第十八章 国境の都市
アヴリオンは奇妙な街だった。
アルデリア王国とフェルガンド帝国の国境に位置する自由都市。両国の商人と兵士と密偵が混ざり合い、半ば中立を保ってきた都市。だがここ数年は帝国の影響力が強まり、街の様相は急速に帝国寄りになっていた。
街の中央広場には、フェルガンド帝国の旗が翻っていた。アルデリア王国の旗は、街の一部にしか見られなかった。
街の建築様式も帝国風に変わりつつあった。低層の石造の建物に、帝国独特の三角屋根が新築で増えていた。古いアルデリア風の塔は、いくつかが取り壊された痕があった。文化が静かに浸食されていた。
街の人々の表情も、独特だった。
彼らは静かだった。市場の声は控えめだった。子どもたちの遊ぶ声も小さかった。誰かに聞かれることを恐れているような静けさが、街全体を覆っていた。
俺は王宮の馬車から降りた。
護衛の二十名は、街の手前の村で待機している。ここから先は俺一人だった。
馬車を降りる時、護衛長が俺に最後の言葉をかけた。
「ヤノトオル殿。緊急脱出の信号弾は 胸の隠しに入れてあります。発射すれば一時間以内に救援が来ます」
「ありがとう」
「ただし 帝国側に発見されれば 即座に処分対象です」
「分かっています」
護衛長は深く礼をした。
俺は街の中に、一人で歩み入った。
街中を歩いていると、何度か視線を感じた。
明らかに俺を尾行している人影が、複数あった。帝国の密偵か。あるいは別の組織か。区別はつかなかったが、彼らは俺がアヴリオンに到着した瞬間から、俺を監視していた。
俺はそれを知った上で、宿に向かった。
抵抗しても意味がなかった。むしろ、隠れず、堂々と歩く方が、相手に「この男は何かを企んでいない」と思わせる効果があった。介護現場で利用者の家族の不信を解くときと、似た理屈だった。
宿は事前に手配されていた。「白鳥亭」という古い宿屋。一階が酒場、二階が宿。俺はそこにチェックインした。
宿は事前に手配されていた。「白鳥亭」という古い宿屋。一階が酒場、二階が宿。俺はそこにチェックインした。
宿の主人が俺の身分を確認した。
「アルデリア王国の使者ですね。お部屋は二階奥の特別室です」
「ありがとう」
「明日の正午 お迎えが参ります」
「分かった」
俺は二階の部屋に上がった。
特別室は広かった。窓から街並みが見えた。雪が薄く積もっていた。冬は深まりつつあった。
俺はベッドに座って、明日の段取りを頭の中で整理した。
倉橋に会う。
俺は彼に何を言うのか。
「お久しぶりです」と。
「あなたのやっていることは間違っている」と。
「故郷に帰りませんか」と。
どれも、いまいち、しっくりこなかった。
俺は荷物の中から、リシェルの印章を取り出した。
胸元にかけた。冷たい金属が、シャツ越しに胸に触れた。
「立ち続けることだけが 強さではない」
リシェルの言葉をもう一度、唱えた。
──
夜になった。
俺は宿の食堂で簡素な食事を取った。エールではなく、温かい果実酒を頼んだ。倉橋との面会に向けて、頭は冷やしておきたかった。
食堂の隅で、こちらをちらちら見ている男がいた。
革のローブの中年男。武器は見えなかったが、態度から武人だと分かった。
俺はそ知らぬふりをして食事を続けた。
男はやがて、俺のテーブルに来た。
「相席 よろしいか」
「ご自由に」
男は俺の向かいに座った。エールを頼んで、一口飲んだ。
「ヤノトオル殿 ですな」
「お前は」
「私は エルラート。フェルガンド帝国 宰相直属の補佐官だ」
俺は静かに頷いた。
「明日の段取りの確認に来た」
「うかがいます」
「明日の正午 宰相閣下が城門で あなたを迎える。会談は閣下の私室で行われる。所要時間は 約二時間」
「武器の所持は」
「全面的に禁止する。城門で全て預けてもらう」
「分かりました」
エルラートはエールをもう一口飲んだ。
「ヤノトオル殿。一つ 個人的なことを聞いてもよろしいか」
「どうぞ」
「あなたは なぜ こんな危険を冒して来られた」
俺は男の目を見た。
エルラートの目には、純粋な好奇心があった。彼は帝国の人間だが、たぶん倉橋の系統ではなかった。古い帝国の貴族の末裔。倉橋の改革に巻き込まれて補佐官になった人物。そんな印象を受けた。
「個人的な理由です」
「個人的な?」
「宰相と私は 同じ世界の出身です」
エルラートは目を見開いた。
「あの方の出身は 誰も知らないと聞いていました」
「私たちの世界では 同じ職場で働いていました」
「同じ職場」
「老人を支える仕事です」
エルラートは、しばらく俺の言葉を消化していた。
それから、低い声で言った。
「ヤノトオル殿 一つ お伝えしておきます」
「何でしょう」
「閣下は最近 体調がおかしい」
「体調?」
「奇妙な発作を起こされる。普通の人間にはない発作だ。私は 仕えて長いが この一年で急速に進行している」
俺は背筋を伸ばした。
「具体的には」
「夜中に 自室で うわごとを言われる。日本語 のような言葉らしいのです」
──日本語。
「医師は何と」
「分からないと。閣下は 普段は鋭くて冷静な方だが この発作のときだけは 別人になる」
「いつから」
「半年前から。最初は月に一度だったのが 今では週に数回」
俺はエルラートの目を見た。
「教えてくれてありがとう」
「いや 私の独断で申し上げました。明日の会談で 何かの参考になればと」
エルラートは席を立った。
「では 明日の正午」
「ええ」
エルラートは食堂を出ていった。
俺は果実酒の残りを、ゆっくりと飲んだ。
倉橋の体調がおかしい。
それは、何を意味するのか。
魂が、新しい器に馴染みきっていない。あるいは、新しい器そのものが、彼の魂を拒絶し始めている。あるいは、別の何か。
俺は、自分の体を確かめた。
新しい器に来てから、もう一年近く。俺自身は、ほとんど発作を経験していない。なぜか。
──たぶん俺はこの世界に 受け入れられている。
そんな仮説が、頭をよぎった。
リシェルがいた。ガレンがいた。ファラがいた。エミリアがいた。集落の老人たちがいた。彼らは俺を「ヤノトオル」として受け入れた。だから俺の魂は、新しい器に馴染んだ。
倉橋には、誰がいたのか。
部下はいた。皇帝もいた。だが、倉橋を「クラハシ・テツヤ」として、人として受け入れた人間は、いただろうか。
たぶんいない。
倉橋は、自分の論理で人を「資源」に変えた。資源は、彼を人として受け入れない。
倉橋は、孤独だった。
その孤独が、彼の体に、出始めている。
俺は果実酒を飲み干した。
明日、俺は倉橋に会う。
会って、何を言うか、まだ決まっていなかった。
だが、何を聞くべきか、それは決まった気がした。
俺はベッドに横になった。
天井を見上げながら、頭の中で、倉橋への質問を整理した。
「あなたは 何人を看取りましたか」
「あなたは 元の世界で 揺れていましたよね」
「あなたが今 持っているものは 本当に欲しかったものですか」
それらの質問は、彼を倒すための質問ではなかった。彼を看取るための質問だった。
俺は介護現場で 終末期の利用者によく聞いた質問。
「人生で 一番嬉しかったことは」
「家族に 言いたかったことは」
「次の世代に 残したいことは」
それらと、本質的には同じ質問だった。
倉橋を「終末期の利用者」として見る視点は、俺にとって、奇妙な発見だった。
彼は今、肉体的には四十代の壮年だったが、魂の状態は終末期に近かった。エルラートの言葉が、それを示していた。
俺は介護福祉士として、彼を見ることにした。敵としてではなく、看取りの対象として。
その視点を持った瞬間、俺は、明日の会談の準備が、初めて、整った気がした。
俺は目を閉じた。
夢の中でファラが俺の隣に立っていた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、笑っていた。
その笑顔が、俺を励ましていた。
──
夜が明けた。
雪が止んでいた。
俺は朝食を取って、装備を整えた。装備と言っても、武器は持って行かない。普段着の上に軽い外套だけ。
朝の食堂で、宿の主人が俺に温かいスープを出してくれた。
「アルデリアの方ですね」
主人は静かに言った。
「分かりますか」
「私の母が アルデリアの出身でして」
「そうですか」
「閣下に 何のご用件で」
主人の声は、低かった。誰にも聞かれないように、慎重に喋っていた。
「個人的な 用件です」
「そうですか」
「主人 一つ 聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「アヴリオンの人々は 帝国に支配されて どう暮らしていますか」
主人はしばらく黙った。
それから、低く言った。
「不安です」
「具体的には」
「徴税が 上がりました。徴兵も 増えました。私の息子が 二人 帝国軍に取られました」
「お元気ですか」
「次男は 死にました。先月」
俺は息を呑んだ。
「すまない」
「あなたが謝ることではありません。ただ お話しできて 少し気が楽になりました」
主人は朝食の皿を片付けた。
俺はテーブルの上に銀貨を二枚多く置いた。
「次男さんの 弔いに使ってください」
主人は俺を見て、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その「ありがとう」を、俺は受け取った。
倉橋の論理が、こういう人々を「処理」していた。
俺は、それを忘れずに、彼に会いに行く。
宿を出る直前、俺は宿の主人に手紙を渡した。
「もし 私が三日経っても戻らなかったら これをアルデリア王国の使者に渡してくれ」
「分かりました」
手紙の中身は、ガレンとリシェルとエミリアへの感謝の言葉だった。それと、もし帰れなかった場合のお願い。ファラの遺骨を、彼女の故郷の森に撒いてほしいこと。
俺は宿を出た。
街の中央広場を抜けて、帝国側の城門に向かった。
城門の前にエルラートが待っていた。
「ヤノトオル殿」
「お待たせしました」
「武器は」
俺は懐から、ガレンの短剣を取り出して、エルラートに渡した。
「これは 思い入れのあるものですか」
「友人の妻の形見だ。返してほしい」
「分かりました。お返しします 必ず」
「リシェルの印章は どうしますか」
「印章は」
エルラートは少し考えてから言った。
「シスターの聖印章は 武器ではないので 持って入っても構いません。閣下も信仰の道具に手は出されないと思います」
「ありがとう」
俺は印章を胸に戻した。
エルラートは城門の重い扉を開けた。
中には、長い廊下が続いていた。
廊下の両側には甲冑姿の衛兵が並んでいた。彼らは俺を一瞥もしなかったが、俺の動きは隅々まで見ていた。介護現場で利用者の家族の不審な動きを察知する目つき、それに似ていた。
廊下の奥に、玉座のような椅子があった。
そして、その椅子に、痩せた男が座っていた。
倉橋哲也。
四十二歳。元の俺の上司。今は、フェルガンド帝国の宰相。
帝国の正装は黒地に金の刺繍で、彼の痩せた体に巻きついていた。元の世界で見ていた介護福祉士の白衣とは、何もかも違う服だった。
それでも、俺は彼を、瞬時に「倉橋」と認識した。
人間の輪郭は、服装で変わらない。
彼は俺を見て、薄く笑った。
「久しぶりだな 矢野」
その声は、雪の朝のバスで聞いた声と、ほぼ同じだった。
少しだけ低くなっていた。少しだけ枯れていた。
それでも、俺はその声を忘れていなかった。
俺はリシェルの印章を、無意識に胸元で押さえた。
「お久しぶりです 倉橋主任」
俺はそう、呼びかけた。
「主任」と呼んだのは、意図があった。
ここでの彼の地位は宰相だが、俺はあくまで介護福祉士として、彼に向き合うつもりだった。




