第六章 冒険者ギルド
三日後、俺はアルデリア王都の城門前に立っていた。
リシェルが手配してくれた行商の馬車に乗せてもらってここまで来た。彼女は治療院を空けられないため、同行はできなかった。別れ際に彼女は俺に小さな金属の印章を渡した。
「これを治療院で見せれば あなたが私の紹介である人だと分かります。困ったら王都の中央教会の治療院を訪ねてください」
俺はその印章を首から下げていた。
王都アルデリアは予想より大きな都市だった。
二重の城壁に囲まれていた。外壁の高さは十メートルほど。内壁はもっと高い。城門は鉄で補強された木製の巨大な扉だった。門の脇には鎧を着た衛兵が二人立っていた。背中には長い槍。
人の出入りは多かった。馬車。徒歩の旅人。商人らしき身なりの男女。荷車を引く少年。荷物を運ぶ老人。中には武装した冒険者風の集団もいた。
俺は人の流れに混じって門を抜けた。衛兵は俺をちらりと見たが、特に止めなかった。
門の内側は別世界だった。
石畳の道。両脇に並ぶ木造と石造りの混合建築。看板。市場の喧騒。家畜の匂い。糞便の匂い。香辛料の匂い。鍛冶屋の煙。煮炊きの煙。それらが渾然一体となって俺の鼻に押し寄せた。
──臭い。
正直そう思った。
道の脇には汚物が散らばっていた。窓から汚水が捨てられた跡もあった。俺は本能的に道の中央を歩いた。介護現場で身についた感染対策の意識。手は無意識のうちに服にくっつかないよう体に密着させた。
「兄ちゃん 初めてかい」
声をかけられた。
通りの脇で果物を売っている中年の女だった。丸い顔で、頬に古い火傷の跡があった。
「ああ」
「迷子なら役立つよ。何探してる」
「冒険者ギルド」
女は少し驚いた顔をしてから、にっと笑った。
「真っ直ぐ行って 二つ目の広場の右側だ。でかい看板で剣の絵が掛かってる。間違えようがないよ」
「ありがとう」
俺は歩き出した。
二つ目の広場の右側。看板。剣の絵。
歩きながら俺は周りを観察した。
道行く人々の服装は様々だった。粗末な麻のシャツに革のベスト。色染めの綺麗な布のローブ。鎧。フード付きのマント。靴は革製が多かったが、貧しい者は布を巻いただけの足だった。子どもの中には裸足の者もいた。
子どもの裸足を見て、俺は何かを思った。介護現場で、低体温症で運ばれてきた独居老人の足の裏を思い出した。あの足は冷たく、靴下を履かない習慣の中で、いつの間にか感覚が鈍くなっていた。
ここの子どもたちの足の裏も、いずれ感覚が鈍くなるのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は冒険者ギルドにたどり着いた。
二階建ての石造りの建物だった。入り口の上に大きな木の看板。剣と盾の絵。果物売りの女が言った通り、間違えようがなかった。
扉を押し開けて中に入った。
中は混雑していた。
正面奥に長いカウンター。そこに数人の受付係らしき女性が立っていた。手前には木のテーブルが並び、武装した男女がエールを飲んでいた。壁には依頼書らしき紙が大量に貼られていた。階段を上がるとさらに広い部屋があるらしい。
天井は高く、煙で黒ずんでいた。煙突を備えた暖炉が壁際で燃えていた。床は石で、酒のシミと泥で汚れていた。窓は小さく、日光より蝋燭の灯りの方が強かった。蝋燭は獣脂のものらしく、特有の獣臭が部屋に染みついていた。介護現場の消毒液の匂いに慣れた俺の鼻には、その匂いはきつく感じた。
俺はその匂いと喧騒の中で一瞬ふらついた。
新しい体は若かったが、まだ俺の中には介護現場の二十八歳の感覚が残っていた。アルコールの匂いが嫌いだった。母さんが死んでから俺は酒も飲まなくなっていた。酒を飲むと封をした記憶が滲み出てくる気がして、それが怖かった。
俺は深く息を吸って、自分を取り戻した。
カウンターから少し離れた場所で、俺は立ち止まった。
──登録、するのか。
頭の片隅で確認した。
英雄になる。そのために冒険者になる。それが、俺の中の表向きの目的だった。
しかし、ここに来てみて、別の思いも芽生えていた。
王都には怪我人と難民がたくさんいる、とリシェルは言っていた。介護福祉士としての俺の技術は、戦場ではなく、治療院や難民キャンプで一番役に立つかもしれない。
それでも、リシェルは俺に冒険者ギルドを薦めた。
「治療院で働くなら いつでも来ていい。でも あなたの中には 何かもっと大きな問いがあるように見える。それを解くには 自由に動ける身分が必要かもしれません」
そんなことを彼女は言った。
俺は迷ったが、結局カウンターに向かった。
「すみません」
声をかけた。
受付の若い女が顔を上げた。眼鏡のような形の硝子をかけていた。この世界にも視力矯正具があるのか。
「ご用件は」
「冒険者登録を」
「初めてですか」
「はい」
「身分証は」
俺はリシェルから預かった印章を見せた。彼女は印章をじっと見て、それから俺の顔を見た。
「中央教会のシスター・リシェル様の紹介状ですね」
「紹介状」
「印章自体が紹介状の役目を果たします。治療院の人手紹介とは別ですか」
「はい 冒険者として」
「分かりました。氏名を」
「ヤノトオル」
「ヤノトオル さんですね。出身地は」
「東方」
俺は咄嗟に言った。リシェルとも打ち合わせた答えだった。「東方」というのは大陸の遥か東の海を渡った先にあるとされる伝説の地で、滅多に人が来ない場所らしい。説明のつかない異邦人の出自を曖昧にするには都合が良かった。
受付の女は俺をちらりと見たが、それ以上は突っ込まなかった。
「年齢は」
俺は迷ったが、新しい器の見た目に合わせて答えた。
「二十歳 だと思う」
「思う?」
「孤児なので」
「ああ」
彼女は同情するような表情を一瞬浮かべて、それから書類に何かを書き込んだ。
「では これから簡単な実技試験があります」
「実技」
「Fランクの登録には最低限の身体能力の確認が必要です。重いものを持ち上げたり 訓練人形相手に三十秒持ちこたえたり それくらいです」
俺は頷いた。
裏の訓練場に案内された。
訓練場は中庭のような空間だった。土の地面の中央に木製の人形が立っていた。腕の代わりに棒が左右に張り出していた。その棒の片方には、たぶん俺の体格より少し重そうな砂袋がぶら下がっていた。周囲の土は無数の足跡で踏み固められていた。何人もの新人冒険者がここで実技試験を受けてきた跡だった。隅にはベンチがあり、古参の冒険者風の中年男が一人座っていた。革の鎧。腰に長剣。日に焼けた顔。鋭い目が俺を観察していた。
「まず この砂袋を反対側の腕にかけ替えてください。それができたら 訓練人形相手に対峙してください」
「対峙とは」
「踏み込んで 一発当てるか 三十秒避け続ければ合格です」
砂袋の方を俺は見た。
重さの推定は得意だった。介護現場で利用者の体重を一目で測る練習はさんざんやった。砂袋の見た目は二十キロ前後だった。それを腕の高さまで持ち上げて、反対側の腕にかける。
普通に持ち上げれば腰を痛める。ボディメカニクスを使う。
俺は砂袋の前に立った。
足を肩幅に開いた。支持基底面の確保。膝を曲げて重心を低くした。砂袋に体を密着させた。背中は曲げずに、腰から折る。両手で砂袋を抱え込み、太ももの大きな筋肉で立ち上がる。
砂袋は持ち上がった。
腰には全く負担がかからなかった。
俺は人形の反対側に砂袋を運び、横の棒に引っかけた。
「お──」
受付の女が驚いた声を出した。
「腕力ではなく 身のこなしですね。正規の訓練を受けたことが」
「介護の仕事を」
「介護?」
「老人を持ち上げる仕事だ」
彼女は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「では 訓練人形と対峙してください」
俺は人形の前に立った。
人形は単純な構造だった。中央の支柱に左右の棒。棒の先には鈍い木の塊。これが回転しながら俺を「攻撃」する。三十秒避けるか、人形の中央に一発当てる。
ギルドの職員が人形のスイッチを入れた。何かの仕掛けで人形が回り始めた。最初はゆっくり、次第に速く。
俺は人形の動きを観察した。
回転の速度。木の塊の軌道。死角。
これは介護現場のリスク管理と同じ視点だった。
利用者の動きを見て、転倒のリスクを予測する。利用者がベッドから起き上がろうとしたとき、どっちに倒れる可能性があるか。手すりはどこにあるか。床のカーペットは滑るか。
人形の回転は徐々に上がった。木の塊は俺の頭ぐらいの高さで弧を描いた。その軌道の下に俺はしゃがみ込んだ。
しゃがんだまま腰の中央に手を当てて、軸の支柱を一度叩いた。
回転が止まった。
職員が目を丸くしていた。
「合格です。十秒もかかっていない」
俺は立ち上がった。
膝に汚れがついた。それを叩いて払った。
「身体能力 申請通りで結構です。ただしFランクスタートになりますので そのおつもりで」
「分かった」
その日のうちに、俺は冒険者ギルドの登録証を手にした。
木製の小さな札に、俺の名前と「F」の刻印が彫られていた。
ギルドの裏口を出るとき、ベンチに座っていた古参の男が低い声で俺に話しかけた。
「兄さん 妙な動きをするな」
「どこかおかしいか」
「いや 逆だ。動きに無駄がない。普通のFランクは砂袋でぎっくり腰になるかバランス崩して人形に殴られる。お前のは経験者の動きだ」
「介護の経験だ」
「介護とは知らんが まあ気をつけな。Fランクは弱いと思って甘く見られる。実力がにじみ出ると逆に絡まれることもある」
「忠告に感謝する」
「ガレンって名だ。覚えとけ。お前の名は」
「ヤノトオル」
「変わった名前だな。東方か」
「らしい」
ガレンと名乗った男はそれ以上聞かなかった。彼はまたベンチに腰を下ろして、別の新人冒険者の試験を眺める姿勢に戻った。
ギルドを出たとき、空はもう夕方になっていた。
二つの月のうち、青い月の方が東の空に上がり始めていた。白い月はまだ昼の空に薄く残っていた。二つの月が空に並ぶ光景は、何度見ても異質だった。
俺は石畳の道を歩いた。
人通りはまだ多かった。仕事を終えた職人。買い物の主婦。早めに酒場に向かう冒険者。露店で焼き菓子を売る老人と、それを買う子どもの姿。子どもがコインを差し出す手はやはり裸足の足の延長で、皺と泥に汚れていた。それでも子どもは笑っていた。
俺は宿屋を探した。今夜から、俺の異世界生活が本格的に始まる。
明日からは依頼を受けて稼ぐ。稼げば食える。食えれば動ける。動けば生きられる。
それは介護現場の俺の生き方と、たぶん本質的には同じだった。
宿屋は冒険者ギルドから歩いて五分のところに見つけた。「銅鍋亭」と彫られた木の看板。下の階が酒場、上の階が宿の典型的な形式。一泊銅貨五枚。食事込み銅貨七枚。財布の中身を確認した。リシェルが餞別に渡してくれた銀貨が三枚と銅貨が十枚あった。当面の生活には足りる。Fランクの依頼を一件こなせば銅貨数枚は稼げるはずだった。
俺は二階の部屋に上がった。
部屋は四畳ほどの板の間に簡素なベッドが一つ。窓は小さく、外の喧騒が薄い壁を通して聞こえてきた。それでも俺にとっては久しぶりの「自分の部屋」だった。
ベッドに腰を下ろした。
新しい器の体は、まだ少し疲れていた。
しかし俺は不思議と笑っていた。
笑っているのは、何年ぶりか思い出せないほど久しぶりだった。
窓の外で青い月が高く昇り始めていた。月光が部屋の床に長い四角を描いた。その光の中に俺は手をかざした。新しい指。傷のない指。介護現場で握り続けてきた手すりの感触も、消毒液で荒れた皮膚も、ここにはない。
それでも俺の手は俺の手だった。
中身は二十八年分の俺だった。
その手で俺は、明日から何を掴むのか。
英雄の証。リシェルの言う助けを必要とする人々。あるいは、もっと別の何か。
答えは、まだ出ていなかった。
俺は服のまま横になった。眠りはすぐに訪れた。久しぶりに夢を見そうな深い眠りだった。




