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暗闇に、月を葬る  作者: はなぶさ
※新月の月はどこにあるのか ー小嶋視点ー

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憎しみの上限というのはあるのだろうか。それとも無限なのだろうか。

一度抱いた増悪が一分一秒単位で増え続けるとして、どこまで広がり、どこまで膨れ上がるのだろう。

いつか破裂するのか。破裂したなら爆散したそれは一体、どこに流れていくのだろう。


「所長って、いつもそんなこと考えてるんですか?」


事務員兼営業の柘植(つげ)が、パソコン作業の手を止めてこちらを見る。

さっきまでは、僕の話に耳を傾けつつも興味なさげに、かろうじて相槌を打つ感じだったのに。今はなぜかその大きな瞳を更に大きく見開いている。化粧っけのない顔に、長い睫毛の存在感がひと際大きい。

けれど、彼女いわく実はしっかりと化粧しているらしく、完全なノーメイクだと全くの別人になるということだった。そんなことあるのだろうか。

プロ並みの技術力だと恐れ入れば、大抵の女性はこれくらいできると宣う。

例えば自分が女性に生まれたとしてもそういう風に、容姿を整えるための努力をしたり、技を磨こうとは思えないので、人によるのではないかと意見すれば「それはそうですね」とあっさり頷いた。

てっきり反論されるかと思っていたので拍子抜けだ。そう伝えると、無益な戦いはしない主義だと鼻で笑う。上司に対してひどい態度である。


「憎しみについて考え続けるなんて健康的じゃないですね。そんなこと考えるのは、誰かに対して決して打ち消すことのできない憎悪を抱いたことがある人間くらいじゃないですか」


なかなか際どいところを突いてくる。


「僕じゃないよ」

「じゃ、誰ですか」


誰だろうね、と誤魔化しながら応接台に積み重ねていた雑誌を片付ける。

一本、記事を書き終えたばかりだ。次の記事のために取材に出る予定だったが、先方から色好い返事がもらえず、しばらく冷却期間を置くことにした。急いては事を仕損じる。フリーのライターだと、このあたりに融通が利くので良い。それに、いくつか同時に企画を走らせていることもあり、予定通りにいかない事態が発生しても代替えが利く。昔と違って、書籍や雑誌などの紙媒体じゃないことも大きかった。関係各所に頭を下げて回る必要もない。WEBサイトに記事を公開できることは、新たな利便性を生み出したといえる。


「この雑誌必要ですか、所長」


事務机の横に放っていた週刊誌を手に取って、柘植が首を傾ぐ。どうやら片付けを手伝ってくれるらしい。

主に乱雑に扱われた書籍の整理なのだが、掃除も兼ねているので一人ではなかなか仕事が捗らなかった。彼女の厚意に甘えるとしよう。


「それはあっちの棚。大事な資料だからね」


はいはい、と己の仕事を中断させて席を立つその後ろ姿を何となしに見送る。この事務所唯一の事務員は元々、大手企業の総務に在籍していた。取材に行った先でたまたま巡り合った人なのだが、転職を考えていると聞いたからこの道に引き抜いたのだ。さほど給料はあげられないけど、生きがいなら与えられるかもしれないという何とも無責任な言葉にただ、面白そうと笑った。その翌月にはこの事務所に居て、そのスピード感に誘った側の自分も驚いたほどである。もう何年も前のことだ。

あのときは、長い髪を丁寧に巻いていて、街を歩けば周囲の視線を浚っていた。

「この棚も整理しないとですね」

短く切った爪にネイルを施しているところを見れば、先ほどの彼女の言い分もまんざら嘘ではなさそうだ。化粧をしてないわけではなく、していないように見せているのだろう。

そういえば先週は、美容室に行ったはずだ。確かそんなことを言っていたと思う。切りそろえたばかりの柔らかそうな髪が肩を過ぎたあたりでふわりふわりと揺れている。髪の手入れも入念なんだろうか。

そんなことを考えて。

元妻の後ろ姿に似ているような気がして、何とも言えない心地になる。


『髪を切ったの分かる? 分からないでしょ。でもいいの。貴方がいつ気づくかなって、そう思いながら過ごすのが案外楽しいから』


記憶の中の、いたずらっぽく笑みを刷いた(その人)の顔はいつまでも年を取らず、若々しい。

鏡の中の自分は毎年、確実に老いていくにも関わらず、僕の中にはあの頃の彼女しか存在していないのだ。赤ん坊のままこの世を去った娘も同様である。妻を思い出すときはいつも同時に、この腕に初めて抱いた娘の小さな手とその重みが蘇ってくる。


だから。

僕はずっと、妻と娘の()()()を思い出しては打ち消そうと、必死に藻掻いている。


当時、仕事で出産に立ち会うことができなかった僕に、看護師が「元気な赤ちゃんですよ」と言ってくれたのを忘れることができない。目元がお母さんにそっくり、顔つきはお父さん似ですね。その言葉が嬉しくて、娘の顔を飽きることなく何時間も見ていた。

産科医にも看護師にも健康だと太鼓判を押されて安心していたのだ。多くの赤ん坊がそうであるように、我が子も元気であると。なぜなら、専門家である彼らの言葉を疑う余地などないから。

実際は、そうじゃなかったのに。

僕の娘は、この世界に誕生したときから、―――――正確には、妻のお腹にいるときから疾患を抱えていたのだ。

けれど、僕たち夫婦がそのことを知ったのは娘が生まれてから、実に三か月も経過した頃だった。


もっと早く分かっていれば、助けられたかもしれない。未だに、いくつもの「もしも」が頭を過る。

結局、三つの病院を回って、最後は大学病院で手術をした。

何か月も入院して、妻は娘に付きっ切り。うまく眠れなくなったのはその頃である。


残酷という言葉では足りない地獄がここにはあって。

全員が気づかぬうちに、波状に広がる地獄の浅瀬に立っている。向こう側に見えるのは黒い渦。呪詛の波。


「この間、高校生が詐欺事件に加担して逮捕されたじゃないですか」

「うん?」


不意に投げかけられた問いに、咄嗟には何のことか分からずに首を捻る。頭の中にいくつかの事件が思い浮かんだ。重大事件の若年化が社会問題となって久しい。世も末である。


「それで思い出したんですけど」

「うん」

「何年か前に、ここへ高校生が来たことがありますよね」

「……ああ、」


ここ数日の間に起こったらしい事件の顛末はなかなか思い出すことができないのに、数年前この事務所を訪れた二人組の高校生のことならいともたやすく頭の奥に眠る記憶媒体から取り出すことができた。

と、いうより。忘れたことがなかったから、記憶を探る必要もなかったといえる。


「あの時は何だか深刻そうでしたし聞かなかったんですけど。あのお二人って所長の親戚か何かですか?」

「いや、」


当時は、こちらが言うまでもなく見て見ぬふりしてくれたのに、なぜ今頃になって話題にするのか。

そう思ったのが顔に出ていたのだろう。


「逮捕された高校生なんですけどね。未成年だから、名前も顔も伏せられて年齢くらいしか分からない。で、コメンテーターが言うんです。近頃の高校生が善悪の区別がつかないんじゃないかって。日本の教育の敗北だって。え、……そんなことあります? 善悪の区別って教育によるものなんですかね。自然と身に着くものだと思ってたから、目から鱗ですよ。誰かが教えなくちゃいけないの? って」

「君も、僕に負けじと色々考えてるじゃない」

「所長ほどじゃないです」

「まぁね、」

「……それで、想像してみたんです。その、善悪のつかない高校生の顔ってものを」

「暇だったんだね」

「そうです。けど、親戚にも知り合いにも高校生っていないから、想像すら難しくて……。だからといって通りすがりの高校生をじろじろ見るわけにもいかないじゃないですか」


そうして唐突に、事務所にはあまりに不似合いな少年と少女のことを思い出したらしい。

柘植の言う通り、保護者も伴わず未成年がここに来ること自体が異質だ。今後も恐らくないといえる。


「でも、思い出せませんでした。私、そんなに記憶力よくないんで」

「そんなことないでしょ」

「そうなんですよ。人の顔を覚えるのが一番苦手ですね。……ともかく、あの子たち元気かなぁってふと思っただけなんです」

「どうだろうね。僕も会ってないから分からないな」

「お知り合いじゃないんですか?」

「うーん、説明しずらいかな」

「そうですか」


言葉を濁せば深くは踏み込んでこない。これが彼女の良いところである。


「きっともう社会人ですよね。どんな大人になったんでしょうねぇ」

棚に並んだ雑誌の背表紙を眺めながら呟いた柘植の横顔を見る。どこか楽しそうだ。

「良い人生を送っているといいよね。若者が未来に希望を抱けるような国であってほしいよ」

自分の作業に戻りつつ答えれば「国の話になっちゃうんですね」と呆れるように返された。


「記者だからね」


不要となった資料を重ねて紐で縛る。子供の頃は家の前に出しておけば廃品回収の車が拾ってくれたものだが。最近は近所のスーパーに設置されているエコボックスまで運ばないといけない。それがなかなかの力仕事で難儀している。回収してくれるだけで有難いのだが、それ以上を求めてしまうのは人間の性か。

「もうちょっと定期的に整理したほうがいいんじゃないですかね」

至極もっともなことを指摘されて顔がない。不用品と化した雑誌を次々にビニール紐で束ねていく。こういった作業はお手の物だ。我ながらさばけていると自画自賛しながら、玉巻のビニール紐を強く引っ張りだす。ぐるぐると雑誌に巻き付けて、両手で強く引っ張る。その作業を繰り返す。

一瞬、山が崩れそうになったので、形を整えるためにもっと強く腕を引いて―――――、


「―――――あ!!!」


声が出た。


「?! 何ですか?」

「……っ」


咄嗟には声が出ず、ぱくぱくと喘ぐように息を漏らす。


「所長! 血が出てます!」

「!」


ビニール紐が指に食い込んで、そこから血が零れ落ち、床を汚していく。

こめかみの横がどくどくと脈打ってうるさい。頭の芯が熱くなるような気がして、そのままソファに座り込んだ。ほっとしたのも束の間、耳鳴りと共に白くなる視界。貧血を起こしたのだと気づく。

けれどそれは怪我をしたからではない。今しがた頭に浮かんだ在りし日の光景に動揺し、同時に驚愕したからで。自分でも慄くほどに動揺していた。

ただちにハンカチを渡されたので、心配そうにこちらを窺う事務員と目を合わせ、大丈夫だという振りで一つ頷けば彼女は肩を竦める。


「ドジっ子ですか?」

「そんなわけ」


ははは、と乾いた笑いを漏らしつつ立ち上がり、事務所に常備している薬箱を取り出す。指に絆創膏を貼ってソファに座り直した。既に血は止まっているようで、テープから漏れ出すこともない。

柘植は一足先に対面のソファに腰かけていて「びっくりさせないでくださいよ」と、応接台の上にペットボトルを二本置いた。どうやら休憩するらしい。

「冷蔵庫に入れるの忘れてましたね」と、常温のボトルに口をつける事務員の姿に、憔悴しきった様子でそこに座っていた高校生の細い肩を重ねる。


彼らは数時間もここにはいなかった。その短い時間では到底語り尽くすことはできなかったけれど。幸三郎ちゃんの事件が、己にとって忘れがたい出来事となった所以を語って聞かせたのである。


「本当は話したいことがあるのでは?」


ペットボトルのお茶を、一口二口含んでから寸の間。組んだ膝の上に肘を置いた柘植が前のめりで訊いてくる。


「いや、そうじゃない。特別、話したいことがあったわけじゃない。別に」

「そうですか?」

さらりと肩から落ちる髪。その緩やかな波を視線で追いかける。

「今の、今まではね」

自分の視線をぶった切るように、両手で顔を覆った。今しがた指に巻いた絆創膏が頬に当たって痛い。訪れた闇の中で、自分が見てきたもの、考えたものを整理する。ばらばらに散らばっていた破片が、思念という引力に手繰り寄せられ、全体像を浮き彫りにしていく。


「あの高校生たちのことだけどね」

「はい。この事務所に来た二人ですね?」

「そう」


再び、柘植の顔を見る。

「彼らが事務所に来た後のことなんだけど。僕はね、自分自身に決着をつけるべきだと理解して、ある人に会いに行ったんだ」

「……ある人?」

「そう」


そこで、宇都宮幸三郎ちゃん殺害事件のあらましを簡単に話す。うんうんと頷きながら聞いているが、その薄い反応から、彼女にとっては世間を賑わせた事件の一つでしかないことが分かる。「そんな事件もありましたねぇ」と呟いたものの、本当に覚えているのかどうかさえ僕には分からなかった。


「あの高校生は、事件の被害者遺族ってわけですね」

「うん、そう。……一人は幸三郎ちゃんのお兄ちゃんで。女の子の方は、彼の友人って話だったかな? そう言っていたと思うよ」

「友人……? 彼女とかじゃなくてですか? よっぽど仲の良い友達なんですね。こういう込み入った話をするとき、異性の友達を連れてくるってあんまりないような気がしますけど。そういう考え方も古いんですかね」

「さぁ、どうだろうね。けど、そういう感覚は今も昔も大して変わりないと思うよ。まぁおじさんの僕に言われたところで説得力ないか」

「そうですね」

「手厳しいな」


ただ、僕は当時から感じていたことがある。彼女は、彼の友人というには正直、かなりの違和感があった。


「違和感?」

「そう。僕の話を聞いているときの態度というか、眼差しがね。他人事とは思えないような顔をして。芳郎君の気持ちに共鳴しちゃったのかな? とも思ったけど。よくよく考えればわかる」

「何です?」

「あの子は多分……、」

「多分?」

「事件の関係者だね」

「関係者。―――――というか、随分もったいぶった言い方するじゃないですか。所長には彼女がどういう人間なのか分かってるんでしょ?」

「うん」


確証があるわけじゃない。何せ本人から聞き出したわけじゃないから。

ううん、と天井を仰いだ事務員は長年この事務所に勤めているからかいとも簡単に答えを導き出した。


「芳郎君? の彼女じゃなくて。被害者遺族でもない事件の関係者なら、加害者側の人間でしょう? 警察関係の人間がここに来るとは思えませんし」


やはり鋭い。関心していると「返事はしなくていいですから」と先手を打たれる。

「それで? 所長は誰に会いに行ったんです?」


「―――――宇都宮敏一郎(としいちろう)。幸三郎ちゃんの父親」











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