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暗闇に、月を葬る  作者: はなぶさ
※新月の月はどこにあるのか ー小嶋視点ー

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事件が起こった当初、顔を隠しながらもメディアの取材に答えていたのは幸三郎の母親である。

といっても、実際にカメラが彼女の姿を捉えた回数は多くない。僕が病院の待合室で見た映像が主で、テレビ局はそれを流用していた。父親が表に出てきたことはなかったように思う。

当時、彼に話を聞くことも考えたし、他の記者だって当然そうだったに違いない。ただ、そんなことを考えていた矢先に犯人と目された男が逮捕されたので有耶無耶になってしまったのだ。僕自身も、世間の目も被害者遺族からは逸れてしまった。

その後も幸三郎の父親から話を聞く機会はなかったのだが。

芳郎が自分に会いに来てくれたことで改めて思ったのである。宇都宮家に起こった出来事ならば、やはり父親にも話を聞くべきではないかと。


『いらっしゃい』


事件から既に十年以上が経過していることもあり、敏一郎は想像よりもずっと穏やかな顔をしていた。

何年も前から家族とは別居し、一人暮らししているようだ。調べたところによれば、かなり長い間家族とは別居していたようで、離婚したのは芳郎が僕を訪ねて来たときよりも少し前のことらしい。


事前に、訪問することを伝えていたのもあり、アイスコーヒーを準備してくれていた。一人暮らしにしてもあまりに簡素で飾り気のない室内に、ほんの僅かの侘しさを覚える。だというのに、二人分のコースターがあるのは不思議だった。

空虚ともいえるこの部屋に誰かが訪れることは想像できない。でも、この部屋の主は誰かが来ることを想定しているようだった。

それは例えば、彼の家族だ。

テレビ台の端に並んだ写真立てには子供たちの輝かんばかりの笑顔が納められていて、事情を知っているからこそ胸に迫る。


芳郎に会っているのかと問えば、なぜそんなことを気にするのかというような曖昧な笑みを載せて「まぁ、」と肯定とも否定とも捉えられる答えが返ってくる。

でも何となく、会っていないような気もした。


少し暑いですね、と敏一郎がベランダの窓を開ける。

広くはない室内に、爽やかな風が吹きこんで、胸がすっと軽くなった気がした。

テーブルを挟んで向かい合わせで座っているので、互いの顔がよく見える。

真顔であるはずなのに、敏一郎の唇にうっすらと笑みが浮いているのはどことなく不気味だった。

仕事柄、被害者遺族と顔を合わせるのは初めてじゃない。自身が娘を亡くしていることもあり、ありきたりなお悔やみの言葉など何の意味も持たないと知っている。が、それにしても、目の前の男の異様な雰囲気は他の遺族とはどこか違っていた。


そうして、唐突に理解したのだ。

敏一郎はきっと、幸三郎を殺害した人物を知っていると。


だからもう、回りくどいことはせず、至極正直に正面からその人に問うた。幸三郎を殺害したのは、征二郎ではないかと。


「どのくらいの沈黙だったか忘れてしまったけれど、それでもかなり長い時間、彼は黙っていたよ。僕はさ、警察じゃないから誰かを断罪したりはできない。罪を暴くことはあっても罰は与えない」


けれど、あの刹那。敏一郎はまるで、罰を与えられた罪人のような顔をしていた。

こちらを見ているはずの虹彩がゆらゆら揺れ続けて。己の罪を悔いているような。


「意外です」

「何が?」

「所長がそんな風に考えていることです。所長が取材して記事にしたいくつかの事件の内、真犯人を突き止めたものがありますよね?」

「ああ、うん……?」突然、何かを思えば、

「あれって断罪じゃないんですか?」と、しきりに首を傾げながら柘植が言った。

「うん、違うよ。記事は記事でしかないからね。罰を与えるのは法であり、人だよ」

「そう、なんですか? 何か難しいですね。……というか、話の腰を折ってすみません。続きをどうぞ」

「うん、」


細く開けていた窓の隙間から、近所の中学校だろうか。吹奏楽部の練習の音が聞こえて。自分と敏一郎の間をすり抜けていったような気がした。ふと、敏一郎の視線が動く。

空に向かって駆け上がる音階を追いかけているようだった。


「死んだ子の年齢を数えることに虚しさを覚えるのは罪深いことでしょうか」


そこに我が子がいるかのように目を細める男の横顔を見ていた。


「私は想像力豊かなほうですが、亡くなった幸ちゃんの顔が今、どんな風になっているのか思い描くことすら難しいです。きっと芳郎に似ているだろうとは思いますが、……いや、案外似ていないのかもしれませんね」と、息を落とすように笑う。けれどすぐさま、表情が抜けた落ちたような暗い眼差しをして、

「この脳に刻まれているのは、遺体となったあの子ですよ。寝ても覚めても思い出します」


親に子供の顔を見せて身元確認なんてあまりにも残酷ですよね。とやっとこちらを見る幸三郎の父親。

皆、あの瞬間の絶望とどう乗り越えるのか教えてほしいくらいです、と続けた。


汗の浮いたグラスの氷が動いて、カランと涼やかな音をたてる。


「幸三郎が生まれたとき、あまりの可愛さに仰天して。初めは女の子かと思ったくらいなんです。可愛くて仕方なくて、あの丸いほっぺたを両手で包むと、くすぐったく笑う顔に文字通り噛みつきたくなって。ほんと、可笑しいですよね。芳郎のときもそうでしたけど。……この世にこんなに大切なものはあるのかって驚くくらいに愛しくて」


パパって呼ぶ声が今でも聞こえると、敏一郎はグラスを傾けて、一気に黒い液体を飲み干した。


「征二郎君はどうです?」


訊かれることを想定していたのだろう。ちょっと待ってください、と二杯目のコーヒーを入れるために立ち上がった。「貴方のも入れ直しましょう」とこちらに向き直る。まだ半分ほど残っていたけれど、その人の提案を受け入れた。キッチンまでは数歩もあればたどり着く。でも、そのたった数メートルの距離が、今の彼には必要なのだ。

話しを先延ばしにするのは、言いたくないことがあるからだと経験上、分かっている。


「良い香りですね」


思わず、呟く。できあいのコーヒーではなく、お湯でドリップコーヒーを入れてから氷で冷やしてくれたらしい。初めて顔を合わせる一端の記者でも、手厚くもてなしてくれる姿には感動すら覚える。


「征二郎が生まれた日、空がやけに綺麗でね。それだけははっきりと覚えているんですよ。なのに、生まれたばかりのあの子の顔ははっきりと思い出せない」


そんなことってあるんでるかね、と静かに腰を下ろした男が俯く。入れたばかりのアイスコーヒーのグラスは握ったまま口をつけない。

室内に漂うコーヒーの香りに溺れるような感覚に陥る。香りには心を鎮める効果があるようだ。


「自分の子供が可愛く思えないなんて。自分でも……、何でそんなことになったのか分からない」


突如としてもたらされた告白に面食らう。


「芳郎のことも幸三郎のことも可愛くて仕方ないのに、なぜか征二郎だけ可愛く思えなかったんです。三人の内、一人だけどうしても……」


言葉尻が濁ったのは一瞬で、次に顔を上げたときにははっきりと決意を滲ませた目をして「愛せない」と言った。返事もできずにただ、敏一郎の顔を見る。笑えない冗談だ。そう口にしようとして、あまりにも真っすぐとした眼差しに、嘘なんかではないことを悟る。

そうして語られた真実は、いっそおぞましいほどに残酷で。

父親に愛されていないことを征二郎は知っていたのだろうかと、そんなことを思う。


「それでも私は父親ですから努力したんです。あの子のことを、他の二人と同じように大切にしようって。あの子には絶対に悟られないようにしようと誓いました。良い父親になれるように頑張った。だって、大事な家族です。妻と三人の子供。自分は恵まれていることを知っていました。子供は宝。授かりもの。まさしくそうなのですから」


「だから、愛そう。愛さなきゃ、とずっと思い続けてきました」


グラスから話した彼の指は、震えていた。


「けれど、気になった。疑問はいつも自分の中にありました。なぜ、征二郎()()愛せないのか」

「理由が、あるんですか?」

思わず訊いていた。敏一郎は言葉を止め、じいっと見据えるように僕の顔を見る。

「記者さんは、取材の最中……、気づきませんでしたか?」

「え?」

「我が家と、お隣の家族を調べたんでしょう?」

「え、……ええ、まぁ」

「だったら、変だと思いませんでしたか?」

「……え?」

敏一郎の目が、右に左に動いている。飛んでもいない羽虫を追っているように。

けれど、彼が何を言わんとしているのか僕には理解できなかった。

は、は、と息を切るように、あるいは抑えきれない怒りをそれでも封じようとしているかのように男は奥歯を噛み締めてこう言った。


「あいつ…、あの男と……、私の妻は不倫していたんですよ」


「―――――はぁ?!」

昔話に割り込むように奇声を上げたのは言うまでもなく柘植である。続けて「意味が分かりません!」と頭を抱えた。

「そうだよね。僕も意味が分からなくてさ。聞き返したくらいだよ。だけど、彼は自分の妻と隣人が不貞を働いていたと信じて疑わない様子だった」

「急展開ですね。というか、これが小説だったら物語が破綻してますよ」

「まぁ、ね。でも事実は小説より奇なり、でしょ?」

「それ言ったら何でもおさまるわけじゃないですから!」

「確かに」

「……あっ、待ってください。あれ? ということは?」

「うん」

「今、征二郎君のことが可愛く思えないって話をしてましたよね? それでその話が出るってことは、もしかして?」

「ご明察」


敏一郎はずっと、もしかしたら征二郎は自分の子ではないのではないかと思っていたわけだ。

しかし、自分の妻に事実を確認する前に、事件が起こる。幸三郎が何者かに殺害されたのだ。しかも犯人は、妻と関係を持ったと思われる男。―――――もしもこのとき、敏一郎が妻と隣人の不義密通を訴えていたなら、捜査は新展開を迎えていたのではないか。そもそも隣家の男が疑われたのは、彼が小児性愛者だと思われたからだ。だが、もしも本当に不倫していたなら、その異常な性愛については否定される。


「しかも幸三郎ちゃんの父親は、隣人が事件に関わっているのではないかと世間が疑い始めた頃、自宅に殴り込みにいっているからね」


当時は本当に、幸三郎を殺害したのは隣人だと信じていたのかもしれないし。あるいは「あえて、そんなことをしたってことですか? 周囲に、その人が犯人だと思わせるために」

「うん。……でも、それはさすがに考えすぎかな?」

「うーん、どうでしょうね。人間っていうのは恐ろしいものですよ。目的を達成するためには手段を選ばない」

事実として、その後、隣家の男は逮捕されている。

「というかですね、所長。その殴り込みのときって、彼らがどんな話をしたのか聞いていた人はいるんですかね?」

「え?」

「何の話、したんですかね?」

「……、」

「もしかしたら、征二郎はお前の子かー! 何て言っていたりして?」

まさかそんなはずはないと思う。自分の息子が何者かに殺害されたのに、わざわざ犯人と思しき人物のところまで出向いて、不倫を問い詰めるようなことをするだろうか。

ただ、気になっていることはある。


―――――でも、征二郎のことはもういいんです。

と、敏一郎は微笑した。


『色々、思うところはあって。未だに私を苦しめるのは事実です。しかし、征二郎も間違いなく私の子です。血は繋がっていなくてもね』

『そう、ですか……』

『幸三郎を手にかけたのが……、征二郎なら許すことはできないけれど。だからといって、あの子を痛めつけたりはしません。そうしないために、離れたというのもあります』

『……それで、いいんですか?』

『いいんですよ』


『間男は死にましたしね』


復讐は果たされたと、言ったのだ。

そのとき彼は、テーブルの上に両手を出し拳を握っていた。折り曲げた指の方を内側にして向かい合わせにしていたのだが、右手だけをそのまま、ずり、と外側に動かした。

どこか奇妙な動かし方だったので、印象には残っているものの大して気にも留めず、意味なんか考えもしなかったのだが。


時を経て、現在(いま)。なぜ、気づいてしまったのかと怖くなる。

雑誌に紐をかけて引っ張っているときに、唐突に理解したのである。あのとき敏一郎の両手は、確かに両手で紐を引くような仕草をしたのだ。小刻みに震えていた拳が、どの程度の力で紐を握ったのかを示していた。強く、強く、紐を引いたはず。


ある男の首に、紐をかけ。―――――両手で強く引いた。


「……所長? どうしたんです? 黙り込んで」

「いや、……何でもない」


結局、征二郎君は誰の子供だったんですかね? DNA鑑定は? したんですかね。

ぽつりと落とされた疑問に答える。


「したって言っていたよ。敏一郎()はね」

「結果は?」

「結果報告書は見せてもらえなかった。破り捨てたと言っていたかな?」

「ふうん、」


何か変ですね。変だと思います、と柘植は大きく伸びをした。退屈なのかもしれない。「それで所長はその人に訊きたいことは聞けたんですか?」

「いや、あまりに衝撃的なことを言われたものだから、考えていた質問が全部吹き飛んでしまったんだよ」

「所長にもそういう人間味あふれる部分があるんですね」

「まぁ、僕も人間だからね」

「そうですね」


あれほどはっきりと、敏一郎に、幸三郎を殺害したのは征二郎なのか訊いたのに、彼は曖昧な返事をしただけだった。あくまでも仮の話として「征二郎が幸三郎を手にかけたのなら……」と言ったのだ。

僕が記者だから、断言することを避けたのか。もしくは、心のどこかで征二郎は無実だと信じているのか。

他人の心情を推し量るのは、存外難しい。


「所長。その事件のファイルってこれですよね?」


立ち上がった柘植が棚から、一冊のファイルを取り出す。そして、ぱらぱらとページをめくり、ある部分をこちらに見せてくる。僕が、簡単にまとめた相関図だ。そこには関係者の顔写真を貼り付けている。

「これが幼き征二郎君ですね?」

園児の顔写真を指差しているので頷く。「で、これが敏一郎さん」ダークスーツを纏った男を指すので、これにも頷いて答える。


「似てます」


敏一郎さんと、征二郎君。そっくりじゃないですか? と問われた。

答えることができずに、ただ柘植の顔を見据えるに留まる。真相は誰にも分からない。DNA鑑定をした敏一郎にだって分からないのかもしれなかった。


人間は、信じたいものを信じる生き物なのだ。


「敏一郎さんと征二郎君の間に、血の繋がりがあったなら―――――。この話ってもっと複雑になりますね」

どこか愉快げな事務員の声を聞きながら、窓の外に視線を移す。すっかり日が暮れている。


今日は新月。


月は、見えない。


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