21
「この桜が散る頃にはもう、俺はこの世にいないんだよね」
窓の向こうを見ながら呟いた征二郎がこちらを見る。その薄い肩越しに見えるのはガラス窓を青く染める大空だけである。窓の近くに立って覗き込めば高いビル群の屋上や、規則正しく並んだ無数の四角い窓が見えるだろうが、何せベッド越しだから確認しようもない。征二郎の視線に促されるようにして、青空を眺めるに留まった。
わざわざ移動するのも難儀だし、そもそもベッドと窓側の壁の間には人が入り込めるほどの隙間はない。
いや、ベッドの主である征二郎を押しのければできないこともないか。
子供の頃なら、一つのベッドに二人並ぶことも可能だったと思いを馳せる。幸三郎を膝に載せて、征二郎と三人で真夏の青空を眺めた。雲一つない空と、白い月。吸い込まれそうで怖かった。
あれはいつのことだっただろうと考える。
「桜はもう咲いていないよ」
病院の玄関近くに植えられている桜はとうに花を散らしていて、緑も見えていた。もうすぐ夏がくる。
「そうなんだ」と笑う弟の目尻に浅い皺が刻まれているのを見て、過ぎ去った日々のことを思う。いつまでも中学生のように見えていたのに、いつの間にか年を重ねて大人になっている。征二郎にも、俺のことがそんな風に見えているのだろうか。
とはいえ、征二郎はまだ三十歳。まだまだ若いのに顔に皺が浮くのは、痩せているからだ。まろみを帯びていた頬は見る影もない。
もう自力で起き上がることはできず、今日は背中側に大きな枕を二つ重ねてやっと体勢を保っている。
黒くなった爪先が闘病の過酷さを物語っていて、今も点滴を打っているが薬剤の名前はもう覚えていないらしい。だけどそれがないと生きてはいけないほどに弱っていた。
かつては、弟に施される全ての治療、飲んだり点滴したりする薬の効果を全てネットで検索して、それらがどういう類のものなのか、どの程度効き目があるのか丁寧に調べていたのに。いつしかやめてしまった。素人がどれだけ頑張ったところで征二郎を救うことはできないと、思い知らされたからかもしれない。
本人には何度もセカンドオピニオンを勧めたが、受け入れられることはなくとうとうここまできた。
余命宣告をされたのは二か月前。そのときはあと一か月くらいだろうと言われたが、まだ生きている。
本人も「案外しぶといよね」と感心していた。
最近は痛みを抑える薬のせいで眠っていることが多い。
病気を治すための治療は効果を得られず、元々は腫瘍が小さくなれば手術ができるかもしれないという話だったが、そうはならなかった。為すすべもなく延命治療に切り替わったのはそんなに前のことではない。
今はただ、そのときを待っている。
今日は、朝から調子が良いと言ってしっかりとした顔つきをしていたから、一緒に差し入れのソーダゼリーを食べた。口元を綻ばせ、透明の青いゼリーを突く姿に胸が迫る。
『海みたい』と呟き、そういえば海に行こうと思っていたの忘れてた、と征二郎が言うから。
見たいのなら連れて行く、とできもしないのに胸を叩いた。当たり前に見抜いた弟は「来世に期待する」と、冗談か何か分からないことを言って薄く微笑む。
苦しい。
母が義父と共に見舞いに来たのは二日前。その前に来たときから一週間空いていた。
遠方に住んでいるわけでもないのに、足が遠のく理由は、母が面会を躊躇っているからだ。その一方で、血の繋がりもない義父は征二郎のことをあれやこれやと気遣ってくれる。面会に来たときも、新しいタオルと下着、パジャマまで準備してくれた。予備なら置いてあると伝えても、あって困ることはないからと古いものと交換してくれて。飲めるときに呑んだらいいと、備え付けの冷蔵庫にオレンジジュースを入れてくれた。
母はその間、口数少なく征二郎の顔を見ていた。ハンカチで口元を押さえ、明らかに狼狽した様子のその人は、息子の弱った姿を見ているのが耐えられなくなったのか早々に病室から出て行ってしまう。
弱い人だと思っていたけれど、これほどとは。
『仕方ないね、あの人も』
他人行儀に呟いた征二郎は疲れていたのかそのまま眠ってしまい、他には何も言わなかった。だから俺も、あえて母のことには触れず、病室に残って所在なさげにしていた義父に椅子を進めて。当たり障りない会話で繋ぎ、征二郎が起きるのを待つつもりだったけれど。なかなか目覚めなかったのでその日は帰宅したのだった。
母と征二郎に何があったのか知らない。二人はずっと前から口を利いていないようだった。誰かが取りなしてあげるべきだろう。でも、壊れてしまった関係を、元通りに修復するための時間はなかった。
「芳くんは最近どう?」
「どうってことないよ。相変わらず仕事三昧。仕事仕事仕事って感じ」
「だろうね。目の下の隈が酷い」
やせ細って今にも死にそうな征二郎に言われると何だか可笑しい。
「芳くんは結婚しないの?」
「しないよ」
「……俺のせい?」
「何で?」
「俺が、幸ちゃんを殺しちゃったから?」
「!」
幸三郎が亡くなってちょうど二十五年だ。随分、時が経った。義父によると母はいまだに毎朝、仏壇の前に居て幸三郎の写真を見ながら涙ぐんでいるらしい。時折話しかけては、どうして守ってあげられなかったのだろうと自責の念に駆られていると。
母の中であの事件がどのような結末を迎えたのか、息子である自分にも到底計り知れない。
だけど。俺は真相を知って以来、幸三郎の写真を見ていると表現し難い複雑な気分になった。年を重ねるごとに胸に巣くう靄は広がっていき、体内を侵食していく。肋骨を切り開いたら、そこあるのは臓器ではなくただの闇なのではないかと思えるほどに淀んでいるのだ。
心は暗く沈み、テレビを見て笑ったのがいつだったか思い出せないほどである。
だから、幸三郎の屈託のない笑顔を前にしたときは、言葉を忘れ、感情すら見失う。
子供の頃は、写真に向かって話しかけることもあったのに。
「……覚えているのか?」
問い返すと、征二郎は目を瞠り「やっぱりそうだったんだ」と答える。
―――――やられた。
目元を覆い、天井を仰ぐ。頼りないパイプ椅子がぎしりと音をたてた。
今、この瞬間までひた隠しにしてきた秘密だったのに。弱りきった病人を前にして、油断していたのだろうか。
「芳くん、俺はさ……、抑えられない破壊衝動についてずっと考えてきた。きっと頭がおかしいんだと思っていたんだけど。やっぱりそうだったんだって納得できた。ずっと前から壊れてたんだね。いや、違うか。それだと最初は正常だったみたいに聞こえるね。そうか、……そうだ。俺は最初から変で、生まれてきちゃ駄目だったのかも」
「……、」否定しようとして口を開いたのに「何も言わないで」と制される。
「それに、覚悟ができて良かった」
「覚悟?」
「地獄に墜ちる覚悟」
ふふ、とあまりに奇妙な間で笑う弟。末の弟を手にかけた実感があるのかないのか、俺には判断できないが、征二郎にはどうやら罪の意識がないらしいことは分かる。
もしもこの対話が、病室でなされたものではなかったら。俺だって激高して、何であんなことをしたのか教えてくれと問い詰めて、何も殺すことはなかったと怒り狂い、凶行を止められなかった自分自身を憎むのだろう。しかし、ここは病院で。
征二郎はもうすぐ死ぬ。
「怖いか?」堪えきれなかったため息と共に尋ねれば、弟は「ううん」と小さく首を振った。
一人で地獄に行くのなら、そっちの方がいいかもと。
だけど、芳くんとはこのまま二度と会えないねとまた笑う。死は永遠の別れなのだが、それは当然そうなのだが。征二郎が言っているのがそういう意味じゃないことくらいは理解できた。
身近な人の死を前にすると誰だってどうしても、来世のことを考えてしまうに違いない。次は、どんな風に生まれて、誰と出会って、どんな家族を得て、どういう風に生きるのか。そこに自分は、存在するのかと。
「芳くんは、俺が死んだらお母さんと仲直りしてね」
「……、」
「約束」
「……、」
「約束、ね」
大学進学を機に家を出た俺は、学費こそ親に援助してもらったものの生活費はアルバイト代で補っていた。そのせいか、自然と実家への足も遠のき、帰るのは年末年始くらいになっていたのだけれど。
そのまま就職して実家へは戻らなかったので、いつしか母とは連絡を取ることも少なくなった。
喧嘩したわけではない。だから仲直りする必要性も感じられない。
母とはもはやその程度の関係性であるが、義父とはなぜか波長が合うような気がして定期的に顔を合わせている。居酒屋で酒を酌み交わすことも少なくない。
征二郎とも連絡をとっており、頻繁ではないものの年に数回は会っていた。
それは単純に、弟のことが気がかりだったからであるが。大抵の兄弟と同じく、会っても大した話はしなかった。電話でもメールでも互いの近況報告くらいで、それ以上のものは何もなかったし、逆にそれだけあれば十分のような気もしていたのだ。
そんな折、征二郎から大事な話があるからと呼び出されたのは、二年前のことである。
『癌なんだって。あまり良くないみたい』
征二郎は一人で病院に行き、診察や検査を受け、一人で宣告を受けたようだった。
まだ二十代なのに、早いよね。と言って弟は苦く笑う。あまりにも唐突な報告に寸の間言葉を失い、そのいつもと変わらない顔を見つめた。何かの冗談だと思ったのだ。そのくらいに穏やかな表情をしていた。
征二郎と初めて会った人は、おおよそその笑顔に絆されて心を開く。人当たりが良く性格も穏やかで、他人に嫌われる要素など皆無だから。
だというのに、やはり常人とはどこか違っているようで、学生時代から今を通じて、友人らしき友人が居たことはない。
恋人が居たこともあったようだが、長くは続かなかったらしい。
そんな風に。
傍から見れば孤独な人生を送っていて。
せめて俺が病院に付き添うべきだったと、後悔しても遅い。
最近お腹が痛かったんだよね。でも、仕事あるし。どうせストレスだろうって我慢してたら、その内眠れないくらい痛くなってさ。仕方なく病院行ったのに、なかなか診断がつかなくて。
医師にも若いからまさか癌じゃないと思うけど検査しておく? みたいなこと言われたわけ。そのときに検査してたらもう少し違ってたのかな……。自分でも若いから重病じゃないだろうなって思っちゃって。そのままほったらかしにしてたら、いよいよ起き上がれないくらい痛くなったの。それで、それでさ。救急に運ばれたときにはもう手遅れだったみたい。
征二郎がつらつらと、そこに書かれた文章でも読み上げるみたいに淡々と、同時にどこか愉快げに話すから。聞いている内に、息ができないほどに苦しくなった。悲しくて、辛い。言葉にすればそれだけなのに、心の中はもっといろんな感情が渦巻いていて。吐き気に襲われるくらいに泣いてしまったのだ。
何でお前が、と嗚咽しながら言うと、弟はなぜか「ありがとう」と礼を返してくる。
『悲しんでくれてありがとう、芳くん』
「何か、暑いかも」
掛け布団を揺するようにして肩を出した征二郎の額をタオルで拭う。身じろぐことはできても両手を動かすことすら体力を使うようだ。
「夏の空が、懐かしい、」
空気が淀んでいる気がして窓を開けた。途端に強い風が吹きこんで、壁に貼られた紙がはたはたと音をたてたので慌てて閉める。何やってるの、と征二郎が噴き出した。
こんなに長い時間、二人きりで過ごしたのはいつぶりだろう。
実の父親は、未だに一度も顔を見せない。
「中学生のときさ、何だかどうしても暴れ出したいような気分になって。階段からクラスメイトを突き落とそうとしたことがあるんだよね」
さらりととんでもない告白をする。
「だけど失敗して、自分が転げ落ちちゃった」
そのとき、頭を打って少しだけ気持ちが落ち着いたという。そんなことが本当にあるのだろうか、と過ったのが分かったのか「たまたまだと思うよ」と続ける。
だけれども、それからはただひたすらに真っ当に生きるための努力をしたのだと、息切れしながら話した。
呼吸するのも大変そうで、こちらの息も切れる。
「こんな最後になるなんて思いもしなかったから。分かってたら、もっと大それたことをすべきだったかも」と笑えないようなことを口にした。
「世紀の大悪党になって歴史に名を遺すんだ」
乾いて干からびて見える唇を歪ませる弟に何をするのか訊けば「大量殺人とか」と、面白くもない冗談で空気を凍らせた。
「本当はね、そうしようかと思ってたんだけどやめたんだ」
「……なぜ?」
「芳くんが泣くから」
芳くんが可哀相だからやめとく。と本気でそう思っているのか真剣な顔をする。
征二郎が癌になったと分かったときに号泣した俺を見て、決心したらしい。もう二度と泣かせたくないと、弟のくせに運命の恋人みたいに誓ってみせる。
もう歩くこともできないから、犯罪なんてできようはずもないのに。
絶対に裏切らないからと重ねて約束する。分かったと頷けば、満足したのか征二郎は眠りに落ちた。体力が尽きたのかもしれない。
その後、征二郎はもう一度だけ目を覚ました。そして、ベッドサイドの小さなテーブルに置いていた手帳を指差す。読んでいい、とそれだけ言い置いてまた眠った。
本当に読んでもいいのか迷ったのは一瞬だ。残っていた有給を全部使うつもりでここへ来たから時間ならたくさんある。意を決して表紙を捲れば、そこには、征二郎のあまりにも短い人生の総括のようなものが記されていた。
いつ書いたのか、達筆とは言えない文字で幼い頃から感じていたらしい我が家の違和感について書き連ねている。
『父は、強く優しい人だったけれど、三人の息子を均等に愛することはしなかった』
そんな一文から始まって。征二郎だけが、一度も父親に抱き上げてもらったことがないと、知りもしなかった事実が明かされていた。
『父に話しかけてもなぜか視線が合うことはなく、近づけばそっと遠ざかり一定の距離を置かれる。かといって無視をされることはない。つまり、話を聞いてくれないことはないものの、話を合わせてくれることもない。
確かに世話をしてくれるし、同じ家にいて、一緒に生活している。
だけど、愛されている気がしない。
その一方で、弟の幸三郎は誰から見ても両親に愛されていた。
幸三郎のお遊戯発表会の日。父がいそいそと新調したカメラを準備して、場所取りしなきゃいけないからと早朝から出かけていった姿が、目に焼き付いている。
自分の参観日には母しか来ない。そんな家庭はどこにでもあるが、自分と幸三郎を比較したときには明確に差別されているように感じた。
ずっとずっと、胸の奥にあった違和感。
幸三郎が亡くなってからはますます父の態度が硬化して。冷淡ともいえる言動が増えた。
愛されていない。多分』
そう書かれていた。続きが気になってページを捲ったけれど、続きはなかった。
単純にものを書く体力がなかったのか、元々書く気がなかったのか分からない。
ともかく、そこには俺の知らない征二郎がいて。俺の気づかなかった家族の歪みがあった。
ただ、その手帳にすら幸三郎の死についてどう思ったのか、何をしたのか、後悔しているのか、何一つ書かれた様子はなく。結局、征二郎にとって幸三郎がどういう存在だったのか知る術はなかったのである。
―――――手帳を渡された翌日の朝。
征二郎は亡くなった。
痛みに苦しむのがあまりにも可哀相で。この薬剤を体内に居れたらもう目覚めることはないでしょうと言われたけれど。だったらもう眠らせてあげてほしいと懇願した。
俺が征二郎のためにできるのはそれだけだったから。
それなのに。心臓が止まる三時間前。起きないと思っていた弟が唐突に目を開けた。そして、言ったのだ。
「―――――パパ、……て、」
それが今生最期の言葉となった。残念ながら、何と言ったのか聞き取ることができなかったのだけれど。俺に残した言葉ではないだろう。
母と義父が病室に現れたのは、征二郎が亡くなった後だ。
ごめんねとベッドに縋りついて泣く母を義父が慰める様子をぼんやりと眺めて、看護師に促されたから事務的な手続きをして、あらかじめ連絡をしていた葬儀屋を呼んだ。
「泣かせたくないって言ったくせに」
弟が残したスマホの発信履歴から幾人かに連絡を取れば、全員が通夜に顔を出してくれた。征二郎とはどの程度の関係かは知る由もなかったけれど、悲しんでいる様子を見て、独りぼっちで生きていたわけではないと知ることができた。
良かった。
良かったのだと、思う。
ほっと胸を撫でおろしたのもつかの間。
棺の中で、色とりどりの花に埋もれている弟を見ているとどうしようもなく悲しくなった。
幼い頃、征二郎を右手に、幸三郎を左手に三人並んで歩いた日のことを思い出す。二人の、小さな手の感触を忘れることができない。そこには満もいて。
近所の小さな商店にお菓子を買いに出かけた。
『芳くん! 芳くんの好きなソーダがある!』
あの子たちは今、どこにいるんだろう。
何で俺は、一人になったんだろう。
*
「ご愁傷様です」
葬儀を終えて霊柩車に載った征二郎の棺を見送ったら、一人の女性が近づいてきた。
お悔やみの言葉に頭を下げて、顔を上げる。
ショートカットの髪に、真珠のピアス。大きな目が印象的なその人。口元の笑みが、泣き出す一歩前のように歪んでいた。震える声が告げる。
「……久しぶり、芳くん」
かつて闇に葬った月が今、―――――戻ってきた。
その顔を凝視したまま言葉を失っていると、頭の中に蘇る征二郎の最期の言葉。
パパ、
―――――だっこして。




