嵐の夜
「グレコさん、行ってきました」
暴風雨の中、びしょ濡れになったミチが戻ってきた。
昨日の午後から、強い雨と風が続いていたのだった。
「ご苦労様、ミチ。済まなかったね」
鼻先を近づけ合って、ミチの労をねぎらうグレコ。
悪天候にも関わらず、翼町の猫たちに、警告を伝えてきてくれたのだ。
「もう奥に引っ込んでたのもいたので、全猫とまでは行きませんでしたけど」
ミチが申し訳なさそうに弁解する。
「全然構わないよ。こんな時は日がな隠れてるのが一番なのさ」
どうやら明日の夜に、嵐がやってくるらしいのだ。
今も充分「嵐」と呼べる状態なのに、もっと酷い嵐になるらしい。
今朝、グレコが人間たちの会話から聞いた情報だった。
大きな「タイフウ」が近づいているらしい、と。
「タイフウ」がすごい嵐のことだというのは知っていた。
毎年、夏前から秋にかけて、全外猫が何度も経験する現象だ。
叩きつける激しい雨と、吹き飛ばされそうな強風。
そして川の増水。
それが今回は、これまでになく大きな「タイフウ」なのだそうだ。
人間が不安を口にするほどの「タイフウ」が、どれほどのものなのか。
危険を感じたグレコは、すぐにリッティに、ミチを呼んでくるように言った。
そうして、やってきたミチに「大至急」で、と頼んだ。
この雨と風が止むまで、屋根のあるところに隠れること。
絶対に川には近づかないこと。
この二つを町の猫たちに知らせるように、と。
「あんたももう今日は戻って休むんだ。あたしもそうさせてもらうよ」
「わかりました。気を付けてグレコさん。リッティも!」
「あんたもね、ミチ」
「ありがとう、ミチさん!」
雨に打たれ風に煽られながら走り去るミチを見送ると、グレコはリッティと一緒に小さな神社の裏手へと消えていった。
✻ ✻ ✻
――翌日。
雨風は更に激しさを増し、猫たちはもう外を歩けなかった。
ここまで激しい雨になると、道路もそうでない地面も全部川になってしまう。
足が何センチも水の中に浸かってしまうのだ。
そして、車や自転車が横を通ると、大波のような水が襲い掛かって来る。
だから大雨の日は危険だと、
絶対に外出してはならないと、
外猫はみんな、身をもって知っているのだ。
✻ ✻ ✻
外はもうかなり暗くなっていたが、まだ夕方。
雨はまだ降っていたが、風は少し弱まってきた。
ジャンボは堤防の壁の上から、玉見川を見て驚いた。
低く重たい持続音と、水面で波や木々がぶつかる高音。
いつも見慣れた川とはまるで別の顔。
信じられないほどの水量が、ものすごい勢いで流れている。
茶色く濁った荒々しい玉見川。
「川が怒ってる」
ジャンボが隠れていた民家の床下まで響いていたのは、この怒った川の声だったのだ。
すごい、と怖い、がぐちゃぐちゃに混ざった感情で、川から目を逸らせないジャンボ。
川の水からは、いつもと違う臭いがした。
✻ ✻ ✻
夜になると、再び雨風が強くなった。
軍曹は水門のいつもの場所で、様子を見に来たエリンと一緒だった。
なんとなく気になって、この時間でもまだ水門にいたのだ。
水門横にある鉄階段の下は、屋根代わりになる。
完全に雨風を防いでくれるわけではないが、贅沢も言ってられなかった。
「こんなのは初めてだよ」
独り言のように呟く軍曹。
「あたしもさ」
エリンは身がすくむような怖さを感じながらも、黒い流れを見続けていた。
「ここは大丈夫なのよね?」
ふと不安になったエリンは、軍曹に尋ねる。
川の水カサがどんどん増しているように思えたのだ。
「さあね。でもここがダメなら町もみんな水の中だろうよ」
ぶるっと身震いするエリン。
そんなことは考えたこともないし、想像すらできなかった。
コウとモックは泳げるのだろうか、と一瞬考える。
エリン自身は泳げないのだった。
「あんたは意外と気が小さいんだね」
軍曹にズバリと指摘されて、狼狽えるエリン。
「あんまり人には言わないどくれよ、軍曹さん」
そう言い返すのが精一杯だった。
フッと軍曹が笑ったように見えたが、気のせいだったかもしれない。
「あたしは大丈夫だから、あんたの仲間のところに行ってやりな」
「そうさせてもらうよ。それじゃ軍曹さん、気を付けて」
「あんたらもね」
エリンは、コウとモックが待つ高架下へ急いだ。
✻ ✻ ✻
「ママ、怖いよ」
いつもの床下に避難していたトト一家。
ムムが怖がって、トトの体にぴたりと身を寄せる。
それを見てミミとアルもくっついてくる。
「アタシも」
「ボクも」
まるで、おしくらまんじゅうだ。
生後半年を過ぎた三匹は、ほとんど大人の猫と同じまで成長したが、まだまだ気持ちは子猫気分が抜けなかった。
(こうしてみんなで一緒にくっつくのは久しぶりだ)
トトは懐かしく思った。
ほんの少し前まで当たり前だったのが、いつの間にか当たり前じゃなくなっていた。
成長とはそういうものなのだ。
通風口からは、時々凄い音を立てて風が吹き込んでくる。
もちろんその外側ではずっと激しい雨が降っていた。
こんなに恐ろしい嵐の日なのに、トトの心は不思議と満たされていた。
「大丈夫。ウチが守ってやる」
トトの声を聞いた三匹が、お腹や背中やお尻の辺りでもぞもぞと動いた。
✻ ✻ ✻
もうそろそろ真夜中という時間――。
それまで吹き荒れていた雨風が、突然弱くなったかと思うと、いずれも消えた。
ただ、川の音だけがいつもより近く、大きく鳴り続けている。
じっとうずくまっていたモックがふと顔を上げた。
「どうしたんだ、オッサン」
すぐに気付いたコウが尋ねる。
「聞こえる」
聞き取れないくらい低く呟くと、ガバッと突然起き上がるモック。
「ど、どうしたんだよ」
「モック、なにかあったのかい?」
コウとエリンの言葉も、聞こえないかのように川の方を見つめるモック。
ヒゲがピンと張り、耳がピクピクと忙しく動く。
「やっぱり聞こえる」
聞こえたのは、子猫の鳴き声だった。
僅かな、微かな声だったが、モックの耳には確かに届いた。
あの朝、コウを見つけた日も雨だった。
雨に濡れて鳴くコウの姿を思い出した瞬間、モックは走り出した。
「あ、オッサン! 待てよオイ!」
コウが呼び止めるが、モックは信じられないほどの速さで走り去った。
「モック……いったいどうしたってんだい」
エリンも呆気に取られてしまっていたが、ふと我に返る。
「行くよ、コウ!」
「合点です姐御!」
二匹もモックを追って高架の下から出ると、雨に濡れたアスファルトを駆けて行った。
✻ ✻ ✻
玉見川の河川敷は完全に水没して、川幅が二倍どころか三倍に。
川の水位も、堤防の三分の一の高さまで上がっていた。
河口に近い翼町付近でも、ひと目でわかるほど激しい水勢。
激しく波打つ水面には、木や枝以外にも様々なもの、ありとあらゆるものが浮かんでいた。
そんな川を眺めていた軍曹の後ろを、なにかがびゅんと通り過ぎていった。
直後に、川の方からドボンという水音。
「なんだい、今のは?」
なにか落ちたのかと下を覗いたら、川面に白いものが浮かんでいた。
――白……猫!?
「オッサン、どこだよ!」
「モック! どこ行ったんだい」
軍曹の後ろから、コウとエリンが走ってきた。
「軍曹さん、モック見なかったかい?」
「オッサンがいきなり走っていなくなっちまったんだ」
「なんだって!?」
軍曹はもう一度、下を見下ろす。
「モック! おまえさんモックなのかい!?」
しかし、白い猫はもうかなり先の方へ流されていた。
「なんだって!?」
コウも軍曹の横に並んで川を見下ろすが、何もない。
ただ普段の何倍もの水量で、荒々しく流れる黒い川が見えるだけだった。
「向こうだよ!」
左手の川下の方に走り出す軍曹。
コウとエリンも続く。
「モック! なにやってんだい! 早く水から出るんだよ!」
白い影を見つけたエリンが叫ぶ。
川の水位ギリギリの所まで下りて来たが、これ以上は進めなかった。
下手をすると、自分たちも流されてしまう。
流れてくる大きな木に引っかけられたら、ひとたまりもない。
「オッサン!」
コウが来た道を戻って堤防の壁に上がると、そのまま走ってモックを追いかけた。
「コウ!」
遅れてエリンも続く。
二匹を見送る軍曹の元へ、後ろから半野良猫のチビが息を切らせて走ってきた。
「軍曹さん、子猫見なかったかい?」
「子猫? まさか川の中じゃないだろうね」
軍曹はイヤな予感がした。
「実は、うちの仲間の一匹が川へ落ちたらしいんだ。あたしの見てないところで見物に行ったみたいで」
「まさか、それでモックは……なんてこと……」
さっきのは間違いなくモックだったのだと、軍曹は確信した。
「どうしたんだい軍曹さん」
「ついてきな」
軍曹は、コウとエリンの後を追うように走り出した。
チビもすぐ後に続いた。
最終回となる次話は明日17時に公開予定です。
来週土曜ではありませんので、ご注意ください。





