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誘拐

第五章 


 目を覚ます。

 知らない天井だった。

 視線を動かす。

 狭い。

 窓はない。

 光は、弱い灯りだけ。

 起き上がろうとする。

 身体が、重い。

 力が入らない。

 思うように動かない。

 違和感。

 すぐに理解する。

 ―異常だ。

 記憶を辿る。

 思い出せない。

 直前が、抜けている。

 その時。

「起きましたね。」

 声がする。

 すぐ近く。

 ゆっくりと顔を向ける。

 そこにいる。

 女性。

 穏やかな表情。

 だが。

 はっきりとした顔は分からない。

 知らない。

 記憶にない。

「ここは……?」

 問いかける。

 声がかすれる。

 乾いている。

「大丈夫ですよ。」

 答えになっていない。

 それでも。

 優しい。

「怖がる必要はありません。」

 近づいてくる。

 一歩。

 また一歩。

 距離が縮まる。

 本能的に、身体が強張る。

 逃げようとする。

 動かない。

 間に合わない。

 手が伸びる。

 触れられる。

 頬に。

 その瞬間。

 全身が凍りつく。

 拒絶。

 恐怖。

 理由は分からない。

 だが。

 確実に。

 知っている?

「やっと、触れられました。」

 嬉しそうに呟く。

 その言葉が、異常だった。

 理解する。

 ここは安全ではない。

 この女は、普通ではない。

 だが。

 逃げられない。

 選択肢がない。

「少しだけ、一緒にいましょう。」

 微笑む。

 優しく。

 包み込むように。

 それが、何より恐ろしかった。

 時間が分からない。

 昼か夜かも分からない。

 ただ、同じ空間。

 同じ声。

 同じ存在。

 食事は与えられる。

 水もある。

 生きることは出来る。

 だが。

 逃げられない。

 それで十分だった。

「今日は少し顔色がいいですね。」

 声がする。

 毎回、同じ調子。

 変わらない。

 近づいてくる。

 距離を詰める。

 避けたい。

 だが、動けない。

 触れられる。

 また。

 同じ場所。

 頬。

 そのたびに。

 恐怖が増していく。

 理解できない。

 なぜこんなにも、嫌悪するのか。

 なぜこんなにも、怖いのか。

 理由がない。

 それでも。

 身体が拒否する。

「大丈夫ですよ。」

 繰り返される言葉。

 安心させるためのはずなのに。

 少しずつ。

 確実に。

 思考が鈍る。

 抵抗する力が、減っていく。

 それが分かる。

 数日か。

 それ以上か。

 感覚が狂う。

 現実が薄れる。

 ここがすべてになる。

 そうなりかけた、その時―

 手が伸びる。

 また、触れられる。

 同じ場所。

 同じ温度。

 同じ優しさ。

 その瞬間。

 はっきりと理解する。

 これは、壊される感覚だと。

 守られているのではない。

 閉じ込められている。

 奪われている。

 逃げなければならない。

 強く思う。

 だが。

 身体が動かない。

 声も出ない。

 ただ。

 触られ続ける。

「ずっと、こうしたかった。」

 囁く。

 心の奥に。

 刻まれる。

 ――その瞬間。

 すべてが、途切れた。

 扉が破られる。

 鈍い音。

 閉ざされた空間に、外の空気が流れ込む。

 光が差し込む。

 眩しい。

 目が開けられない。

 足音が近づく。

 複数。

 誰かが叫んでいる。

 だが。

 意味として入ってこない。

 音として認識できない。

「……殿下!」

 声。

 強く。

 はっきりと。

 その一言だけが、届く。

 顔を向ける。

 視界がぼやける。

 それでも。

 分かる。

 そこにいる。

 カイン。

 いつもと同じ。

 変わらないはずの存在。

 なのに。

 理解が追いつかない。

 現実感がない。

 夢のように、遠い。

「……来るのが遅い。」 

 口にする。

 自然に。

 いつも通りの言葉のはずだった。

 だが。

 声に感情がない。

 空洞のように響く。

 カインの動きが止まる。

 一瞬だけ。

 だが、確かに。

 何かが崩れる音がしたような気がした。

「――すぐに医師を。」

 低く命じる。

 迷いはない。

 だが。

 その声の奥に、わずかな焦りが滲んでいた。

 運ばれる。

 身体は軽い。

 力が入らない。

 誰かに支えられている。

 それは理解できる。

 だが。

 触れている感覚が、遠い。

 現実が薄い。

 周囲の声。

 動き。

 すべてがどこかに遅れて届く。

 その中で。

 一つだけ。

 はっきり残る。

 感触。

 頬に残る、あの温もりを。

 消えない。

 離れない。

 思い出す。

 触れられる間隔。

 優しい声。

 拒絶したいのに。

 身体が震えている。

 それが。

 何よりも、気持ち悪かった。

「強い精神的外傷です。」

 静かな声。

 落ち着いている。

 だが、重い。

「このままでは日常生活に支障をきたす可能性が高い。」

 説明される。

 言葉は理解できる。

 だが。

 どこか他人事のようにも聞こえる。

「記憶の処理が必要です。」

 一瞬、沈黙が落ちる。

 意味は分かる。

 何を言っているのか。

 正確に。

「……消すのか。」

 誰かが問う。

 低い声。

 抑えられている。

 皇帝だった。

「正確には封じる形になります。」

 医師が答える。

「原因となる記憶を隔離し、認識できない状態にする。」

 淡々とした説明。

 処置としての言葉。

「それにより、安定は保たれます。」

 合理的だった。

 正しい判断。

 誰も否定できない。

 それでも。

 わずかに沈黙が残る。

「……行え。」

 決断される。

 短く。

 迷いなく。

 それが最善だと理解しているから。

 その選択が。

 すべてを変えることになるとも知らずに。

 記憶が沈む。

 ゆっくりと。

 静かに。

 抵抗はない。

 する理由もない。

 何を失うのか。

 理解できていないから。

 思考が薄れる。

 記憶が遠ざかる。

 断片が浮かぶ。

 暗い部屋。

 閉ざされた空間。

 優しい声。

 触れられる感触。

 恐怖。

 それらすべてが。

 まとめて沈んでいく。

 奥へ。

 深く。

 届かない場所へ。

 最後に。

 かすかに思う。

 ―これで、終わる。

 その認識と共に。

 完全に、閉じられた。

 意識が揺れる。

 沈んでいるのか。

 浮かんでいるのか。

 分からない。

 曖昧な中で。

 断片が浮かぶ。

 暗い部屋。

 閉ざされた空間。

 逃げられない。

 女の姿。

 優しい声。

 触れられる感触。

 ―攫われた。

 理解する。

 これは過去の記憶。

 断片的に繋がる。

 そして。

 救出される光景。

 差し込む光。

 呼ばれる声。

 現実に戻る感覚。

 そこまで、思い出す。

 だが。

 止まる。

 そこで終わるはずがない。

 分かる。

 こんなもので終わるはずがない。

 この胸に残る違和感は。

 こんな程度で説明できるものではない。

 もっと、何かある。

 もっと、決定的な何かが。

 思い出そうとする。

 だが。

 何も出てこない。

 空白。

 そこだけが、抜け落ちている。

 不自然に。

 意図的に。

 ―消されている。

 その認識が浮かんだ瞬間。

 意識が引き上げられる。

 強引に。

 現実へ。

 視界が開く。

 知らない天井。

 いや。

 どこかで見たことがある。

 嫌な感覚が走る。

「……また来てくれましたね。」

 声。

 すぐ近く。

 ゆっくりと顔を向ける。

 あの女。

 変わらない笑み。

 穏やかな声。

 過去と重なる。

 完全に一致する。

 息が止まる。

 理解が追いつかない。

 いや。

 理解したくない。

「……同じ、だ。」

 無意識に零れる。

 過去と、今が繋がる。

 だが。

 それでも。

 何かが足りない。

 決定的な部分が。

 思い出せない。

 そのまま。

 女が近づいてくる。

 一歩。

 また一歩。

 逃げなければならない。

 分かっている。

 だが、身体が動かない。

 距離が詰まる。

 手が伸びる。

 触れられる。

 頬に。

 その瞬間。

 全身が強張る。

 恐怖が走る。

 だが。

 それ以上に。

 理解できない感覚が襲う。

 ―足りない。

 この恐怖は。

 こんなものではない。

 もっと、深い。

 もっと、強いはずだ。

 だが。

 それが、出てこない。

 思い出せない。

 思い出してはいけないものが。

 確実に、そこにあるのに。

 届かない。

 その事実が。

 何よりも恐ろしかった。

「大丈夫ですよ―。」

 囁かれる。

 優しく。

 包み込むように。

 その声に。

 わずかに、意識が揺れる。

 安心しそうになる。

 それが。

 異常だった。

 拒絶したいのに。

 身体が、逆らえない。

 その矛盾が。

 さらに恐怖を増幅させる。

 理解する。

 これは。

 まだ終わっていない。

 そして。

 本当に怖いものは。

 ―まだ、思い出していない。

 思い出せないはずの恐怖が、身体にだけ残っている。

「やっと、また会えましたね。」

 穏やかな声。

 まるで再会を喜ぶように。

 自然に。

 当たり前のように。

 言葉が落ちる。

 違和感しかない。

「……初めてだ。」

 絞り出すように言う。

 否定する。

 だが。

 女は微笑むだけだった。

「いいえ。」

 柔らかく。

 優しく。

 否定する。

「あなたは、覚えていないだけです。」

 その言葉に。

 思考が止まる。

 核心を突かれた感覚。

 否定できない。

 分かっているからだ。

 自分の中に空白があることを。

「怖がらなくていいのですよ。」

 さらに近づく。

 距離が詰まる。

 逃げたい。

 だが動けない。

「あなたは、あの時も―とても大人しかった。」

 その一言で。

 背筋が凍る。

 知らないはずの過去。

 だが。

 身体が反応する。

 拒絶するように。

 強く。

「……やめろ。」

 低く呟く。

 聞きたくない。

 本能が警告する。

 だが。

 女は止まらない。

「震えていましたね。」

 懐かしむように。

 愛おしむように。

 言葉を紡ぐ。

「それでも、逃げられなくて。」

 ゆっくりと手が伸びる。

 頬に触れる。

 同じ場所。

 同じ仕草。

 記憶と一致する。

 ―いや。

 記憶ではない。

 身体が覚えている。

「それが、とても……綺麗でした。」

 その言葉が。

 決定的だった。

 歪んでいる。

 完全に。

 理解する。

 この女は。

 恐怖そのものだ。

「あなたは、変わっていません。」

 優しく微笑む。

 逃げ場を与えない笑み。

「今も、同じ顔しています。」

 言われた瞬間。

 自覚する。

 自分の表情を。

 恐怖に歪んだ顔を。

 それを。

 知っていると言われたことを。

 思考が揺れる。

 崩れる。

 何かが、引きずり出されそうになる。

 だが。

 まだ届かない。

 その距離が。

 何よりも恐ろしかった。

「大丈夫ですよ―。」

 囁かれる。

 何度も。

 同じ言葉。

 同じ声。

 同じ温度。

 それが。

 少しずつ。

 心を侵していく。

「忘れてしまったのですね。」

 穏やかな声だった。

 責めるでもなく。

 悲しむでもなく。

 ただ、事実を確かめるように。

 静かに落ちる。

 息が詰まる。

 否定したいのに。

 言葉が出ない。

「大丈夫ですよ。」

 すぐに、続けられる。

 優しく。

 包み込むように。

「思い出せなくても。」

 一歩、近づく。

 距離が縮まる。

 逃げたい。

 だが、身体が動かない。

「私は、覚えていますから。」

 その言葉に。

 心臓が強く跳ねる。

 嫌な確信が走る。

 この女は。

 本当に、すべてを知っている。

「あなたが、どんな顔で。」

 ゆっくりと手が伸びる。

 止められない。

 届いてしまう。

「どんな声で。」

 触れられる。

 頬に。

 同じ場所。

 同じ温度。

 思考が揺れる。

「どれほど、怯えていたのかも。」

 囁くように。

 優しく。

 愛おしむように。

 言葉が重なる。

 その内容とは裏腹に。

 声は、どこまでも柔らかい。

「全部、知っています。」

 逃げ場がない。

 過去からも。

 今からも。

 囲まれている。

 思い出せない。

 だが。

 知られている。

 その事実が。

 何よりも恐ろしい。

「だから―。」

 少しだけ、間が空く。

 その沈黙が重い。

「もう一度、教えてあげますね。」

その一言で。

 背筋が凍りつく。

 理解する。

 これは再現だと。

 あの時の。

 あの一週間の。

 繰り返しだと。

 拒絶しようとする。

 だが。

 声が出ない。

 身体が動かない。

 恐怖だけが、増していく。

「今度は、忘れないように。」

 微笑む。

 優しく。

 逃げ場を完全に塞ぐように。

 その言葉が。

 決定的だった。

 思い出させるのではない。

 ―刻み直されるのだと、理解した。

 その言葉が、静かに落ちる。

 逃げ場はない。

 分かっている。

 思考が鈍る。

 抗う力が削られていく。

 視界が揺れる。

 立っていることすら難しい。

 それでも。

 完全には沈まない。

 何かが、引っかかっている。

「大丈夫ですよ。」

 優しく。

 包み込むように。

 乳母が微笑む。

 その手が、伸びる。

 今度は、迷いなく。

 腕を取られる。

 逃げられない。

 何かが、触れる。

 冷たい感触。

 細い。

 硬い。

 針。

 次の瞬間。

 鋭い痛みが走る。

 ―注射。

「……っ!」

 理解が遅れて追いつく。

 身体の力が抜ける。

 一気に。

「……ぁ……。」

 意識が沈む。

 抗えない。

 確実に、奪われていく。

「すぐに楽になりますからね。」

 囁かれる。

 甘く。

 優しく。

 拒絶する力すら、奪っていく声。

 沈む。

 深く。

 暗く。

 意識が途切れかける。

 その時―

 ふと。

 浮かぶ。

 顔が。

 声が。

「殿下!」

 強く。

 はっきりと。

 呼ばれる声。

 カイン。

 その存在が。

 微かに意識を繋ぎ止める。

 沈みきらない。

 完全には、落ちない。

 何かが残る。

 言葉が浮かぶ。

 自然と。

 無意識に。

 それだけが、残る。

「……帰る。」

 かすれ声。

 ほとんど音にならない。

 それでも。

 確かに、口にする。

 それが。

 最後の抵抗だった。

 意識が完全に沈む。

 闇に落ちる。

 何も見えない。

 何も感じない。

 ただ。

 その言葉だけが。

 残っていた。

「ね?」

 女の声。

「楽になるでしょう?」

「……違……。」

 かすかに、声が出る。

 だが。

 弱い。

 続かない。

「いい子ね。」

 また刺さる。

 もう一度。

 流れ込む。

 さらに。

 深く。

 何も考えられない。

 ただ。

 楽で。

 静かで。

 それでいいと思ってしまう。

 最後に残る思考。

 ほんの、わずか。

 消えかけながら。

 浮かぶ。

 帰る。

 その言葉だけが。

 沈みきらずに。

 かろうじて、残っていた。

 ゆっくりと、意識が浮上する。

 重い。

 身体が動かない。

 視界がぼやける。

 焦点が合う。

 そこにいる。

 同じ女。

 同じ笑み。

 だが―

 何かが違う。

 距離が近い。

 前よりも。

 明らかに。

「……やはり、戻ろうとするのね。」

 穏やかな声。

 だが。

 その奥にあるものが、変わっている。

 抑えられていたものが。

 滲み出ている。

「なら、仕方ないわね。」

 ゆっくりと。

 手が伸びる。

 迷いがない。

 ためらいもない。

「もう少し、奥まで。」

 触れられる。

 頬に。

 同じ場所。

 だが。

 今度は違う。

 優しさの中に。

 はっきりとした、欲が混じっている。

 逃げ場がない。

 視線を逸らせない。

「今度は、壊れないように気を付けますね。」

 微笑む。

 優しく。

 それが、何よりも恐ろしい。

 言葉の意味が。

 理解できてしまうから。

 思考が揺れる。

 だが。

 完全には沈まない。

 残っている。

 あの言葉が。

 「……帰る。」

 かすかに。

 もう一度、零れる。

 それが。

 まだ、終わっていない証だった。

 暗い。

 静か。

 時間の感覚が、ない。

 座っている。

 いつからか。

 どれくらいか。

 分からない。

「……。」

 何も考えていない。

 考えられない。

「いい子ね。」

 声。

 近く。

 もう、驚かない。

「……。」

 返事はしない。

 しようとも思わない。

「あなたは誰?」

 問いかけ。

 簡単なはずの質問。

「……。」

 考える。

 何も、出てこない。

 名前。

 思い出そうとする。

 何度も。

 だが。

 掴めない。

 滑る。

 消える。

「……わからない。」

 やっと出た言葉。

 小さく。

 かすれている。

「そう。」

 優しい声。

「いい子ね。」

 満足そうに。

 腕を取られる。

 もう、抵抗しない。

 できない。

 針。

 刺さる。

 痛み。

 すぐに消える。

 広がる。

 あの感覚。

 何も考えなくていい。

 それが、心地いい。

「いい子。」

 繰り返される。

 その言葉だけが。

 残る。

 ふと。

 何かが、浮かぶ。

 声。

 誰かの。

 名前。

「……カ……。」

 途中で止まる。

 続かない。

 思い出せない。

 大事なはずなのに。

 分からない。

 どうでもよくなる。

 目を閉じる。

 思考が沈む。

 静かに。

 深く。

 その奥で。

 消えかけながら。

 かすかに。

 何かが残る。

 名前ではない。

 記憶でもない。

 ただ。

 帰る、という感覚だけが。

 形を持たずに。

 残っていた。

 目を開ける。

 静か。

 いつもと同じ。

 暗い空間。

 いない。

 あの気配が。

 女の存在が。

 感じられない。

「……。」

 わずかな変化。

 だが。

 それだけで、分かる。

 今しかない。

 身体を起こそうとする。

 重い。

 動かない。

 それでも。

 力を込める。

 一歩。

 わずかに、動く。

 指先。

 腕。

 遅れて、身体。

「……っ。」

 息が漏れる。

 立ち上がる。

 ふらつく。

 倒れそうになる。

 踏みとどまる。

 頭が、痛む。

 だが。

 はっきりしてくる。

 少しずつ。

 ゆっくりと。

 残っている。

 「……戻る。」

 口から出る。

 掠れた声。

 それでも。

 確かに、自分の意志で。

 その言葉に。

 反応はない。

 誰もいない。

 だからこそ。

 進む。

 一歩。

 また一歩。

 遅い。

 だが。

 止まらない。

 浮かぶ。

 何か。

 人。

 声。

「……カイン……。」

 今度、途切れない。

 はっきりと。

繋がり。

 その名前だけで。

 何かが戻る。

 完全ではない。

 それでも。

 確かに。

決意。

「帰る。」

 もう一度。

 今度は、強く。

 はっきりと。

 扉がある。

 見える。

 今までに見えなかったもの。

 手を伸ばす。

 ノブに触れる。

 冷たい。

 現実の感触。

「……。」

 迷わない。

解放。

 回す。

 重い。

 それでも。

 力を込める。

 開く。

 扉の向こう。

 光。

 わずかに差し込む。

 その一歩を。

 踏み出す。

 壊されても。

 それでも。

 帰るために。

 光に、触れる。

 澄んだ空気が流れ込む。

 何かが解放されるような心地。

 肺に入る。

 息を吸う。

 ―美味しい

 それだけで、分かる。

 ここは違うと。

 閉ざされた場所ではないと。

 何かが、ほどける。

 内側から。

 縛られていたものが、少しだけ解ける。

 外へ出れば。

 戻れる。

 そう思った、その瞬間。

「どこに行くの?」

 声。

 すぐ後ろ。

 反応する間もなく。

 腕を掴まれる。

 強く。

 逃げられない。 

 引き戻される。

 無理やり。

 床が遠ざかる。

「……離せ!」

 視界が揺れる。

「まだ、終わっていませんよ。」

 優しい声。

 逃げ場を与えない。

 次の瞬間。

 鋭い痛み。

 腕に。

 ―注射。

「……やめろっ!」

 理解した時には、遅い。

 力が抜ける。

 崩れる。

 意識が沈む。

 再び、闇へ。

 抗えないまま。

 落ちかける。

 乳母は優しく撫でながら。

「だめよ。」

 やさしく。

 残念そうに。

 笑う。

 身体が動かない。

 完全に。

 指先すら。

 動かせない。

「戻らなくていいの。」

 耳元で。

 囁く。

「ここにいれば、楽でしょう?」

 言葉が、刺さる。

 思考が、揺れる。

「……違……う。」

 声にならない。

 それでも。

「いい子ね。」

 腕を取られる。

 逃げられない。

 再び針。

 刺さる。

 抜かれる。

 また、刺さる。

 間を置かず。

 何度も。

「……っ……ぁ……。」

 息が乱れる。

 視界が揺れる。

 思考が、砕ける。

 強制的に。

 深く。

 沈む。

「ね?」

 声。

「これでいいの。」

 肯定される。

 そのまま。

 崩れていく。

「……カ……イ……。」

 名前。

 呼ぼうとする。

 だが。

 途切れる。

 重い意識が浮かび上がる。

 熱い。

 身体が。

 内側から。

 じわじわと。

 呼吸が乱れる。

 浅くなる。

 空気が足りない。

 そして。

 香り。

 甘い。

 強く残る。

 鼻に絡みつくような。

 不自然なほどに。

 頭がぼやける。

 思考が鈍る。

 視界の先。

 いる。

 あの女が。

 すぐ近くに。

 見下ろしている。

 静かに。

 微笑みながら。

「少し、楽になるでしょう。」

 穏やかな声。

 だが。

 何かがおかしい。

 身体が。

 言うことをきかない。

 触れられる。

 頬に。

 その瞬間。

 びくりと反応する。

 自分の意志とは関係なく。

 驚きを隠せない。

 理解できない。

 嫌悪が走る。

 なのに。

 身体は違う反応を示す。

 熱が増す。

 逃げたいのに。

 力が入らない。

 手が動かない。

 距離を取れない。

 女の手が、下りていく。

 胸元へ。

「……やめ……ろ……!」

 服に触れる。

 指先がかかる。

 ゆっくりと。

 ひとつ。

 またひとつ.

開かれていく。

 視線が動く。

 逸らせない。

 触れられる。

 今度は、直接。

 慎重に。

 壊れ物のように。

 優しく。

 それが。

 余計に、気持ち悪い。

 身体が、また反応する。

 拒絶したいのに。

 拒めない。

 理解する。

 これは、自分でない。

 操作されている。

 奪われている。

 その事実が。

 何よりも恐ろしい。

「綺麗ですね。」

 囁かれる。

 感嘆のように。

 満足するように。

 その視線。

 その声。

 すべてが。

 歪んでいる。

 息が荒くなる。

 止められない。

 思考が崩れる。

 このままでは。

 まずい。

 分かっているのに。

 どうにもできない。

 身体が、自分のものではない。

 その恐怖が。

 静かに、心を侵していく。

「安心してください。」

 すぐ近くで。

 優しく、囁かれる。

 逃げ場のない距離で。

「それは、ちゃんと反応しているだけですから。」

 一瞬。

 意味が理解できない。

 だが。

 次の瞬間。

 全身が凍りつく。

 理解してしまう。

 これは異常ではないと。

 正しい反応だと。

 そう言われたことを。

 否定したい。

 拒絶したい。

 だが。

 身体は、裏切る。

 その事実が。

 言葉を裏付けてしまう。

「ほら。」

 指先が、なぞる。

 確かめるように。

「あなたは、ちゃんと受け入れている。」

 違う。

 違うはずだ。

 こんなものは。

 受け入れてなどいない。

 なのに。

 否定できない。

 証明されてしまっている。

 身体によって。

 思考が崩れる。

 境界が曖昧になる。

「思い出さなくても。」

 静かに。

 逃げ場を塞ぐように。

 言葉が重なる。

「身体は、覚えているのですよ。」

 その一言が。

 決定的だった。

 過去と。

 今が。

 完全に繋がる。

 思い出せないはずのものが。

 ここにあると。

 突きつけられる。

 逃げ場が、消える。

「だから、大丈夫。」

 微笑む。

 優しく。

 包み込むように。

 それが。

 何よりも恐ろしい。

「すぐに、分からなくなります。」

 その言葉に。

 息が止まる。

 何が。

 と、問う前に。

 理解してしまう。

 自分と。

 それ以外の境界が。

 分からなくなるのだと。

 完全に。

 溶かされるのだと。

 思考が揺れる。

 崩れる。

 抗う力が、削られていく。

 静かに。

 確実に。

「あなたは、最初からこういう子でしたから。」

 その一言で。

 何かが、引き裂かれる。

 思考の奥。

 閉ざされていた場所。

 強引に、こじ開けられる。

 ―思い出す。

 断片ではない。

 曖昧でもない。

 完全な形で。

 あの一週間を。

 暗い部屋。

 閉ざされた空間。

 逃げ場のない日々。

 何度も。

 触れられた。

 拒んでも。

 逃げても。

 意味はなかった。

 優しい声で。

 逃げ場を奪われ続けた。

 恐怖は、消えなかった。

 増えていくだけだった。

 そして。

 壊れていく。

 少しずつ。

 確実に。

 抵抗することが。

 意味を持たなくなっていく。

 あの感覚。

 思い出してはいけないもの。

 それが。

 すべて、戻ってくる。

 息が出来ない。

 視界が歪む。

 身体が震える。

 否定できない。

 これは。

 現実だった。

 過去に、確かに起きたこと。

 そして今。

 同じことが、繰り返されている。

「……あ……。」

 声にならない声が漏れる。

 崩れかける。

 意識が沈む。

 あの時と同じように。

 諦めてしまえばいい。

 そうすれば。

 楽になれる。

 苦しまずに済む。

 その考えが、よぎる。

 だが―

「殿下!」

 響く。

 強く。

 現実を切り裂くように。

 カインの声。

 はっきりと。

 届く。

 そこで、止まる。

 沈みきらない。

 完全に落ちない。

 思い出した。

 すべてを。

 だからこそ、分かる。

 あの結末を。

 あのままでは、どうなるかを。

 同じにはならない。

 繰り返さない。

 ここで終わらせる。

 息を吸う。

 震えながら。

 それでも。

 はっきりと。

「……違う。」

 絞り出す。

 否定する。

 あの過去を。

 あの女を。

 あの結末を。

「二度も、同じことをさせるか。」

 顔を上げる。

 視線が変わる。

 恐怖だけではない。

 そこに、意志が宿る。

 折れていない。

 まだ。

 終わっていない。

 ここからだと。

 はっきり示すように。

 思い出したからこそ、もう戻れない。

 思い出した記憶が。

 頭の中で暴れる。

 止まらない。

 逃げられない。

 過去と現実が、重なる。

 同じ空間。

 同じ声。

 同じ恐怖。

 息が乱れる。

 吸えない。

 吐けない。

 身体が震える。

 止まらない。

 力が入らない。

 立っていられない。

 膝が崩れる。

 そのまま床へと落ちる。

 視界が揺れる。

 何もかもが、遠い。

 思考がまとまらない。

 崩れていく。

 あの時と、同じように。

 抗う意味が分からなくなる。

 どうして。

 こんなにも苦しいのか。

 どうして。

 逃げられないのか。

 分からなくなる。

 何もかも。

 どうでもよくなりそうになる。

 その時。

 腕が回される。

 後ろから。

 優しく。

 包み込むように。

 抱きしめられる。

 逃げ場が、完全に塞がれる。

 動けない。

 離れられない。

「大丈夫ですよ。」

 耳元で囁かられる

 近い。

 あまりにも。

 逃げられない距離。

 優しい声。

 変わらない温度。

「もう、苦しまなくていいのです。」

 その言葉が。

 深く、落ちる。

 心の奥へ。

 抵抗が、削られていく。

 楽になりたいと。

 そう思ってしまう。

 抗うことを。

 やめてしまえばいいと。

 その考えが。

 ゆっくりと、広がる。

 身体の震えが、弱まる。

 力が抜けていく。

 委ねてしまいそうになる。

「私が、全部受け止めますから。」

 優しく。

 包み込むように。

 逃げ道を塞ぐ言葉。

 思考が、止まりかける。

 このまま。

 何も考えずに。

 沈んでしまえば。

 そのまま、すべてを手放してしまいそうになる。

 思い出した。

 すべて。

 ―のはずだった。

 だが。

 違う。

 足りない。

 何かが、決定的に欠けている。

 胸の奥に残る違和感。

 説明がつかない。

 あの恐怖は。

 あの絶望は。

 こんなものではなかったはずだ。

 もっと、深い。

 もっと、壊れるほどの何かがあったはずだ。

「まだ、思い出してはいませんね。」

 一歩、近づく。

 距離がなくなる。

 逃げられない。

 視線を逸らせない。

「あなたは―。」

 ゆっくりと。

 言葉が落ちる。

「二度も同じことを繰り返すほど、弱くはありませんものね。」

 その言葉に。

 一瞬、希望がよぎる。

 だが―。

 すぐに理解する。

 違う。

 肯定ではない。

 これは。

 もっと残酷な前提だ。

「今のあなたは。」

 視線が、絡みつく。

 逃げ場を奪うように。

「昔より、ずっと綺麗で。」

 声が、柔らかくなる。

 だが、その奥が歪む。

「ずっと、強くなっている。」

 逃げられない。

 その評価が。

 異常だと分かるから。

「私の望んだとおりに。」

 その一言で。

 すべてが繋がる。

 背筋が凍る。

 逃げ場が消える。

「だから―。」

 手が伸びる。

 額に触れる。

 その瞬間。

 引きずり出される。

 強引に。

 容赦なく。

 ―思い出す。

 最後の記憶。

 封じられていた記憶。

 あの一週間の終わり。

 逃げられなかった夜。

 助けも来ない時間。

 積み重なった恐怖が。

 限界を超えた瞬間。

 壊れた。

 自分が。

 完全に。

 抗うことをやめた瞬間。

 何も感じなくなった瞬間。

 ―あの空白の正体。

 それが、すべて戻ってくる。

「……っ、ぁ……。」

 声にならない。

 呼吸が出来ない。

 視界が歪む。

 身体が震える。

 止まらない。

 思考が、崩れる。

 保てない。

 現実と過去の境界が、消える。

 ここがどこだが分からない。

 いつなのかも分からない。

 ただ。

 あの恐怖だけが、ある。

 すべてを埋め尽くす。

 耐えられない。

 耐えられるはずがない。

 だから。

 落ちる。

 崩れる。

 自分という形が、壊れていく。

 その瞬間。

 抱きしめられる。

 優しく。

 包み込むように。

 逃げ場を完全に塞ぐ形で。

「大丈夫ですよ。」

 耳元で。

 あの声が落ちる。

 変わらない。

 あの時と同じ。

 すべてが繋がる。

 終わったと、理解してしまう。

 抗えないと。

 そう思いかけた、その時。

「お帰りなさい。」

 その一言が。

 静かに、落ちた。


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