第五章 看取りの祈り
治療院は村の中央にある石造りの建物だった。
近づいてみると思ったより古い建造物だと分かった。石壁にはツタが這い扉は厚い木材でできていた。屋根の上には金属の印章が取り付けられていた。リシェルの胸元のものと同じ形だった。十字でも円でもない、二本の手が向き合うような図案だった。
中に入ると薬草の匂いがした。
その匂いに俺はすぐに反応した。介護現場でよく嗅いだ匂いに近い。湿布の薬草成分のような香り。そして消毒液とも似た刺激臭。あれはハーブの煮出した汁を消毒に使っているのだろうか。
部屋の奥にベッドが四つ並んでいた。三つは空で一つに人が寝ていた。
寝ているのは老人だった。痩せこけた頬。閉じた目。半開きの口。胸の動きはほとんど見えなかった。
俺は反射的に観察した。
呼吸数。一分間に十回以下。チェーンストークス呼吸の前段階。皮膚の色は土気色。手の指の爪床に紫色がかかっている。チアノーゼ。
──終末期だ。
介護現場で何度も見た光景だった。あと数時間。長くて一日。
「彼は」
俺はリシェルに聞いた。
リシェルはちらりと俺を見た。
「もう長くないんです」
「治療は」
「治せない病ですから」
「なら なぜここに」
リシェルは答えなかった。
俺はもう一度老人を見た。誰も付き添っていなかった。家族の影もなかった。ただベッドの脇に小さな椅子が置かれていて、そこに座っていた誰かが立った跡だけがあった。座面のクッションがまだ凹んでいた。
「家族は」
「いません。村のはずれに一人で住んでいた猟師でした」
「ここに連れてきたのは」
「私です」
俺はリシェルを見た。
「治せないのに 連れてきたのか」
「治せなくても できることはあります」
「何が」
「最期を一人にしないことです」
その言葉に、俺の中で何かがざわめいた。
ざわめきは小さかった。すぐに消えた。
「それで何になる」
俺はそう聞いた。
リシェルは少し驚いたような顔をした。それから静かに言った。
「彼にとって 最期に一人ではなかったという事実が残ります。それだけでも 私は意味があると思っています」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
老人の浅い呼吸の音が部屋に満ちていた。
リシェルは俺に椅子を勧めた。俺は座った。彼女はキッチンに似た奥の部屋に消えていった。鍋の音がした。たぶん茶のようなものを淹れているのだろう。
俺は老人を見ながら、勝手に観察を続けた。
爪床のチアノーゼの広がり方。下顎の動き。目蓋の隙間から覗く瞳の濁り具合。これらはすべて、死が近いことを示していた。
介護現場で俺は、こういう人を何人も見てきた。最期の瞬間を看取れたことはほとんどなかった。母さんを看取れなかった俺は、職場でも自然と看取りの場面から距離を置くようになった。死亡確認の場には極力立ち会わなかった。家族へのグリーフケアは沢田や他のスタッフに任せた。
俺はそういう人間だった。
そういう人間が今、見知らぬ世界で、見知らぬ老人の終末に居合わせていた。
老人がふっと息を吸った。さっきまでより深い吸気だった。喉のあたりがゴロゴロと鳴った。死前喘鳴。介護現場ではよく見る現象だった。気道の分泌物が呼吸とともに鳴る。本人に苦痛はないとされている。家族が見ると不安になる音だが、それは死のプロセスの一部だった。
リシェルが戻ってきた。
木の椀を二つ持っていた。一つを俺の前に置き、もう一つを自分の前に置いた。中身は薄い茶色の液体だった。匂いは香草と蜂蜜が混ざったような匂いがした。
「飲んでください。気付け薬になります」
俺は椀を取った。一口飲んだ。甘くて温かかった。胃が落ち着いた。
リシェルは老人のベッドの脇に座った。彼女は老人の手を取った。骨ばった老人の手は彼女の細い手の中でほとんど動かなかった。
それから彼女は目を閉じた。
低い声で何かを唱え始めた。
歌のようでもあり祈りのようでもあった。リズムは静かで一定で、俺の脳内翻訳機能がフルに働いても全部は意味が拾えなかった。古い言葉が混ざっていた。
しかしいくつかの言葉は理解できた。
「あなたの旅は長かった」
「あなたが背負ったものは重かった」
「あなたは一人ではない」
「あなたが歩いた道のすべてに 意味があった」
俺は椀を持ったままその光景を見ていた。
老人の閉じた目から、わずかに涙が一筋流れた。
俺は息を止めた。
意識があるのか。聞こえているのか。介護現場では終末期の患者にも聴覚は最後まで残ると言われていた。だから声をかけ続けるのが基本だ。それは俺も知識として知っていた。知っていたが実践はしなかった。実践すれば距離が崩れる。
リシェルは祈りを続けていた。
老人の手を彼女は両手で包み込んでいた。
老人の唇が、わずかに動いた。
何かを言おうとしていた。声は出なかった。リシェルは祈りの言葉を一度止めて、老人の口元に耳を寄せた。耳を寄せて、ただ待った。何も急かさず、何も求めず。
老人の口の端から空気が漏れた。
それは「あ」とも「お」とも聞こえる微かな音だった。
リシェルは頷いた。
「分かりました」
そう言った。
何が分かったのか俺には分からなかった。だがリシェルは確かに、老人の最後の一音を受け取った。
老人の呼吸は次第に間隔が長くなっていった。十秒。二十秒。三十秒の呼吸停止。その後にまた一度、深い吸気。死前喘鳴がまた鳴った。
そして、その吸気の後に、もう吸気は来なかった。
部屋の中の音が変わった。
呼吸の音がなくなり、リシェルの祈りの声だけが残った。
リシェルは祈りを止めなかった。
老人の死後も数分間、彼女は祈り続けた。
最後に彼女は、老人の閉じた瞼にそっと指を当てた。
「お疲れさまでした」
そう、彼女は言った。
──お疲れさまでした。
その言葉が、俺の胸に何かを刺した。
なぜ、俺の介護現場の言葉と同じなのか。
なぜ、俺がフロアで利用者の死後によく囁いていた言葉と、まったく同じ言葉を、彼女は使うのか。
たぶん偶然だ。
どこの世界でも、誰かが死んだら、そう言うのだろう。
それでも俺は、その言葉が頭から離れなかった。
リシェルは立ち上がった。彼女の頬には涙の跡があった。それを彼女は隠さなかった。
「彼の名前は」
俺は聞いた。
「グレオン。グレオンさんといいます」
「家族のもとに知らせは」
「家族はいないと言いました」
「猟師仲間とか」
「もう全員 先に逝きました」
俺はそれ以上何も聞かなかった。
リシェルは老人の遺体に白い布をかけた。それから俺の方を向いた。
「ヤノトオルさん」
「はい」
「あなたは 何もしないで見ていましたね」
俺は息を呑んだ。
責められるのか、と一瞬思った。
しかし彼女の声は責めの色を帯びていなかった。
「介助の心得がある人の所作です」
リシェルは静かに言った。
「私には分かります」
「どうして」
「あなたの呼吸が ずっとグレオンさんの呼吸に合わせていたから」
俺は黙った。
そんな自覚はなかった。しかし言われてみれば確かにその通りだった。介護現場で看取りに立ち会った経験のある人間は無意識に利用者の呼吸に自分の呼吸を合わせる。それで利用者が苦しんでいないかを察する。意識せずに身についた所作だった。
「あなたは どこから来たのですか」
リシェルが聞いた。
俺はもう、嘘をつくのが面倒だった。
「言っても信じない」
「言ってみてください」
「別の世界から来た。バスの事故で死んで 気がついたらここの森にいた」
リシェルは数秒、俺を見つめた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「そうですか」
「信じるのか」
「信じます」
「なぜ」
「あなたが嘘をつく人ではないからです」
俺はその答えに何と返していいか分からなかった。
俺は嘘をつく人間だった。冷たい嘘を毎日ついて生きていた。ただ今この瞬間だけは嘘をつく気力もなかった。それを彼女は見抜いていた。
「あなたの世界では 介護の仕事をしていたのですか」
「介護福祉士、と呼ぶ」
「カイゴ フクシシ」
「老人や 体の弱い人を支える仕事だ」
リシェルは静かに微笑んだ。
「奇跡のような話ですね」
「奇跡?」
「あなたの世界では 死にゆく人を支えるための専門職があるということが」
俺はその言葉に違和感を覚えた。
「ここには ないのか」
「治療師はいます。傷を癒やす者。病を癒やす者。でも 治せない人を支えるための専門職はありません。私のような者が個人的にやっているだけです」
「なぜ」
「治癒魔法が発達した世界では 治せない命に時間をかけることは無価値とされてきました。教会の中でも 看取りの祈りは古い儀式として軽んじられています。私は変わり者なんです」
俺はその言葉を反芻した。
治せない命に時間をかけることは無価値。
その論理に、俺は反論できなかった。
なぜなら俺自身がその論理で生きてきたからだ。
母さんの死期が近いと医者に告げられたとき、俺は仕事を減らさなかった。もっと一緒にいたら、と思わなかったわけではない。だが冷静な頭で計算した。もう意識も判断も曖昧になっている母さんの隣に座って何時間か過ごすことの「価値」と、職場で稼いで施設費用を払い続けることの「価値」を。後者を選んだ。それが俺の人生で一番、自分を機械化した瞬間だった。
そして母さんはその「合理性」の隙間で一人で死んだ。
リシェルが俺を見ていた。
「ヤノトオルさん 顔色が」
「いや 何でもない」
「それなら ここでも仕事はあります」
「治療院で雇ってくれるのか」
「いいえ もっと別の場所で。あなたが望むなら」
「どこで」
リシェルは窓の外を見た。窓の向こうには遠く岩山の尾根が見えていた。
「アルデリアの王都です。今そこには助けが必要な人がたくさんいます」
「アルデリア」
俺は森で拾った紙片の文字を思い出した。
『北の都アルデリアへ向かえ』
リシェルは続けた。
「魔王軍に押されて 王都には毎日のように難民が流れ着いています。怪我人も病人も多い。あなたのような人手は必ず役に立ちます」
俺は黙った。
魔王軍。難民。怪我人。
俺が望んでいた「やり直し」は、そういう場所でなのか。
──
その夜、俺は治療院の裏の小屋に泊めてもらった。
ベッドに横になりながら、俺はまだ昼間の光景を反芻していた。
リシェルの祈り。グレオンと呼ばれた老人の最期。「お疲れさまでした」という言葉。
俺は寝返りを打った。
グレオンの最期は、母さんの最期にどこか似ていた。
そんなふうに思った自分に、俺は驚いた。
母さんは一人で死んだ。看取り手は誰もいなかった。施設の職員たちは仕事中で他の利用者を見ていた。母さんの最期の「ありがとう」を聞いたのは、当直の看護師がたまたま部屋に入ったタイミングだった。看護師は母さんの手を握ってはいなかった。座って祈りを唱えてもいなかった。
それでも母さんは「ありがとう」と言ったらしい。
その「ありがとう」は、誰に向かって言ったのか。
俺は今も知らない。
リシェルがグレオンに「お疲れさまでした」と言った瞬間、俺は何かを感じた。何かの音。何かの匂い。何かの記憶。それは明確な形を持たなかった。
ただ、胸の中で、ずっと封をしていた段ボール箱の角が、わずかに揺れた気がした。
俺は目を閉じた。
二つの月の光が、小屋の小さな窓から薄く差し込んでいた。
明日、俺はアルデリアに向かう。
そう、決めていた。
英雄になるために。
──いや、そうじゃない、と一瞬だけ思った。
何かもっと別の理由で、俺はそこに行きたいのかもしれなかった。
しかしその思いはすぐに薄れて、忘れられた。
窓の外でもう一度、リシェルの祈りの言葉が頭をよぎった。
「あなたは一人ではない」
その言葉は、グレオンに向けられたものだった。
それでも俺はその言葉を、自分への言葉のように受け取っていた。
受け取って、すぐに、受け取った自分を恥じた。
俺は人に「一人ではない」と言われる資格のある人間ではなかった。母さんを一人で死なせた俺は、その言葉を受け取る側ではなく、せいぜい誰かに送る側になるべきだった。
そう、思った。
それが、その夜の俺の最後の思考だった。
俺は深い眠りに落ちた。




