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翼かける猫  作者: くろイけ


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15/15

それでも朝はやってくる

モックは走りながらも、全神経を耳に集中していた。


声のする方角が川の方からなのは確実だが、川のどの辺なのだろうか。

川の音が大きすぎて、聞き取りにくかった。


鳴き声は不自然に途切れながらも、川下へ移動しているようだった。


「まさか、川に流されているのか?」


もしそうなら、一刻の猶予もない。


病に冒された体に鞭打って、モックは全速力で走った。


とっくに息切れして肺が痛み、脚も張ってきていたが、それでもスピードを緩めない。


「これはボクの仕事だ」


自ら強く言い聞かせて、歯を食いしばる。


フェンスの倉庫の横を抜け、

遊歩道を一瞬で横切ると、

西の水門手前の柵を軽々と飛び越えた――。


その瞬間、視界の右隅に軍曹の姿を捉えた。


(ありがとう、軍曹さん)


長年の付き合いがフラッシュバックする刹那、水面でもがく子猫を見つけた。


(よし!)


ドボン。


濁流の川の中へ着水したモックは、すぐに泳ぎ出した。


泳ぎは得意にしていたモックだが、まるで思うように進まない。

疲れた身体がいうことをきいてくれない上に、流れが速すぎる。

その上更に、流木が邪魔をしてくる。


あちこちぶつけながら、水を飲まないよう高く頭を上げて、死ぬ気で脚を動かした。


その時、モックの前を流されていた子猫が、水面から出ている杭に挟まった枝に引っかかった。


今この時を逃したらもうチャンスはない!


モックは無我夢中で脚を動かし、子猫に近づくとその首の後ろを咥えた。


「もう大丈夫……」


子猫を安心させようとしたところで、モックの体力は限界を迎えた。


水面下の脚の動きは鈍り、ゆっくりになる。

自然と体が浮いて横になる。

それでもぜえぜえ言いながら、咥えた子猫だけは水面に向けて離さない。

モックは、ほとんど背泳ぎのような状態だった。


「怖い、怖いよぉ」


か細い声でまだ泣き続ける子猫。


「大丈夫……もう、大丈夫……だよ」


全然大丈夫じゃなかった。

薄れかける意識を必死に保って、少しでも堤防の方へ移動するよう、水を蹴る。


(ダメだ、もうこれ以上は――)



✻ ✻ ✻



ジャンボは再び堤防の上から川を見ていた。


雨は止んだのに、さっきよりも川が怒っているように見えた。


ちょうど目の前の、川の上にある人間の家の下の部分が川に浸かっていた。

その家に行く道があったところに、流木や枝がたくさん引っかかり、積み上がっていた。


(すごい! 木の道だ!)


新しくできた木の道への好奇心が急速に膨れ上がり、抑えきれなくなったジャンボ。


堤防を駆け下りると、積み重なった木々の上を無造作にてくてく歩いて行く。


水流で、足下から水しぶきがあがる。


カンッ。

ゴッ。


時々、新しく流れてきた木がぶつかる音がした。


ガサガサッ!


それまでとは違う大きな音がしたので、気になってよく見ると何かが引っかかっていた。


近づいてみると、それは見覚えのある白い猫だった。


「モックさん!?」


ジャンボの呼びかけに、返事がない。

そしてモックは、口に子猫を咥えていた。


「今行きます、モックさん。もうちょっと。頑張って!」


声をかけながら、足場の悪いところへ進んでいくジャンボ。


「うわっ」


足場が崩れて川に落ちそうになる。


かろうじて難を逃れたジャンボは、少し慎重さを追加してモックに近づく。


「モックさん! モックさん! 目を開けてモックさん!」


ジャンボが、モックの耳元で懸命に呼びかける。


モックは川の流れに押されて、木にくっついているだけで、ぐったりしていた。


ジャンボが川から引き上げるのは、どう考えても無理だった。


(どうしよう、このままじゃモックさんが……)


誰か助けを呼ぶべきかジャンボが迷っていると、モックが意識を取り戻した。


「ああ、ジャンボ君か。良かった。この子を頼むよ」


そう言って首を少し上げたモック。

モックと同じくらい弱っている様子の子猫が、小さくみぃと鳴いた。


「え、でもモックさんは?」


「ボクは泳げるから大丈夫。それよりこの子を早く!」


モックの声と表情があまりに自然で、いつも通りに思えたジャンボは「泳げるから」をそのまま真に受けてしまった。


ジャンボが、モックの口元から子猫を咥えて受け取る。


「ありがとう、ジャンボ君。ありがとう」


言い終えたモックが、すっと水中に沈んで見えなくなった。


「モックさん!」


子猫を咥えたまま、叫ぶジャンボ。


木の道の下へ入り込んでしまったら、もう助けられない。

なにより、先に子猫をどうにかしなければ。

周囲を見回したジャンボは、後方へ流れていく白い姿を見つけた。


「モックさん!」


再び叫ぶジャンボ。


ズキッ!


動こうとしたジャンボの右前足に激痛がはしる。


「痛ッ!」


思わず子猫を放しそうになって、慌てるジャンボ。


右前足が木の間に挟まってしまったらしい。

動かせない。

引き抜けない。


なにより足場が悪くて、下手に動くと崩れてしまいそうな気がした。


(どうしよう……モックさんのこと、みんなに知らせないと)


そうこうしているうちにも、また新たな木が流されてきて、ジャンボの足の近くにぶつかってきた。


(ここにいちゃいけない)


心なしか、川の水も増えているような気がする。

勢いが増して、この木の道ごと流されてしまったら――。


ジャンボは子猫を咥えたまま、途方に暮れかけていた。



✻ ✻ ✻



「おい、何やってんだジャンボ!」


コウの声が聞こえた時、ジャンボは泣きそうだった。


「足が挟まって、動けないんです」


必死に叫ぼうとするが、口がうまく動かない。


「待ってろ、今助けてやる!」


コウは、モックが気になりながらも、目の前で危険に晒されているジャンボを放っておけなかった。


「姐御! オッサンを頼む!」


コウは後方からくるエリンたちに叫ぶと、一気に堤防を駆け下りた。


「ちょっとコウ! ……ったくもう」


エリンはコウを心配しつつも、脚を止めない。

頼まれた以上は、自分の責任を果たさなければならなかった。


離れていく水面の白い影を追って、エリンは堤防の上を走り続けた。



✻ ✻ ✻



「軍曹さん! あれ! あそこ!」


チビが大きな声を出したので、軍曹も川の手前に注目する。


「ありゃジャンボじゃないか。あ、あれは……」


軍曹も、ジャンボが咥えている子猫を視認した。


「あれかい?」


「はい、そうです!」


チビが嬉しそうに答えたが、軍曹の胸中は複雑だった。


(モック……お前さんもう……)


軍曹は先を行くエリンの後ろ姿を見て、そしてまたジャンボに視線を戻す。


すると、コウが積み重なった木の上を、恐る恐る近づいていくのが見えた。


「まったく、馬鹿だねえ。命知らずもいいとこだよ」


溜息をつきながら、軍曹が堤防の上から下りようとする。


「軍曹さん待って。ここはあたしが。軍曹さんはここで待ってておくれ」


言うなりチビが駆け下りていった。


七歳の軍曹より、四歳のチビの方が、確かに危険は少ないのかもしれない。



✻ ✻ ✻



「ジャンボ、待ってろ……。今行くから……あと少し……」


言葉とは裏腹に、腰が引けてなかなか脚が前に出ないコウ。


「アタシに任せな!」


コウの横をチビの黒い体が走り抜ける。


あっという間にジャンボのところに辿り着くと、ジャンボの口から子猫を受け取る。


「もう大丈夫だよ、シシリー。よく頑張ったね。ジャンボさんも、ありがとう」


チビが礼を言うと、ジャンボは困ったようにもじもじする。


「あの……」


「どうしたんだい?」


「足が木の間に挟まって、動けないんです」


「なんだって! そりゃ大変だ! どうしてもっと早く言わないんだい! ちょっと待ってて!」


チビは軽やかに走って軍曹のところまで戻ると、子猫を預けてすぐに戻ってきた。


「ちょっとあんた、早くしなさい! 手伝ってもらわないと!」


コウのお尻を頭で押しながら歩くチビ。


「ま、待て、待ってくれ。押すな。押さないで!」


最後は声がひっくり返りながらも、前に進むコウ。

チビのおかげで、ようやくジャンボのところに辿り着いた。


「足が挟まってるんだって?」


コウがから元気を出して、ジャンボに尋ねる。


「はい。自分の力じゃどうしても抜けなくて」


申し訳なさそうにうなだれるジャンボ。


「つべこべ言ってないでやるよ!」


チビがジャンボの右後ろ足を咥えた。


「あんたも早く!」


コウをどやすチビ。


「わ、わかったよ」


左後ろ足の方をコウが咥えると、二匹でジャンボを引っ張った。


(あ、痛ッ)


右前足の先に痛みを感じたが、せっかく助けてくれようとしている二匹の手前、じっと我慢するしかなかった。


「もっと引っ張って」


チビの叱咤にビビりながらも踏ん張るコウ。


ジャンボも残った左前足で踏ん張りながら、なんとか右前足を抜こうと引っ張る。


「痛ッ!」


足が抜けると同時に激痛がはしって、思わず声を出してしまったジャンボ。


コウとチビは勢い余って後ろに尻もちをついてしまう。


足場の木が一瞬グラついてヒヤッとしたが、なんとか無事だった。


「さあ、早く! ここから出ましょう!」


チビの合図で、コウとジャンボは堤防の上まで移動した。


ジャンボは右前足を気にしている。


「大丈夫かい?」


軍曹が声をかける。


「はい」


「嘘はダメだね。怪我をしてるじゃないか」


軍曹が近づいてきて、ジャンボの右前足に鼻を近づける。


「怪我をしたって? どれどれ」


コウも軍曹に顔を並べて、足の怪我を見ようとする。


「ジャンボ! お前、爪がひとつなくなってるぞ」


「えっ!?」


ジャンボは驚いた。

そして、自分の右前足を顔の近くに持ち上げてよく見た。


右前足の右から二番目の爪がなくなっていた。

もっと正確に言うと、指の先ごとなくなっていた。


赤くなった患部に血が滲んでいた。

ズキズキとジンジン、が混ざったような痛み。


「大丈夫なのか、それ?」


コウが尋ねてくるが、ジャンボには答えられなかった。


ショックで頭が回っていなかったのだ。


一方、チビは助かった子猫の体を舐めてあげていた。


「この子が例の?」


コウが子猫のお尻に鼻先を近づけながら尋ねた。


「ええ。川に落ちたシシリーよ。みなさん本当にありがとう」


深く頭を下げるチビ。


「いや、あんたが礼を言う相手は別の猫だよ」


軍曹は、エリンが走っていった下流の方を見る。


コウが思い出したようにビクッとなる。


「すんません、オレ行きます!」


そのまま走ってエリンの後を追っていった。


「軍曹さん、モックさんがその子を助けたんです」


ジャンボが軍曹に向かって、ことの顛末を説明した。


「なるほどね。全く運がいいというか悪いというか」


聞き終わった軍曹が呆れたような、悲しいような表情で呟いた。


「そのモックさんというのがこの子を――なんてこと……」


横で聞いていたチビも、それ以上言葉を継ぐことができなかった。



✻ ✻ ✻



モックと思われる白い影は、既に遥か彼方に消えてしまっていた。


左手に空港、右手に工場地帯。

その間を通って、玉見川は東京湾にそそいでいた。


玉見川堤防の東端にあたる角。

その壁の上で、エリンとコウは茫然と佇んでいた。


「なんなんだよ、ったく。こんな、こんなことって……くそ!」


「モックがまだあんなに動けるなんて知らなかったよ」


「なんだよ姐御、今そんなのどうでもいいだろ」


「そうだけど、モックが残された命をふり絞ったんだろうなって思うと……」


コウは驚いてエリンをまじまじと見つめた。


「姐御、オッサンの病気のこと、知ってたのか?」


「知ってたっていうか、そりゃ気付くさ。あんたあたしを馬鹿だと思ってたのかい」


「そんなことはねえけど。オッサン、姐御には絶対内緒だって言ってたから」


「やっぱりね。そんなことだろうと思った」


尻尾を垂れ、うなだれるエリン。


「オレがオッサンに追いついて止めてたら、こんなことには……」


「そしたらあの子猫は助からなかっただろうね」


食い気味にエリンが告げる。


「……見ず知らずの子猫より、オッサンの方が大事だろ普通!」


ムキになってシャーッとやるコウ。


「モックはそう思わなかったんだよ」


「……オッサン」


耳を垂れたコウが、東京湾の方をじっと見る。


「危うくどっちも流されるところだったけどね」


煌々と照らす街灯の中から、軍曹が少し疲れた様子で姿を見せた。


「軍曹さん、子猫はどうなったんだい?」


エリンが尋ねた。


「チビが連れてったよ。お前さんたちにも感謝してたよ」


「オレはなんにもしてねぇ」


背中を向けたままのコウが、不貞腐れたように呟く。


「そんなことないです。ぼくは助けてもらいました。ありがとう、コウさん」


軍曹の後ろから、ジャンボが顔を出した。

ひょこひょこした、ぎこちない歩き方だった。


「お前を助けたのは、あのでっかい黒猫だろ」


ジャンボの様子をちらりと見て、また東京湾に視線を戻すコウ。



「しかし速かったね。まさか韋駄天モックが健在だったとは、畏れ入ったよ」


軍曹が言った言葉に、みんなの耳が反応してハッと振り返る。


「なんだいそれは?」

「なんだそれ?」

「イダテン?」


みんなの顔を見回してから、軍曹はゆっくりと話し始めた。


「昔のモックはそりゃあ男前でね。何より足が自慢だったんだ。この町の誰よりも速く走れるんだってね。それでついた渾名が韋駄天モックだよ。もう三、四年前の話になるがね」


――韋駄天モック。


コウの知るモックからは、まるで想像できない渾名だった。


しかし、本当にそうだったのだろうか。

自分がまだほんの子猫だった時の記憶を、必死に辿ってみるコウ。


微かに覚えている記憶。

モックに咥えられながら、風を切って進むイメージ。


ああ、あれは夢じゃなかったんだな。

本当にあったこと――現実だったんだ。


その瞬間、様々な記憶と共に心の奥にあった思いが堰を切って溢れ出た。


「オヤジーーーーッ!!!」


コウは堤防の上に駆け上がると、真っ暗な東京湾へ向かって絶叫した。


湿ったぬるい風が、ゆるりと海から吹いてきた。



✻ ✻ ✻



台風一過――。


昨夜までが嘘のように、きれいに晴れ渡った早朝。

アスファルトもすっかり乾いていた。


猫たちは、まだ姿を見せない。

用心深く、様子を伺っているのかもしれない。


片や人間たちは、早くから大勢が遊歩道へと繰り出してきた。

誰もが、川や河原を指差したりしながら、立ち止まって話している。


台風の爪痕は、そこかしこにはっきりと残っていた。


河川敷の半分はまだ水の中に沈んでいて、普段の倍ほどの幅になった玉見川が悠々と流れている。


いくつもできた中洲。

あちこちに積み重なった、流木やゴミの山。

なぜこんなものまで、と驚くような巨大な岩。

ひっくり返った簡易トイレ。

どこかのグラウンドにあったであろうフェンス。

他にも家財道具や日用品、衣類などが、あちこちに積み上がっていた。


原状復帰までには、暫く時間がかかるだろう。


一方、形として残らない爪痕も確実にあった。


助かった命と、失われた命。


いくつもの悲劇と幸運とが、せめぎ合った夜。


その境目を分けたのが、あるいは運命なのかもしれない。


それでも、いつでも、また朝はやってくる。


命あるものは、生きてゆかねばならない。


翼町の猫たちにも、すぐに日常が戻ってくるだろう。




――「翼かける猫」シーズン1・完――

今回が最終話となります。

今までお付き合いいただきありがとうございました。

次回作も読んでいただけたら幸いです。

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