第三章 運命のバス
翌朝、雪は十センチ積もっていた。
俺がアパートを出たのは午前六時十五分だった。バス停まで徒歩八分。俺の通勤手段は普段は車だが、雪の日は事故が怖いのでバスを使う。それは五年間続けてきた俺のルーティンだった。
歩道は除雪されていなかった。スニーカーの底に雪が張り付いた。マンホールの蓋が雪の下から顔を出しているのが分かる場所には、わずかに茶色い湯気が立っていた。下水道の熱が雪を溶かしているのだ。介護現場で観察眼を鍛えると、街を歩いていてもこういう細部が目に入るようになる。皮肉な職業病だった。
バス停には三人の通勤客が立っていた。誰も口を開かなかった。マスクの下で皆白い息を吐いていた。電光掲示板に「七時二分発 二分遅延」の文字が点滅していた。
俺はリュックを背負い直した。中には弁当箱と、白衣の予備が一着入っていた。
七時四分のバスがゆっくりと近づいてきた。フロントガラスのワイパーが雪を払っていた。バスのタイヤが雪を踏みしめる、シャリシャリという音が聞こえた。俺は乗り込み、後方の二人掛けの座席に腰を下ろした。窓の外を白い世界が流れた。
バスが二つ目の停留所を過ぎたとき、隣の席に誰かが座った。
「おはようございます」
倉橋だった。
俺は内心で驚いた。倉橋がバス通勤だったとは知らなかった。彼はいつも自家用車だったはずだ。
「おはようございます」
「車 雪で出せなくて」
「ああ」
「昨日の留守電 聞きました?」
「すみません まだ」
倉橋は薄く笑った。咎める笑いだった。
「シフトのことで話があったんです」
「業務時間に伺います」
「いえ 今でいいです」
倉橋はリュックから書類のクリアファイルを取り出した。クリアファイルの角が擦り切れていた。何度も書類を出し入れしている証拠だった。彼もまた、彼なりの仕事に追われていた。
「来月から Cユニットの責任者を矢野さんから外そうと思っています」
俺は窓の外を見ていた視線をゆっくりと倉橋に戻した。
「理由を聞いていいですか」
「Cユニット 今月の家族苦情が三件入ったんです。全部 矢野さんの対応について」
「内容は」
「『冷たい』『目を見て話してくれない』『母を物のように扱う』」
俺は何も言わなかった。倉橋はクリアファイルから一枚の紙を抜いた。家族からの手紙のコピーだった。手書きの字。年配の女性の筆跡。
俺はそれを受け取らなかった。倉橋は途中で手を引っ込めた。
「矢野さん」
「はい」
「私はあなたを切りたくない。でも 家族の声は無視できない」
「分かりました」
「分かりましたって」
「Cユニットの責任者 外れます」
倉橋は何かを言いたそうな顔をした。彼もまた、沢田や若林と同じあの顔をした。期待を半分諦めた表情。
「矢野さん あなたは技術がある」
「ありがとうございます」
「でも その技術で何をしたいのか 私には見えないんです」
俺は黙った。
何をしたいのか。
俺は何もしたくなかった。ただ淡々と業務をこなして、給料をもらって、家に帰って、寝て、また出勤する。それだけでよかった。それで生きていけた。それ以上のことは、もう望んでいなかった。
倉橋は紙をクリアファイルに戻した。
「考えておいてください」
「はい」
それから倉橋は黙った。バスは雪の中を進んでいた。俺は窓の外を見続けた。倉橋の横顔が窓ガラスにぼんやりと映っていた。彼の細い目は前方を見ていた。何を考えているのか、俺には分からなかった。
──冷たい。目を見て話してくれない。母を物のように扱う。
家族の言葉が頭の中で反響した。
その通りだった。俺は冷たかった。目を見て話さなかった。物のように扱った。なぜなら、心を込めれば、また失う。失うのが怖かった。だから俺は、心を込めるのをやめた。
それを家族は見抜いていた。利用者の家族たちは皆、自分の親が大切だった。大切な親を、心のない男に任せていたのだ。彼らが怒るのは当然だった。
それでも俺は、変えられないと思った。
変えるためのエネルギーが、俺にはもう残っていなかった。
倉橋もまた黙ったままだった。彼の手はクリアファイルを握ったまま動かなかった。クリアファイルの中には、苦情の手紙以外にも書類が何枚か挟まっていた。ちらりと見えた一番下の紙には「経営計画書 第三四半期」と印字されていた。倉橋は経営側の人間だった。施設経営の数字に追われ、家族からの苦情を捌き、現場のスタッフの管理をする。彼もまた、彼なりの方法で疲弊していた。
俺と倉橋は、もしかしたら同じ穴の狢だったのかもしれない。
人を効率的に処理する。数字で人を見る。マニュアル化する。倉橋は施設運営のレベルでそれをやり、俺はベッドサイドのレベルでそれをやっていた。やり方は違ったが、やっていることの本質は近かった。冷たい論理で人と接する。それで擦り切れずに済む距離を保つ。それが、俺たちの生存戦略だった。
──
バスは交差点で信号待ちをした。
赤信号。雪の中、対向車線をトラックが横切っていく。タンクローリーだった。車体の側面に「危」の表示が貼られていた。俺はぼんやりとその光景を見ていた。
倉橋が何か言った。
「え?」
俺は聞き返した。
「いえ」
倉橋は首を振った。
「独り言です」
「何ですか」
倉橋は前を見たまま、低い声で言った。
「人を 効率的に処理するっていうのは 間違いなんですかね」
俺は彼の横顔を見た。
「どういう意味ですか」
「数字で人を見る。回転率を上げる。マニュアル化する。そういうのは 効率的だが 間違いだと 矢野さんは思いますか」
「思いません」
「即答ですね」
「考えたことがないので」
倉橋は薄く笑った。
「私もです。考えたことがない」
それから彼は、独り言のように続けた。
「私も もしかしたら あなたと同じ側の人間かもしれない。そう思うことがあります」
俺は答えなかった。
信号が青に変わった。バスが動き出した。
その瞬間、俺は何かが視界の端に動くのを見た。横道から、雪を巻き上げて、巨大な何かが滑り込んできた。タンクローリーだった。さっき対向車線を行ったのとは別の車両。スリップしていた。タイヤがロックされて横向きになっていた。運転手の顔が一瞬見えた。蒼白だった。
「あ」
俺は声を上げた。声というより、息だった。
倉橋もまた、それを見た。彼の細い目が、信じられないほど大きく見開かれた。
クラクションが鳴った。短く、長く、また短く。
赤い色が視界を埋めた。
そして次の瞬間、世界が裂けた。
衝撃。それは音というより、肉体そのものを通り抜ける震動だった。バスの側面が陥没した。窓ガラスが砕けた。砕けたガラスの破片が雪のように宙を舞った。雪と、ガラスの粒。俺の頬を切った。痛みは感じなかった。
俺の体は宙に浮いた。シートベルトはしていなかった。座席から放り出された俺の頭が、何か硬いものに激しく打ちつけられた。前の座席の背もたれだったかもしれない。あるいは天井だったかもしれない。
時間が遅くなった。
スローモーションの中で、俺は色々なものを見た。バスの天井のシミ。割れたガラスが宙に舞う光景。前の席で本を読んでいたサラリーマンが投げ出されていく姿。運転手の頭が前に傾いていく動き。それらすべてが、俺の網膜にゆっくりと焼き付いた。介護現場で鍛えた観察眼は、こんな瞬間にも働いていた。皮肉だった。
そしてスローモーションの中で、俺は倉橋を見た。倉橋もまた宙に浮いていた。彼の細い目が、信じられないほど大きく見開かれていた。彼の口が何かを言おうとしていた。
「なん──で」
その声は聞こえなかったが、唇の形で読めた。
なんで、俺がこんなとこで。
俺は心の中で答えるように思った。
──分からない。俺もだ。
意識が遠ざかっていく中で、俺は最後にひとつだけ願った。
人生をやり直せるなら。
それが、最後の意識だった。
──
闇。
完全な闇ではなかった。闇の奥に、ぼんやりとした光があった。光は遠くて、近かった。形がなく、色もなく、ただ存在だけがそこにあった。
俺の体は浮いていた。あるいは沈んでいた。上下の感覚がなかった。どこに自分の輪郭があるのか分からなかった。指がない。足がない。あるはずの心臓の鼓動も聞こえない。それでも、思考だけはあった。考えている、ということだけが、俺の存在を支えていた。
声がした。声というより、響きだった。
──呼びかけているのか。お前を。
俺は答えようとした。声が出なかった。口がなかった。
──お前は何を望む。
何を、と俺は思った。
俺は何を望むのか。
人生をやり直したい。
そう、思った。
──ならば、新しい器を与えよう。
光が広がった。光は俺を包んだ。
そして俺は、目を覚ました。
落ち葉の匂いがした。土の湿り気。鳥の声。聞いたこともない鳥の声だった。木漏れ日が瞼の上に揺れていた。
俺は目を開けた。
頭上には、見たこともない空が広がっていた。
二つの月が、薄く浮かんでいた。
昼間の空に、二つの月。一つは見慣れた白い月。もう一つは、それより小さく、わずかに青みがかった月。それらが青空の中に並んでいた。
俺は声を出そうとした。出なかった。喉が渇ききっていた。
体を起こそうとして、痛みが走った。痛みではなく違和感だった。体が、俺の体ではない気がした。両手を顔の前に持ち上げた。指は十本あった。爪の形は俺のものに似ていた。だが、指が少し細かった。皮膚に染みついていた消毒液の匂いがしなかった。介護職員の手にいつも刻まれている、繰り返しの手洗いによる肌荒れもなかった。
俺は、俺じゃなかった。
──そして俺は、俺だった。
頭の中の記憶は二十八年分、すべて残っていた。母さんの顔。沢田の声。倉橋の細い目。バスの中の衝撃。それらは鮮明に覚えていた。
だが体は、別人のものだった。
ゆっくりと身を起こす。森の中だった。背の高い針葉樹が並んでいた。下草は深く、苔の生えた岩がいくつか転がっていた。空気は冷たく、しかし日本の冬とは違う乾いた冷たさだった。雪はなかった。
服も別人のものだった。粗い麻のような布のシャツ。革のベルト。つま先の角ばった革の靴。これは俺の服じゃない。
「夢か」
声が出た。掠れた声だった。それも俺の声ではなかった。少し若い、よく響く声だった。
夢ではなかった。それははっきり分かった。夢の中ではこんなに鮮明に空気の匂いを感じることはない。夢の中で苔の湿った冷たさを尻に感じることはない。
俺は立ち上がろうとして、よろめいた。立ち上がれた。痛みはなかった。バス事故で粉砕されたはずの体は、どこにも傷を負っていなかった。
「人生をやり直せるなら」
俺は、最後にそう願った。
「ならば、新しい器を与えよう」
闇の中の声が、そう答えた。
──まさか。
俺は森の中を見回した。
二つの月。聞いたことのない鳥の声。粗い麻のシャツ。
ここは、俺の知らない場所だった。
俺の知らない世界だった。
膝が震えた。俺は座り直した。木の根に背を預けた。深く息を吐いた。
何度も自分の手を見た。
それから、声を出して笑った。
笑いながら、なぜか涙が出た。涙の理由は、自分でも分からなかった。
風が吹いた。針葉樹の枝がざわめいた。森の奥から獣の遠吠えのような音がした。日本にはいない種類の鳴き声だった。狼か。あるいは、もっと大きな何かか。俺は背筋を伸ばした。観察眼が働き始めた。生存のための観察眼。介護現場で利用者の異変を察知するために鍛えた感覚。それが今、見知らぬ森の中で俺の生命を守ろうと動いていた。
俺は自分の腰を確認した。腰のベルトには革の鞘に収まった短刀のようなものがぶら下がっていた。鞘を引き抜くと、刃渡り十五センチほどの素朴なナイフが出てきた。武器、と呼ぶには貧弱だった。それでも、何もないよりはマシだった。
シャツのポケットを探った。何か紙が入っていた。引き出してみると、それは羊皮紙のような質感の紙片だった。文字が書かれていた。読めない文字だった。アルファベットでもなく、漢字でもなく、知らない記号の羅列だった。
しかし、見ているうちに、文字が頭の中で意味を結び始めた。
『これを拾いし者へ。我が遺志を継ぎ、北の都アルデリアへ向かえ。世界は今、滅びの淵にある。汝こそが、選ばれた者なれば──』
俺は紙片を握りしめた。
選ばれた者。世界の滅び。北の都。
わけが分からなかった。
それでも、頭の片隅でひとつだけ、はっきりした思考が浮かんだ。
──英雄になれば、人生をやり直せるのか。
俺はその問いに、まだ答えを持っていなかった。
ただ、立ち上がった。
膝が震えていた。それでも俺は、森の奥に向かって歩き始めた。
二つの月が、まだ昼間の空に浮かんでいた。




