夏の終わり
今年の夏も暑かった。
猛暑日続きで、人間の姿すらほとんど見かけない日も多かった。
朝早くから日没まで、容赦なく照りつける陽射し。
鉄板のようなコンクリート。
イヤな匂いを発して、溶けそうなほどのアスファルト。
人間ほどの背丈に育った雑草からの容赦ない蒸散が、蒸し暑さを増幅する。
うだるような暑さ、と人間なら表現するところ。
それを猫は、水が必要な暑さ、と言っていた。
水不足で脱水症状になり、そのまま命を落とす猫は少なくない。
飼い猫でもそうなのだから、外猫ならなおのこと。
そのため、普段は飲まないような汚水を口にしてしまうこともあった。
この時期のそうした水は不純物の濃度も高いので、体への影響は計り知れない。
そして、弱ったまま水を求めて川岸へ行き、足を滑らせる猫もいた。
サギなどの大きな鳥に驚いて落ちてしまう場合もあった。
猫は意外と泳げるのだが、川に落ちてパニック状態になると話は別だった。
大抵そのまま流されてしまう。
運がよければ岸に流れつき、一命をとりとめることもある。
川の水を飲むのも命懸けなのだ。
そして、この辺りの川は海水も混じっているので、飲みすぎは要注意だった。
そんな厳しい夏も、ようやく終わろうとしていた。
✻ ✻ ✻
まだ残暑が続く、夕暮れのY字路の空き地。
「グレコさん、どうも」
日陰を縫うようにして、ミチがやってきた。
「ご苦労だったね、ミチ。で、どんな具合だったんだい?」
グレコが労いつつも、報告が待ちきれない様子で迎えた。
「町組の方は全部で三匹ってとこです。まだ見つかってないのがいなければ、ですけど」
「そんなに……みんなひとりもんかい?」
「はい。梅雨前に町に来た新入りが二匹で、残りの一匹はおっきな庭の裏手にいたゴンザさんです」
おっきな庭とは小学校の校庭のことだった。
「ゴンザ……ああ、確かギンさんとこの――」
グレコは過去に一度か二度、それも何年も前の姿を思い出そうとしたが、できなかった。
町組の猫は基本的に警戒心がかなり強く、猫同士の交流にも消極的だったのだ。
「一応、ギンさんにも伝えてきました」
「そうかい」
ギンとは町組の重鎮猫で、グレコより二歳年上の八歳のメスだった。
金サビという珍しい毛色で、片足の先が欠損しているのがトレードマークだった。
グレコとは既知の間柄だったが、ギンが足を失くしてからはお互い行き来する機会がなくなっていた。
グレコもその巨体故、あまり遠出はできなかったのだ。
二匹が暫く沈黙しているところへ、リッティが帰ってきた。
「おかあさん、ただいま」
若いリッティは、この夏の暑さにも関わらず元気だった。
話によると、ジャンボも元気そうにしているらしい。
「ミチさん、こんばんは」
「調子はどう? リッティ」
「まぁまぁね。ミチさんは? だいぶ疲れてるみたいだけど」
ミチはこの酷暑の間も、毎日翼町をかけずり回っていたのだ。
少しでも調子の悪い猫がいたら、早めに見つけて手助けしてやること。
万が一、亡くなってしまった猫がいたら、その知らせを伝達すること。
どちらも猫社会を維持する上で、必要な役割だった。
「心配してくれてありがとう。これくらい、少し休めばなんてことないよ」
「そうだ、リッティ。水場に案内してやっとくれ」
グレコが思い出したように伝える。
「わかった。ミチさん、こっちよ」
リッティがミチに声をかけると、てけてけ軽快に歩いて行く。
神社の横にきれいな水場があるのだが、表からは見えにくく、知る猫ぞ知る場所になっていたのだ。
「ありがとうございます」
グレコに頭を下げると、リッティの後に続くミチ。
少しだけ尻尾が浮き上がっていた。
「それにしても、全部で五匹かい……」
グレコが溜息をつきながら呟く。
今朝のミチの報告で、堤防組と真ん中組で一匹ずつ亡くなっていたことがわかっていた。
そこにさっきの三匹を合わせて、五匹の猫が逝ったのだ。
去年より一匹多かった。
みんな一歳ずつ年を取ったのだから、致し方ないのかもしれない。
グレコ自身も、実は少し夏バテ気味だった。
もちろん誰にも、リッティにさえ話していなかったが――。
✻ ✻ ✻
ひゅるるるるる……ドーン。
パチパチパチ……。
玉見川に花火が上がった。
毎年この時期恒例の花火大会が今夜なのだった。
翼町の猫たちも、一発目の音ですべてを理解する。
ああ、またアレが始まった、と。
ほとんどの猫は花火の大きな音が苦手だった。
ダッシュで物陰に隠れるもの。
その都度ビクッと身をすくめて立ち止まるもの。
キョロキョロ周囲を見回すもの。
これが約八割。
残りの二割は、花火を見ようと適当な場所を探して移動し始める。
ひゅるるるるる……ドーン。
ドン、ドーン。
ジャンボは、堤防の壁の上にエジプト座りで空を見上げていた。
何発目かが上がったところで、遊歩道からリッティがやってきた。
「よかった、いた!」
「こんばんは、リッティ」
「あんたと一緒に見ようと思って、走ってきたのよ」
「あのおっきな空の花のこと?」
「そうよ。花火っていうのよ。知らなかったでしょ」
「ハナビ……そうなんだ。去年も見たけど、名前は知らなかったな」
去年は河原で一匹で見たのだった。
あの時は最初の音にびっくりして、隠れようにも隠れる場所がなくて、焦った。
今思い出すと恥ずかしくて、誰にも見られなくてよかったと思う。
「この辺じゃ、みんな知ってるわよ。ああ、でもトトさんのおチビちゃんたちは今頃びっくりして大変かも。フフフ」
桜の木の方を見ながら、いたずらっぽく笑うリッティ。
ジャンボは初めてゆっくり、じっくりと花火を眺めた。
リッティと一緒に見るのも、心地よかった。
ドン、ドーン。
ドンドン、ドーン、ドンドン……。
絶え間なく続く音。
前半のハイライトだった。
「ほら、きれいだろ。見える?」
トトは「外のおうち」の上の踊り場で花火を見ていた。
その隣にいるのはミミ。
アルとムムは「外のおうち」の下にある、斜めになった隙間に隠れてしまっていた。
「すごい! あれなぁにママ」
「花火ってのさ。人間が空に描いてくれてんだよ」
「どうやって描いてるの?」
「どうって……そんなのウチにわかるわけないよ」
「じゃあ誰ならわかるの?」
「誰って……あ、コウ! コウお兄ちゃんに今度聞いてみな」
「うん、わかった」
ミミは花火を見上げながら、短い尻尾をぷるるっと震わせた。
その頃、隙間の中でぴったり寄り添う二匹は――。
「ねぇお兄ちゃん。ママがおいでって言ってたよ」
「ダメだよ。この音がしてるうちは隠れてなきゃ。危ないだろ」
「でも、お姉ちゃんはママと一緒にいるよ」
「ミミはママが守ってくれるけど、ボクたちまでは守れないだろ」
「あ、そっか。だからわたしたちは隠れてるんだね」
「そうだよ。それにここからでも少しは見えるだろ」
「うん、ちょっとだけ見える」
「音は怖いけど、あの光はきれいだね」
「うん、きれい」
ひゅるるるるる……ドーン。
パチパチ……シュルルルルッ。
「軍曹さんは、もう花火なんか慣れっこで面白くないんじゃない?」
西の水門でエリンたちが花火を見ていた。
「そんなことはないさ。年に一度の楽しみだよ」
「えっ、でも二回やる時もたまにありやすよね?」
コウが物知り顔で口を挟む。
「バカ! 余計なこと言うんじゃないよ」
エリンに頭をポカリとやられるコウ。
全く反省の色はないが、なぜか満足した様子。
「あれを見ると、ようやく夏が終わるって感じがするねぇ」
軍曹がしみじみと呟く。
「そうだねぇ。なんだか寂しい感じもするねぇ……」
エリンも負けじとしみじみ感を出すが、意図せず憂いが強く出ていた。
「大丈夫だよ」
「えっ?」
軍曹の思わぬひと言に、驚いて思わず二度見するエリン。
つい余計なことを口走ってしまったのかと思ったが、そんなはずはない。
でも今のは明らかに自分に向けた言葉だった。
「なになに、なんのことっすか?」
コウが空気を読まずにまた口を挟もうとする。
「あんたのバカさ加減の心配のことだよ」
エリンにピシャリと言われて、もごもごと何か呟きながら黙るコウ。
「オッサンも見に来ればいいのに……」
僅かにその部分だけ、エリンには聞き取れたのだった。
ひゅるるるるる……ドーン。
ひゅるるるるる……ドーン。
「今年も、もう花火だねぇ」
「そうだな」
「見に行ってもいいんだよ」
「別に興味はない」
「たまには見て来たらいいじゃないの」
「ああいうのは若い猫が見るもんだ」
「またヘンに年寄りぶっちゃって。あたしの護衛だってもう必要ないってのに……。相変わらず融通の利かない頑固者だねぇあんたも」
「余計なお世話だ」
「それはこっちのセリフよ」
駐車場に並んだ二つの影が、付かず離れずで夜空を見上げていた。
ドーン、パチパチパチ。
ドンドン、ドーン、パチパチパチ、
ドン、パチパチ、ドンドドン、ドン、パチパチパチ……。
「なんだよ。この時間なら絶対いないって思ってたのに……」
「外のおうち」から二十メートルほど離れた川岸の段差に身を隠す影。
直角に曲がったカギ尻尾が水面に揺れる。
「全部終わるまで待つしかないか……」
ドーン、ドーン、ザァァァッ。
ドンドーン、ドーン、ザァァァッ。
ドーン、ドンドン、ドーン、ザァァァッ。
「それじゃあ私はこれで。おやすみなさい」
まだ花火の音が続く中、ミチが去って行った。
グレコは知っている。
彼女がこれからまた町を巡回するのだということを。
熱帯夜が終わるこの時期、夜は一番過ごしやすい時間帯なのだ。
「あんたは見なくていいのかい?」
残ったチャラにグレコは声をかける。
「あの音を聞くと、なんだか一年前を思い出しちゃって」
「そういや、ちょうど今頃だったかい。あんたが捨てられたってのは」
最近のチャラとグレコは、お互いの境遇についても少しずつ話をし始めていた。
グレコは飼い猫の暮らしや考え方に興味があり、チャラは野良猫のボスという存在そのものに興味があったのだ。
「そうよ。捨てられてまだ一週間もしない頃。あの音にびっくりして、外の世界の怖さを思い知ったわ」
「なんだい、案外と肝っ玉が小さいんだね、お前さんも」
「肝っ玉なんて知らないわ。あんな大きな、それでいて体が震えるような音、今まで聞いたことがなかったんだもの」
そうだ。
体が震えたのだ。
怖さと同時に、妙な感じが湧いてきたのを思い出す。
「人間の家にだって、大きな音のするものはあるんだろ」
「あるわよ。テレビとか音楽とかピンポンとか」
「なんだいそりゃ。まるっきりわからないものだらけじゃないか」
「当たり前よ。猫には必要ないものばっかりだもの」
「今度、そのなんとかってヤツについても詳しく教えとくれ。お前さんの話はとても面白いからね」
「いつでも結構よ。野良の生活って退屈そうで面白いから、あたしもボスからもっと色々と話を聞きたいわ」
「そのボスってのはなんだかねぇ」
「ボスなんだからボスでいいじゃない」
「一応グレコって名前があるんだ。ややこしいからグレコにしておくれ」
「グレコねぇ……それ、誰が付けた名前なの?」
「人間だよ。ここに来る人間があたしのことをみんなでそう言ってたんだ」
「え? ボ……じゃなくてグレコは人間の言葉がわかるの?」
「同じ言葉を何度も言うからたまたま覚えたんだよ。なんだい、気味の悪いこと言わないどくれ」
「まぁ確かにそういうことはあるわよね。あたしも人間の言葉なら幾つか覚えたし」
グレコは内心の驚愕を必死に押し隠した。
「あたしってこう見えて結構賢いから~……ってちょっとどうしたのよ」
「いや、なんでもない。ちょっとね。どれ、あたしは花火を見るよ」
そう言うと、唐突にグレコが動き出した。
のしのしと歩いて遊歩道を横切ると、渡り階段をえっちらおっちらのぼる。
上の踊り場へ辿り着くなり、疲れたとばかりにドサリと横倒しになると、そのまま花火を眺めた。
タタタッと軽快にその隣へやってきて、座るチャラ。
そして、夏の終わりの花火はクライマックスへと向かっていく――。
次週は18(土)、19(日)の二日連続投稿となります。
その二回をもって本作は無事終了となります。
どうか最後までお付き合いのほどを。





