特別書き下ろし① 初めての仕入れ
本編全10話をお読みいただき、ありがとうございます。
ここからは番外編を三話、お届けします。
客たちの門出を見送ってきた親父の、その後の日常を、もう少しだけ覗いていただければ嬉しいです。
まずは、里帆と出掛ける初めての仕入れ。
いつものカウンターを離れ、朝の豊洲市場へ向かいます。
どうぞ、もうしばらくお付き合いください。
「うー、寒い。それに眠い」
ぶつぶつ言いながら、里帆が車の助手席に乗り込んだ。
「嫌なら来なくてもいいんだぜ」
「嫌よ。若女将として、一度見ておかないと」
「誰が若女将だ、誰が」
「そんなの決まってるじゃない!それにしても朝早いわね」
「まあな。市場の朝は早いからな」
「そうなんだ、大変ね」
「しかしまあ、俺たちみたいな個人の店はセリに参加する訳じゃないからな」
「何?もっと早い人もいるの?」
「ああ、テレビで見たこと無いか?指立ててセリやってるの」
「ああ、あれね」
「あいつらは、朝の2時とか3時とかに市場に入ってるんだぜ」
「何それ?朝っていうか、まだ夜じゃない!」
「ちげえねえ」
午前五時。
ユージは店の裏に停めてある、年代もののスバル・フォレスターのエンジンをかけた。
この日は、初めて里帆も市場へ連れていくことになっていた。
二人がシートベルトを締めると、ユージは車を出した。
まだ暗い通りには、人影もほとんどない。
昼間なら自転車や買い物客で賑わう街も、今は街灯の下で眠っていた。
そんな話をしているうちに、車は千歳通りから環八に出て、用賀インターで首都高に乗った。
里帆は暖房の吹き出し口に両手をかざした。
「この車、ずいぶん長く乗ってるの?」
「十年だな」
「へえ。大事にしてるのね」
「まだまだ走るからな。買い替える理由がねえ」
そう言うユージの声は、少しだけ得意げだった。
◇
合流を終え、前方に十分な間隔が空いたところで、ユージはアクセルを踏み込んだ。
一拍遅れて、エンジンの音が変わった。
「わっ!」
里帆の背中が、シートに押し付けられた。
「何よ! ジェットコースターじゃないんだから!」
「あはは! これがいいんじゃねえか」
ユージはアクセルを緩め、流れに合わせて車を走らせた。
「最近じゃあ、こういう癖のある車も少なくなっちまった。あの一拍がいいんだよ」
「はあ、酔うかと思った……」
「それに、このエンジンの音がいいんだ」
里帆の抗議は、聞こえていないらしい。
「水平対向エンジン。俗にボクサーエンジンって言ってな」
「ふうん」
「知ってるか? この水平対向にこだわってんのが、スバルとポルシェなんだぜ」
「へえ」
「スバルってのはな、その昔は飛行機を作ってた会社なんだ」
「そうなんだ」
里帆は窓の外を眺めていた。
ビルの窓に、まだ夜の灯りが残っている。
「トヨタと組んでから、すっかり大人しくなっちまったけどよ。この頃のフォレスターは、荒っぽいところもあるが、気が利いてんだ」
「ふうん」
「スバル乗りは、スバリストって言ってな。一度気に入ると、もう他の車に浮気はできねえ」
「へえ。一途なのね」
「当たり前だ。こいつとは長い付き合いだからな」
「ふうん……」
里帆はユージの横顔を見た。
いつも店で見ているときよりも、ずっと楽しそうだった。
「何だよ」
「ううん。料理以外の話でも、そんなに喋るのね」
「……うるせえ」
◇
豊洲市場に着く頃には、里帆の眠気も、すっかり覚めていた。
大きな建物の中へ入ると、外の冷たい風が途切れた。
白い照明の下に、店が並んでいる。
発泡スチロールの箱。氷の上に並ぶ銀色の魚。作業台の向こうでは、前掛けをした男たちが手を動かしていた。
小型の運搬車が近づいてくる。
ユージは里帆の袖を軽く引き、通路の端へ寄せた。
「ぼうっと歩いてると、邪魔になるぞ」
「分かってるわよ」
そう答えながらも、里帆の目は忙しく動いていた。
「築地の頃とは、ずいぶん違うもんだ」
ユージが言った。
「前はもっと、ごちゃごちゃしてた。まあ、あれはあれで――」
「見てみて! あの魚、デカい!!」
里帆が立ち止まった。
店先の作業台に、大きなマグロが横たわっていた。
すぐそばにいる人間と比べると、なおさら大きく見える。
「あれ、マグロ?」
「ああ、本マグロだな」
「へえ…高いんだろうな」
「初セリの時なんか、1000万を超える時もあるからな」
「い、いっせんまん?」
「まあ、普段はそんなにしねえけどな」
「でも、100万はするのよね?」
「そうだな」
里帆は、もう一度マグロを見た。
「ほら、そこで止まるな」
「もうちょっと見せてよ」
「仕入れに来たんだぞ。遠足じゃねえんだからな」
里帆は名残惜しそうに振り返りながら、ユージについていった。
◇
「おう、大将! 今日は連れがいるじゃねえか!」
馴染みの仲卸に着くと、店の男が顔を上げた。
「娘さんかい?」
「違えよ」
「あら、私、そんなに若く見えます?」
里帆は嬉しそうに笑った。
「店、手伝ってもらってんだ」
「へえ! 大将が人を入れるなんて、珍しいこともあるもんだ」
「余計なお世話だ。それより、今日はどうだ?」
ユージは箱の中をのぞき込んだ。
店の男も、すぐに魚へ目を戻した。
「今日は鯛がいいよ。あと、こっちのアジも見てみな」
ユージは魚を見ながら、産地や値段を短く尋ねた。
さっきまで車の中で喋り続けていた人とは、別人のようだった。
「じゃあ、そっちをもらう」
男は魚を取り分けながら、ちらりと里帆を見た。
「姉ちゃん、いいところに勤めたな。ここの賄いなら、俺も食いてえよ」
「美味しいですよ!」
「大将、ちゃんと給料も払ってやれよ。飯だけで働かせるんじゃねえぞ」
「うるせえな。さっさと包んでくれ」
男は笑いながら、手を動かした。
その後も、行く先々で似たようなやり取りになった。
ユージが早く話を切り上げようとするほど、里帆と店の人間の話が弾む。
最後の買い物を終える頃には、里帆はすっかり市場に馴染んだ顔をしていた。
◇
「はあ、お腹空いてきちゃった」
仕入れを終え、荷物を車に積み込むと、里帆がお腹に手を当てた。
「テレビで見たけど、豊洲って、美味しいお店がたくさんあるんでしょ?」
「まあな」
「海鮮丼とか、お寿司とか」
「あんなバカ高い飯、普段から食えるわけねえだろ」
「えっ、そうなの?」
「テレビに出るような豪勢なやつだろ。ありゃ観光客向けだ」
ユージは荷室のクーラーボックスの蓋を閉めた。
「築地のときは、場外にもいい店がたくさんあったんだがな。こっちの場外は、どうも俺には馴染まねえ」
「そうなの?」
「最近はインバウンドだの円安だので、高い飯でも構わず食ってく客が多いからな」
ユージは助手席のドアを開けた。
「ほら、乗んな」
「ええっ。何も食べずに帰るの?」
「握り飯作ってきたから、とりあえずそれ食っとけ」
ユージは小さな手提げ袋から、アルミ箔の包みを取り出した。
「なんだ、おにぎりか……」
「いらねえなら返せ」
「食べるわよ」
助手席に座った里帆は、包みを開いた。
少し大きめの握り飯だった。
海苔の巻かれた三角形に、ためらいなくかぶりつく。
「……何これ!」
運転席に乗り込んだユージが、顔を向けた。
「何だよ」
「このおにぎり、美味しい!」
「そうかい」
「鮭がゴロゴロ入ってる。しかも、柔らかい!」
身は大きくほぐされ、噛むと脂の旨味がご飯に広がった。
塩気もちょうどいい。
里帆は、もう一口頬張った。
「これ、今朝焼いたの?」
「昨日の晩酌のつまみの残りだ」
「へえ……」
里帆は握り飯を見つめた。
昨夜、ユージが焼いていた鮭を思い出す。
自分が風呂から上がってきたときには、もう片付けを始めていた。
そういえば、皿の脇に取り分けていたものがあった気もする。
「さっき、賄い用の魚も買ったからよ。昼には美味いもん作ってやる」
「……うん」
里帆は、また一口食べた。
ユージは何も言わず、エンジンをかけた。
◇
帰り道、里帆は空になったアルミ箔を小さく畳んでいた。
「ところで、ユージさん」
「何だよ」
「あのとき、どうして私を入れてくれたの?」
「あのとき?」
「ほら、会社辞めて、荷物持ってきた夜」
「ああ。転がり込んできた、あの晩か」
「転がり込んだって……まあ、そうだけど」
ユージは前を向いたまま、少し黙っていた。
「そうだな……」
やがて、ぽつりと言った。
「昔、捨て猫を拾ったことがあってな」
「猫?」
「ああ。俺が小学生の頃だ。あの日も寒い夜だった」
信号が赤になった。
ユージはゆっくり車を止めた。
「箱の中で鳴いててよ。見るに見かねて、家に連れて帰ったんだ」
「うん」
「でも、その頃はまだ親父の商売も軌道に乗ってなくてな。家にも余裕がなくて、とても猫なんか飼えねえ。お袋にこっぴどく叱られた」
里帆は黙って聞いていた。
「元の場所に戻してこいって言われて、泣く泣くそうしたんだ。箱の中にカイロを入れてやったけど、まだ生まれて間もないような猫でな」
「……それで?」
「翌朝、気になって見に行ったら、箱ごとなくなってた」
「誰か、連れて帰ってくれたのかしら」
「さあな」
信号が青に変わった。
ユージは、ゆっくりと車を発進させた。
しばらくして、里帆が口を開いた。
「難しい話ね……。で、それと私と、どう関係するの?」
「いや。なんか、あのときのことを思い出してよ。見捨てられなかったんだ」
「あたしゃ捨て猫か!」
「ははは! 同じようなもんだろうが!」
「失礼しちゃうわね!」
里帆は頬を膨らませた。
けれど、すぐに小さく息を吐いた。
「これでも、本当に感謝してるんだから」
「……よせやい」
ユージは前を向いたままだった。
里帆は、その口元が少し緩んだのを見て、自分も微笑みを浮かべた。
――また……はぐらかされちゃったわね。
◇
店に戻ると、二人で荷物を運び込んだ。
魚は冷蔵庫へ。野菜は箱から出して、それぞれの置き場へ収める。
里帆はユージに場所を聞きながら、一つずつ片付けていった。
やがて、厨房の中にいつもの包丁の音が響き始めた。
里帆もエプロンを着け、器を並べた。
昼が近づく頃、ユージは冷蔵庫からブリのカマを取り出した。
「それ、さっき買った魚?」
「おう。照り焼きにしてやる」
まずは塩を振り、しばらく置く。
表面に水分が浮いてくると、カマをザルに並べ、熱湯を掛け回した。白くなった表面を流水で洗い、血や汚れを丁寧に落としていく。
キッチンペーパーで水気を押さえ、もう一度、軽く塩を振る。
それから、弱火でじっくりと焼き始めた。
「強火で一気に焼いちゃ駄目なの?」
「カマは厚みがあるからな。火が強えと、外だけ焦げて、中は生焼けになっちまう」
ユージは焼け具合を確かめながら、火を調節した。
やがて、皮にこんがりと焼き色がつき、香ばしい匂いが厨房に広がった。
別のフライパンには、醤油やみりん、酒などを合わせた煮汁が用意されていた。
そこへ水飴を少し加え、溶かしておく。
ユージは焼いたカマをそっと移し、火にかけた。
煮汁がふつふつと煮立つ。
スプーンですくっては、カマの上へ掛ける。
何度も、ゆっくりと。
「ひっくり返さないの?」
「あんまり触ると、身が崩れちまうからな。こうやって汁を掛けてやりゃいいんだ」
里帆はカウンターに身を寄せ、その手元を眺めた。
煮詰まるにつれて、煮汁にとろりとした艶が出てくる。
「みりんもいいんだが、水飴を少し入れると、照り具合がよくなるんだ」
皮のくぼみや、ほぐれかけた身の間にも、甘辛いタレが少しずつ絡んでいった。
「いい匂い……」
ユージは最後にもう一度タレを掛けると、身を崩さないよう、そっと皿へ移した。
「ほら、昼飯にするぞ」
カウンターに、ブリカマの照り焼きと、白いご飯、味噌汁、小鉢が並んだ。
ユージも隣に腰を下ろした。
「いただきます!」
里帆は箸を取り、骨のそばの身をほぐした。
ひと口食べて、目を細める。
「……美味しい」
「そうかい」
「こんなに身があるのね」
「その辺、よく探してみな。まだあるぞ」
里帆は言われたところに箸を入れた。
骨に沿って、白い身が大きく外れた。
「わあ、本当だ」
タレを少し付け、ご飯と一緒に頬張る。
「これは、ご飯が進むわねえ」
「美味けりゃ、今夜出すか」
「賛成!」
「こいつに合いそうないい地酒が入ったからな。池田の呉春だ」
「いいわね! 冷えてる?」
「馬鹿野郎、まだ昼だぞ!」
「ちぇっ、残念……」
ユージは呆れた顔をした。
里帆は笑いながら、もう一口、ご飯を食べた。
◇
食べ終えた皿を、里帆が洗っていた。
隣でユージが布巾を絞る。
窓から差し込む昼の光が、拭き上げたカウンターを照らしていた。
「さあ、そろそろ仕込みを始めるぞ」
ユージが言った。
「今夜も食い意地張った飲んべえどもがやって来るぞ」
「あはは、そうね! 私も頑張る!」
里帆は洗い終えた皿を置き、エプロンの紐を結び直した。
◇
小田急線経堂駅から農大通りを歩いて五分。細い路地を曲がった先に、えんじの暖簾がかかった居酒屋が一軒。
カウンター七席に、四人掛けのテーブルが二つ。無愛想な親父と、よく笑う女将が切り盛りする、こぢんまりとした店だ。
メニューはない。その日仕入れた新鮮な魚や旬の野菜を、親父が気の向くままに料理する。
親父は無愛想で、客の話にも気のない返事をするばかり。
その隣では、女将が客と笑い合っている。
そんな店で、不思議と客たちは悩みを打ち明ける。
親父は答えを出さない。ただ料理を作り、酒を注ぐだけだ。
それでも、店を出る頃には、なぜか少しだけ前を向いている。
多分偶然なのだろう。
だが、偶然も重なれば必然となる。
口さがない常連客たちは、この店を「門出屋」と呼ぶという。
その店の名は「居酒屋ユージ」。
今年からは、二人仲良く営業中。
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お読みいただき、ありがとうございます。
店を出ても、相変わらず不器用な親父。
里帆と二人で営む居酒屋ユージを、これからも見守っていただければ嬉しいです。
次の番外編は「久しぶりのゴルフ」。
常連たちに誘われ、長らくクラブを握っていなかったユージが、ゴルフ場へ出掛けます。
こちらも、どうぞお楽しみに。




