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魔王を看取った男 ──介護福祉士・矢野透の異世界救済譚──  作者: もしものべりすと


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第四章 異世界の朝

歩き始めて十分も経たないうちに俺は座り込んだ。


体力が続かなかった。


新しい器は若い体だった。たぶん十代後半か二十歳前後。それでも疲労感は本物だった。ここに来る前の俺がほとんど寝ていなかったせいか。あるいは魂が新しい体に馴染んでいないせいか。理由は分からなかった。


森は深かった。針葉樹の幹は俺の知っている杉や檜より太く色も濃かった。樹皮の表面に苔よりも分厚い緑色のものが張り付いていた。地衣類か。日本の森で見たことのない種類だった。


「これは現実だ」


声に出して確認した。声は頼りなかった。それでも、頼りないなりに森の空気を震わせた。震わせれば現実だった。


俺は深呼吸をした。空気は乾いていた。日本の冬の空気とは違う。標高が高いのか。あるいは緯度が高いのか。観察できる材料を一つずつ集める。介護現場で利用者の状態を見るときの作法と同じだった。情報を集める。仮説を立てる。検証する。それしか俺にはできなかった。


腰のナイフ。粗い麻のシャツ。革のベルト。革の靴。靴底は薄い。何キロも歩けば足の裏が傷む。俺は靴底の厚みを確認した。それから足の先を地面に押し当てて感触を確かめた。土が湿っていた。雨の後か。あるいは沢が近いか。


水。俺は水を飲んでいない。喉が渇いている。ここで遭難すれば、二日で死ぬ。


立ち上がった。


──落ち着け。介護現場と同じだ。優先順位を決めろ。


第一に水。第二に食料。第三に方位。第四に住人を探す。


水を探すには地形を読むしかない。森の傾斜を見た。緩やかに下っている方向があった。水は低い方へ流れる。俺は下りの方向に歩き出した。落ち葉の上を踏むと湿った音がした。鳥の声がまた聞こえた。今度は別の種類の声だった。森には複数の生き物がいる。生き物がいるということは生態系がある。生態系があるということは水源があるということだ。


歩きながら俺は自分の体を確かめた。腕の長さ。歩幅。視野の広さ。新しい器は前の俺より少し背が高い。胸板も広い。介護現場で十年働いた中年の体ではなく若い男の体だった。それは皮肉な祝福だった。


「人生をやり直したい」と願った。願いはどうやら叶っていた。器ごと。


しかし俺の中身は二十八年分の俺のままだった。母さんの死を抱えたまま。冷たい男のまま。それは俺がよく知る男だった。


ここで俺は、何になれるのか。


──何にもなれない、かもしれない。


足元の落ち葉を踏みしめながら俺は思った。


体だけ若くなっても、心が同じなら、たぶん同じ過ちを繰り返すだけだ。


それでも歩いた。


歩かなければ死ぬ。それは介護現場と同じ理屈だった。利用者は寝たきりになれば肺炎で死ぬ。だから動かす。動かせば生きる。動かさなければ死ぬ。生は動きに宿る。それだけが俺の知っている唯一の真理だった。


──


水音が聞こえたのは二十分ほど歩いたあとだった。


俺は音の方向に進んだ。木々の隙間に小さな沢が見えた。岩の間を縫って澄んだ水が流れていた。俺は四つん這いで岸に近づいた。水は冷たかった。手のひらで掬って一度匂いを嗅いだ。匂いはほとんどない。微かに鉄の匂いだけがした。鉱泉か。それなら飲めるかもしれない。


それでも一気に飲むのは賭けだった。日本でも沢の水を生で飲めば寄生虫の危険がある。ましてここは異世界だ。何が混ざっているか分からない。


しかし喉は渇いていた。


俺は手のひらに少しだけ掬って舐めた。冷たい。少し金属の味。それから一口。それから二口。


胃が反応した。空腹に冷たい水が落ちる感覚。久しぶりの感覚だった。介護現場で水分補給を疎かにしていた頃の俺の胃は、もう自分の渇きさえ忘れていた。今この若い体は水を欲していると正直に伝えてきた。


俺はもう一度水を飲んだ。それから岸に座った。


水面に俺の顔が映った。


知らない顔だった。


二十歳ぐらいの男。日本人より少し彫りが深い顔立ち。目は黒に近い濃い茶色。髪は黒。肌は浅黒い。傷一つない肌。介護現場で五年間、消毒液で荒れた皮膚と頻繁な手洗いの結果生まれた皺は、ここには一切なかった。


俺はその顔を見つめた。


これは、誰だ。


「人生をやり直したい」と願った俺に、神らしき何かが新しい器をくれた。だがそれは、誰のものだったのか。元から空き家だったのか。それとも誰かが住んでいた家を空けてくれたのか。


考えれば考えるほど落ち着かなかった。


俺は水面から目を逸らした。


濡れた手の甲で口元を拭った。


「生き物だな 俺は」


呟いた。


そして気づいた。


呟いた言葉は日本語ではなかった。


しかし俺はそれを違和感なく口にしていた。意味は分かっていた。日本語と全く同じ意味の文を別の言語で発したのだった。


──翻訳機能でも付いているのか。


頭の中の言語回路を観察した。日本語の単語を思い浮かべると、それに対応するこの世界の語彙が浮かんでくる。完璧ではない。「ヒートショック」や「SpO2」のような専門用語には対応する語が見つからなかった。だが日常会話には困らないレベルの翻訳が脳内で勝手に走っている。


便利だった。それと同時に不気味だった。


俺の頭はもう半分この世界に侵食されているのかもしれなかった。


腹が鳴った。


水だけでは持たない。食料を探さなければ。


岸の周りを観察した。何か食えるものはないか。野生のキノコは知識がないと毒に当たる。木の実なら少しは判別できるが、見覚えのある形は見当たらなかった。沢の水底にイワナのような魚影がよぎった。捕まえる道具がない。素手では無理だ。


──やはり人里に出るしかない。


俺は立ち上がった。


──


沢沿いに下りていくと、やがて獣道のような踏み跡が見えた。獣にしては足跡が真っ直ぐすぎた。人の道だ。


俺は踏み跡をたどった。胸に少しだけ希望が湧いた。希望と呼ぶには細い、糸のような感情だった。


道は次第に広くなった。両脇の下草が刈られていた。馬車の轍のようなものも見えた。間違いなく人の往来があった。


俺はさらに歩いた。脚は重かった。それでも進んだ。


そして、視界がひらけた。


森を抜けると、緩やかな丘の中腹に出た。眼下に小さな村が見えた。十数軒の藁葺き屋根の家。中央に石造りの建物が一つ。井戸らしきもの。畑。どこかから煙が上がっていた。家畜の鳴き声が遠く聞こえた。羊か山羊か。


「人がいる」


俺は呟いた。


そして、足が動かなくなった。


人がいる、という事実が、急に怖くなった。


俺は異邦人だった。言葉は通じるかもしれない。だが俺の見た目はどうか。服は時代に合っているのか。礼儀作法は通じるのか。介護現場で利用者と接するときに身につけた所作が、この世界で通用するとは限らない。


それに何より、俺は説明できる物語を持っていなかった。


「俺は別の世界から来た介護福祉士です」


そう言って信じてもらえるはずがない。


しかし、ここで戻ってもどうにもならない。森の奥に戻れば獣に襲われるか飢え死にする。前に進むしかなかった。


俺は深く息を吸った。


──行け。


そう自分に命じた。


そのとき、背後で枝の折れる音がした。


俺は振り返った。


森の縁に何かが立っていた。


最初は木の影かと思った。しかし影は動いた。ゆっくりと二本足で。


それは緑色の小柄な生き物だった。


身長は俺の腰までもなかった。皮膚は苔のような色合いだった。顔は人に似ていたが鼻が大きく耳が尖っていた。手には木の棍棒のようなものを握っていた。


──ゴブリン。


その単語が頭の中で勝手に浮かんだ。脳内の翻訳機能がまた働いていた。


ゴブリンは俺を見ていた。黄色い目を細めてこちらを観察していた。観察しているのか獲物を品定めしているのか。その目には知性があった。獣の目とは違う。狡猾さと飢えの混じった目だった。介護現場で見た目つきとは似ていなかったが、人を値踏みする目つきという点では共通していた。


俺は腰のナイフに手をやった。指が震えた。


ナイフの柄を握ると、木の柄に革紐が巻かれていた。手のひらに馴染む形状だった。誰かが日常的に握り続けてきた跡だった。元の持ち主はどんな男だったのか。考える暇はなかった。


ゴブリンがもう一歩こちらに近づいた。


距離は六メートルほど。あちらの棍棒は届かない。だが詰められれば一瞬だ。


俺は介護現場で危険な利用者(暴力傾向のある認知症高齢者)に対峙したときの動きを思い出した。距離を詰めない。視線を外さない。声は低く落ち着いた音域で。両手は見える位置に。


「落ち着け」


俺はゴブリンに向かって言った。脳内の翻訳機能が、この言葉も自動でゴブリン(らしきもの)に変換しているのか分からなかったが、声の調子は伝わるはずだった。


ゴブリンは耳を動かした。表情に困惑の色が浮かんだ。


そして棍棒を振り上げた。


その瞬間、別の方向から声が聞こえた。


「下がりなさい!」


女の声だった。鋭く高い声だった。


俺は反射的に身を伏せた。


何かが空気を切り裂いて、ゴブリンの胸を貫いた。光の矢のような何かだった。ゴブリンは短く呻いて、後ろ向きに倒れた。


俺は呆然と、その光景を見た。


「立てますか」


声がした。さっきの女の声だった。


俺はゆっくりと立ち上がった。


声の主は、坂の下から駆け上がってきていた。


息を切らしていた。長い銀髪が風に乱れていた。白と薄い水色の服を着ていた。胸元には金属の小さな印章のようなものが下がっていた。腰にも何も差していなかった。武器を持っていない。さっきの光の矢は、彼女が放ったのか。


「怪我は」


「ない」


「他に魔物は」


「見ていない」


俺は短く答えた。観察眼が働いた。彼女は若い。たぶん二十代前半。顔は整っていたが疲労が色濃く出ていた。目の下にうっすらと隈があった。手は細く指は長く、しかし手のひらにはタコがあった。何か日常的に重い作業をしている手だった。


「あなた 旅の方ですか」


彼女は俺を見上げて聞いた。


俺は迷った。


「迷子だ」


そう答えた。半分は本当だった。


彼女は少しの間、俺を観察した。それからふっと表情を緩めた。


「治療院に来てください。怪我がなくても しばらく休んだほうがいい。顔色が酷い」


「治療院」


「私はそこのシスターです。リシェルといいます」


俺は名乗ろうとして言葉を探した。透。矢野透。それでいいのか。この世界にその名前は通用するのか。


迷ったが、結局そのまま言った。


「矢野 透」


「ヤノトオル さん」


リシェルは俺の名前をそう発音した。少し抑揚が違ったが、ほぼ正確だった。


「来てください」


彼女は背を向けて坂を下り始めた。


俺は彼女の背中を見た。


それから倒れているゴブリンの方を見た。胸に小さな焦げ跡があった。光の矢は実際には何かを焼く力を持っていたらしい。


魔法、だろうか。


そういうものが当たり前に存在する世界に、俺は来てしまったらしい。


──ここは確かに、異世界だ。


俺はリシェルの後を追った。


足取りは少し軽くなっていた。


希望と呼ぶには、まだ細い糸のような感情だったが、それは確かに俺の中で芽吹き始めていた。


坂を下りながら俺はもう一度ゴブリンの遺体を振り返った。


緑色の小さな体が地面に転がっていた。胸の焦げ跡から薄く煙が上がっていた。さっきまで動いていたものが今は動かない。生から死への切り替えの早さは、介護現場の老衰とは違う種類の早さだった。鈍いほどゆっくり死ぬ老人と、瞬間で死ぬ魔物。同じ「死」でも質感が違う。


俺はその差異を頭の片隅に記録した。


この世界で生きるなら死の種類を見分ける目が必要になる。


そんな予感がした。


リシェルの背中はもう坂の半ばまで降りていた。彼女は一度も振り返らなかった。それでも俺がついてきていることを確信している歩き方だった。彼女の背中には信頼があった。会ったばかりの俺に対する、根拠のない信頼。それを俺は不思議に思った。


不思議に思いながら、俺は彼女に追いついた。


夕暮れの村の煙が、二つの月の下で立ち昇っていた。

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