第十四章 鏡の男
南の砂漠への道は長かった。
山岳神殿から砂漠まで、徒歩と馬車を乗り継いで二週間かかった。途中で王都に立ち寄って装備を整え直した。リシェルは中央教会で薬草を補充した。ガレンは古い知人から砂漠の情報を集めた。ファラは、王都の市場で珍しい果物をいくつか買った。
「ヤノトオル これ 食べたことある?」
ファラは紫色の小さな実を俺に見せた。
「ない」
「干したやつ。すっぱくて甘い」
「東方には 似た形のやつがある」
「うそ」
「本当だ。梅 という」
「ウメ?」
ファラは声に出して呟いた。
「日本では 塩漬けにして食う」
「塩で?」
「ご飯と一緒に」
「変な国」
「変な国だ」
ファラは笑って、その紫の実を一つ俺に渡した。俺は口に入れた。酸味と甘みが舌に広がった。確かに梅干しに似ていた。だが少し違った。違いをうまく言葉にできなかった。
その小さな違いが、俺がもう日本にはいないことを、改めて確認させた。
──
砂漠への旅の途中、ある夜、俺たちは国境近くの宿場町に泊まった。
宿場町は商業の街だった。アルデリア王国とフェルガンド帝国の境界に近く、両国の商人や旅人が混じり合う場所だった。宿屋は満員で、俺たちは大部屋で他の客と雑魚寝することになった。
その夜、酒場で食事を取っていたとき、隣のテーブルから帝国の言葉が聞こえてきた。
ファラが耳を澄ませた。彼女のエルフの耳は、少し離れた会話も拾えた。
「帝国の商人だ」
ファラが小声で言った。
「何を話してる」
「宰相の話」
俺は息を止めた。
「クラハシ・テツヤだ」
ファラは頷いた。
「最近 また新しい施策を出したらしい。負傷兵の家族支給金の廃止」
「廃止」
「『生産力を持たない家族に資源を割くのは非効率』だって」
俺は手のグラスを置いた。
ガレンが横で渋い顔をした。
「あの男は 際限がないな」
「ガレン」
俺は彼に聞いた。
「もし俺が お前にあの宰相と直接話す機会を与えられたら」
「話す機会?」
「聞いてみたいことがある」
「何だ」
「あの男が なぜ そういう論理に至ったのか」
ガレンは俺をしばらく見つめた。それから、低い声で言った。
「ヤノトオル お前は あの男のことを 個人的に知っているな」
俺はその問いに、もう逃げなかった。
「ああ」
「いつから 知っている」
「同じ世界で 同じ職場にいた」
「同じ世界」
「俺は 別の世界から来た。バスの事故で死んで この世界に来た。あの男も 同じバスで死んで 同じようにここに来ている」
ガレンは杯のエールをゆっくりと一口飲んだ。それからもう一口飲んだ。彼は時間をかけて、その情報を消化していた。
「ファラは 知っているのか」
「数日前に話した」
「リシェルは」
「最初から知っている」
ガレンは杯を置いた。
「俺は 最後に教えられたわけだ」
「すまん」
「謝るな。順番には理由があったんだろう」
ガレンは少し笑った。
「だが 一つ聞きたい」
「何だ」
「お前は あの男と何が違うと思ってる」
俺は考えた。
長い時間、考えた。
「分からない」
俺は素直に答えた。
「あの男も 元の世界で 似たような論理で生きていた。俺も 似たような論理で生きていた。違いがあるとすれば」
「あるとすれば?」
「俺は 仲間ができた」
ガレンは小さく頷いた。
「それは 大きな違いだ」
「違いか」
「違いだ。一人で正しいことなんてない。誰かと一緒にいて初めて正しさが分かる。あの男は たぶん 一人で動きすぎてる」
ガレンの言葉に、俺は深く頷いた。
そして同時に、不安を感じた。
倉橋は、本当に「一人」なのか。
元の世界では、彼は施設のチームを率いていた。スタッフを統率していた。彼は孤独な人間ではなかった。少なくとも表面的には。
だが、彼は誰かに「違う」と言われたことを、聞いただろうか。
誰かに「違う」と言われたとき、聞ける人間と聞けない人間の差は、決定的だ。
俺は、聞ける人間になりたかった。
──
宿場町を出発する朝、俺は宿の前で意外な人物を見た。
アルデリア王宮の使者だった。早馬で追いついてきていた。
使者は俺たちに頭を下げた。
「灰の翼の皆様。エミリア王女からの伝言です」
「伝言」
「先日の魔王軍偵察隊の書類について 王宮で更なる調査を行いました。書類の出所が判明しました」
「どこだ」
「アルデリア王宮の 秘書官の一人」
「内通者」
「はい。秘書官は連行され 尋問の結果 帝国宰相と直接連絡を取っていたことが判明しました」
俺は息を呑んだ。
「秘書官は どうなった」
「処刑されました。昨日です」
俺は使者の言葉を、一瞬、噛み締められなかった。
人が一人、処刑された。
それは、戦時下の王国では、当たり前のことかもしれなかった。だが、俺の感覚では、それは小さな衝撃ではなかった。介護現場で「処分」という言葉を使えば、それはたいてい衣類の処分や用具の処分のことだった。人を「処分」することは、いかなる文脈でも、俺の中では受け入れがたい言葉だった。
「ヤノトオル」
ガレンが俺の肩に手を置いた。
「これが 戦時下の王国の現実だ」
「分かった」
「お前は それでも 進むか」
俺は使者を見た。
使者は黙って俺の答えを待っていた。
「進む」
俺は答えた。
「進んで エルダーズ・シールを取る」
使者は深く頭を下げた。
「もう一つ 王女からの伝言があります」
「何だ」
「秘書官の尋問の中で 帝国宰相が直接 灰の翼の動向を探っていたことが判明しました。あなた方は すでに 帝国の標的です」
俺は表情を変えなかった。
「対策は」
「申し訳ありません。王宮としては あなた方の旅程を可能な限り隠匿しますが 完全な秘匿は困難です。十分にご注意ください」
「分かった」
使者は早馬で去っていった。
ファラが小さな声で言った。
「あの宰相 私たちのこと 知ってるんだ」
「ああ」
「ヤノトオル のことも」
俺は頷いた。
「俺の名前を 聞けば あの男は分かる。同じ職場で五年一緒だった上司だ」
「驚くね」
「驚いて 興味を持つ。たぶん もう動いてる」
ガレンが地図を広げた。
「砂漠の遺跡まで あと十日。途中の街道で 帝国の刺客に襲われる可能性は」
「高い」
俺は答えた。
「だが 俺たちには選択肢がない」
「進むしかない」
「そうだ」
──
砂漠への道を再開して五日目の夕方、それは起こった。
俺たちは砂漠の手前の岩場に野営地を構えていた。火を起こし、簡単な食事を取り、ガレンが見張りに立った。
その夜、ガレンが奇妙な気配を察知した。
「敵だ」
ガレンが小声で告げた。
「数は」
「五人。違う 七人」
俺たちは武器を構えた。
岩場の影から、黒い装束の人影が現れた。覆面。革鎧。湾曲した剣。それは魔王軍の偵察隊の装備に似ていたが、それより洗練されていた。
帝国の暗殺者。
俺は確信した。
「ヤノトオル!」
ガレンが叫んだ。
「ファラとリシェルを守れ!」
俺は反射的に動いた。ファラとリシェルの前に立ち、ナイフを構えた。
ガレンが先頭で剣を振るった。彼の剣は、俺が見てきたどの戦闘よりも鋭かった。元騎士団長の本気の剣だった。三人の暗殺者が瞬時に倒された。
だが、敵は七人。さらに、岩場の上から弓矢が飛んできた。
俺は矢の軌道を読んで、ファラとリシェルを岩の影に押し込んだ。
「動くな!」
俺は叫んだ。
ファラが小さな弓を構えた。彼女の最後の魔法刻印矢が、上空の弓兵を射抜いた。
リシェルが聖印章を掲げた。光の障壁が俺たちの周囲に展開された。短時間だが、矢を防ぐには十分だった。
ガレンが残り三人と切り結んだ。
俺は機を見て、左から回り込んだ暗殺者の一人に体当たりした。介護現場の制止技術。相手の重心を読む。腕力ではなく方向を変える。暗殺者は岩に叩きつけられて動かなくなった。
戦闘は、激しかったが短かった。
七人の暗殺者のうち、六人が倒された。最後の一人が逃げようとした。
ガレンがその一人を捕らえた。
「待て」
俺はガレンに言った。
「殺すな」
「殺さん。聞きたいことがある」
ガレンは暗殺者の覆面を剥がした。
中から現れたのは、浅黒い肌の若い男だった。二十歳前後。
「お前 帝国の人間か」
ガレンが聞いた。
「答えるな」
男はそう言って、唇の奥から何か小さなものを取り出そうとした。毒丸だった。
俺はその動きを、瞬時に読んだ。
介護現場で、誤嚥防止のために利用者が口の中の何かを呑み込もうとする瞬間を見抜く訓練をしていた。
俺は男の顎に指を入れて、毒丸を取り出した。
男は驚いた顔をした。
「お前 介護福祉士だな」
俺は思わず呟いた。
「は?」
ガレンが俺を見た。
俺はガレンに毒丸を見せた。
「指で口の中を確認するこの動き 同じ世界の介護出身者なら 知っている」
男は黙った。
「ヤノトオル」
俺は男に名前を呼ばせるかわりに、自分から名乗った。
「俺はヤノトオル。元の世界では介護福祉士をやっていた。お前 倉橋の部下か」
男の目が大きく見開かれた。
「お前 なぜ それを」
「同じバスで死んだから」
男は呆然とした表情で俺を見た。
「お前も 元の世界の人間か」
「俺は 違う。だが宰相閣下に 召喚された者だ」
「召喚」
「閣下は 召喚魔法の術式を発見した。元の世界の人間を 数人 こちらに呼んでいる。皆 介護や医療の経験者だ」
俺は息を呑んだ。
倉橋は、自分一人で来ているわけではなかった。
「閣下のお考えだ。元の世界で『冷徹な合理』を実践していた者を集めて 帝国の中枢に置くと」
「召喚された者は 何人だ」
「八人。そのうち 三人は介護福祉士。二人は医師。三人は経営者」
俺は目眩を覚えた。
倉橋は、元の世界の「効率主義者」を、こちらの世界に集めて、帝国を作っていた。
それは、倉橋が一人でないことを意味した。
そして、ガレンの言った「あの男はたぶん 一人で動きすぎてる」という言葉が、半分は当たっていなかったことも意味した。
「お前は」
俺は男に聞いた。
「介護福祉士として 召喚された一人だな」
「そうだ」
「なぜ 暗殺なんかをしている」
男は俺を見上げた。
「閣下が お前を排除しろと命じた。お前は 古い世界の『甘い』論理を持ち込もうとしている。それは 帝国の合理性を脅かす と」
「お前は それに同意したのか」
「同意もしないし 反対もしない。命令だ」
「命令ならば 何をしてもいいのか」
その問いに、男は答えなかった。
俺はガレンに目で合図をした。
「この男を 王宮に引き渡そう」
「いいのか」
「殺すのは 望まない」
ガレンは頷いて、男を縛り上げた。
その夜、俺たちは野営地を変えた。
別の暗殺者が来る可能性があった。捕らえた男を一晩王都の方角に運び、近くの集落で王国の駐留兵に引き渡した。
──
野営地に戻る道で、ファラが俺の隣を歩いていた。
「ヤノトオル」
「ん」
「あの宰相 八人も呼んでるんだ」
「ああ」
「ヤノトオル一人じゃ 勝てないかも」
「分かってる」
「でも 諦めない?」
「諦めない」
「なぜ?」
俺はその問いに、答えに迷った。
それから、低い声で言った。
「あの男は 俺の上司だった。俺の上司が 俺の知らない世界で 俺の隣にいた人間を殺している。俺は それを止めなければならない」
「責任 か」
「ああ」
ファラは少しの間、黙った。それから言った。
「責任じゃない」
「は」
「責任じゃない 別の名前があるよ」
「別の名前」
「贖罪」
俺はその言葉に立ち止まりかけて、歩き続けた。
贖罪。
母さんを看取れなかった俺の罪を、ここで償う。倉橋が広げる「効率主義」の悪を、ここで止める。それで、母さんへの「ありがとう」が、いつか届く気がする。
それは、贖罪と呼ぶに値する動機だった。
「ファラ」
「ん」
「お前は 賢いな」
「私のお祖父ちゃんが よく言ってた。エルフは 言葉の本当の名前を見抜く って」
「エルフは そういうものか」
「半分エルフだから 半分しか見抜けないけどね」
ファラは笑った。
俺も少し笑った。
夜空には、二つの月が、変わらず浮かんでいた。




