耐えるもの
梅雨の季節は長い。
来る日も来る日も降り続く雨。
厚い雲に隠れたきり、一向に顔を出さない太陽。
時々思い出したように蒸し暑くなり、また涼しくなる。
モックは首都高下の駐車場の隅で、じっとしていた。
玉見川の工事を請け負っている業者が置いている廃材の陰。
雨は避けられるが、アスファルトの地面は濡れている。
プレハブが盾になって、風が直接吹き込んでこないのが幸いだった。
普段寝床にしている公園の裏手ではなく、ここにいるのは猫の目を避けるためだった。
特にコウ。
口が悪いが、普段からなにかとモックの体調を気にかけている様子だった。
モックはあまり心配をかけたくなかった。
いつも通りの悪態を聞いている方が、よほど安心するのだった。
✻ ✻ ✻
モックが初めてコウに会ったのは、三年前。
ちょうど今頃の季節。
雨の匂いが消えない時期だった。
朝早くに、川の方から鳴き声が聞こえたので、様子を見にいったら子猫がいた。
小さなダンボール箱の中に一匹取り残されて、か弱く鳴いていた。
「みんな、どこ?」
「冷たいよ、寒いよ」
ダンボールは雨でぐっしょり濡れていた。
箱の大きさと子猫の言葉から、何匹か一緒に捨てられたのだとモックは悟った。
おそらく他の子猫たちは、モックより先に人間が連れていったのだろう。
そしてやや黒が強いキジトラの子猫だけ、取り残されてしまったのだ。
捨て猫自体は、時々あることだった。
たとえ人間に捨てられても、ある程度成長していれば勝手に生きていく。
子猫の場合には、いつの間にか人間が連れていく。
そういうものだと、この辺の猫たちは認識していた。
本来であればこの場合も、そっとしておくべきだったのかもしれない。
ただ、その朝は雨が降っていた。
ダンボールが濡れていた。
そして何より子猫が寂しそうに鳴き続けていた。
モックは我慢できず、考える前に子猫を自分の寝床へ運んでしまっていた。
それから、責任をもって子猫の面倒を見た。
最初にモックがしたのは、名前を与えることだった。
呼び方が決まらないと、どういうふうに接していいのかわからなかったからだ。
モックは特に悩むこともなく、コウと名づけた。
由来よりも、名前があることそのものが大事なのだ。
だが、二匹の関係は決して順風満帆とはいかなかった。
コウはずっと寂しかったのだろう。
母猫や、兄弟猫のことをまだ思っていたのだ。
モックに対してはなかなか心を開かず、どこか他人行儀だった。
それでも、しばらくするとモックと呼んでくれた。
モックにはそれだけで充分だった。
コウに名前を呼ばれた時、昔の家族の記憶が一瞬だけ脳裏を過った。
記憶自体はだいぶ曖昧になってしまっていたが、その温もりの欠片のようなものが断片的に浮かんではすぐに消えたのだった。
✻ ✻ ✻
やがて年が明けた頃、エリンが現れて、三匹でつるむようになった。
コウはエリンにすぐに懐いた。
エリンがモックに気を遣うほどに。
程なく、コウはエリンの子分になると言い出し、勝手にエリン組なるものを作った。
作ったといっても、自分で言って回っていただけなのだが。
最初は「そんなの柄じゃない、やめとくれ」と拒絶していたエリンも、あまりのコウのしつこさ、いや熱心さにだんだんと諦め気分になっていき、最後にはモックに相談に来た。
「ねぇモック。コウのことなんだけどさ」
「そろそろ観念したのかい?」
「えっ!?」
「あの子があんなに頑張ってるのを初めて見たよ。ありがとう、エリン」
「やめとくれよ。あたしは困ってるんだよ」
「コウがなにか迷惑でもかけたのなら謝るよ」
「いや、そんなことはないけど……」
「面白そうじゃないか、エリン組」
「まさかあんたの入れ知恵じゃないだろうね、モック」
「ははは、まさか。ボクにはあんな奇抜な思いつきは無理だよ」
「ほんとに、どこで覚えてきたんだか」
「まぁ別に名前がついたからって何か変わるわけじゃないんだから、一度考えてやってくれないかい」
「……それじゃモック、あんたも入るんだ。それなら考えてもいいよ」
「え、ボクも?」
「そうだよ。ちゃんとあんたが手綱を握ってくれるってんなら、あたしは構わないよ」
「手綱っていっても、コウはボクの言うことなんか聞かないからなぁ」
「それでも親代わりなんだろ」
「親代わりかぁ。なれてるのかなぁ」
「バカ言ってんじゃないよ。自信持ちな!」
「自信ねえ……うん、頑張ってみようかな」
「そう。じゃあいいんだね? コウにも言っとくよ」
「うん。じゃあ改めてよろしく、エリン」
「あたしの方こそ、よろしくモック」
こうしてエリン組は正式に誕生した。
✻ ✻ ✻
「マールさん、おはよう」
駐車場にやってきたエリンは、マールを見つけて声をかけた。
「あら、エリン。珍しいわね」
「おはよう、エリン」
エリンの背後からジョーが声をかける。
「おはよう、ジョーさん」
振り向いてエリンも挨拶をする。
ジョーに会うのは久しぶりのような気がした。
柄にもなく少し緊張するエリン。
「今日はまだ雨がきてないね」
少し上向き加減になったマールが、鼻をひくひくさせる。
「まだ地面は濡れてるけどね」
右の前足をペロリと舐めるエリン。
「トトはもう落ち着いたの?」
そう来るだろうと思ってたエリンは、用意していた答えを言う。
「うん。もう大丈夫だと思う。子供たちの方はまだ寂しそうにしてるけどね」
チャチャがいなくなってから、エリンはなし崩し的にトトの様子見係にされていたのだ。
「そのうち慣れるだろうから、大丈夫」
「だといいけど」
そう言ってエリンはちらとジョーの方を見る。
ジョーは何も言わず、ただ軽く頷いた。
「それに、遊び相手ならあんたのとこのコウとモックがいるじゃない」
マールは呑気そうに言ったが、エリンはそれには相槌を打たなかった。
濡れた地面に尻尾が垂れる。
「おはよう。みんな早いのね」
角を曲がってチャラがやって来た。
最近はこの駐車場もすっかり社交場のひとつになっていて、猫通りが増えたのだ。
「おはようジョー」
「おはよう」
一度挨拶をしたのにわざわざもう一度ジョーにだけ挨拶をするチャラを、エリンは少しの間じっと見つめていたが、ふと我に返って目を逸らした。
「今、トトの話をしてたのよ」
チャラに説明するマール。
「それなら私もさっき会ったわよ。子供たちとみんなで食事中だったわ」
「あら、堤防組はご飯が早くていいわね」
心底羨ましそうにマールが言った。
「堤防組」というのは堤防の遊歩道の近くで暮らしている猫たちのことだ。
川から離れた町の中は「町組」、マールたちのいる辺りはその中間なので「真ん中組」と呼ばれていた。
「トトがどうしたの?」
チャラが話の続きを促す。
「チャチャがいなくなって……って、あんたは知らなかったわね」
マールが思い出したかのように言葉を区切ると、ちょっとだけ体をグルーミングする。
「チャチャ?」
「トトの旦那さ」
グルーミング中のマールに代わって、エリンが答える。
「ああ、あの子猫ちゃんたちのお父さんね。そのチャチャがどうしたの?」
「だいぶ弱ってたのを人間が連れて行ったんだよ。それきり戻ってこないのさ」
エリンが事務的に説明するのを、食い気味にチャラが話し出す。
「まぁ、良かったじゃない! それならまだ長生き出来るわよきっと。トトとあの子たちにはかわいそうだけど、のんびり暮らせるようになったんだから喜んであげなきゃ」
「ちょっと、何言ってんだい!」
エリンが食ってかかると、チャラは気にせず続ける。
「そっか。わからないのも無理ないわね。よく聞いて。あのね、きっとチャチャはその人間が一緒に暮らすために連れていったのよ。猫のことが好きで、外で暮らしているのをかわいそうに思った人間が、人間の家で一緒に暮らせるようにしてくれたの。体の悪いところもきっと治してくれるわ。調子の悪くなった猫や犬なんかを治してくれる場所があるのよ」
一気にまくしたてたチャラ。
情報量が多すぎて、エリンは理解が追いつかない。
マールもグルーミングを忘れて、ポカンとチャラを見つめている。
ジョーは何か言いたげにしながらも、静かにチャラを見ていた。
「あら、ごめんなさい。ひとりでしゃべり過ぎちゃったわね」
「チャチャは、その……チャチャの体はよくなるのか?」
とうとうジョーが口を開いた。
それが気になっていたらしい。
「たぶんね。人間は外にいる猫を家に迎える時は必ず、体の調子を調べてくれる所へ連れていくんだよ。私も何度も行ったことあるもの」
「そこへ行けば、チャチャはよくなるんだな」
「必ずってわけじゃないけど、だいたいよくなるわ。具合が悪い時は、なんだか苦いザラザラしたものを飲まされるんだけど、私はちょっと苦手だったわ」
「お前も具合が悪くなった時があるのか?」
驚いたように尋ねるジョー。
「そりゃあるわよ。ちょっとした風邪だったけどね」
「その苦いヤツを飲んだら治ったのか」
「ええ。三日ほどですっきり治ったわ」
チャラの話を聞いて、みんな黙ってしまった。
猫の風邪は、こじらせると命に関わる病気だった。
まだ幼い子猫や、調子が悪くて弱ってる猫なら尚更。
軽い風邪でも、鼻水が何日も止まらなかったり、くしゃみが出たりでかなり辛い。
少し酷くなると咳も出て、体が熱くなって、全身がだるくなる。
それがたった三日で治るなんて。
「さすが、元飼い猫だね。そんないい暮らしをしてたなんて羨ましいわ」
マールが感心したように言った。
嫌味な様子はまるでなく、単純に羨ましそうだった。
ジョーも、改めてチャラをまじまじと見ながら考えていた。
あの白猫の時といい、今回といい、この猫は自分たちとは住む世界が違う。
いや、違っていたのだ、と。
でも今は同じ、翼町の外で暮らしている仲間だ。
「あ、あの……」
エリンがチャラに声をかけようとして、言い淀んでいた。
「どうしたの、エリン」
「その、人間に連れてってもらえば病気はなんでも治るのかい?」
「なんでもかどうかはわからないけど、何もしないよりは治る期待はあるわよ」
「そう……」
「なに、あなたもしかしてどこか悪いの? 大丈夫?」
「あ、ううん、違うんだ。あたしじゃなくて……いや、なんでもない」
そう言うなりエリンは、急に走って行ってしまった。
「どうしたのかねぇ、エリンは」
「誰か病気の知り合いでもいるのかしら」
マールとチャラが少し心配そうに、エリンの駆けていった先を見つめる。
ジョーも少し離れた位置から、やはり同じ方向をじっと見ていた。
そこへエリンと入れ替わりに、湿った風が三匹の鼻に吹きつけた。





