第十九章 倉橋の私室
「主任 か」
倉橋は薄く笑った。
「ここでは 宰相と呼ばれている」
「日本の癖が 抜けません」
「俺もだ。だが 直すべきだぞ。ここではお前の世界の常識は通用しない」
「あなたの世界でも まだ俺は 介護福祉士の癖が抜けません」
倉橋の表情が、わずかに動いた。
エルラートは部屋の隅に下がった。彼は会話に立ち会うが、口は出さない様子だった。
倉橋は俺に向かいの椅子を勧めた。
「座れ 矢野」
俺は座った。
部屋は思ったより簡素だった。豪奢な調度品はなかった。書類と地図と書物が積み上がっていた。介護福祉士時代に、彼が事務室で仕事をしていた机を、思い出させる雰囲気だった。
「お前の若い顔を見るのは 妙な気分だ」
倉橋が言った。
「あなたの方は 見た目はそのままなのに 顔つきが変わりました」
「そうか」
「目が 細くない」
倉橋は瞬きをした。
「俺は 目が細い男だったか」
「日本では そう見えていました」
倉橋は少し笑った。
「ここでは 私は『鋭い目の宰相』と呼ばれている。目が細いとは 誰も言わない」
「視覚の違いですね」
「視覚の違い だ」
二人は、しばらく黙った。
倉橋が口を開いた。
「単刀直入に聞く。なぜ来た」
「分かりません」
「分からないで 死地に来たのか」
「来たかったから 来ました」
倉橋は俺をしばらく見つめた。
「お前は 変わったな」
「あなたも です」
「俺は 変わってない」
「変わっています」
「どこが」
「日本では あなたは 自分の冷たさに 罪悪感を持っていた。バスの中で『人を 効率的に処理するっていうのは 間違いなんですかね』と私に聞きましたよね」
倉橋の表情が、わずかに硬くなった。
「覚えていますか」
「覚えている」
「あの時 あなたは 揺れていました。今のあなたは 揺れていません」
「揺れる必要がない場所に 来たからだ」
「揺れる必要が ない?」
「ここでは 私の論理が 国を強くしている。結果が出ている。揺れる必要はない」
俺は深く息を吸った。
「倉橋さん 一つ 聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは 元の世界で 何人の人間を看取りましたか」
その問いに、倉橋は答えなかった。
長い沈黙があった。
「俺は」
倉橋はゆっくりと言った。
「介護福祉士として 特養の主任として 通算で たぶん百人以上を 看取った」
「百人以上」
「ああ」
「その中で 一人でも 手を握った相手はいましたか」
倉橋の顔が、明らかに、変わった。
「お前は」
「私は 母を看取れませんでした。だからずっと 誰の手も 握れませんでした」
「俺は知っていた」
倉橋は静かに言った。
「お前のお母さんが死んだとき 俺は施設まで行った。お前を呼ぶ電話を入れたのも 俺だった」
俺は息を呑んだ。
「電話は 老健の職員から」
「最初は職員から。だが お前のタクシーが渋滞して間に合わないと聞いたとき 俺がもう一度 電話した。『早く来い 急変だ』と。お前を急かした」
「あなたが」
「ああ」
俺はその事実を、ここで初めて知った。
「倉橋さん 私を 急かしたのですか」
「急かした。だが 結果として お前は間に合わなかった。俺は その後の三年間 お前の様子を見ていた。お前が機械のようになっていくのを 見ていた」
「主任は それを 私のせいだと」
「お前のせいではない。お前のお母さんが 死期を選んだ。だが お前は 自分のせいだと思い込んだ」
倉橋は深く息を吐いた。
「俺もまた お前と同じ場所に いたのだ」
「同じ場所?」
「俺の妻も 認知症で死んだ。十五年前に。俺は 看取れなかった。仕事中だった」
俺はその告白に、絶句した。
「そんな 話は」
「したことはなかったな。職場で言うことではないからな」
倉橋は静かに続けた。
「俺はそれ以来 介護現場で 距離を保つことにした。手を握らない。心を込めない。それが 私の生存戦略だった」
「私と同じだ」
「だから 俺はお前を 別の班に変えなかった。お前の冷たさを 理解できる人間が お前の上にいた方がいいと思った」
俺は、目眩を覚えた。
倉橋は、俺を理解する側の人間だった。冷たい上司ではなかった。俺と同じ場所から始まった人間だった。
「倉橋さん あなたは」
「俺は ここで 別の選択をした」
倉橋の声が、低くなった。
「日本で 俺は冷たさに 罪悪感を持っていた。揺れていた。だが この世界に来て 揺れない自分を 完成させようとした。冷たさを 罪悪感ではなく 武器に変えた」
「なぜ」
「妻を看取れなかった俺が 妻に届く言葉を持たないなら せめて 冷たさを正当化したかった」
俺は、その告白に、何も返せなかった。
倉橋は俺と同じ場所から出発して、逆方向に走り抜けた人間だった。
「倉橋さん」
「ん」
「あなたは 揺れていない」
「ああ」
「それは 強さなのか」
「強さだと 信じている」
「私は 揺れています」
「お前は 弱い」
「弱いです」
「だが お前は ここまで来た。俺の前まで」
倉橋は俺の目を見た。
「お前の弱さは 俺の強さに 勝てないが お前を ここまで連れてきた」
「ええ」
「それは 興味深いことだ」
倉橋は手を組んだ。
「矢野 お前は 俺に 何を言いに来た」
「分かりません」
「分からないで来たのか」
「分からないが 一つだけ 確認したいことが」
「何だ」
俺は深く息を吸った。
「あなたは 体調が悪い」
倉橋の手が、わずかに震えた。
エルラートが部屋の隅で、息を呑む音が聞こえた。
「誰から聞いた」
「重要じゃない。本当ですか」
倉橋は答えなかった。
長い沈黙の後、彼はゆっくりと頷いた。
「ああ」
「いつから」
「半年前から」
「症状は」
「夜中に 日本語で うわごとを言うらしい。何を言っているのかは 自分では覚えていない」
「夢の中身は」
倉橋は目を閉じた。
「妻を 抱きしめている夢だ。間に合わなかった日の あの 静かな部屋で」
俺は彼の言葉を、深く呑み込んだ。
「倉橋さん」
「ん」
「あなたは 揺れていますね」
「揺れていない」
「揺れています」
「黙れ」
「揺れていなければ うわごとは出ない」
倉橋は俺を睨んだ。
その目には、初めて、感情が浮かんでいた。
怒りとも悲しみともつかない、何か。
──
その瞬間、部屋の扉が開いた。
エルラートではない。彼は隅に立っていた。
入ってきたのは、若い男だった。
革の鎧。腰に長剣。鋭い目。
俺の顔を見て、彼は短く呟いた。
「ヤノトオル」
「お前は」
「同じ世界から来た 元医師だ」
俺は息を呑んだ。
倉橋が呼んだ「召喚された者」の一人。
「閣下 私は反対だ」
医師は倉橋に向かって言った。
「この男を生かして帰せば 帝国の機密は崩壊する」
「私が決める」
倉橋は静かに答えた。
「閣下 お体の状態がよろしくない。この男との対話は 閣下の魂を更に揺らす。今すぐ排除すべきだ」
「黙れ」
倉橋は声を低くした。
「お前は ここで 何をしているのか分かっているのか」
医師は俺を指差した。
「私は閣下の魂を守っている。あなたの『揺れない論理』を守っている。それを揺らす者は すぐに排除しなければならない」
倉橋は深く息を吐いた。
それから、医師に向かって言った。
「下がれ」
「閣下」
「下がれ と言った」
医師は不満げな表情を見せたが、礼をして部屋を出た。
部屋には、また俺と倉橋とエルラートだけが残った。
倉橋は俺を見た。
「矢野」
「ええ」
「お前は 俺を揺らしに来たのか」
「揺らしに来たのではありません」
「では」
「あなたを 看取りに来ました」
その言葉は、自分でも、口から出るまで分からなかった。
倉橋の表情が、凍った。
「看取り?」
「あなたは 死にかけている」
「俺は 死んでいない」
「魂が 死にかけている」
倉橋は黙った。
長い沈黙の中で、彼の目が、わずかに揺れた。
「矢野 お前は」
「私は あなたと同じ場所から始まりました。あなたの選んだ道とは 別の道を歩いてきました。それでも あなたを倒したくはない」
「では どうする」
「あなたが あなた自身に戻るのを 助けたい」
倉橋は俺をしばらく見つめた。
それから、低く笑った。
「お前は 馬鹿だな」
「ええ」
「敵に向かって 看取りを申し出る馬鹿が どこにいる」
「ここに います」
倉橋は薄く笑った。
その笑いは、初めて、彼の人間らしい笑いだった。
「矢野 お前は 帰っていい」
「は」
「今日のところは 帰れ。お前を殺せば あの医師の言う通り 私の魂は更に揺れる。それは避けたい」
「それで」
「次に会う時 私はお前を 殺す」
倉橋は静かに言った。
「だから もう 来るな」
俺は立ち上がった。
「倉橋さん 一つだけ お伝えします」
「何だ」
「あなたが 元の世界で 看取れなかった奥さんに 何を言いたかったか」
倉橋は俺を見た。
「私は 母さんに『ありがとう』と言いたかった」
「ありがとう」
「あなたは 何を 言いたかった」
倉橋は長い間、答えなかった。
それから、低い声で言った。
「『すまなかった』と」
俺は深く頷いた。
「私は それを 受け取りました」
「は」
「あなたが 奥さんに『すまなかった』と言いたかったこと。私が今 それを聞いた。あなたの言葉は 私の中で 一度 止まりました」
倉橋は俺をじっと見つめた。
その目に、再び、何かが浮かんだ。
俺はそれ以上、何も言わずに、部屋を出た。
エルラートが俺を城門まで送った。
城門で、彼は俺にガレンの短剣を返した。
「ヤノトオル殿」
「ええ」
「閣下と あんな会話をする者は 帝国に来てから 初めてです」
「そうですか」
「閣下が 揺れたのは 私が見る限り 初めてです」
「そうですか」
エルラートは深く礼をした。
「お気をつけて」
俺は城門を出た。
雪が、また降り始めていた。
街の中央広場で、俺は深く息を吐いた。
倉橋を救えるかどうかは、分からなかった。
ただ、彼の「すまなかった」を、俺は受け取った。
それは、母さんに届かなかった「ありがとう」を、別の形で受け取ったのと、似ていた。
俺は宿に戻る道を、ゆっくりと歩いた。
雪が、頬に落ちては、溶けていった。
宿に着いてすぐ、俺は宿の主人に挨拶をして、部屋に上がった。窓を開けると、街の中央広場の喧騒が、遠く聞こえた。広場では、帝国の旗が依然として翻っていた。
俺はベッドに座って、深く息を吐いた。
倉橋の表情を、何度も思い返した。
最後に彼が「『すまなかった』と」と呟いた瞬間。
その瞬間、彼の目には、確かに、揺れがあった。
俺はそれを、確かに見た。
しかし、揺れは揺れだ。揺れただけで、彼は変わらない。彼は明日もまた、宰相として、無数の人を「処理」する。エルラートが伝えてくれた発作も、彼の魂の状態を悪化させてはいるが、彼の論理を変えてはいない。
俺は何かを、変えたかった。
何を、どう変えるかは、まだ見えなかった。
ただ、彼に「すまなかった」を 元の世界の彼の妻に伝える形を、与えられないか。
そんな漠然とした願いが、頭をよぎった。
──
翌朝、俺は宿を出てアルデリア側の境界の村に向かった。
そこにはガレンが待っていた。
俺の姿を見て、ガレンは何も言わずに、深く頷いた。
「無事 だったか」
「無事だった」
「会談は」
「終わった」
ガレンはそれ以上、聞かなかった。
俺たちはアルデリア王都への帰路を、共に歩いた。
道中、俺は倉橋との会話の概要を、ガレンに伝えた。
ガレンは黙って聞いていた。
すべてを聞き終わった後、彼は静かに言った。
「お前は あの男を倒すつもりではなく 看取るつもりで会いに行った」
「ああ」
「それが お前の選択か」
「ああ」
「俺には 理解できない選択だ。だが お前の選択を尊重する」
「ガレン」
「ん」
「お前は 妻と子の仇を討ちたかったのではないか」
「討ちたかった」
ガレンは少し笑った。
「だが お前と旅をしているうちに 俺の中で 何かが 変わった気がする。仇を討つのではなく 妻と子の代わりに 別の誰かを救う方が 俺の魂の重さに合うかもしれん と」
「そうか」
「それも まだ確信ではない。だが お前を見ていて そう思い始めた」
俺は深く頷いた。
雪が、また 降り始めていた。
二人の足跡が、雪の上に、ゆっくりと積もっていった。




