閉ざされた場所
第六章
「お帰りなさい。」
その一言で。
すべてが、静かに落ちた。
抵抗が消える。
思考が止まる。
恐怖も。
苦しみも。
すべてが、遠くなる。
何も感じない。
何も考えない。
ただ。
そこにいるだけ。
抱きしめられたまま。
動かない。
動こうとも思わない。
「いい子ね。」
頭上から落ちる声。
優しく。
満足したように。
その言葉も。
その温度も。
受け入れてしまう。
拒絶する理由が、もうない。
すべてが、どうでもいい。
ここにいればいい。
そう思ってしまう。
思い出してしまったから。
あの体験を。
あの恐怖を。
もう逃げられない。
だが。
―おかしい。
どこかで。
かすかに。
何かが引っかかる。
だが。
すぐに消える。
思考が、続かない。
深く考えられない。
そのまま。
沈んでいく。
その時―。
「殿下!」
遠くから。
声が届く。
微かに。
かすれている。
だが。
確かに。
耳に入る。
反応しない。
できない。
必要がない。
そのはずなのに。
また。
引っかかる。
今度は、少しだけ強く。
「殿下、戻って来てください!」
声が近づく。
必死に。
何度も。
繰り返される。
その響きが。
少しずつ。
沈んだ意識に波を立てる。
揺れる。
ほんの僅かに。
そこで。
浮かぶ。
言葉が。
理由もなく。
意味も分からず。
カイン目線。
視界に映る。
殿下の姿が。
―おかしい。
動かない。
反応がない。
呼んでいるのに。
届いていない。
胸がざわつく。
嫌な予感が、確信に変わる。
遅れた。
間に合わなかった。
その考えが、頭をよぎる。
だが。
否定する。
そんなはずはない。
ここで終わらせるわけにはいかない。
「殿下!」
声を張る。
これまでないほど強く。
感情が乗る。
抑えきれない。
焦りが滲む。
一歩。
また一歩。
だが。
近づくほど分かる。
様子が違う。
目が、違う。
なにも映していない。
空虚なまま。
そこにいるだけ。
その事実が。
何よりも恐ろしい。
「……くそ。」
思わず、零れる。
こんな声。
自分でも聞いたことがない。
冷静でいられない。
崩れている。
分かっている。
それでも止められない。
「戻って下さい……!」
懇願に近い。
命令ではない。
願い。
必死の。
それでも、届かない。
反応がない。
手を伸ばす。
触れようとする。
だが。
一瞬、躊躇する。
壊れてしまいそうで。
触れたら。
完全に失ってしまいそうで。
その恐怖が、よぎる。
だが―。
止まれない。
ここで止まれば。
本当に終わる。
歯を食いしばる。
迷いを捨てる。
手を伸ばす。
「殿下!」
叫ぶ。
初めて。
完全に感情を露わにして。
カインの声がする。
その声が。
空間を震わせる。
ここで手を離せば、二度と届かないと理解していた。
ただ。
残っている。
「……帰る。」
小さく。
かすかに。
零れる。
自分でも分からない。
なぜその言葉なのか。
どこへ帰るのか。
何に帰るのか。
それでも。
その一言だけが。
沈みきらない。
消えない。
内側に、残る。
違和感が。
少しずつ、形になる。
ここではない。
違う。
ここは。
帰る場所ではない。
その認識が。
ゆっくりと。
広がる。
「……帰る。」
今度は、少しだけ強く。
言葉になる。
その瞬間。
何かが、軋む。
内側で。
支配が、揺らぐ。
均等が崩れ始める。
「殿下!」
声が、すぐ近くにある。
手が伸びている。
視界が、わずかに動く。
ぼやけた中で。
輪郭が見える。
あの姿。
あの存在。
そこで。
理解する。
どこへ帰るのか。
何に帰るのか。
すべてが繋がる。
ここではない。
あそこだ。
あの手の先だ。
その瞬間―。
意識が、弾けた。
意識が沈むきる直前。
視界の端で。
カインの姿が映る。
何かを叫んでいる。
届かない。
音が遠い。
だが。
確かに、そこにいる。
次の瞬間。
身体が引き寄せられる。
強く。
確かに。
支えられる。
温度が違う。
理解する。
―戻る。
その安堵が、わずかに広がる。
その時。
視界の向こう。
あの女が、こちらを見ている。
微笑んでいる。
変わらない。
そして。
ゆっくりと、唇が動く。
声はない。
だが。
はっきりと読み取れる。
―迎えに行く。
―待っていて。
心臓が、強く跳ねる。
否定したいのに。
身体が、覚えている。
抗えない予感。
そのまま。
意識が、完全に沈んだ。
目を覚ました時。
身体が、あまりにも軽かった。
違和感を覚えるほどに。
力が入らない。
視界も、ぼやけている。
隣に、カインがいる。
いつも通りのはずなのに。
何かが違う。
表情が、僅かに硬い。
「……問題ない。」
掠れた声で言う。
それでも。
それだけは、崩さない。
カインは、何も言わない。
ただ、静かに頷く。
その時。
医師が呼ばれる。
診察が行われる。
そして―。
沈黙が落ちる。
異常な数の注射痕。
弱りきった身体。
そして。
焦点の定まらない瞳。
明らかに、普通ではない。
「……安静が必要です。」
それだけ告げられる。
それからの生活は、静かだった。
あまりにも。
不自然なほどに。
外出は制限され。
日課だった鍛練も止められた。
ただ、部屋で休むだけの日々。
医師の言う通り。
安静は第一だった。
カインは、ほとんどの時間を側で過ごした。
必要以上に離れない。
常に視界の中にいる。
それが当然のように。
何も言わずに続けられていた。
「……問題ない。」
そう言えば。
それ以上は聞かない。
それが、逆に分かる。
何かを、見てしまっていることを。
聞くべきことではないと、理解していることを。
部屋は静かだ。
風の音だけが、微かに聞こえる。
窓から差し込む光。
穏やかなはずの時間。
なのに。
落ち着かない。
理由は分からない。
ただ。
どこかが、ずれている。
何かが足りない。
あるいは。
何かが、残っている。
ふと。
香りがした気がした。
甘い。
あの時の。
思考が止まる。
次の瞬間―。
息が、詰まる。
急に。
何の前触れもなく。
空気が入らない。
喉が閉じる。
胸が締め付けられる。
視界が揺れる。
床が近づく。
崩れる。
身体が震える。
止まらない。
音が遠くなる。
代わりに。
声が、蘇る。
「大丈夫ですよ。」
すぐ近くで。
あの声が。
耳元で。
確かに。
―いるはずがないのに。
「……っ、は……。」
呼吸ができない。
身体が言うことを聞かない。
現実と違う。
分かっている。
それでも。
止められない。
その時―。
「殿下!」
強く呼ばれる。
肩を掴まれる。
揺さぶられる。
現実に引き戻される。
カインの声。
はっきりと。
届く。
息が戻る。
一気に。
空気を吸い込む。
むせる。
咳き込む。
身体の震えは、まだ止まらない。
だが。
ここにいる。
戻ってきている。
それだけは分かる。
「……問題ない。」
掠れた声で、言う。
いつも通りに。
それでも。
完全には整わない。
カインは、何も言わない。
視線を外さない。
まるで。
もう一度、消えてしまうのを恐れるように。
しばらくして。
呼吸が少し落ち着く。
だが。
違和感は消えない。
残ったまま。
ふと。
自分の腕に触れる。
包帯の下。
消えきらない痕。
思い出そうとすると。
頭が鈍く痛む。
そこで、やめる。
それ以上は、踏み込まない。
踏み込めない。
「……帰る。」
ふと、零れる。
意味もなく。
どこへともなく。
その言葉だけが、残る。
カインが、わずかに反応する。
だが。
何も言わない。
ただ、静かに視線を向けるだけ。
その沈黙が、重い。
理解しているのかもしれない。
この言葉の意味を。
自分よりも、先に。
それでも。
何も言わない。
それが、信頼だった。
発作が収まっても。
完全には戻らない。
呼吸はまだ浅いまま。
身体の奥に、震えが残っている。
それを見て。
カインは短く告げる。
「医師を。」
すぐに人が動く。
慌ただしい足音。
だが、意識はぼやけたまま。
現実感が薄い。
やがて。
扉が開く。
医師が入ってくる。
何かを確認し。
小さく頷く。
「鎮静が必要です。」
その言葉。
理解が追いつく前に―。
視界に入る。
細い、銀の光。
注射器。
その瞬間。
思考が、止まる。
全身が拒絶する。
「……っ、やめ―。」
言葉にならない。
身体が勝手に動く。
後ずさりする。
逃げるように。
だが。
力が入らない。
バランスを崩す。
それでも。
離れようとする。
恐怖が先に立つ。
理性を超えて。
理解ではない。
反射。
「殿下、落ち着いてください。」
声がする。
医師のもの。
だが。
届かない。
違う。
違う。
それじゃない。
頭の中で、何かが叫ぶ。
同じだと。
あの時と。
同じだと。
近づく。
注射器が。
ゆっくりと。
逃げられない距離まで。
「……来るな!」
叫ぶ。
はっきりと。
初めて。
恐怖を隠さずに。
だが。
止まらない。
伸びてくる。
腕へ。
刺さる、その直前―。
身体が暴れる。
制御できない。
振り払おうとする。
拒絶する。
全力で。
「殿下!」
カインの声。
すぐ近く。
だが。
止まらない。
止められない。
過去が、重なる。
同じ光景。
同じ恐怖。
同じ無力。
崩れる。
完全に。
その時。
強く、押さえられる。
肩を。
腕を。
逃げられないように。
「……っ、離せ!」
叫ぶ。
必死に。
だが。
抑えられる。
複数の手で。
逃げ場を塞がれる。
その状況が。
さらに恐怖を増幅させる。
完全に一致する。
過去と。
今が。
「大丈夫です。」
医師の声。
落ち着いている。
だが。
意味を持たない。
その言葉は。
別の声に重なる。
「大丈夫ですよ。」
―違う。
分かっているのに。
区別できない。
次の瞬間。
鋭い痛み。
刺さる。
逃げられないまま。
注射される。
身体の力が抜ける。
一気に。
意識が沈む。
視界が揺れる。
ぼやける。
最後に。
見える。
カインの顔。
歪んでいる。
初めて見る表情。
何かを、言っている。
だが。
聞こえない。
ただ。
その表情だけが残る。
そして―。
完全に沈んだ。完全に逃げきれていないと、理解させられる。
その静かな時間は。
長くは続かなかった。
その違和感の正体を、まだ知らなかった。
静まり返った室内。
眠るセレスティアンの傍で。
医師は、ゆっくりと息を吐いた。
その表情は、明らかに重い。
「……殿下は。」
一度、言葉を切る。
選ぶように。
慎重に。
「精神的に、極めて強い外傷を受けています。」
その言葉に。
空気が変わる。
カインの視線が鋭くなる。
皇帝も、何も言わずに続きを待つ。
「単なる疲労や衰弱ではありません。」
はっきりと告げる。
「強いトラウマ反応です。このままでは―。」
一瞬、沈黙。
そして。
「……命に関わります。」
その一言は、重かった。
否定できない現実として。
落ちる。
視線が、ベッドへ向く。
静かに眠る姿。
あまりにも無防備で。
あまりにも脆い。
「安静を保つ必要があります。」
医師は続ける。
「刺激を極力排除し、身体と精神の両方を守らなければなりません。」
その判断は迅速だった。
拘束具が用意される。
最小限の動きを制御するために。
拒絶ではない。
保護のための措置。
だが―。
その光景は、あまりにも痛々しい。
腕が固定される。
点滴が繋がれる。
静かに、栄養が流れ込む。
呼吸は安定している。
今は、まだ。
「鎮静剤を投与します。」
医師が告げる。
注射器を手に取る。
ゆっくりと近付く。
その瞬間―。
変化が起きる。
眠っていたはずの身体が。
びくりと震える。
呼吸が乱れる。
眉が歪む。
「……っ、や……。」
かすかな声。
無意識のまま。
拒絶が表に出る。
次の瞬間。
大きく身体が跳ねる。
拘束されたまま。
強く。
激しく。
「殿下!」
カインが駆け寄る。
抑える。
だが。
収まらない。
目を閉じたままなのに。
完全に、恐怖の中にいる。
呼吸が乱れる。
速く。
浅く。
そして―。
不意に。
止まる。
一瞬。
空気が、凍る。
「―心拍が!」
医師の声。
即座に動く。
胸に手を当てる。
押す。
一定のリズムで。
何度も。
何度も。
時間が、伸びる。
長く感じる。
だが。
実際には、ほんの僅かな間。
そして―。
小さく、跳ねる。
戻る。
呼吸が、再会する。
空気が流れ込む。
かすかに。
だが、確実に。
生きている。
緊張が、わずかに緩む。
だが。
医師の表情が、それを物語っていた。
「……危険です。」
低く、はっきりと告げる。
「このままでは、同じことが繰り返されます。」
視線が二人に向く。
決断を促すように。
「対処が必要です。」
一瞬の沈黙。
そして。
「―再度、記憶を封じることを提案します。」
その言葉が。
重く、落ちた。
その言葉が落ちた瞬間。
空気が、張り詰める。
誰も、すぐには動かない。
カインは、ただベッドを見ている。
眠るセレスティアンを。
静かに。
じっと。
その姿は、あまりにも弱い。
呼吸は浅く。
顔色も悪い。
今にも、消えてしまいそうで。
胸の奥が、軋む。
これまでにない感覚。
守れなかったという現実が。
重く、のしかかる。
「……記憶を封じれば。」
カインが、低く口を開く。
視線を逸らさないまま。
「安定するのですか。」
確認するように。
だが、その声には迷いが滲んでいる。
医師は頷く。
「一時的には。少なくとも、今のような急激な発作は抑えられるでしょう。」
一時的。
その言葉が引っかかる。
理解している。
根本的な解決ではないことを。
ただ。
今を乗り切るための手段だと。
カインの手が、わずかに握られる。
視線が、わずかに揺れる。
そして。
ベッドへ近づく。
手を伸ばす。
触れる。
額に。
熱はない。
だが、温度が不安定だ。
生きている。
確かに。
それを確認するように。
指先が、わずかに強くなる。
このままでは。
また、壊れる。
それは分かっている。
だが―。
記憶を封じるということは。
殿下の過去を奪うことになる。
どれほどの意味を持つのか。
分からないはずがない。
それでも。
選ばなければならない。
守るために。
何を。
どこまで。
許すのかを。
「……。」
言葉が出ない。
初めて。
決断をためらう。
その時。
かすかに。
声がする。
「……帰る。」
眠っているはずの唇が。
わずかに動く。
掠れた声。
それでも、確かに。
その一言が落ちる。
カインの動きが止まる。
目を見開く。
今の状態で。
それでも。
残っている。
この言葉だけは。
消えていない。
それが、何を意味するのか。
考えるまでもない。
この意志まで。
消していいのか。
奪っていいのか。
その問いが。
突きつけられる。
静寂。
重い沈黙。
やがて―。
カインは、ゆっくりと手を離す。
そして、立ち上がる。
視線を医師へ向ける。
揺らぎは、消えていた。
「……その必要はない。」
はっきりと、告げる。
迷いはない。
「この方は殿下は、戻る。」
断言する。
信じるのではない。
決めている。
「奪う必要はない。」
静かに。
だが、強く。
言い切る。
それが。
カインの選択だった。
静かな夜。
規則正しい呼吸。
点滴の滴る音だけが、微かに響く。
セレスティアンは、眠っていた。
浅い眠り。
安らかとは程遠い。
その傍らに。
音もなく、影が差す。
誰も気づかない。
気配すら、残さない。
そこにいることが、当たり前であるかのように。
女は立っていた。
ベッドを見下ろしながら。
穏やかな表情で。
「……やっと、戻ってきましたね。」
小さく、呟く。
返事はない。
眠っているのだから、当然だ。
それもでも構わない。
届いていると、信じている。
手を伸ばす。
ゆっくりと。
頬に触れる。
その温もりを確かめるように。
そして、拘束具を外す。
「大丈夫ですよ。」
優しく。
囁く。
あの頃と同じ声で。
点滴を外す。
「今度こそ、離しませんから。」
指先が、なぞる。
額から、頬へ。
逃げ場のない優しさ。
その瞬間―。
セレスティアンの指が、わずかに動く。
反応。
無意識の。
だが、確かに。
拒絶するように。
眉が寄る。
呼吸が乱れる。
夢の中で。
何かを思い出しかけている。
暗い部屋。
閉ざされた空間。
逃げられない感覚。
そして―。
同じ声。
「……いや……。」
かすかな声が漏れる。
眠ったまま。
それでも。
否定だけが、浮かび上がる。
女は、微笑む。
「大丈夫ですよ。」
もう一度。
同じ言葉を繰り返す。
その意味が。
まったく違うままで。
「あなたは、ここに帰るのですから。」
腕を差し入れる。
身体を抱き上げる。
軽い。
あまりにも。
壊れそうなほど。
それが、愛おしさを増幅させる。
「ほら、帰りましょう。」
囁く。
当然のように。
疑いもなく。
そのまま。
音もなく、歩き出す。
部屋を出る。
誰にも気づかれずに。
連れ戻すために。
本来あるべき場所へと。
その時。
セレスティアンの唇が、かすかに動く。
「……帰る……。」
小さく。
掠れた声で。
だが。
その言葉の意味は―。
まだ、定まっていなかった。
揺れている。
規則的に。
ゆっくりと。
意識の裏で、それを感じる。
完全に眠っている訳ではない。
だが、目を開けることもできない。
重い。
身体が、自分のものではないように。
誰かに、支えられている。
抱きかかえられている感覚。
温度。
近すぎる距離。
その違和感が。
じわじわと、意識を浮上させる。
息が、わずかに乱れる。
指先が、かすかに動く。
その瞬間―。
「大丈夫ですよ。」
耳元で、声がする。
近く。
あまりにも近くで。
聞き慣れてしまった声。
思考が、止まる。
身体が、強張る。
逃げろと、どこかが叫ぶ。
だが。
動かない。
「すぐに戻りますからね。」
優しく。
安心させるように。
だが、その言葉は。
恐怖しか呼び起さない。
映像が、滲む。
暗い部屋。
閉ざされた扉。
逃げられない空間。
繰り返される声。
同じ言葉。
「……やめ……。」
掠れた声が漏れる。
無意識に。
拒絶が先に出る。
だが。
抱きかかえる腕は、揺るがない。
むしろ、強くなる。
「怖がらなくていいのです。」
囁きが落ちる。
その言葉が。
最も恐ろしい。
意識が、また沈む。
抗えないまま。
深く。
暗く。
そして―。
目を開ける。
ゆっくりと。
重い瞼を、無理やり持ち上げる。
視界が、滲む。
ぼやけた、輪郭。
知らない天井。
いや―。
知っている。
その認識が、先に来る。
心臓が、強く跳ねる。
呼吸が乱れる。
身体を起こそうとする。
力が入らない。
遅れて理解する。
拘束されている。
逃げられない形で。
その事実が。
一気に現実を引き寄せる。
「……起きましたか。」
声がする。
すぐ近くで。
視線を向ける。
いる。
やはり。
そこに。
変わらない姿で。
女が、微笑んでいる。
「お帰りなさい。」
その一言。
静かに。
当然のように。
告げられる。
否定を許さない響きで。
全身が、強張る。
息が詰まる。
逃げ場がない。
完全に、閉じられている。
その状況で。
理解してしまう。
―戻された。
あの場所へ。
視界が揺れる。
記憶が、浮かび上がる。
断片的に。
だが、確実に。
消したはずのものが。
消えていない。
残っている。
奥に。
深く。
「忘れてしまったのですね。」
女が、静かに言う。
残念そうに。
だが、どこか嬉しそうに。
「大丈夫ですよ。」
一歩、近づく。
逃げられない距離まで。
「すぐに思い出しますから。」
その言葉と同時に―。
恐怖が、確信に変わる。
ここは。
帰る場所ではない。
だが―。
身体が、覚えている。
逃げられなかったこと。
抗えなかったことを。
そして。
壊れていったことを。
「お帰りなさい。」
その声が、落ちる。
逃げ場のない空間に。
「……やっと、思い出せる場所に戻ってきましたね。」
優しく。
穏やかに。
だが、その響きは否定を許さない。
身体が強張る。
動けない。
視線だけが、かろうじて動く。
そこにいる。
女が。
変わらない微笑みで。
「もう迷わなくていいのですよ。」
一歩、近づく。
距離が、縮まる。
逃げ場が消える。
「ここ以外に、どこに帰るのですか?」
静かに。
問いかけるようで。
答えを許さない声。
「あなたを受け入れる場所など、他にはありませんよ。」
胸が、強く締め付けられる。
否定したい。
違うと、言いたい。
だが―。
言葉が出ない。
身体が拒む。
思考が、追いつかない。
手が伸びる。
触れられる。
頬に。
びくりと、反応する。
「震えていますね。」
優しく、なぞる。
逃げられないまま。
「大丈夫。」
囁く。
耳元で。
「すぐに、思い出しますから。」
その瞬間―。
流れ込む。
記憶が。
断片ではない。
はっきりと。
鮮明に。
暗い部屋。
閉ざされた扉。
助けを求めても、届かない声。
何度も。
何度も。
繰り返された時間。
「ほら……あの夜も、こうしていましたね。」
声が、重なる。
記憶と。
現実が。
「逃げようとして、でも逃げられなくて。」
呼吸が乱れる。
苦しい。
逃げたい。
だが―。
「最後には、静かになったね。」
その言葉で。
心が、折れる。
あの時。
確かに。
諦めた。
抗うことを。
やめた。
その記憶が。
今、完全に蘇る。
「あなたは、最初からこういう子でしたから。」
優しく。
肯定するように。
だが、それは―。
否定だ。
すべてを。
「壊れても、ちゃんと戻って来てくれる。」
視界が揺れる。
思考が崩れる。
抗えない。
そのまま。
沈むはずだった。
だが―。
どこかで。
引っかかる。
何かが。
完全には落ちない。
「選ばなくていいのですよ。」
さらに、声が重なる。
楽になる。
考えなくていい。
抗わなくていい。
その誘惑が。
甘く、広がる。
だからこそ―。
違うと、分かる。
どこかで。
確かに。
残っている。
言葉が。
「……帰る。」
かすかに。
漏れる。
自分でも分からないまま。
だが。
その一言が。
引きとめる。
崩れきるのを。
女の動きが、止まる。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
「……まだ、残っているのですね。」
静かに、呟く。
その目が、細くなる。
興味と。
愉悦が混ざる。
そして―。
微笑む。
深く。
「大丈夫ですよ。」
一歩、さらに近づく。
逃げ場は、完全に消える。
「すぐに、すべて思い出します。」
手が、伸びる。
額へ。
触れる。
その瞬間―。
最も深い記憶が。
引きずり出される。
まだ、思い出していなかったもの。
本当に。
忘れていたもの。
それが、開く。
恐怖が。
頂点に達する。
壊れる。
また。
完全に。
その寸前。
「お帰りなさい。」
囁く。
すぐ近くで。
「―私のところへ。」
恐怖が、頂点に達する。
思考が砕ける。
意識が、沈む。
すべてが、崩れ落ちる―。




