居酒屋が一軒。
カウンター七席に、四人掛けのテーブルが二つ。親父が一人で切り盛りする、こぢんまりとした店だ。
メニューはない。その日仕入れた新鮮な魚や旬の野菜を、親父が気の向くままに料理する。
親父は無愛想で、客の話にも気のない返事をするばかり。
それなのに、不思議と客たちは悩みを打ち明ける。
親父は答えを出さない。ただ料理を作り、酒を注ぐだけだ。
それでも、店を出る頃には、なぜか少しだけ前を向いている。
多分偶然なのだろう。
だが、偶然も重なれば必然となる。
口さがない常連客たちは、この店を「門出屋」と呼ぶという。
その店の名は「居酒屋ユージ」。
今夜も静かに営業中。
◇
「いらっしゃい!」
店の引き戸がガラガラと音を立てて開き、上品なストールを肩に掛けた初老の女性が入ってきた。
「お好きな席をどうぞ」
カウンターの向こうから、店主が声を掛けた。
女性は店内を見渡した。
こぢんまりとした店だったが、掃除は行き届いており、どこか居心地のよさを感じさせた。
「じゃあ、カウンターで。一人なの」
「だったら、ここ空いてるぜ」
先客の男が、隣の席を指さした。
女性は少し迷ったあと、一席空けて腰掛けた。
「飲み物は何にします?」
「あっ、じゃあビールをお願いします」
「あいよ」
店主は冷えたグラスと瓶ビールを女性の前に置いた。
「はい、付き出し」
そう言って、小鉢をそっと添える。
小鉢には、ほうれん草のおひたしが盛られ、削りたてらしい鰹節がふんわりと乗っていた。
女性はビールを一口飲むと、箸を伸ばした。
鰹節の豊かな香りが、口から鼻へと抜けていく。
「あら、いい鰹節ね」
「おっ、お客さん、わかるかい?」
先客の男が嬉しそうに言った。
「この店は意外と食材にこだわってるんだぜ」
「意外は余計だ」
店主がぼそりと返した。
女性は思わず笑った。
しばらくして、遠慮がちに声を掛けた。
「あの……メニューを見せていただけますか?」
それを聞いた先客の男が、笑いながら言った。
「この店に、そんな気の利いたものはねえよ」
「え?」
「親父が勝手に出してくれるもんを、黙って食えって寸法さ」
「気が利かなくて悪かったな」
店主がぼそりと返した。
男は愉快そうに笑っている。
「お客さん、お腹は空いてるかい?」
店主が女性に尋ねた。
「ええ、少しだけ」
「それと、何か嫌いなものは?」
「いえ、特には……」
「そうかい。じゃあ、ちょっと待っててくれ」
店主はそう言うと、奥の厨房へ向かった。
女性は少し不思議そうな顔をしていたが、やがて小さく笑い、ビールをもう一口飲んだ。
しばらくすると、店主が湯気の立つ椀を運んできた。
「はいよ。ツミレ汁だ」
「まあ、美味しそう」
女性は椀を手に取り、まず汁を一口すすった。
「……あら、美味しい」
ふんわりとしたツミレから、魚の旨味が口いっぱいに広がる。
「これ、何のお魚ですか?」
「イワシだよ」
「そうなんですか。臭みが全然ないのね」
「そりゃ、親父の腕がいいからな」
先客の男が、なぜか得意げに言った。
「あんたが威張ることじゃねえだろ」
店主がぼそりと返す。
女性はまた笑った。
男はその様子を見て、気さくに声を掛けた。
「お客さん、見ない顔だけど、この店は初めてだよな?」
「ええ」
「そうかい。よくこんな店を見つけたね」
「実は、亡くなった主人が通っていたらしいんです」
「えっ? 亡くなった?」
男は思わず女性の顔を見た。
「……名前は?」
女性が夫の名前を告げると、男は驚いたように声を上げた。
「ああ、あの旦那か!」
「ご存じなんですか?」
「知ってるも何も、よくここで一緒に飲んでたよ。そういや、最近見ねえと思ってたんだが……」
男はグラスを置いた。
「そうか。亡くなったのか……」
「ええ。三か月前に」
「病気で?」
「癌でした。検査入院したら、そのまま手術になって……。結局、一度も家に帰れなかったんです」
「そいつは……」
「あと三年で定年だったんですけどね」
女性は静かに笑った。
「本当に、呆気ないものですね。あんなに元気だった人が、たった三か月でいなくなっちゃうんですから」
「そうか……」
「最後まで仕事ばっかりでした。家庭のことなんて、何にもしない人で」
女性はビールを一口飲んだ。
「頑固で、融通が利かなくて。こっちの言うことなんて、ちっとも聞かないんですから」
「ははっ。確かに、不器用そうな旦那だったな」
「でしょう?」
女性は苦笑した。
「生きてるときは腹の立つことばっかりだったんですけどね」
「不思議なことに、いなくなったらいなくなったで、なんとなく寂しいものね」
男は黙って頷いた。
カウンターの向こうでは、店主が次の料理の支度をしていた。
「そういや、あの旦那、四国の人だったよな?」
男が思い出したように言った。
「ええ。高知です」
「ああ、そうだ。高知だった」
「田舎の頑固親父を絵に描いたような人でしたよ」
「ははっ。言えてる」
男は笑った。
「そういや、定年になったら田舎に帰りたいって言ってたな」
女性が顔を上げた。
「……あの人、そんなこと言ってたんですか?」
「ああ。自然に囲まれて、女房と二人でのんびり暮らすのもいいもんだって」
「妙に嬉しそうだったよ」
「……私には、何にも言わなかったわ」
「そうなのか?」
「ええ。一度も」
女性は少し考え込んだ。
「実は、あの人とは高知の中学校で同級生だったんです」
「へえ!」
「家も近所でね。小さい頃から知ってるんですよ」
「そりゃ、長い付き合いだ」
「そうね……気付いたらもう半世紀を超えちゃったわ」
女性は懐かしそうに目を細めた。
「でも、結婚してこちらに出てきてからは、ほとんど帰ってないんです」
「両親もとうの昔に亡くなりましたし、親戚ともすっかり疎遠になってしまって……」
「はいよ」
店主が女性の前に皿を置いた。
厚めに切られたカツオのタタキに、ミョウガの千切り、おろし生姜、刻みネギ、ニンニクの薄切りが添えられている。
「あら、カツオのタタキ」
「戻りのいいやつが入ったからな」
店主は小皿を二つ置いた。
「塩とポン酢、好きな方を使ってくれ」
女性はポン酢を少しつけ、一切れ口に運んだ。
「……美味しい」
思わず声が漏れた。
「懐かしいわ。田舎にいた頃は、よく食べてたの」
もう一切れ口に運ぶ。
「あの人も、これが大好きだったわ」
「そういや、あの旦那、カツオが好きだったな」
男が頷いた。
「子供の頃からなんですよ。うちでカツオが出ると、私の分まで食べようとして」
「ははっ。食い意地の張った親父だったからな」
「そうなんです。大人になっても、全然変わらなかった」
女性は声を立てて笑った。
「それからあの旦那、酒が入って興に乗ると、よく何か書いてたな。うんうん唸りながらさ」
「そうだったんですか?」
「ああ。何を書いてるんだって聞いても、見せてくれなくてな」
店主が顔を上げた。
「ああ、そういや……」
カウンターの下の引き出しを開け、ごそごそと探し始めた。
「最後に預かったやつが、まだあったな」
そう言って、一枚の紙を取り出した。
「毎回書き直しては俺に預けていく。迷惑な客だったよ」
「あの人ったらもう……本当にすみません」
「でも、取っておいてくれたんですね」
「ああ。何となく捨てられなくてな」
店主は紙を女性の前に置いた。
「旦那の字だろ?」
女性は紙を手に取った。
「……ええ。間違いないわ。ありがとうございます」
紙の一番上には、大きな字でこう書かれていた。
『船中八策』
「あら」
女性が小さく笑った。
「これ、あの人の好きなお酒の名前だわ」
「そうそう!」
男が頷いた。
「あの旦那、よく船中八策を飲んでたな。高知の酒だって、いつも自慢してたっけ」
「中身は読んでねえから、何が書いてあるか知らねえけどな」
店主はそう言うと、また厨房へ戻っていった。
女性は紙を広げた。
そこには、夫の見慣れた字で、いくつかの項目が書かれていた。
一、女房と二人で高知に帰る。
「……やっぱり、高知に帰りたかったのね」
女性は小さく呟いた。
二、古民家を買い、老後に備えて自分で直す。
「古民家を自分で直すですって?」
女性は思わず笑った。
「あの人、釘一本まともに打てなかったくせに」
「ははっ。そりゃ大変だ」
三、小さな畑を作り、野菜を育てる。
「畑ねえ……」
女性は首を傾げた。
「土いじりなんて、したこともなかったのに」
四、料理を覚える。
「……料理?」
女性は目を丸くした。
「目玉焼き一つ作れなかった人が、何を考えてたのかしら」
「定年になったら、時間だけはたっぷりあるからな」
男が笑った。
「そうかもしれませんけど……」
女性もつられて笑った。
五、女房にゴルフを教える。
「あらまあ!」
今度は声を上げて笑った。
「あの人、休みになるとゴルフばっかり行ってたんですよ。私が一緒に行ってみたいって言ったら、お前には無理だって」
「ははっ。あの旦那らしいな」
「本当に、勝手な人なんだから」
六、毎月一度、二人で旅行する。
「……旅行、ねえ」
女性は少し考え込んだ。
「そういえば、新婚旅行以来、二人きりで旅行なんて数えるくらいしか行ってなかったわ」
紙を持つ手が、わずかに止まった。
そして、最後の項目に目を移した。
七、女房にウェディングドレスを着せて、もう一度結婚式を挙げる。
「…………」
女性は黙り込んだ。
遠い昔の記憶が、ふいによみがえった。
若い頃、彼女は教会で結婚式を挙げるのが夢だった。
純白のウェディングドレスを着て、長いバージンロードを歩く。
そんな、ありふれた夢だった。
けれど、田舎の家のしきたりや親戚の意向もあって、結局は神前式になった。
夫は何も言わなかった。
彼女も、仕方がないと諦めた。
それから何十年も経ち、そんなことはすっかり忘れていた。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
「バカねえ……こんなおばあちゃんに、ウェディングドレスが似合うわけないじゃないの」
女性は小さく笑った。
「でも……覚えてたんだ」
もう一度、七つ目の文字を見つめる。
「なんで、ちゃんと言わないのよ……」
その声は、少し震えていた。
「……本当に、不器用な人」
女性は笑った。
目には涙が光っていた。
誰も何も言わなかった。
しばらくして、女性がふと首を傾げた。
「あら?」
「どうした?」
「これ、船中八策って書いてあるのに、七つしかないじゃない」
男が紙を覗き込む。
「本当だ。あの旦那、八つ目を書き忘れたのか?」
「ふふっ。そういうところも、あの人らしいわね」
女性は紙を丁寧に折り畳んだ。
そして、しばらく考え込んだ。
高知。
夫が生まれ育った土地。
自分も、子供の頃を過ごした場所。
今さら帰ったところで、何があるというのだろう。
それなのに、夫はあの土地へ帰りたがっていた。
しかも、自分と二人で。
古民家を直し、畑を作り、料理を覚え、ゴルフを教え、毎月旅行に出かける。
そんな暮らしを、本気で考えていたのだろうか。
「こんなこと、最後まで言わないなんて。本当に勝手な人なんだから……」
ため息とともにそう漏らすと、なぜか無性に故郷を見たくなった。
「……決めた」
女性が顔を上げた。
「私、一度高知に帰ってみるわ」
隣の男が驚いた。
「おいおい、いきなりだな」
「ええ。あの人が、どうしてあんなに帰りたがっていたのか、ちょっと見てみたくなったの」
「そうか」
「何十年も帰ってないから、きっとずいぶん変わってるでしょうね」
女性は少し楽しそうに笑った。
「でも、変わってないものも、あるかもしれないし」
そう言って、バッグを手に取った。
「ごちそうさま。美味しかったです」
「そりゃ、どうも」
「それから……ありがとうございました」
女性は店主に頭を下げ、それから常連客に向き直った。
「あなたも、主人のお話を聞かせてくださって、ありがとうございました」
「いやいや、こっちこそ。久しぶりにあの旦那の話ができて、楽しかったよ」
女性はもう一度二人に頭を下げ、店を出ていった。
引き戸が静かに閉まった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、常連客がぽつりと言った。
「そういや、あの旦那、よく言ってたよな」
「何をだ?」
「よく考えてみたら、俺は一人じゃ何一つできないんだよな、ってさ」
「ああ、そんなことも言ってたな」
「仕事ばっかりしてきたから、定年になったら何していいかわからねえって。そういや、女房には世話になりっぱなしだから、いつかちゃんと礼を言わなきゃとも言ってたっけ」
「そうだったな」
「でも、どうにも照れくさくて言えねえって、ぼやいてたよな」
店主は黙って頷いた。
「もしかして、八つ目はそれだったんじゃねえのか?」
店主は少し考えるような顔をした。
「さあな。そうかもしれんが、違うかもしれん」
「何だよ、それ」
「でもまあ、あの七つをよく読みゃ、わかるんじゃねえのか」
店主は皿を一枚取り出した。
「知らんけど」
男は、しばらくぽかんとしていた。
やがて、声を上げて笑った。
「ははっ! 相変わらず、とぼけた親父だぜ!」
「うるさい」
店主は顔も上げずに言った。
「さすが、伊達に門出屋なんて呼ばれてないな!」
「人の店を変な名前で呼ぶな!」
「ははっ! 照れるなって」
「つべこべ言わずに、早く注文してくれないか。飲み終わったんなら帰ってくれ」
「おいおい、ひでえな。店はガラガラじゃねえか」
「だったら、なおさら帰ってくれ」
「ははっ。まあいいや。なんか美味いもん作ってくれよ」
「……あいよ」
そのとき、また引き戸がガラガラと音を立てた。
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お読みいただき、ありがとうございます。
『門出屋の親父』は、居酒屋を舞台に、さまざまな人々の人生の節目を描く連作短編集です。不定期で少しずつ書き続けていきたいと思っています。
なお、現在連載中の『【新装版】枯れたおっさん、何もしないで異世界を救う』も、本日10月19日22時より第五部「異文化交流編」をスタートします。
こちらもお楽しみいただければ幸いです。




