夢に近づく声
第三章
眠りが、浅い。
何度も目が覚める。
ただ。
落ち着かない。
目を開ける。
天井。
見慣れているはずなのに。
どこか、遠い。
「……。」
起き上がる。
身体が、重い。
昨日の疲れ。
そう思う。
違和感の増幅。
立ち上がる。
一歩。
遅れる。
昨日と同じ。
いや。
少し、強い。
「……。」
無視する。
気にするほどではない。
そう、言い聞かせる。
席に着く。
並ぶ料理。
いつも通り。
手を伸ばす。
一口。
「……?」
味が、薄い。
いや。
違う。
感じ方が、鈍い。
もう一口。
同じ。
はっきりと、わかる。
おかしい。
確実に。
考える。
原因を。
だが。
思考が、続かない。
途中で、途切れる。
「……なんだ……これ……。」
言葉が遅れる。
ふと。
浮かぶ。
昨日のコーヒー。
あの違和感。
繋がる。
気がする。
だが。
はっきりしない。
「殿下。」
声。
顔を上げる。
カイン。
近くにいる。
そのはずなのに。
距離感が、おかしい。
遠い。
近い。
定まらない。
「顔色が優れません」
真っ直ぐな視線。
見られている。
その感覚だけが、強い。
「……問題ない。」
答える。
少し遅れて。
胸の奥。
違和感が、広がる。
小さかったものが。
確実に、大きくなっている。
消えない。
むしろ。
増えている。
おかしい。
はっきりと、思う。
だが。
同時に。
どうでもいい気もする。
「……。」
思考が、鈍る。
危機感が、薄れる。
手を見る。
指先。
わずかに、震えている。
力を入れる。
止まる。
だが。
感覚が、遠い。
まるで。
自分の身体ではないように。
その違和感だけが。
確かに、深く。
根を張り始めていた。
稽古。
剣が当たらない。
何度振っても、同じだった。
狙いは正確なはずだ。
だが、届かない。
ほんのわずかにずれる。
そのわずかが、致命的だった。
踏み込み。
遅れる。
振り下ろす。
外れる。
繰り返す。
同じ結果。
呼吸が乱れる。
額に汗が滲む。
それでも止めない。
止める理由がない。
止めてはならない。
そう思っているはずなのに。
誰の声か一瞬分からない。
振り向く。
カインだ。
分かっている。
分かっているのに。
一瞬、分からなかった。
「問題ない。」
口にする。
もう何度目か分からない言葉。
意味を持たない言葉。
それでも、口にするしかない。
剣を握り直す。
指先の感覚が、少し遠い。
力を込める。
感覚が戻る。
気がするだけだ。
振る。
やはり、ずれる。
床に剣先が当たる。
乾いた音が響く。
静寂にも落ちる。
「今日は、ここまでに。」
明らかに、おかしい。
否定できない。
これまでの殿下ではない。
理解している。
だが。
認めるわけにはいかない。
それは職務の放棄に等しい。
「……殿下。」
呼びかける。
返答はある。
だが。
違う。
何かが、決定的に。
胸の奥に、わずかな焦りが生まれる。
だが、表には出さない。
出してはいけない。
それでも。
確かに、揺れている。
このままでは―
その先を、考えないようにする。
まだ、問題ではない。
そう定義する。
それが、限界だった。
カインの声。
拒否しようとする。
だが。
言葉が出てこない。
何を言おうとしたのかも、分からない。
口を閉じる。
頷く。
それで終わる。
それでいいはずだった。
剣を置く。
手が離れる。
その瞬間。
何かを忘れた気がした。
何を?
分からない。
考えようとする。
思考が滑る。
掴めない。
最初から、なかったように消える。
違和感だけ残る。
そのまま歩く。
廊下を進む。
見慣れたはずの景色。
だが。
ほんの一瞬、見覚えがない気がした。
足が止まる。
周囲を見る。
同じだ。
変わらない。
分かっている。
それでも。
知らない場所にいるような感覚が消えない。
「……殿下。」
呼ばれる。
振り返る。
カインがいる。
それで、安心する。
そのはずなのに。
どこか遠い。
距離がある。
見えているのに、届かない。
「……戻る。」
そう言った。
理由はない。
ただ、そうしなければならない気がした。
部屋へ向かう。
扉を開ける。
中に入る。
静かな空間。
何も変わらない。
そのはずだった。
誰かがいる。
一瞬、そう思った。
視線を向ける。
誰もいない。
当たり前だ。
いるはずがない。
それでも。
確かにいた気がした。
奥の椅子。
窓際。
光の差し込む場所。
そこに、誰かが座っていたような気がする。
目を閉じる。
開ける。
何もない。
当然だ。
そうでなければならない。
息を吐く。
胸の奥、わずかに重い。
理解できない。
理解する必要もない。
そう思うことで、保っている。
椅子に腰を下ろす。
視線を落とす。
手が、震えている。
いつからだ。
分からない。
止めようとする。
止まらない。
視線の端。
何かが動いた気がした。
顔を上げる。
いない。
だが。
確かに。
白い影のようなものが、見えた気がした。
輪郭の曖昧な存在。
人の形をしているようで、していない。
すぐ消える。
最初からなかったように。
沈黙が戻る。
何もない。
何も見ていない。
そう思う。
そう思い込む。
それ以外に、方法がない。
目を閉じる。
呼ばれた気がした。
優しい声。
遠い記憶の奥から引き上げられるような響き。
触れられる。
その感触に、わずかに息が止まる。
温かい。
柔らかい。
どこか、懐かしい。
―知っている。
そう思った瞬間。
記憶が途切れる。
続きが出てこない。
何を思い出しかけたのか。
それすら分からない。
だが。
確かに、経験している。
その核心だけが、残る。
思い出せない。
思い出してはならない気がした。
だから、考えない。
考えることをやめる。
それが、一番楽だった。
眠りに落ちる。
深くはない。
どこか、引っかかる。
意識が沈みきらない。
気配。
暗い。
何もないはずの空間。
なのに。
いる。
「……。」
目を開ける。
何も見えない。
だが。
確かに、感じる。
視界が揺れる。
重なる。
今と、違う景色が。
暗い部屋。
閉ざされた空間。
息が詰まる。
逃げ場がない。
そして。
すぐ近くに、誰かがいる。
手が伸びる。
触れられる。
優しく。
逃げられないほどに。
その感触に、身体が強張る。
恐怖。
はっきりとした感情。
理由は分からない。
だが。
これは初めてではない。
その確信だけが、強くなる。
声。
「大丈夫。」
女の声。
すぐ近くで。
耳元で。
「……誰だ。」
反射的に問う。
返事はない。
代わりに。
「大丈夫。」
もう一度。
同じ言葉。
身体が、動かない。
力を入れても。
指先すら。
反応しない。
「……っ。」
息だけが、荒くなる。
何も見えない。
だが。
近づいてくる気配。
ゆっくりと。
確実に。
接触
頬に、何かが触れる。
冷たい。
指。
「いい子ね。」
優しく。
囁く。
「……やめろ……。」
声を出す。
だが。
弱い。
届かない。
「大丈夫。」
繰り返される。
その声が。
不思議と、心を鎮める。
警戒が、鈍る。
「……。」
抗う力が、抜けていく。
思考が、ほどける。
危険だと、分かる。
それでも。
逆らえない。
目を開ける。
天井。
朝。
いつもの部屋。
「……。」
起き上がる。
呼吸か、荒い。
夢。
そう思う。
だが。
頬に、違和感が残る。
触れる。
冷たい感覚が、まだある。
「……いい子ね……。」
誰もいない部屋で。
確かに、聞こえた。
振り返る。
誰もいない。
それでも。
声だけが、残る。
消えない。
頭の奥に。
静かに。
入り込んでいた。
その声は、自然にそこにあった。
気づいたときには、すぐ近くにある。
違和感はない。
むしろ。
最初から知っていたような、そんな感覚だった。
「大丈夫。大丈夫ですよ。」
柔らかな声。
耳に触れるだけで、力が抜ける。
振り返る。
そこに、いた。
白い衣。
穏やかな笑み。
年齢は分からない。
若くも見えるし、年老いているようにも見える。
曖昧な存在。
だが。
不思議と、先程のような恐れはなかった。
「……誰だ。」
問いかける。
当然の疑問。
だが。
答えは、すでに知っている気がした。
「忘れてしまったのですか。」
悲しげに、微笑む。
その表情に、胸がわずかに痛む。
なぜか。
分からない。
「ずっと、お側にいたのに。」
その言葉が、静かに落ちる。
否定しようとする。
だが。
できない。
思い出せない。
だが。
間違っているとも言い切れない。
それが、一番おかしかった。
「……乳母、です。」
そう名乗った。
その瞬間。
頭痛がした。
「……っ!」
「大丈夫。」
違和感が、わずかに薄れる。
その言葉は、どこかで聞いたことがある。
そう思った。
「あなたを、ずっと見てきました。」
ゆっくり近づく。
距離が縮まる。
だが。
不快ではない。
むしろ、安心する。
それが、自然なことのように思えた。
「覚えていなくても、大丈夫ですよ。」
柔らかく微笑む。
否定を許さない、穏やかな声。
「あなたは、ずっといい子でしたから。」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。
理由は分からない。
だが。
否定したくないと思った。
「頑張らなくてもいいのです。」
「……頑張らなくても?」
「えぇ。」
ゆっくりと頷く。
「もう十分に、頑張ってきたのですから。」
その言葉は、優しかった。
すべてを許すような響き。
だからこそ。
抗えない。
「あなたは、ただいい子でいればいいのです。」
その言葉が、深く沈む。
思考の奥に。
消えない場所に。
手が伸びる。
触れられる。
額に。
その瞬間。
思考が、静まる。
ざわついていたものが、すべて消える。
何も考えなくていい。
何も悩まなくていい。
ただ、そこにいればいい。
そんな感覚。
「無理をしなくていいのですよ。」
囁くような声。
拒否する理由が、見つからない。
その言葉が、正しいように思える。
「……私は。」
何かを言おうとする。
だが。
言葉が出てこない。
何を言おうとしていたのかも、分からない。
「大丈夫。」
重ねるように、言う。
「何も、心配はいりません。」
その声に、逆らうことができない。
逆らう必要も、感じない。
それでいいと、思ってしまう。
おかしい。
どこかで、そう思う。
だが。
その感情すら、すぐ消える。
「怖かったでしょう。」
優しく問う。
すべてを見透かすように。
「……何が。」
問い返す。
だが。
自分でも分かっていない。
「分からなくていいのです。」
すぐ答える。
逃げ道を与えるように。
「分からないままでいい。」
「感じなくてもいい。」
「全部、ここに置いていけばいいのです。」
胸に手を当てられる。
その瞬間。
思考がさらに鈍る。
境界が曖昧になる。
「あなたは、何も考えなくていい。」
その言葉が。
救いのように響く。
だからこそ。
抗えない。
乳母の手が、ゆっくりと離れる。
それと同時に。
わずかな不安が戻る。
胸の奥が、ざわつく。
「ほら。」
優しく微笑む。
「もう、大丈夫でしょう?」
その言葉に、頷く。
自然に。
考える前に。
そうするのが、正しい気がした。
扉がノックされる。
「失礼します。」
カインの声。
現実が戻る。
振り返る。
だが。
いない。
さっきまで、そこにいた姿がない。
当然のように、消えている。
最初から、いなかったように。
扉が開く。
カインが入ってくる。
視線が、部屋を見渡す。
何かを探るように。
「……何かありましたか。」
問われる。
答えようとする。
だが。
言葉が出てこない。
何を見たのか。
誰と話していたのか。
思い出せない。
いや。
最初から、なかったような気がする。
「問題ない。」
そう答える。
その言葉だけは、すぐに出た。
カインは何も言わない。
だが。
その視線は、明らかに変わっていた。
疑っている。
確かめようとしている。
それが分かる。
だが。
どうでもいいと思った。
それよりも。
さっきの安心が、離れない。
あの感覚。
何も考えなくていい状態。
あれが、正しい気がした。
もう一度。
あの声を聞きたいと思った。
夢でも。
それが、自然な欲求のように思えた。
それが、何よりも異常だった。




