喫茶店と視線
第四章
その声を、待つようになった。
気づいたのは、いつからか分からない。
だが。
確かに、待っている。
静かな部屋。
何も変わらない空間。
それでも、落ち着かない。
何かが足りない。
その感覚だけが、はっきりしている。
椅子に座る。
目を閉じる。
呼吸を整える。
来ない。
胸の奥が、ざわつく。
落ち着かない。
理由は分からない。
だが。
このままではいけない気がする。
「……どうして。」
言葉が漏れる。
誰に向けたものかも分からない。
それでも。
来るはずだと、思っている。
そうでなければ、おかしい。
そうでなければ保てない。
何故?
ふとそんな言葉が過る。
おかしい。
扉がノックされる。
「失礼します。」
カインの声。
その瞬間。
苛立ちが走る。
理由もなく。
ただ、邪魔されたような感覚。
「何だ。」
声が、少し強くなる。
自分でもわかる。
だが、抑えられない。
扉が開く。
カインが入ってくる。
視線が合う。
その瞬間。
わずかな不快感が生まれる。
「体調の確認に参りました。」
いつも通りの口調。
だが。
そのいつもが今は煩わしい。
「問題ない。」
短く返す。
それで終わらせようとする。
だが。
カインは動かない。
「……本当に、問題ありませんか。」
一歩、近づく。
距離が縮まる。
そのことが、不快だった。
「何が言いたい。」
睨む。
はっきりと。
拒絶するように。
「最近のご様子が。」
「問題ないと言っている。」
言葉を遮る。
強く。
明確に。
空気が変わる。
張り詰める。
カインは、わずかに目を伏せる。
「……失礼しました。」
頭を下げる。
だが。
納得していない。
それが分かる。
それが、さらに苛立つ。
扉へ向かう。
背を向ける。
その瞬間。
来た。
「大丈夫。」
あの声。
すべてを溶かすような、優しい声。
振り返る。
そこに、いる。
白い衣。
穏やかな微笑み。
乳母。
それが正しい。
それ以外は、間違っている気がする。
胸のざわつきが、一瞬で消える。
代わりに、安堵が広がる。
カインの存在が、遠くなる。
どうでもいいものになる。
「怖かったでしょう。」
優しく言う。
すべてを見透かすように。
「……違う。」
だが。
否定する。
「いいのですよ。」
すぐに重ねる。
「大丈夫。」
声が重なる。
今、聞こえているものと。
過去のものが。
「大丈夫ですよ。」
同じ声。
同じ響き。
頭の奥が、軋む。
開きかける。
封じられていたものが。
浮かび上がる。
暗い部屋。
閉ざされた扉。
逃げようとして、動かない身体。
そして。
目の前にいる、あの女。
―乳母。
名前が浮かぶ。
同時に。
強烈な恐怖が、全身を貫く。
呼吸が乱れる。
心臓が跳ねる。
理解する。
これは夢ではない。
過去だ。
その瞬間。
思考が鈍る。
その瞬間。
呼ばれている。
遠くから。
何度も。
繰り返し。
「……殿下。」
声が届く。
意識が浮上する。
重い。
深く沈んでいたものを、無理やり引き上げられるような感覚。
「……殿下。」
もう一度。
今度は、はっきりと。
目を開ける。
視界が揺れる。
天井。
見慣れたもの。
現実だと、遅れて理解する。
息を吐く。
浅い。
身体が重い。
だが、動く。
問題はない。
「……問題ない。」
短く言う。
それで終わらせる。
カインは何も言わない。
ただ、見ている。
確かめるように。
それが分かる。
だが、それ以上は踏み込まない。
それが、彼だった。
朝稽古。
剣を構える。
いつも通りの動作。
問題はない。
そのはずだった。
踏み込む。
振る。
だが。
わずかに、遅れる。
空気を斬る感覚が、浅い。
違和感。
確実にある。
「……もう一度。」
カインの声。
短い。
だが、鋭い。
再び構える。
振る。
同じ。
ずれている。
ほんのわずか。
だが、明確に。
苛立ちが生まれる。
理由は分からない。
ただ。
うまくいかないことが、不快だった。
「……集中してください。」
静かな指摘。
正しい。
分かっている。
だが。
その言葉が、わずかに引っかかる。
苛立つ。
ほんのわずかに。
「……問題ない。」
口にする。
強く。
断定するように。
それで終わらせる。
それ以上、触れさせないように。
街は、いつも通りだった。
人の流れ。
ざわめき。
変わらない日常。
それが、どこか遠い。
現実が薄い。
そんな感覚が、まだ残っている。
喫茶店に入る。
落ち着いた空間。
香り。
音。
すべてが整っている。
席に着く。
そしてコーヒーが運ばれてくる。
カップを持ち上げる。
湯気が立つ。
香りは、いつも通りだった。
問題はない。
そう判断する。
一口、含む。
苦み。
舌に残る感覚。
変わらない。
はずだった。
喉を通った瞬間。
わずかに、違和感が走る。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
何かが遅れる。
前よりも強く。
視界が、わずかに沈む。
焦点が合わない。
音が遠くなる。
まるで。
あの時と同じ。
思考が、そこまで辿り着く前に。
「……来ましたね。」
声。
すぐ近く。
柔らかい。
優しい。
聞き慣れた声。
顔を上げる。
そこに、立っている。
乳母。
夢で見た、そのままの姿。
心が揺れる。
ここが現実なのか。
分からなくなる。
「大丈夫ですよ。」
微笑む。
逃げ場を与える顔。
安心させる声。
抗う理由が、削られていく。
身体が、重い。
立ち上がる。
無意識に。
引き寄せられるように。
一歩。
近づく。
距離が、縮まる。
手が伸びる。
触れられる。
指先が、頬に。
その感触。
温度。
柔らかさ。
夢と同じだ。
その瞬間。
確信が、逆に消える。
現実か夢か。
区別がつかない。
視界が、大きく揺れる。
「もう、いいのです。」
耳元で囁かれる。
甘く。
深く。
沈める声。
力が抜ける。
「……っ。」
指先に、痺れ。
「……なんだ……これは……。」
声が、枯れる。
呼吸が、荒い。
膝が崩れ落ちる。
支えられる。
誰かの腕。
だが、それすら曖昧になる。
意識が沈む。
深く。
抗えない。
最後に。
思う。
これは、夢か。
それとも。
そこで、途切れた。
白い空間だった。
何もない。
静かで、穏やかで。
何も考えなくていい場所。
立っている。
それだけでいい。
理由は分からない。
だが、それで問題ないと思えた。
「……よく来ましたね。」
声がする。
振り向く。
そこにいる。
女性。
優しい目。
柔らかな表情。
どこか懐かしい。
「……乳母?」
問いかける。
だが、警戒はない。
不思議と。
それが必要だと思えた。
「大丈夫。」
微笑む。
安心させるように。
「ここでは、何も苦しむ必要はないのですから。」
その言葉が、自然に入ってくる。
拒む理由もない。
確かにそうだと思う。
何も考えなくていい。
何も背負わなくていい。
それが、どれほど楽か。
理解できてしまう。
「……問題ない。」
口にする。
いつもの言葉。
だが。
どこか違う。
ここでは。
本当に問題が存在しない。
「えぇ。」
女性は頷く。
「あなたはもう十分に頑張りました。」
その言葉が胸に落ちる。
重くもない。
痛くもない。
ただ、静かに沈む。
「少しだけ、休みましょう。」
手が差し出される。
迷いはない。
自然に、その手を取る。
温かい。
その瞬間。
思考が、わずかに緩む。
境界が曖昧になる。
だが。
それに疑問を持つことすら、しなくなる。
それでいいと思ってしまう。
その時点で、すでに侵されていた。




