第十七章 決意
王都に戻った夜、エミリア王女との謁見は予定外に許可された。
俺たちが帰還したという報告を聞いた王女は、その日の夜のうちに私的な応接間で俺たちを迎えた。
応接間の暖炉では薪が音を立てて燃えていた。窓の外では雪が降り始めていた。砂漠から戻った俺の体には、その寒さが染みた。
王宮に到着したとき、俺は最初に侍従を呼んで、ファラの遺骨の半分をリシェルに預けることを公式に頼んだ。残り半分は、俺自身が持って魔王城に向かう。それが、彼女との約束を、形にする俺なりの方法だった。約束は果たしきれなくても、約束を抱えたまま進むことは、できる。それを、ファラの死後に俺は学んだ。
王宮の廊下を歩いている時に、すれ違った侍女たちが俺の姿に目を留めた。彼女たちはひそひそと囁いていた。「灰の翼の」とか「あの方が」とか、断片的な単語が聞こえた。
俺は気にしなかった。
王宮の人々にとって、俺の存在は、希望でもあり、不安でもあった。エルダーズ・シール捜索の責任を、王宮は俺たちに託していた。失敗すれば、王国は滅ぶ。成功しても、保証はない。
その重さを、俺はようやく、自分のものとして引き受けつつあった。
「灰の翼の三名 ご報告お願いします」
エミリアは正装ではなく、簡素な白いドレス姿だった。髪も結わずに肩に流していた。彼女もまた、疲れていた。父王の容態が悪化しているという噂は、俺たちが砂漠に出ている間に王都に広がっていた。
「ガレンが代表して」
俺はガレンに譲った。
ガレンは砂漠の旅程と、二つ目の断片の獲得、そして帝国の暗殺者との交戦、ファラの死を、簡潔に報告した。
エミリアの表情が、ファラの死の報告で曇った。
「お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
ガレンが頭を下げた。
俺は、報告の最後に、自分の口から付け加えた。
「殿下 北の凍土に向かう前に お願いしたいことがあります」
「何でしょう」
「フェルガンド帝国宰相 クラハシ・テツヤとの面会の機会を頂きたい」
エミリアは目を見開いた。
ガレンも、リシェルも、俺の言葉を黙って聞いていた。あらかじめ伝えてあった内容だった。
「敵国の宰相と 面会?」
「単独での面会で構いません。和平交渉と申請してください」
「ヤノトオル殿 それは あまりにも危険です」
「分かっています」
「殺される 可能性が高い」
「それは 覚悟の上です」
エミリアは深く息を吐いた。
「理由をお聞かせください」
「殿下 私はあの男と 元の世界で 同じ職場の同僚でした」
応接間の暖炉の薪が、また音を立てた。
エミリアの表情が、変わった。彼女はリシェルから既に聞いていたらしい。あるいは、王宮の情報網で、独自に把握していたらしい。
「リシェルから 報告は受けています」
「では 話が早い」
「あなたの世界の話を 信じる根拠は」
「ありません。ただ 信じてくださるかどうかは 殿下のご判断です」
エミリアはしばらく俺の顔を見つめた。
それから、頷いた。
「信じます」
「ありがとうございます」
「ですが 面会の意義を聞かせてください。あなたはあの男に 何をしようとしているのですか」
俺は答えに迷った。
説得するため、と言うべきか。倒すため、と言うべきか。看取るため、と言うべきか。どれも、俺の中では、まだ完全には固まっていなかった。
「分かりません」
俺は正直に答えた。
「分からないが 会わなければ 進めない」
エミリアは、しばらく考えていた。
それから、机の上の鈴を鳴らした。
侍従が現れた。
「外務長を呼んでください。今夜中に」
侍従は深く礼をして退いた。
エミリアは俺たちを見た。
「外務長と相談します。和平交渉の使者という名目で 面会を申請する形が現実的でしょう。ただし 帝国がこれを受け入れるかは分かりません」
「分かっています」
「拒否された場合 別の方法を考えなければなりません」
「方法は」
「あなた一人を 国境近くに送り込み 帝国側から接触を待つ形になります。それは より危険です」
俺は頷いた。
「どちらでも構いません」
──
その夜、俺は王宮の客間で眠った。
豪華な部屋。叙任式の前に泊まったときと同じ部屋だった。あのときは英雄になる夢に膨らんでいた俺は、今夜、別の理由でこの部屋にいた。
ファラの遺骨の小袋は、リシェルが持っていた。
俺はベッドに座って、リシェルから預かったお守りの銀の紐を見つめた。
「立ち続けることだけが 強さではない」
リシェルがあの夜、言ったこと。
「座ることも 横たわることも 強さの一つの形」
その言葉が、ようやく、少し分かりかけていた。
俺は強がる必要がなかった。冷たい英雄を演じる必要もなかった。倉橋に会いに行くのは、強がりではなかった。むしろ、弱さを認めた上での選択だった。
俺は弱い。
倉橋を倒す自信もない。彼を説得する自信もない。
それでも、行く。
行かなければ、俺は俺の「やり直し」を完成できない。母さんに届かない「ありがとう」も、ファラに届かなくなった「ありがとう」も、抱えきれない。
──
翌朝、エミリアから召集があった。
応接間に入ると、外務長と思しき男が地図を広げていた。
「結論を 申し上げます」
エミリアは一言で告げた。
「帝国は 和平交渉を受け入れました」
俺は息を呑んだ。
「予想より早かった」
「あちらにも 何か思惑があると思われます。先方が指定した条件は 二つです」
「内容は」
「使者は ヤノトオル殿 ただ一人。場所は フェルガンド帝国の国境の都市 アヴリオン」
「明らかに 罠ですね」
ガレンが眉を寄せた。
「罠であろうと あちらの宰相がヤノトオル殿を呼びつけたい意図は明らかです」
エミリアは俺を見た。
「ヤノトオル殿 引き返しても構わないのですよ」
俺は首を振った。
「行きます」
「単独で」
「単独で」
「分かりました。ただし 王宮としては最大限の支援をします。アヴリオンまでの護衛。緊急脱出の信号弾。最後の手段として 王家加護の鎖の発動」
「ありがとうございます」
ガレンが横で何か言いたそうな顔をした。
「ガレン」
俺は彼に声をかけた。
「お前は 行かない」
「俺も同じ意見だ。お前一人で行くのは 危険だ」
「だが 帝国の条件だ」
「俺は 帝国境界の村で待つ」
「お前を巻き込みたくない」
「巻き込まれる気だ」
俺はガレンの顔を見た。元騎士団長の頑固な目だった。
俺は折れた。
「分かった」
リシェルも声を上げた。
「私は王宮で 何かあれば駆けつけられるよう待機します」
「分かった」
エミリアは小さく笑った。
「あなた方は 良い仲間ですね」
俺はその言葉に、頷くしかなかった。
──
出発の朝、王宮の中庭で俺は装備を整えた。
護衛は王宮の精鋭が二十名。馬車。緊急用の魔法アイテムが一通り。
俺は重装ではなく、軽装で行くことにした。戦うつもりでは行かなかった。戦って勝つ相手ではなかった。
ガレンが俺の隣に立った。
「ヤノトオル」
「ん」
「お前 何か 持っていけ」
ガレンは自分の腰から短剣を一本外した。革の鞘に入った古い短剣。装飾はなかったが、よく研がれていた。
「これは」
「俺が騎士団長になる前に 妻からもらった。これを身につけている限り お前は俺と一緒に行くことになる」
「お前の大切なものだ」
「だから 渡す」
俺は短剣を受け取った。手のひらにガレンの体温の余韻が残っていた。
「必ず 返す」
「待っている」
ガレンは何も言わずに、俺の肩を一度叩いた。
リシェルが俺の前に来た。
「ヤノトオルさん」
「ん」
「お渡ししたお守りの紐 まだ持っていますか」
「ああ。ここに」
俺は手首に巻いた銀の紐を見せた。
「もう一つ お渡しします」
リシェルは、自分の胸元の印章を外した。中央教会のシスターの正式な印章。
「これは リシェル お前の」
「私のシスターとしての証です」
「受け取れない」
「あなたが帝国の宰相と話すとき 私の魂が 隣にいます」
「魂?」
「印章には シスターとしての魂が宿っています。私はあなたが戻るまで 別の印章を借ります」
俺はリシェルの目を見た。
決意があった。
俺は印章を受け取った。
「必ず 返す」
「お待ちしています」
──
馬車に乗る直前、エミリアが俺に最後の言葉をかけた。
「ヤノトオル殿」
「ええ」
「あなたが あの宰相と何を話すのか 私には分かりません」
「ええ」
「ですが 一つだけ お願いがあります」
「何でしょう」
「あなた自身を 失わずに 戻ってきてください」
俺はその言葉に、深く頷いた。
「最後まで 立ち続けます」
エミリアは小さく笑った。
「叙任式で 仰った言葉ですね」
「ええ」
「では 信じます」
馬車が動き出した。
俺は窓の外に、ガレンとリシェルとエミリアの姿を見た。
三人の姿は、雪の降る中庭で、徐々に小さくなっていった。
雪が馬車の屋根に積もっていた。
積もるたびに、軽い音がした。
俺は手のひらの中の、ガレンの短剣の柄を、強く握った。
そして、リシェルの印章を、胸のポケットに収めた。
国境の都市アヴリオンまで、五日の旅だった。
馬車の中で、俺は王宮図書館で借りてきた古文書を読んでいた。古代の魔王伝承の本だった。エルダーズ・シールに関する記述。三人の番人の言葉の解釈。
古文書には、奇妙な一節があった。
『真の勇者は 魔王と剣を交えた者にあらず。真の勇者は 魔王の声を聞いた者なり』
俺はその一節を、何度も読み返した。
魔王の声を聞く。
それは、いったい、どういう意味なのか。
魔王は俺たちの知る限り、千年前から世界に災いをもたらしてきた存在だった。剣を交える相手であって、声を聞く相手ではない、はずだった。
──いや。
俺は古文書を閉じた。
何かが、ぼんやりと、繋がりかけていた。
倉橋に会う旅。番人が言った「お前の選択が決める」三つ目の試練。エルダーズ・シールの全断片を集めた後の、本当の意味。
それらが、一本の糸で繋がりかけていた。
ただ、その糸の終点が、まだ見えていなかった。
馬車は雪の街道を、ゆっくりと進んでいった。
途中、いくつかの集落で、俺は短い休憩を取った。集落のどこにも、戦争の影があった。子どもが少ない。若い男も少ない。年寄りと、女と、戻りの聞こえぬ夫を待つ妻が、街道沿いに立っていた。
俺は道中で 何度も「ありがとう」を聞いた。
王宮の使者であることを察して、彼らは俺に向かって深く頭を下げた。
「王女様にお伝えください。我らは王国の民であり続けます」
「ありがとうございます」
俺はその言葉をいちいち、自分の中に呑み込んだ。
倉橋が「効率的に処理する」対象は、こういう人々だった。
俺は、その人々を覚えておくべきだった。
倉橋に会うとき、俺の中に、彼らの顔と声があるべきだった。
それが、俺にできる、唯一の準備だった。
馬車の中で、俺はもう一つ考えていた。
倉橋に会った後、俺は北の凍土の遺跡に向かう。三つ目の試練。エルダーズ・シールの最後の断片。それを取って、ようやく魔王城に向かう。
魔王。
俺はその存在について、何を知っているのか。
ガレンが言った話。リシェルが言った話。ファラが断片的に話した伝承。それらを総合すれば、魔王は千年前から存在し、世代ごとに勇者と戦い続けてきた、というのが定説だった。
しかし、本当に「敵」なのか。
古文書の一節が、まだ俺の頭から消えなかった。
『真の勇者は 魔王の声を聞いた者なり』
俺は窓の外の雪を見つめた。
雪は、街道の地面に静かに降り積もっていた。
雪の白さの中で、俺は、ある仮説を、初めて、頭の中で組み立てた。
魔王もまた、誰かに看取られなかった魂なのではないか。
その仮説は、まだ根拠がなかった。
だが、その仮説が、俺の中で、根を張り始めていた。
その根が、これから先の俺の選択を、決めるかもしれなかった。




