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暗闇に、月を葬る  作者: はなぶさ
※夜明け前

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21/22

20

母が死んだ。


学校から家に帰ると、玄関にパンプスが脱ぎ捨てられていて、その時点でまず何かがおかしいと思ったのだけれど。ひっくり返った靴を表に返して、散らばっていたそれを揃えた。

仕事を終えた母が、家に帰っているのだろうと理解してそのまま中に入る。それにしても早い。

この後はスーパーでバイトだったっけ? それとも今日はお休みだった?

つい先日、母が恋人を連れてきたときのことを思い出して胸が塞がるような気分になる。だけれど、あのときと違い、玄関から入ってすぐの扉は開いていた。

ゆえに、普段と同じく玄関からは室内が一望できるのだが、どうやら誰もいないようである。

それどころか全く人の気配が感じられないのが不思議だった。時間的には夕食の準備をしている頃合いだが、キッチンはきれいに片付いている。疲れて帰ってきたにしては、飲み物を出した形跡もない。

「……お母さん?」

隠れる場所なんてないことを知っているのに母を捜す。

見回す必要もないのに、意味もなく体ごと頭を回した。右、左。右、左。天井まで見上げたのはさすがに自分でも可笑しい。

そのときだ。

いつもは聞こえてこないはずの水音がしたのは。ちょろちょろと、水漏れみたいな細い音がする。

お風呂にでも入っているのかと思って、また「お母さん」と声をかけながら浴室を覗いた。

「!」

大きく呑み込んだ息が浴室の中に反響する。

赤く染まった浴槽を見て、何が起こっているのか瞬時には判断できなかった。単語にもならない呻き声に似た言葉を発しながら、仕事に出かけたときのままグレーのスーツを着ているその人にただ、しがみついた。左腕が、肘のあたりまで水に浸かっている。


「お母さん!!」


それから後のことはあまりよく覚えていない。


洗い場に母の体を横たえて、だけど足を伸ばせるだけの広さはないから浴室から運び出そうした。抱えようとしたものの、浴室から洗面所に続く段差で肩が引っかかる。重くて持ち上げることもできなかった。

近くに赤く染まったカッターが落ちているのが見えて。これで手首を切ったのだと、混乱しながらも芯から冷えている頭が判断する。

タオルで母の手首を抑えながら、救急に連絡しなきゃと思うのに。スマホがない。キッチンに置いてきた。

「だ、誰か……! 誰か!!」

自分と母しかいないから、そうしたところで意味もないのに半分泣き喚いて。一度、母から離れる。

震える指でスマホを掴み、画面を操作するのに。なぜか救急車を呼ぶための番号が思い出せなかった。


それから。

それから。


救急車に乗ったことは覚えている。でも、どうやって搬送されたのか記憶にない。気付いたら病院の待合室で。気づいたら死亡宣告を受けていて。気づいたら警察官がいて。

気づいたら目の前に担任が立っていた。


未成年ということもあり茫然自失の私では話にならないと判断した警察が学校に連絡を入れたようだ。担任が私の代わりに医師や警察と話をしてくれたらしい。が、そのあたりも曖昧だ。

その後、親戚はいないのか聞かれたけれど、祖母はとっくに亡くなっているし、他に頼れる人もいない。どうすればいいかもわからず途方に暮れたまま、ただ座り込んでいたら。

―――――なぜか、母の恋人が現れた。

その人は、会社経由で母のことを聞いたらしい。といっても、亡くなったことを知ったのは今の今だと説明される。用事があって母の職場に電話したら早退したと言われ、それならと自宅に向かってみたら救急搬送されたと近所の人から聞いたと。

一番近い救急病院がここだから、もしかしたらと思って来てみたらしい。


そこで私は、とんでもないことを聞かされるはめになった。


その人―――――、長谷川と名乗るその男と母は、既に入籍していたのだ。

悲しみと驚愕と混沌の最中(さなか)にいる私を置いて、集まっていた大人たちが安堵の表情を見せる。夫であるなら所要の手続きは彼に任せればいい。そんな雰囲気が漂って、私は途端に蚊帳の外に置かれた。


ソファに座ったまま動けずにいた私の手はずっと震えていて。指や手の平が血で赤くなっていることに気づいたのはそのときだ。両手をこすり合わせてみるけれど、乾いていて取れない。

これが夢であればいいと思うのに、両手がまざまざと現実を突きつける。


怖い。

苦しい。

何で? どうして。

言いたいことはたくさんあって、訊きたいことも山ほどあるのに、母はもう二度と口を開かないし答えは得られない。


やがて担任が、困ったことがあればいつでも相談にのるからと言い置いてその場を去り、細々(こまごま)とした手続きを終えた長谷川から家に送ると言われた。断ろうにも現金を持っていなかったので、タクシーを呼べない。図々しくも彼の言葉に甘えることにする。

というより、心配なのは財布の中にお金が入っていないことだけではない。治療にどのくらいの費用がかかったのか分からないが、病院に払うお金もなかった。

そういえば支払いはどうしたのだろう、と今更ながら心配になる。

母が亡くなった事実と共に押し寄せる自分の力ではどうにもならない困りごとだ。明日からどうやって暮らしていけばいいか。目の前が真っ暗で何も見えない。


一人で、生きていくのか。

じわじわと内側から外に向かって浸食していくみたいな不安に呼吸が乱れる。

そしてそんな風に、亡くなった母のことよりも自分の心配をしてしまう己に心底失望した。


「満ちゃん! ゆっくり、ゆっくり呼吸して!」


助手席であがくように浅い息を繰り返し、首元を搔いていると長谷川が声を上げる。

大丈夫、大丈夫だから。と予想外に優しい声に励まされて、何が大丈夫なのかもわからないまま声を殺して泣いた。


だって、こんなの酷い。

置いていくなんて。私だけ置いて、一人で死ぬなんて。

これ以上の裏切りがあるだろうか。


一生一緒にいられるなんて思ってなかったけど。それでも、ずっと傍にいたいと思ってた。


「おかえりなさい。今日は大変でしたね」

自宅に戻ると、そこにはまた制服警官がいて。スーツを着た刑事さんに話を聞かれる。何時に帰ってきて、そのとき何をして、母を見つけたのはいつで、それからどうしたか。言葉に詰まりながら、訊かれたことに答えていく。一通り話し終えると、母の遺体は形式上、司法解剖に回されるそうだが数日内には返ってくるだろうと説明された。

その場にも当然、長谷川もいて、言葉の足りない私の話を都度都度、補足して分かりやすくしてくれるのだった。

初対面のときに駆れに抱いた印象とは異なり、とても頼りがいのある大人だということに打ちのめされる。

母は、この人を選んだのだ。選んで当然だという気がしてくるのだ。

「心配することはないよ。私が全部、するから」

もはや夫なのだから当たり前のことかもしれないが、葬儀の手配もしてくれるようだった。

自身はどこまでも子供で何の決定権もなければ、相談もされないのだと思い知る。

「今日はも休みなさい。また、来るよ」と、長谷川が帰ったのは深夜で。そこでやっと、一人きりになれた。


不意に、浴室はどうなっているだろう。掃除しないと、と思い立ったもののほんの少しの気力も分からない。

そもそも私は何で生きているんだろう。

大人たちに何度か手を洗うように言われたので洗面台の前に立ち、鏡を見る。頬がうっすらと赤い線が入っていた。誰かの、いや、考えるまでもなくそれは母の指がなぞった跡で。

きっと、浴槽から母の体を引き上げるときに、指が顔に触れたのだ。冷たい感触が甦る。

ガラス戸の向こう側が浴室で。もうとっくに水を止めたのに、まだ水音がするような気がした。


本当は何もかも夢なのではないだろうか。

だとしたら、どこからどこまでが夢なのだろう。


父に続いて、母までも自ら命を絶つなんて。こんな悪夢あり得ない。

崩れるように座り込んで、そしたらまた涙が零れる。何が悲しくて、何が苦しいのか。言葉で説明することなんてできそうにない。この先、これ以上の悲しみが訪れたりするのだろうか。

「もう、嫌だ」

そうだ。終わらせるべきだ。何もかも。何で思いつかなかったのだろう。もっと早く、そうすべきだったのに。


立ち上がって部屋に戻る。どんな方法があるだろう。やはり母と同じ方法がいいだろうか。それとも父? あるいはもっと楽な方法があるかもしれない。スマホを持って、検索しようとしたときダイレクトメールが届いていることに気づく。


芳郎だ。


短くたった一言だけ『もう少し待ってほしい』という言葉だけ。

あの日。小嶋の事務所を一緒に訪ねたのが最後だった。あの日も『少し、待ってほしい』そう言っていたけれど。もう少しってどのくらい?

どのくらい待ったら真相が明らかになるのだろう。


小嶋は、真犯人が別にいるかのような口ぶりで。話の流れや芳郎の顔を見れば、彼の母親が関わっているのは明らかだった。だとしたら、父は芳郎のお母さんに嵌められたことになる。

でも、どうして?

単なる嫌がらせだった? でもこれは嫌がらせなんてレベルの話じゃない。全部教えてくれるのだろうか。

それは、いつ?


いつになったら―――――、私は救われるの?


「だって、死んじゃった。お母さん、死んじゃったんだよ。芳くん」


胸の奥がぜえぜえと嫌な音をたてる。息が苦しい。ずっと苦しくて息も絶え絶えだっていうのに、抱きしめてくれる人はいない。もう二度と、誰かの温もりを感じることはない。

これから先も一人だから。


「芳くん。皆、死んじゃった。皆、いなくなっちゃった」


遺書の一枚も残さなかった母が、手書きの買い物リストをごみ箱に捨てていた。

豚肉、大根、洗剤、歯磨き粉。買い物をするつもりで書き留めたそれを、丸めて捨てていたのだ。これから命を捨てる自分にはもう、必要ないと思ったのだろう。記されていないけど、きっとそこには私の名前もあったはず。


どんな気持ちだった? お母さん。

娘を捨てるのは。


部屋の中で絶叫する。誰かに聞こえていれば、この悲しみが伝わるだろうか。そして、止め(とどめ)を刺してくれるだろうか。


誰か。

私を、殺して。


*



「満ちゃん。はじめまして」


母の葬式を終え、新しく父親となった人と並んで弔問客に挨拶をしていたとき、その人は現れた。

長谷川は彼女のことを知っているらしく、斎場に併設されている座敷に誘導し、招き入れる。

長机には長谷川が用意した食事が並んでいるが、ほとんどの皿が手つかずで残っていた。

母の勤めていた会社の人たちは早々に帰ってしまったし、私たちもそろそろ火葬場へ移動しなければならない。時計を見ながら、名も知らぬ女性と長机を挟んで対面で座った。


長い髪を一つにまとめたその人は母と同世代か、それよりも若く見える。

両耳の真珠はこれと言った特徴のないものであるが、それと合わせたネックレス、指輪に経済的な余裕を感じさせる。葬儀だからなのか、もともとなのか化粧っけのない顔は彫が深い。


「私は、満ちゃんのお父さんの―――――、妹なの。だから叔母さんね」

「……え?」


初めて知る事実にしばし言葉を失う。

父に妹がいた? そんな話は聞いたことがない。

ほぼ無意識に長谷川を見る。心得たりとその人が語りだしたのは想像すらしていないことだった。

「お母さんが亡くなる前に、調査員を名乗る男性から電話があってね。その人から彼女のことを聞かされたんだ」調査会社がかなりの大手だったから。話だけでも聞いてみようと、彼女と連絡を取ってみたんだ。と続ける。


「兄とは随分前から疎遠で。……というより、子供の頃に別れたきりだったのよ。私はずっとアメリカにいたし、連絡も取っていなかったの。でも最近、ふと兄のことを思い出してね。どうしてるかなって」

自身に兄がいることは忘れたことはなかったけれど、様々の事情から連絡が取れなかったのだと語る。

そもそも互いの居場所を知らない状態だったので連絡を取りようもない。だから、調査員を雇ったのだと。

けれど、やっと見つけたと思ったのに、既に鬼籍の人だったと視線を下げる。

悲しそうに見えた。


「事件のこと、は、」

知っていますか、と切り出した声が潰れる。

父のことを話すなら、この問題は切っても切り離せない。冤罪だったとしても、父が一度逮捕されてしまった事実は消えないのだから。


「兄の居場所を突き止める中で、調査員が教えてくれたわ。……私は、幼い頃の兄しか知らないけど。兄が犯人だとは思っていないの。身内だからそう思うんだろうって言われればそれまでだけど。でも、信じているわ」


何の曇りもない目を向けられて、じわりと視界が滲む。

本当かどうかわからないけれど、天涯孤独となった今、親戚を名乗る人に父を信じると言われて感情が波打つように揺れた。

「……満ちゃん。お母さんのこと、本当に残念だったわね」

お悔やみ申し上げますと頭を下げるその人が、つと席を立って回り込んでくる。私の横に正座して、膝の上に置いていた手に、自分の手を重ねてきた。


父の妹といっても、これまで何の関わりもなかった人だ。赤の他人のようなもの。なのに、その顔を見れば確かに父の面影がある。


「詳しくは後からゆっくり話すとして。今は時間がないから、ね。それでね、満ちゃん。貴女、アメリカで私と暮らさない?」

「……え、」

あまりに唐突な申し出に言葉を失う。

「こちらの長谷川さんとはもうお話しているの。お母さんと結婚したとはいえ、これから親子として過ごすのは少し……、大変だろうと思うから。それでね。私と暮らすことを考えてみてほしいの」

猶予はあまりないんだけど、と困ったように微笑する。

優しい申し出に戸惑いが隠せない。もとより顔が似ているだけで本当に叔母なのかもわからない。もしかしたら騙されているかもしれないし、明らかに私のことが邪魔であろう長谷川が私のことをどこかへ追いやろうとしているのかも。体のいい人身売買と言われたほうがまだ信憑性がある。

訝しむ私を見透かしたかのように、

「満ちゃん。貴女にとってここはあまり良い場所ではないでしょう? 今はきっと、どこにも居場所なんかなって思っている。そんな気がするわ」

「……、」

「でもね、世界は広いの。自分が思っているよりもずっと、ずっとね。日本から外に出てみたら、自分がいかに狭い世界で生きていたのかわかったりする」ね、長谷川さん。と顔を向けられたその人が深く頷いた。そして、叔母の話を引き取る。


「君のことを誰も知らない世界に、行ってみるといい」


斎場に視線を移すと、大きな遺影の中でふわりと笑う母が見える。声は聞こえない。

でも。どうせ死ぬならアメリカという、誰もが知っていながら、誰でも行ける場所じゃないところへ行ってみてもいいかもしれない。そこで売られるとしても、それでいい。

いつ死んでもいいんだから。


「君は十分、苦しんだと思う。私は君に酷いことを言ったという自覚があるが……、君に不幸になってほしいわけじゃない。だから、もう全て捨てなさい。何もかも捨てて、アメリカに行きなさい」


そして、幸せになりなさい。

長谷川はそう言って、微笑んだ。













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