第二十一章 ミレイア
魔王城の中は、静かだった。
戦闘もなかった。罠もなかった。魔物もいなかった。
ただ、長い廊下が続いていた。
廊下の壁には、無数の絵が掛かっていた。
最初は、村の絵。藁葺き屋根の家々。畑。井戸。子どもたちが遊ぶ姿。
次は、村が荒れる絵。畑が枯れている。家畜が倒れている。子どもが咳き込んでいる。
次は、葬列の絵。村人たちが棺を運んでいる。次々に。
絵は、廊下の奥に進むにつれて、悲しい方向に展開していった。
「これは」
リシェルが呟いた。
「誰かの 人生の記録です」
「誰の」
「分かりません。ただ 千年前の 何かの記録のように見えます」
俺は頷いた。
絵の細部に、奇妙な共通点があった。
どの絵にも、小さな少女が、必ず描かれていた。村の絵では、少女は家族と並んでいた。葬列の絵では、少女が一人で棺の後ろを歩いていた。最後の絵に近づくにつれて、少女は一人になり、家族は減っていった。
これは、その少女の、人生の記録だった。
それも、楽しい記録ではなく、家族を一人ずつ失っていく記録。
俺は気がつくと、足を止めて、それぞれの絵を、長い時間 見ていた。
リシェルも俺の隣で、同じように、絵を見ていた。
「ヤノトオルさん」
「ん」
「この少女は 一人で 死んだのですね」
「ああ」
「誰にも 看取られず」
「ああ」
俺たちは、しばらく無言で、廊下を進んだ。
最後の絵で、廊下が終わった。
最後の絵は、一人の小さな少女の絵だった。
少女は、誰もいない村の中で、一人で立っていた。
家族は皆、葬列の絵で運ばれていた。
少女は、最後の一人だった。
俺はその絵を、長い間、見つめた。
絵の少女の表情は、悲しみではなかった。
孤独だった。
完全な、孤独だった。
──
廊下の奥に、扉があった。
俺はリシェルと共に、扉を開けた。
中は、円形の広い部屋だった。
天井は高く、ドーム状だった。中央には、玉座があった。
玉座に、誰かが座っていた。
最初、俺は それを 大人の魔王だと思った。
しかし違った。
座っていたのは、七歳ほどの 小さな少女だった。
絵の中の、最後の少女だった。
少女は俺たちを見て、悲しそうに笑った。
「来ましたね」
少女の声は、年齢に合わない、低く深い声だった。
「お前は」
「ミレイア。あるいは 魔王エルディス。どちらでも構いません」
俺は息を呑んだ。
少女は玉座から立ち上がった。立ち上がっても、俺の腰の高さもなかった。
「あなたは 看取りに来た方ですね」
「そうだ」
「私は 千年待っていました」
少女は俺たちに、玉座の前まで来るように手招きした。
俺とリシェルは、慎重に近づいた。
少女は俺の前に立った。
「私の話を 聞いてくれますか」
「ああ」
「少し 長くなります」
「どんなに長くても 聞く」
少女はうなずいて、語り始めた。
「千年前 私は ある小さな村に生まれました。両親と お兄ちゃんが二人いました。家畜の世話をして 畑を耕して 普通の村でした」
俺は黙って聞いていた。
「ある日 隣村から旅人が来ました。咳をしていました。村人たちは 親切に泊めました」
「疫病」
「ええ。三日後 旅人が死にました。一週間後 隣家の家族が死にました。一ヶ月後 村人の半分が死にました」
少女の声は、淡々としていた。
「私の家族は最後まで生き残りました。お父さんも お母さんも お兄ちゃんも 私を生かそうと必死でした。ですが 一人ずつ 倒れていきました」
「ファラと 同じ理屈だ」
俺は呟いた。
「は」
「ファラの家族も 彼女を生かすために 一人ずつ離れていって 死んだ」
少女は驚いた顔をした。
「ファラ という方は」
「俺の仲間だ。死んだ。砂漠で」
「お疲れさま でした」
少女はそう言った。
俺は息を呑んだ。
少女は続けた。
「私は 七歳でした。お父さんが最後に死にました。お父さんは 死ぬ前に 私を抱きしめて 言いました。『誰か来てくれるまで がんばれ』と」
「誰か」
「誰も来ませんでした。村は隔離されていました。隣村も 皆 死んでいました。私は一人で 家族の遺体と共に 七日間 過ごしました」
「七日」
「お腹が 空きました。喉も乾きました。私は 何度も 死んだお母さんの胸を 揺すりました。『起きて』と。お母さんは 起きませんでした」
少女の声には、子どもらしい無邪気さと、千年分の重さが、同時にあった。
「七日目の夕方 私の最後の意識が 消える前に 私は 叫びました」
「何を」
「『誰か 私を見て』と」
俺の胸が、強く打った。
「その叫びが 千年経っても 消えませんでした。世界の呪詛になりました。それが 魔王軍と呼ばれる存在です」
リシェルが息を呑んだ。
「では 魔王軍は」
「私の叫びが 形になったものです」
少女は静かに告げた。
「千年の間 数え切れない人が 私の叫びの呪詛で死にました。私自身は それを止められませんでした。なぜなら 私は すでに死んでいたからです」
「魔王の正体は 死んだ少女の 未練か」
「ええ」
「では どうすれば」
俺が尋ねかけた瞬間、少女は俺の方に手を伸ばした。
「私の手を 握ってくれませんか」
その言葉に、俺の中で、何かが、はっきりと、定まった。
俺は膝をついた。
少女と目線を合わせた。
そして、彼女の小さな手を、握った。
冷たかった。
死者の手の冷たさだった。
それでも、俺は離さなかった。
「ミレイア」
俺は彼女の本当の名を呼んだ。
「はい」
「お前の話を もっと聞かせてくれ」
リシェルが俺の隣に膝をついた。
彼女もまた、ミレイアのもう一方の手を握った。
「私は あなたの旅を 聞きたいです」
リシェルは静かに告げた。
ミレイアは、目を見開いた。
「私の 旅?」
「七歳までの あなたの 旅です」
「私の旅は 短かったです」
「短くても 旅です」
リシェルの言葉に、ミレイアは少し笑った。
「では お話します」
ミレイアは、彼女の七年間の人生を、ゆっくりと語り始めた。
家畜の世話のこと。お兄ちゃんが教えてくれた歌。お母さんが作ってくれた、麦のパン。お父さんの大きな手のひら。隣の家のおじさんの ひげ。村祭りで踊った夜。
俺は黙って聞いていた。
リシェルも、黙って聞いていた。
ミレイアの話は、ときどき詰まり、ときどき泣いた。それでも、彼女は語り続けた。千年溜まっていた言葉が、ようやく外に出ていた。
中ほどで彼女は、お母さんが死んだ夜のことを語った。
「お母さんは 死ぬ前に 私を抱きしめて 言いました。『ミレイア お前の手を ずっと握っていたかった』と」
俺はその言葉に、息を呑んだ。
「お母さんは 私の手を 握ったまま 死にました。私は 朝までその手を 離しませんでした。離したら お母さんが 本当に死んでしまう気がしたから」
「ああ」
「次の日の夜 お父さんが 私の手を 握ってくれました。お父さんも 一週間後に死にました。死ぬ前に 言ってくれました。『ミレイア お前は 一人じゃない 必ず 誰かが お前の手を握ってくれる』と」
「ああ」
「でも 誰も来ませんでした」
「ああ」
「だから お父さんの言葉は 嘘だったと 私は思いました」
俺は彼女の手を、もう一度、強く握った。
「嘘じゃ なかった」
俺は静かに告げた。
「俺が 来た」
「千年遅れですね」
「遅れた。だが 来た」
ミレイアは、薄く笑った。
「ヤノトオル さんは 優しい」
「優しくない」
「優しいですよ」
俺は何も返さなかった。
リシェルが俺の隣で、頷いていた。
俺たちは、何時間そこに座っていたか、分からなかった。
魔王城の中の時間は、外の時間と違う流れ方をしているようだった。
──
ミレイアが、最後に、言った。
「お父さんが 死ぬ前に 私を抱きしめて 言ってくれました。『誰か来てくれるまで がんばれ』と」
「ああ」
「あなたが 来てくれました」
「遅くなった」
「いいえ」
ミレイアは少し笑った。
「ちょうど 良かったです」
「ちょうど?」
「あなたは あなたのお母さんに 間に合わなかった。私は あなたが間に合う相手だったのです」
俺は息を呑んだ。
ミレイアは続けた。
「あなたが お母さんに『ありがとう』を返せなかったから 私が代わりに あなたに伝えます」
「お前が 伝える?」
「あなたの お母さんから 私に 言葉が届きました」
「届いた」
「死者は 死者同士で 話します。あなたのお母さんは 私に『うちの息子をよろしく』と言いました」
俺は涙が、溢れてきた。
「ありがとう」
ミレイアは、母さんが俺に言いたかった言葉を、口にした。
「『あなたが 介護福祉士になってくれて お母さんは 嬉しかった。最後まで 私のことを 大切にしてくれて ありがとう』」
俺は嗚咽した。
新しい器の若い体から、二十八年分の俺の涙が、また、流れた。
「ミレイア」
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「お前にも 言いたい」
「何を」
「お疲れさまでした」
ミレイアは、目を閉じた。
「ようやく 言ってもらえた」
俺は彼女の手を、握り続けた。
リシェルが、看取りの祈りを唱え始めた。
「あなたの旅は 短かった」
「あなたが背負ったものは 重かった」
「あなたは 一人ではない」
「あなたが歩いた道のすべてに 意味があった」
ミレイアの体が、ゆっくりと、光に変わり始めた。
「ヤノトオル さん」
「ん」
「最後に 一つ」
「何だ」
「世界の呪詛は 私の死で 解けます。魔王軍は 消えます。ただし 消える前に もう一つの仕事があります」
「何だ」
「私の力が 弱くなる前に あなたを 元の世界に 戻します」
「は」
「あなたは ここの人ではありません。あなたの旅は ここではなく 元の世界で 終わるべきです」
「俺は ここに残りたい」
「いいえ」
ミレイアは俺の手を、両手で包んだ。
「あなたは 元の世界に戻って もう一度 介護福祉士として生きてください」
「お母さんは」
「あなたのお母さんに『ありがとう』を返す形は 元の世界の 別の人々に 伝えることです。あなたの介護を 必要としている人が 元の世界には まだ たくさんいます」
俺は息を呑んだ。
「リシェルは」
俺はリシェルの方を見た。
リシェルは、静かに微笑んでいた。
「ヤノトオルさん」
「ああ」
「私は ここに残ります。私の役目は この世界で 看取りを続けることです」
「お前は」
「あなたの世界には行けません。私はこの世界の人間です」
「リシェル」
「あなたが 元の世界で 看取りを続けるなら 私の祈りは あなたの隣に 届きます」
俺は彼女の言葉に、もう一度、涙した。
ミレイアの体が、ほぼ光に変わった。
「ヤノトオルさん 行ってください」
「ミレイア」
「あなたのお母さんに 私から伝言があります」
「何だ」
「『あなたの息子は 立派な介護福祉士です。最後まで立ち続けて 私を看取ってくれました』」
俺はその言葉に、深く頷いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ミレイアは光になった。
光が俺を包み始めた。
俺はリシェルの方を見た。
「リシェル」
「はい」
「ガレンに 伝えてくれ」
「何を」
「妻と子の代わりに 別の誰かを救うという選択は 正しかったと」
「伝えます」
「お前にも」
「はい」
「ありがとう」
リシェルは深く礼をした。
「あなたが 戻れて 本当に良かった」
「お前は 強い」
「あなたも」
光が、俺を完全に包んだ。
俺はミレイアの手の感触を、最後まで、忘れなかった。
リシェルの祈りの声を、最後まで、覚えていた。
そして、世界が、白くなった。




