第二十二章 看取りの儀式
「矢野さん 矢野さん 聞こえますか」
声が聞こえた。
知らない声ではなかった。
懐かしい声だった。
「目を開けてください 矢野さん」
俺はゆっくりと目を開けた。
白い天井。蛍光灯。消毒液の匂い。
病院だった。
俺は病院のベッドに、横になっていた。
枕元に、白衣を着た看護師が立っていた。彼女が俺の名を呼んでいた。
「気がついたんですね 良かった」
看護師は微笑んだ。
俺は身体を動かそうとした。
動いた。動いたが、感覚が違った。
俺は新しい器の体ではなかった。
二十八歳の、矢野透の体だった。
母さんを看取れなかった、介護福祉士の、俺の体だった。
胸に小さな違和感があった。
俺はシャツの胸を確認した。
何もなかった。リシェルの印章も、ガレンの短剣も、ない。当たり前だった。それらは、向こうの世界に、置いてきた物だった。
それでも、胸の中の何かが、軽くなった気がした。
「矢野さん 三週間 昏睡されていたんですよ」
看護師が言った。
「三週間」
「バスの事故 覚えていますか」
「覚えている」
「奇跡でしたよ。同乗されていた倉橋さんは亡くなられたんですが あなたは 助かった」
「倉橋」
俺はその名を、口の中で転がした。
倉橋はこちらの世界では、死んだ。
向こうの世界では、フェルガンドの宰相になった。
二人の倉橋は別々に、それぞれの結末を迎えていた。
俺は向こうの世界の倉橋のことを、思い出した。
最後に彼が「『すまなかった』と」と呟いたあの瞬間。
俺はそれを、こちらの世界の倉橋にも、届けたかった。
だが彼はもう、いなかった。
俺は心の中で、彼にも「お疲れさまでした」と告げた。
それで、十分かどうかは、分からなかった。
ただそれしか、俺にできることはなかった。
「矢野さん 病院食を 持ってきますね」
看護師は言った。
「ありがとう」
俺はそう答えた。
「ありがとう」と、自然に、言えた。
それが、あちらの世界で、俺が学んだことだった。
──
退院までは、二週間かかった。
筋力が落ちていた。介護現場の生活に戻るには、リハビリが必要だった。リハビリは、俺がいつも他人にしてきた作業を、自分で受ける作業だった。
リハビリの最中、俺は何度も、あちらの世界のことを思い出した。
ガレン。リシェル。ファラ。エミリア。ミレイア。
あれは夢だったのか、本当のことだったのか。
医者は、俺の昏睡中の脳波が「奇妙に活発だった」と言った。「何か長い夢を見ていたかもしれませんね」と。
夢か。
確かに、夢かもしれなかった。
しかし夢だったとしてもあれは俺を変えた。
俺の心の中で、母さんに届かなかった「ありがとう」がようやく形を持っていた。
ミレイアが伝えてくれた、母さんの言葉。
「あなたが 介護福祉士になってくれて お母さんは 嬉しかった。最後まで 私のことを 大切にしてくれて ありがとう」
それが、夢の中の言葉だったとしても俺はそれを、母さんからの本当の言葉として、受け取った。
入院中、俺は同室の患者たちと、少しずつ話すようになった。
隣のベッドの老人。脳梗塞のリハビリ中だった。彼は俺と話すようになって、最初は無口だったが、次第に自分の人生を語り始めた。若い頃の戦争の経験。妻との出会い。子どもの誕生。妻が三年前に死んだこと。
俺は黙って聞いていた。
ときどき、頷いた。
ときどき、「お疲れさまでしたね」と言った。
老人は、少し笑って、また話を続けた。
退院の日、老人は俺に言った。
「あんた 介護の仕事 してるんだってね」
「ええ」
「いい人だ」
「ありがとうございます」
「俺の妻が 最後 入っていた施設にも あんたみたいな人がいてくれたら 良かったんだが」
俺は深く頷いた。
「これから 俺は そういう人で あろうと思っています」
「そうしてくれ」
老人は俺の手を握った。
その手の冷たさは、向こうの世界でミレイアの手を握った冷たさと、似ていた。
俺は離さなかった。
しばらくそうしていた。
それが、俺の退院の日の、最後の風景だった。
──
退院した日俺はまず母さんの墓に向かった。
東京の郊外の小さな墓地。母さんの墓は父さんの隣にあった。
俺は花を供えて、墓前にしゃがみ込んだ。
「母さん 帰ったよ」
俺はそう呟いた。
「三年 ぶりに ここに来た」
風が墓地の木々を揺らした。
「母さん 俺 介護の仕事 続けるよ」
「もう 機械みたいには 働かない」
「ちゃんと 利用者の手を 握るよ」
「申し送りも 丁寧にするよ」
「母さんが 看護師さんに『ありがとう』って言いたかった気持ちを 俺は 別の人に 返していくよ」
「だから 母さんも 安心して」
「俺 大丈夫だから」
俺は墓石に手を当てた。
冷たかった。
ミレイアの手と、似た温度だった。
それでも、俺は離さなかった。
しばらくそうしていた。
風がもう一度木々を揺らした。
その風の中に、俺は母さんの「ありがとう」を、聞いた気がした。
たぶん俺の思い込みだった。
それでも、俺はそれを受け取った。
帰り道俺は墓地の入口で、別の家族と擦れ違った。中年の女性と高校生らしき娘。母親の墓参りらしかった。
二人は涙を堪えていた。誰かを最近失ったばかりの顔だった。
俺は何も言わずに、軽く会釈をした。
二人も会釈を返した。
俺はそのまますれ違った。
数歩進んでから、俺は振り返った。
「あの」
中年の女性が驚いた顔をした。
「お疲れさまでした」
俺はそれだけ言って、また歩き出した。
背後で、二人の女性が、しばらく立ち尽くしているのが、気配で分かった。
その「お疲れさまでした」が、彼女たちにとって何を意味したか、俺には分からなかった。
ただ俺がリシェルから受け取った言葉を今度は俺が、別の誰かに、渡した。
それで、十分だった。
──
職場に復帰した日、俺は朝七時に「ひだまり苑」に到着した。
更衣室で白衣に着替えた。三週間ぶりの白衣は、ぴったりと体に合った。
二階のフロアに上がった。
夜勤明けのスタッフが申し送りの準備をしていた。
その中に、沢田がいた。
沢田は俺の姿を見て、目を丸くした。
「矢野」
「沢田」
「お前 復帰か」
「ああ」
沢田は俺の方に歩いてきた。
「無事で 良かった」
「ああ」
「葬式 行ったのは知ってるよな」
「倉橋さんの」
「ああ」
俺は深く頷いた。
「沢田 お前に 言いたいことがある」
「何だ」
「お前が 前に言ってくれた『最後の証人』の話 覚えてるか」
「覚えてる」
「あの言葉 ずっと 心に残ってた」
「青臭いこと言うな って お前 否定したじゃないか」
「否定した。だが 心に残っていた」
沢田は少し笑った。
「そうか」
「ありがとう」
「は」
「あの言葉を 言ってくれて」
沢田は驚いた顔をした。それから深く頷いた。
「どういたしまして」
その「どういたしまして」を、俺は深く受け取った。
沢田もまた、俺と同じ介護現場で、十年以上働いてきた仲間だった。彼の言葉は、彼自身の人生の中で 鍛えられた言葉だった。それを俺はこれまで「青臭い」と切り捨てていた。
切り捨てた俺が、今、それを受け取り直した。
それを受け取り直すことで、沢田もまた、何か救われた表情をしていた。
──
申し送りの時間、俺は新人の若林の前で、自分から手を上げた。
「俺から 一言いいですか」
班のスタッフが俺を見た。
「みんな この三ヶ月 俺の代わりに班を回してくれて ありがとう」
何人かが、息を呑んだ。
俺の口から「ありがとう」が出るのはこの施設では 珍しいことだった。
「特に 若林さん」
俺は彼女の名を呼んだ。
「は はい」
「お前 辞めずに 続けてくれて ありがとう」
若林の目が、潤んだ。
「これから 班を立て直す。若林さん 一緒に頑張ろう」
「はい」
俺はそれだけ言って、頭を下げた。
スタッフたちが、何か拍手のようなものを始めた。誰かが小さく手を叩き、それが班全体に広がった。
俺はその拍手を長い間、受けていた。
それは俺がこの施設で初めて受けた拍手だった。
たぶん誰かがその時、思ったかもしれない。「矢野さんが 死にかけて 帰ってきて 別人になったみたい」と。
その通りだった。
俺は別人になっていた。
ただし夢だったか現実だったかは、関係なかった。
俺は変わった。
その日、俺は田中フミ子さんの部屋に向かった。
フミ子さんは、相変わらずベッドに座っていた。
俺の姿を見て、彼女はまた、手を伸ばした。
「お母さん」
「フミ子さん」
俺は彼女の手を引かなかった。
俺は彼女の手を握り返した。
両手で。
「お母さん おうちに帰ろう」
フミ子さんが言った。
俺は答えた。
「うん 帰ろう」
夢の中で俺がようやく言えた言葉。
それを、現実でも、今、言えた。
フミ子さんは、笑った。
笑顔で目を閉じた。
俺は彼女の手をしばらく握っていた。
その時間は、現場の業務時間としては「無駄」かもしれなかった。元の倉橋なら、その時間を「他の利用者の対応に振り分けろ」と俺に告げただろう。新しい俺はそれでもこの時間を惜しまなかった。
向こうの世界で学んだことは、明確だった。
時間を無駄にするのではない。
時間を本当の意味で 使うのだ。
新人の若林が俺の様子を見ていた。
彼女はまだ、施設にいた。辞めていなかった。半年経って、まだ続けていた。
俺は若林に声をかけた。
「若林」
「は はい」
「向いていない とか 言うな」
「は」
「お前は 向いている」
若林は驚いた顔をした。
「俺が前に お前に冷たく当たったこと 謝る」
「あの」
「すまなかった」
俺は深く頭を下げた。
「これからは 一緒に やっていこう」
若林の目に涙が浮かんだ。
「はい」
それが、俺の本当の意味での、復帰の朝だった。
その日の夕方俺は施設の屋上に上がった。
屋上には誰もいなかった。冬の風が冷たかったが、俺はその冷たさを、心地良く感じた。
俺は東京の空を、しばらく見上げていた。
雲が薄く広がっていた。月はまだ昇っていなかった。
向こうの世界では、二つの月だった。こちらの世界では、月は一つ。
それでも、俺の中の「向こうの世界」は、まだ消えていなかった。
ガレン。リシェル。ファラ。ミレイア。エミリア。
彼らの顔は、夢の登場人物にしては、鮮明すぎた。彼らの言葉は、夢の言葉にしては、重すぎた。
夢か、現実か。
それはもう、どちらでもよかった。
俺の中で、彼らは生き続けていた。
それが、俺にとっての、真実だった。
俺は屋上の手すりに手を当てた。
冷たかった。
その冷たさは、ミレイアの手の冷たさと、似ていた。
俺は心の中で、彼女に向かって、囁いた。
──ミレイア お疲れさまでした。
風が屋上を吹き抜けた。
返事はなかった。
それでも、俺は確かに、何かを受け取った気がした。
それから階段を降りて、俺は更衣室で白衣を脱いだ。
家に帰る前にもう一つ行くべき場所があった。
俺は施設を出て、駅の方に歩いた。雪が降り始めていた。アパートに着いたら母さんの遺品の段ボール箱を開けるつもりだった。
電車の中で、俺はずっと、向こうの世界の旅を、頭の中で反芻していた。
森で目覚めた朝。リシェルとの最初の出会い。冒険者ギルドでの登録。ガレンとファラとの初対面。北部街道での戦闘。山岳神殿での自己直視。砂漠でのファラの最期。倉橋との対峙。歎きの荒野の亡霊たち。ミレイアの千年の孤独。
その全てが、夢にしては、よく出来すぎていた。
だがそれを「現実だった」と主張する根拠も、俺にはなかった。
たぶん俺の脳が作り出した物語。
しかし俺の脳が、なぜ、そんな物語を、必要としたのか。
たぶん俺の魂が、それを、必要としていた。
母さんを看取れなかった俺の魂は、向こうの世界で、千年待っていた少女を看取ることで、自分自身の救済を、得ようとしていた。
それが、俺の脳が作り出した物語の、本当の意味だった。
電車を降りて、アパートまでの道を、俺は歩いた。
雪が頬に落ちては、溶けた。
向こうの世界では、二つの月の下で、同じように雪が降っていた。
それを思い出すたびに、俺の中の、向こうの世界は、まだ生き続けた。




