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魔王を看取った男 ──介護福祉士・矢野透の異世界救済譚──  作者: もしものべりすと


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第十六章 闇夜をさまよう魂

砂漠を出てから、俺は数日間、ほとんど口を利かなかった。


ガレンとリシェルは俺の沈黙を尊重していた。彼らも自分なりに、ファラの死を消化しようとしていた。


俺たちは砂漠の境界の街道沿いの宿場町で、長めの休息を取った。三日間、何もしなかった。装備の手入れもせず、地図の確認もせず、ただ宿の部屋で過ごした。


俺は自分の部屋で、ベッドに横になっていた。


頭の中では、ファラの最後の「ありがとう」が、何度も繰り返されていた。それは慰めではなかった。むしろ、刺すように、繰り返された。


刺されるたびに、俺は母さんの最期に間に合わなかった日のことを、思い出した。


施設の長い廊下。職員に案内されて、母さんの部屋に向かう自分の足音。部屋に入って、ベッドの上で、すでに冷たくなっていた母さんの姿。看護師が小さな声で「最後に何か言いたそうにされていました」と告げた瞬間。


その瞬間、俺は何を感じるべきだったのか。


たぶん悲しみ。たぶん後悔。たぶん母さんへの感謝。


だが俺は何も感じなかった。


正確には、感じることを、その瞬間に拒否した。


感じれば、壊れる。だから感じない。


それが、俺の三年間だった。


ファラの死を、その三年間の延長線として処理することは、できなかった。


なぜなら、俺はファラを看取ったからだった。


最後まで彼女の手を握った。最後の「ありがとう」を耳で聞いた。「お疲れさまでした」というリシェルの祈りを、隣で聞いた。それは母さんのときに俺ができなかった、すべてだった。


それでも、彼女は死んだ。


俺ができることをすべてやってもファラは死んだ。


その事実は俺の中にあった「もし俺が母さんの最期に間に合っていれば」という前提を、根本から壊した。


俺が間に合っていても母さんは死んでいた。


俺がいてもいなくても母さんは死んだ。


それはある意味では、俺を救う事実だった。


それは同時に、俺を、もっと深い場所に突き落とす事実だった。


俺は無力だった。


母さんに対しても無力だった。ファラに対しても無力だった。これから先、俺が看取る誰に対しても俺は無力だ。


無力なまま、俺は何をできるのか。


その問いが、俺の三日間の沈黙の中身だった。


──


宿屋の三日目の夕方、リシェルが俺の部屋を訪ねてきた。


ノックの音が聞こえて、俺は起き上がった。


「ヤノトオルさん」


「入って」


リシェルは扉を開けて、俺の前に立った。


「夕食を ご一緒できますか」


「いや」


「食欲が ないですか」


「ない」


リシェルは少しの間、考えてから、扉の前で姿勢を変えた。


「では 私 ここで お話だけしてもよろしいですか」


俺は頷いた。


リシェルはベッドの脇の椅子に腰を下ろした。


「ヤノトオルさん 今 どんな気持ちですか」


「分からない」


「分からない という気持ちですか」


「ああ」


リシェルは微笑んだ。


「正直で 良いことです」


「正直 か」


「ええ」


俺は天井を見上げた。


「リシェル 一つ 聞いていいか」


「はい」


「お前は 妹を看取れなかったと言っていたな」


「ええ」


「その後 教会で『看取りの祈り』を学んで シスターになった」


「ええ」


「その選択で お前は 妹に届く何かを得たか」


リシェルは少しの間、答えなかった。


それからゆっくりと言った。


「届きません」


「届かない」


「妹には届きません。死者には何も届きません」


俺はその答えに、息を呑んだ。


それは俺がずっと、認めたくなかった答えだった。


「では なぜ お前は シスターを続けている」


「届かないから 続けています」


「届かないから?」


「妹に届かない『ありがとう』を 私は他の死にゆく人々に向かって唱え続けることで 何とか自分の中に保ち続けています。続けなければ 私の中の妹は 完全に消えてしまう」


俺はリシェルの目を見た。


彼女の目には、深い悲しみがあった。深い悲しみを抱えたまま、それでも温かさを保っている目だった。介護現場で、長年看取りを担当してきたベテランの介護士に、こういう目をする人がいた。沢田の目に近かった。


「リシェル」


「はい」


「俺は 母さんに届かない」


「届きません」


「では 俺は どうすれば」


「あなたが 届かない『ありがとう』を 誰に向かって唱えるか。それが あなたの選択です」


俺は天井を見つめた。


ファラに、俺は「ありがとう」を返した。神殿の試練の後、下山の道で、俺は彼女に「ありがとう」と言った。


それは母さんに届かなかった「ありがとう」を、ファラを通じて、形にする行為だった。


ファラが死んだことで、その「ありがとう」も、また届かなくなった。


「届かない言葉が 増え続けるな」


俺は呟いた。


「ええ」


「永遠に 増え続ける」


「ええ」


「それを抱えたまま 生きるしかないのか」


「それしか ありません」


リシェルの言葉は、慰めではなかった。


だが奇妙に、俺の中で、何かを和らげた。


「俺は 一人じゃないな」


俺は言った。


「あなたは一人ではありません」


リシェルは微笑んだ。


「ファラさんも おそらく 同じことを言いたかったでしょう」


俺は目を閉じた。


涙が、また流れた。


リシェルは何も言わずに、俺の隣に座っていた。


──


その夜、俺は深く眠った。


夢を見た。


夢の中で、俺は介護現場の廊下を歩いていた。フミ子さんの部屋。彼女は「お母さん」と呼びながら、俺の手を伸ばした。今度は俺は引かなかった。彼女の指先に、俺の指先が触れた。


そしてフミ子さんが、口を開いた。


「お母さん おうちに帰ろう」


俺はその言葉に、答えた。


「うん 帰ろう」


それが、俺がフミ子さんに言いたかった言葉だった、と、夢の中で気づいた。


俺はフミ子さんに、嘘をつくべきだった。


「ここがおうちですよ」と訂正するのではなく、「うん 帰ろう」と頷くべきだった。彼女が母を求めているなら、俺はその母になれば良かった。


それが、介護福祉士としての、本当の仕事だった。


だが俺はそれをしなかった。


夢の中の俺はフミ子さんの手を握って、長い廊下を歩いた。


廊下の先には、母さんが立っていた。


笑っていた。


母さんは「ありがとう」と言った。


俺は答えた。


「こちらこそ ありがとう」


──


そこで、目が覚めた。


朝だった。


窓から朝日が差し込んでいた。


俺はベッドから起き上がった。


何かが、俺の中で、変わっていた。


ファラが死んだ事実は変わっていない。母さんの最期に間に合わなかった事実も、変わっていない。


だがそれらの「届かない言葉」を、抱えたまま、それでも前に進む方法がようやくぼんやりと、見えてきた気がした。


俺は宿屋の食堂に降りた。


ガレンとリシェルがすでに朝食を取っていた。


俺の姿を見て、ガレンが眉を上げた。


「お前 今日は顔色がいい」


「眠れた」


「それは何より」


リシェルは何も言わずに、微笑んだ。彼女は昨夜の会話のことを、ガレンには話さない人だった。


俺はテーブルに座った。


「ガレン」


「ん」


「次は 北の凍土だ。だが 三つ目の試練の前に 一度 王都に戻りたい」


「理由は」


「エミリア王女に会いたい」


「報告 か」


「報告と もう一つ」


俺はガレンの目を見た。


「俺は エルダーズ・シールが揃ったとき 自分が何のために魔王城に向かうのか 確認しなければならない。王都で 一度 自分を整理する」


ガレンは黙ったまま、俺をしばらく見ていた。


それから頷いた。


「分かった」


「リシェルも」


「私は ヤノトオルさんに従います」


「では 王都に戻る」


俺たちは宿屋を発った。


王都への帰路、俺は道中で多くの集落を見た。アルデリアの平和は脆かった。商人たちは護衛を増やしていた。村の入口には自警団が立っていた。子どもたちの遊ぶ声は少なくなり、代わりに大人たちの不安げな会話が増えていた。


魔王軍と帝国の挟み撃ちは、王国全体に影を落としていた。


俺は道中、できる限り多くの村に立ち寄った。


ある村では、足を負傷した老婆を見つけて、無料で簡易的な処置をした。介護現場で身につけた包帯の巻き方。皮膚の状態の観察。村の薬師に引き継ぐための申し送り。


「お代は」


老婆は申し訳なさそうに言った。


「いりません」


「ありがとうございます」


その「ありがとうございます」を、俺は受け止めた。


母さんの「ありがとう」と同じ音。


俺はそれを、引き取った。


別の村では、俺は子どもに食事の介助の仕方を教えた。家族に高齢の祖父がいて、家族はその祖父の介助に困っていた。俺は誤嚥防止の姿勢、スプーンの当て方、嚥下確認の方法を教えた。それは俺がフロアで毎日繰り返していた所作だった。


「あなたは 何者ですか」


家族が聞いた。


「冒険者です」


「冒険者 で そんなことを」


「介護福祉士でもあります」


「カイゴ フクシシ?」


「老人を支える仕事です」


家族は不思議そうな顔をした。だが感謝してくれた。


俺は王都までの旅程の中で、こうして、いくつもの「ありがとう」を集めた。


それは母さんに届かない「ありがとう」を、別の場所で受け取り直す行為だった。


リシェルが俺の隣で、その様子を見ていた。


「ヤノトオルさん」


「ん」


「あなたは 旅をしながら 何かを治しています」


「俺がか」


「ええ。冒険者としてではなく」


「介護福祉士として」


「ええ」


俺は何も言わなかった。ただ彼女の言葉を、深く呑み込んだ。


砂漠の方角から、強い風が吹いていた。


その風に乗って、ファラの灰の小さな粒が、もしかしたら俺たちの方まで届いていたかもしれない。


俺はその風を、頬で感じた。


そして初めて、彼女に向かって、声を出さずに語りかけた。


──ファラ 行ってくる。


──また帰ったら 報告する。


風が答える代わりに、雲が一つ、空を流れていった。


二つの月は、まだ薄く、昼の空に残っていた。


──


王都への帰路、ガレンが俺の隣を歩きながら、ぽつりと言った。


「ヤノトオル 一つ気になっていることがある」


「何だ」


「最初の試練の番人が言ったな。三つ目の試練は『お前の選択が決める』と」


「ああ」


「あれは どういう意味だ」


俺は考えた。


砂漠の二つ目の試練は「仲間を切り捨てない」ことだった。山岳神殿の一つ目は「自己への直視」だった。三つ目は、たぶんそれらとは違う種類の試練になる。


「分からない」


俺は答えた。


「だが 北の凍土に行く前に 自分の中で答えを出しておかなければ 試練を越えられない気がする」


「自分で答えを出す試練か」


「ああ」


ガレンは少し笑った。


「お前 変わったな」


「変わった?」


「最初に会ったとき お前は答えを外に求めていた。エルダーズ・シール。英雄の称号。王女の任命。すべて 外から与えられるものだった」


「そうか」


「今は 自分の中に答えを探そうとしている。それが 変化だ」


俺は何も言わずに、頷いた。


王都までの道は、二週間以上かかった。


その間、俺はずっと、自分の中の問いと向き合っていた。


母さんに届かない「ありがとう」を、ファラに届けようとした。ファラが死んだことで、その「ありがとう」は、また宙に浮いた。


では、俺は次に、誰にそれを届けるのか。


リシェル。ガレン。エミリア王女。集落の老人たち。あるいは、まだ会ったことのない、これから出会う誰か。


それとも──。


俺の頭の中で、不意に、ある名前が浮かんだ。


倉橋哲也。


その名前が、なぜ、ここで浮かぶのか、俺は最初、理解できなかった。


倉橋は俺の敵だった。彼は効率主義の論理で帝国を動かし、無数の人を「処理」していた。彼は俺が止めるべき相手だった。


その彼に、俺が「ありがとう」を届ける?


馬鹿げていた。


だがその馬鹿げた発想が、頭から消えなかった。


倉橋もまた、元の世界の人間だった。彼もまた、何かを抱えてこちらに来ていた。彼の冷たさには、彼の理由があった。


俺と倉橋はたぶん出発点では似ていた。


似ていたからこそ別の方向に進んだ。


俺は彼を倒すべき相手として見ていた。だが彼を「看取る」べき相手として見ることも、できるかもしれなかった。


──いや、と俺は首を振った。


その発想は、まだ早かった。


倉橋は今、無数の人を処理し続けている。彼を「看取る」前に、まず彼の論理を止めなければならない。


俺の「やり直し」は、自分のためのやり直しではなく、倉橋を含めた、すべての人を巻き込んだ「やり直し」になっていた。


それを思いつくまで、俺は王都までの二週間を必要とした。


王都の城門が見えてきたとき、俺は深く息を吸った。


これからは、俺は単なる冒険者ではなかった。


俺は自分自身の物語を、書き直す者だった。


リシェルが俺の隣に並んで、小さく聞いた。


「ヤノトオルさん 何か 決めましたか」


「決めた」


「何を」


「魔王城に行く。だが その前に 倉橋に会う」


リシェルは少し驚いた顔をした。


「会って どうするのですか」


「分からない。だが 会わずに進めない」


リシェルは深く頷いた。


「では 私もご一緒します」


「危険だ」


「危険でも」


リシェルの目は決意していた。


俺はそれ以上、止めなかった。


二つの月が、王都の城壁の向こうに、薄く昇っていた。

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