第七章 ゴブリンの森
最初の依頼は紙切れ一枚だった。
『北西の森林部にて農夫たちがゴブリンの群れに襲われている。討伐 もしくは追い払いにつき報酬は銅貨二十枚。Fランクから受注可能』
俺は受付でその紙を指差した。眼鏡の女が頷いて、台帳に俺の登録番号を書き込んだ。
「単独ですか」
「ああ」
「ゴブリンは群れます。Fランク単独でこの依頼を受ける方は珍しい」
「下見だけする。無理なら戻って人を集める」
「お気をつけて」
俺はギルドを出た。
朝の市場は活気で満ちていた。荷馬車が石畳の上を引かれ、車輪のきしみが両側の壁に反響していた。野菜売りの声。鶏の鳴き声。鍛冶屋の鎚の音。それらの音の中を俺は北の門に向かって歩いた。
道中で食料を買った。固いパンが二つ。乾燥肉が一切れ。革袋に水を詰め直してもらった。腰のナイフを革砥で軽く研いだ。介護現場で利用者の食事用に果物ナイフを管理していたときの癖だった。刃物は使う前に必ず確認する。鈍い刃は事故を呼ぶ。
俺は靴紐を結び直した。
「下見だけ」と受付に言った。それは半分は本当で半分は嘘だった。
俺は試したかった。
新しい器がどこまで動くのか。介護現場で身につけた所作がどこまで戦闘で通用するのか。確かめないと自分の限界が分からない。それは介護現場の新人研修と同じ理屈だった。利用者を実際に動かしてみないと自分の腰がどこで悲鳴を上げるか分からない。
──
北西の森林部までは徒歩で三時間ほどだった。
森に入る手前に小さな集落があった。藁葺き屋根の家が五、六軒。畑の半分が荒らされていた。麦の若芽が踏み荒らされ、貯蔵用の根菜が掘り返されていた。介護現場で見る粗雑な手つきとは違う。意図的な破壊だった。
集落の長は俺を見ると深く頭を下げた。
「冒険者様」
「Fランクだ。手柄も期待しないでくれ」
「来てくださっただけで」
老人は俺の手を握ろうとした。骨ばった指。掌のタコ。畑仕事で擦り切れた皮膚。介護現場で何度も握ったことのある手の感触に近かった。俺は反射的に距離を取りそうになって、しかし今回は引かなかった。引けば老人を傷つける。それくらいの判断は俺にもできた。
「ゴブリンの巣はどこか」
「森の奥の沢沿いです。十数匹はいるかと」
「群れの長は」
「分かりません。皆 同じような顔で」
老人は両手を擦り合わせた。寒さからではない。緊張からだった。
「無理はしないでください。様子を見てくださるだけで助かります」
俺は頷いた。
それからもう一つだけ聞いた。
「最近 怪我人は」
老人の表情が曇った。
「孫が腿を切られて。化膿しかけている」
「見せてくれ」
老人は驚いた顔をしたが、俺を家に案内した。
家の奥のベッドに少年が横になっていた。十歳前後。顔が赤い。発熱している。腿の傷は布で巻かれていたが、布越しに膿の匂いがした。
俺は少年の額に手を当てた。熱は高かった。たぶん三十九度を超えている。
「布を解いていいか」
少年は怯えた目で俺を見たが頷いた。
布をゆっくり剥がした。傷口は深くはなかったが、周囲の皮膚が黄色く変色して、中央から黄緑色の膿が滲んでいた。
蜂窩織炎の手前。介護現場で何度も見た。
「水を煮沸できるか」
「煮沸 とは」
「火にかけてしっかり沸騰させる。それから冷ます」
「はい」
「布も新しいものを煮てから使う」
老人は孫の母らしき女に指示を出した。女が竈に火を起こし始めた。
俺は革袋から水を出して、まず手を洗った。介護現場の手洗いの動作。指の間。爪の周り。手首。三十秒。それから少年の傷口に近い皮膚をぬるい湯で拭いた。少年は呻いたが大人しくしていた。
膿を絞り出すべきかどうか迷った。化膿が深ければ切開が必要だが、俺にはその技術はない。教会の治療師か治癒魔法が必要なレベルだ。今できるのは清潔を保つことだけ。
「都市の治療院に連れて行け。今日中に」
「はい」
「リシェルというシスターを訪ねろ。中央教会の治療院だ。これを見せれば事情を察してくれる」
俺はリシェルから預かった印章を一度外して、紐から印章を取り、老人の掌に置いた。
「これは」
「知り合いの紹介状だ。ここで使う方が大事だ」
老人は印章を握りしめた。彼の目に涙が滲んだ。
「ありがとうございます」
その「ありがとう」は、俺の母さんが最後に言ったらしい言葉と同じ音だった。
俺は反射的に視線を逸らした。
「ゴブリンを片付けてくる」
立ち上がった。
家を出て、森に向かって歩き始めた。
足取りは少しだけ重かった。
──
森の中は静かだった。
最初に異変に気づいたのは匂いだった。
獣の糞の匂い。腐肉の匂い。それから人間の血と似た鉄の匂い。風下に立つと匂いが強くなる。介護現場で利用者の体調変化を匂いで察知する訓練と同じ要領だった。便の色と匂いから感染症を疑う。汗の匂いから脱水を疑う。呼吸の匂いから糖尿病性ケトアシドーシスを疑う。匂いは情報源だった。
俺は風上に回り込んだ。
岩場の影から覗くと、沢沿いに簡素な小屋があった。木の枝と動物の皮で組まれた粗末な造り。周囲に骨の山。鳥の骨。羊の骨。それから人骨らしきものも混ざっていた。
ゴブリンが五匹見えた。沢で水を飲む者。骨をしゃぶる者。地面で寝ている者。
──十数匹と聞いたが ここには五匹。
残りは別の場所にいる。狩りに出ているか巡回しているか。ということは戻ってくる可能性がある。長居はできない。
俺は岩場から距離を測った。直線で三十メートルほど。
ナイフ一本では正面突破は無理だった。
しかし俺には、介護現場で身につけたもう一つの技術があった。
──環境調整。
利用者が転倒しやすい部屋には手すりを増やす。徘徊しやすい利用者の動線を変える。誤嚥しやすい食事は形態を変える。問題を解くには対象に直接働きかけるだけでなく環境そのものを変える方が効くことがある。
俺は岩場の上を見上げた。
沢の上流に、ぐらついた大きな岩があった。長年の風雨で根本が緩んでいる岩。あれを落とせば沢は塞き止められるか、あるいは流路が変わる。ゴブリンの小屋は沢のすぐ脇にある。
俺は岩場を回り込んで上流に向かった。
岩の根本を確認した。湿った苔に覆われ、土が緩んでいた。テコの原理を使えば一人でも落とせる位置にあった。
俺は手頃な木の枝を探した。直径十センチほどの折れた枝が落ちていた。それを岩の根本に差し込み、もう一方の端に体重をかけた。
ボディメカニクス。
支点・力点・作用点を意識する。介護現場で利用者を起こすときと同じ要領。背中の力ではなく下半身の体重移動で押す。
ぐらつく岩がさらに揺れた。
俺はもう一度体重をかけた。
岩は土を巻き込んで沢に向かって滑り落ちた。轟音が響いた。
沢の水が一瞬で堰き止められ、押し戻された水が岩を巻き込んで下流に流れ落ちた。鉄砲水のような流れ。下流の小屋を直撃した。
ゴブリンたちの叫び声が聞こえた。
俺は岩場の上から下を覗いた。
水流が小屋を半壊させていた。ゴブリンが五匹のうち二匹は流されていた。残りの三匹はずぶ濡れで岩場に這い上がろうとしていた。
──残りは三匹。
俺は腰のナイフを握った。
岩場を駆け降りて、最初のゴブリンの背後に回り込んだ。
ゴブリンが俺に気づいて振り向いた。棍棒を振り上げた。
その瞬間、俺はゴブリンの足元の濡れた岩に視線を送った。
ゴブリンの右足が滑った。
利用者の転倒予測。これも介護現場で日々鍛えていた感覚だった。濡れた床、段差、絨毯の浮き、それらの上で人間の足はどう動くか。重心がどう崩れるか。
俺はゴブリンの体重移動を予測して、滑った瞬間にナイフを首に押し当てた。
ゴブリンの動きが止まった。
「降伏しろ」
俺は静かに言った。
脳内の翻訳機能がそれをゴブリン語に変換したのか分からなかった。だがゴブリンは俺の声の調子を理解したらしい。棍棒を落とした。
俺は息を吐いた。
──殺さなくて済むなら 殺さない。
それも介護現場の俺の癖だった。利用者が暴れたとき、強制的に押さえつけるよりも先に環境を整える。説得する。落ち着かせる。物理的な力を使うのは最後の最後だ。
残りのゴブリン二匹も棍棒を構えていたが、仲間がナイフを首に当てられているのを見て動きを止めた。
俺はゴブリン語で(と思われる音で)「集落から離れろ」と告げた。
ゴブリンたちは俺をしばらく見つめた。
それから一匹が、低い唸り声を上げて、北へ走り出した。残り二匹もそれに続いた。俺がナイフを離すと、人質にしていたゴブリンも仲間の後を追って走った。
森に静寂が戻った。
俺はその場に立ち尽くした。
膝が遅れて震え始めた。事後の震えだった。介護現場で利用者を救命処置した後にも、よくこの震えは来た。腎臓のあたりからぞわっと寒気が上がってきて、それから手の指まで届く。
俺は座り込んだ。
息を整えた。
「人を 殺さなくて済んだ」
声に出して言った。
ゴブリンは「人」ではないかもしれなかった。それでも、知性のある生き物だった。それを殺さずに済んだことに、俺はなぜか深く安堵していた。
その安堵の理由を、俺はその場で深掘りしなかった。
ただ、自分が思ったより冷たくない人間かもしれない、という小さな疑念が、胸の奥でわずかに揺れた。
──
集落に戻ると、もう日が傾いていた。
長老の老人と村人たちが俺を出迎えた。彼らはまだ俺の戻りを信じていなかったらしい。Fランクが単独で森に入って戻ってくる確率は半分以下だ、と長老は後で打ち明けた。
「ゴブリンは追い払った。当面は戻ってこない。だが完全に消えたわけじゃない。集落の防壁を作り直した方がいい」
俺はそう告げた。
集落の女たちが食事を出してくれた。麦のパン。鶏のスープ。乾酪。森の水よりずっと旨かった。久しぶりに塩気の強い食事を食べた俺は、新しい器の若い舌で味を確かめながら、不思議な感慨に浸った。
腹を満たすと体は素直に応える。介護現場で食事介助をしてきた俺は、その当たり前が当たり前ではないことをよく知っていた。
俺は黙々と食べた。
長老の孫は、俺が指示した通り都市の治療院に運ばれていた。今頃リシェルが診ているはずだった。印章を渡しておいたから、診察の優先順位は上がっているだろう。
食後、長老が約束した報酬の銅貨二十枚に加えて、銀貨を一枚追加してくれようとした。俺は銀貨は受け取らなかった。
「銅貨で十分だ」
「しかし」
「孫の治療費に充てろ」
長老はもう一度頭を下げた。
俺は集落を出て、夜道を都市に戻った。月明かりの下を歩きながら、俺はずっと考えていた。
殺さなくて済んだこと。
老人の「ありがとう」を逸らさずに受け取れなかったこと。
その二つの矛盾。
俺は集落を出て、夜道を都市に戻った。月明かりの下を歩きながら、俺はずっと考えていた。
殺さなくて済んだこと。
老人の「ありがとう」を逸らさずに受け取れなかったこと。
その二つの矛盾。
俺は何かが、心の中で少しずつ動き始めているのを感じた。
それを認めたくなくて、俺はわざと別のことを考えようとした。
明日の依頼。報酬。装備。新しいナイフが欲しい。革の鎧も要る。靴底も補強したい。そういう実用的なことを頭の中で並べた。
それでも夜空の二つの月の光は、俺の頭の中の明るさを微妙に変えていた。
都市の門に着いたとき、衛兵が俺を見て少し驚いた顔をした。
「夜遅くだな 戻れたのは幸運だ」
「単独依頼で」
「Fランクで 単独で 戻ってきたのか」
「ああ」
衛兵は俺の顔と冒険者証を交互に見た。それから一言だけ呟いた。
「ヤノトオル。覚えておく」
その言葉の意味を俺はその場では咀嚼しなかった。
宿屋に戻ってベッドに身を投げ出した。
新しい器の若い体は、戦闘の疲労より、長距離歩行の疲労の方を強く訴えていた。膝が重い。足の裏に小さな水ぶくれができていた。介護現場で立ちっぱなしの夜勤を経験していた俺の足は、長時間歩行に対しては弱かった。それは身につけ直さなければならない筋肉だった。
俺は服のまま眠った。
夢を見た。
夢の中で俺は介護現場の廊下を歩いていた。フミ子さんの部屋。彼女は「お母さん」と呼びながら俺の手を伸ばそうとした。俺は今度は、引かなかった。彼女の指先に俺の指先が触れた。乾いて骨ばった指。それでも温度はあった。
そこで目が覚めた。
朝だった。




