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それでも帰る

第七章 


 踏み込む。

 迷いなく。

 そこへ。

「……やっと、見つけた。」

 低い声。

 押し殺した感情。

 視線の先。

 セレスティアン。

 そこにいる。

 座ったまま。

 動かない。

 焦点のない目。

「……。」

 反応はない。

 一歩、近づく。

 手を伸ばす。

 触れようとする。

「触らないで。」

 声。

 すぐ横。

 乳母。

 女。

 穏やかな笑み。

 そこに立っている。

「……お前か。」

 カインの声が、低くなる。

 視線が鋭くなる。

「この子は、私のものよ。」

 当然のように。

 迷いなく。

「違う。」

 即答。

 一歩、踏み込む。

 空気が、変わる。

 ぶつかる。

 力と力。

「もう壊れているわ。」

 乳母が微笑む。

「貴方のことも、覚えていない。」

 カインが、見る。

 セレスティアンを。

「……。」

 確かに。

 何も映っていない。

 それでも

「関係ない。」

 迷いなく。

 言い切る。

 決意する。

「何度でも呼ぶ。」

 一歩、近づく。

「戻るまで。」

 さらに、一歩。

 揺らぎ。

「無駄よ。」

 乳母の声。

 だが。

 わずかに、揺れる。

「セレスティアン。」

 名前を呼ぶ。

 はっきりと。

 強く。

 殿下ではなく。

 名前を。

「……。」

 わずかに。

 指が、動く。

「だめよ。」

 即座に。

 乳母が手をかざす。

 空間が歪む。

 押さえ込むように。

 力がかかる。

「離せ。」

 カインが踏み込む。

 魔力が走る。

 衝突。

 ぶつかる。

 力が。

 空間が揺れる。

 その中で。

 セレスティアンだけが。

 動かない。

 だが。

 奥で。

 かすかに。

 何かが動く。

「……カイン……。」

 小さく。

 かすかに。

 それでも。

 確かに。

 空間が、止まる。

 乳母の表情が変わる。

 呼ばれた名前。

 その一言が。

 すべてを、変える。

 壊れるはずだったものが。

 最後に。

 もう一度だけ。

 立ち上がろうとしていた。

 呼ばれた名前。

 その音が。

 奥に、届く。

「……カイン……。」

 もう一度。

 今度は、はっきりと。

「……どうして……。」

 かすれた声。

 視界が、戻る。

 輪郭が、形を持つ。

 カイン。

 すぐそこにいる。

「……来るな……。」

 反射的に。

 言葉が出る。

 違和感。

 分かる。

 自分の状態が。

 壊れていることが。

「……戻れない……。」

 静かに。

 はっきりと。

 否定。

「戻る。」

 カインが言う。

 一切の迷いなく。

「無理だ。」

 セレスティアンが首を振る。

 わずかに。

 それでも。

 確かに。

 乳母。

「ほら、ね?」

 女の声。

 すぐ後ろで。

「この子は分かっている。」

「セレスティアン!」

「……カイン……。」

「帰りたいのか、帰りたくないのか、どっちだ?」

 カインが見る。

 その二択は決まっていた。

「……帰りたい……。」

 ふと、零れた本音。

 その瞬間。

 乳母の表情が、変わる。

 わずかに。

 冷たく。

「……まだ壊れていなかったの。」

 小さく呟く。

 そして。

 注射器を、取り出す。

 ためらいなく。

 カインが動く。

 止めようとする。

 だが。

 間に合わない。

 セレスティアンの首に刺さる。

「……っ、う……。」

 容赦なく。

 焦点の合わない目。

 女は項垂れるセレスティアンを抱きしめる。

「セレスティアン!」

 だが、はっきりと。

 引き裂くように。

 その声が、差し込む。

 止まる。

 完全に落ちきるはずだった意識が。

 引き戻される。

 その声を、知っている。

 何度も聞いた。

 ずっと、側にあった。

 ―離れなかった声。

「……大丈夫だ。」

 今度は、近くで。

 低く。

 確かに。

 届く。

 その一言が。

 これまでのそれとは違うと。

 はっきりと分かる。

 優しさでも。

 押し付けでもない。

 ただ、そこにある。

 揺るがない現実。

 息が、戻る。

 意識が、繋がる。

 崩れかけていたものが。

 繋ぎ止められる。

 そこで、理解する。

 帰る場所を。

 間違えていた訳ではない。

 最初から。

 決まっていたことだ。

「……帰る。」

 小さく、呟く。

 だが、もう迷いはない。

 その言葉は。

 誰かに与えられたものではない。

 自分で、選んだもの。

「……帰る。」

 もう一度。

 はっきりと。

 言い切る。

 その瞬間―。

 何かが、弾ける。

 支配が、砕ける。

 恐怖が、裂ける。

 身体が動く。

 限界を超えて。

 無理やりに。

 立ち上がる。

「……触るな!」

 低く、告げる。

 完全な拒絶。

 初めて。

 完全に。

 その存在を、否定する。

 女の目が、揺れる。

 ほんの一瞬。

 だが確かに。

 初めて見る、予想外。

 それでも。

 遅い。

 セレスティアンは、一歩踏み出す。

 カインのもとへ。

 セレスティアンの指が、動く。

 帰るために。

 カインの手に、触れる。

「……っ!」

 その感触。

 確かな繋がり。

 そして。

 触れた指先。

 かすかな温もり。

 それだけで。

 世界が、揺れる。

「……っ。」

 意識の奥で、何かが弾ける。

 暗闇の中に、光が走る。

 声。

 剣。

 笑った顔。

 守ると誓ったもの。

「……カイン……。」

 名前を呼ぶ。

 掠れている。

 それでも。

 確かに。

「……セレスティアン……!」

 カインが強く応える。

 セレスティアンが、目を閉じる。

 感じる。

 すべてを。

 浸食。

 崩壊。

 残り少ない時間。

 目を開ける。

「……はは……。」

 かすかに笑う。

 力なく。

 昔の姿が呼び覚まされる。

 そして自覚する。

「……ひどいな……これは……。」

 痩せ細った身体。

 無数の注射痕。

「……だから。」

 真っ直ぐに。

 カインを見る。

「帰る。」

 はっきりと。

 強く。

 セレスティアンの身体から、光が溢れた。

 冷たい光。

 氷のように澄んだ。

 魔力が、集まる。

 膨れ上がる。

 制御などない。

 ただ、解き放つために。

 異変。

「何を。」

 乳母の声が揺れる。

「終わらせる。」

 静かに。

 確実に。

 崩壊。

 凍てつく光。

 空間そのものを、凍らせ、砕く力。

 空間が、軋む。

 裂ける。

 崩れる。

 セレスティアンは、一歩踏み出す。

 帰るために。

 その身体は、限界だった。

 軋む。

 悲鳴を上げる。

 それでも、止めない。

 止まらない。

 その代償は―。

 すぐに現れる。

「―っ。」

 口元から、赤が零れる。

 止まらない。

 内側から、壊れている。

 それでも。

 歩みは止まらない。

 最後に。

 息を吐くように。

 それでも、言う。

「……帰る。」

 それでも、帰る。

 その瞬間。

 力が、尽きる。

 崩れる。

 前へ。

 倒れ込む。

 だが―。

 落ち切る前に。

 受け止められる。

 強く。

 確かに。

 現実に。

 引き戻される。

「……大丈夫だ。」

 もう一度。

 同じ声が落ちる。

 今度は、すぐ近くで。

 その言葉は。

 もう、恐怖ではない。

 疑いもない。

 ただの事実として。

 受け入れられる。

 視界が揺れる。

 ぼやける。

 だが。

 最後に見える。

 その姿だけは、はっきりと。

 そこで。

 意識ゆっくりと落ちていく。

 呼吸が、浅い。

「セレスティアン!」

 抱き起す。

 軽い。

 あまりにも。

 理解する。

 壊れている。

 完全に。

 そして―。

 次に目を覚ました時。

 そこには。

 見慣れた天井があった。

 静かな光。

 変わらない空気。

 隣に、気配がある。

 視線を向ける。

 そこにいる。

 変わらず。

 離れず。

 ただ、そこに。

 カインが。

「……問題ない。」

 掠れた声で、告げる。

 いつも通りに。

 それ以上は、言わない。

 だが。

 それで、十分だった。

 カインは、わずかに目を細める。

 そして。

「……お帰りなさい。」

 その言葉は。

 もう、呪いではない。

 閉じ込めるものでもない。

 ただ。

 帰るべき場所へ戻ったという。

 それだけの意味だった。

「……帰れた……な……。」

 かすかな声。

「……ただいま……。

 途切れ、途切れに。

「……あとは……頼む……。」

 視線が揺れる。

 それでも。

「やっと帰って来たでしょう?」

「……あぁ……。」

「これからです。」

「……カイン……ありがとう……。」

 そのまま。

 セレスティアンは、目を閉じる。

 今度は。

 静かに。

 深く。

 息を吐く。

 ―帰ってきた。

 力が抜ける。

 呼吸が、止まる。

 音が、消える。

 静寂。

 名前を呼ぶ声が、遠くで響く。

 何度も。

 何度も。

 だが―。

 返事はない。

 それでも。

 その手だけは、離れなかった。

 やがて。

 すべてが静かに、止まる。

 その日、王国は一人の王子を失った。

 誰よりも強く。

 誰よりも優しく。

 誰よりも、帰ることをやめなかった王子を失った。

 城の門には、花が絶えなかった。

 だが―。

 それでも。

 彼は、帰ったのだ。

 ―自ら選んだ場所へ。


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