第十三章 神殿の試練
扉が閉まると、神殿の中は完全な闇だった。
数秒、何も見えなかった。
それから、闇の奥で、一つの灯りが灯った。蝋燭ではなかった。火でもなかった。青白く揺れる光。魔法の灯りらしかった。
俺は灯りに向かって歩いた。
足元の床は石だった。靴底を通して伝わる温度は、外よりずっと冷たかった。空気は乾いていた。古い書物の匂い。それから、もっと古い、何か有機物が長い年月を経て無機質になっていくような匂い。介護現場で言えば、長く同じ場所に置かれていた寝具が乾燥した匂いに似ていた。
灯りの正体は、空中に浮いた小さな光の球だった。俺が近づくと、それは少し離れて、また俺を待った。
──案内役、か。
俺はその光に従って進んだ。
通路は広かった。両脇の壁には浮き彫りがあった。古代の戦闘場面。竜と戦う英雄。仲間と共に進む集団。倒れていく仲間を抱きかかえる男。それから、最後の一場面では、誰かが死にゆく者の手を握って祈りを捧げていた。
俺はその浮き彫りの前で、足を止めた。
死にゆく者の手を握る男。
その姿勢は、リシェルがグレオン老人の手を握ったときの姿勢と、ほぼ同じだった。
「看取り」という業界用語が、また脳裏をよぎった。
俺はその浮き彫りから視線を外して、先に進んだ。
──
通路の奥に、円形の広い部屋があった。
天井は高く、ドーム状だった。中央に石の祭壇があった。祭壇の上に何も置かれていなかった。
光の球は祭壇の真上で止まった。
俺は祭壇の前に立った。
「ようこそ ヤノトオル」
声がした。
声は祭壇から響いていた。あるいは、部屋全体から響いていた。あるいは、俺の頭の中だけで聞こえていた。区別はつかなかった。
「お前は誰だ」
俺は声を出して尋ねた。
「私は神殿の意思。番人ではない。守護者でもない。ただ この場所に意思として残された 古代の知性」
「試練を始めるのか」
「試練は始まっている。お前が扉をくぐった瞬間から」
俺は周囲を見渡した。何もなかった。敵もいなかった。武器を構える必要もなかった。
「何をすればいい」
「お前自身と話せばよい」
その瞬間、祭壇の表面に、水鏡のような像が浮かんだ。
俺は息を呑んだ。
像の中に、俺の姿が映っていた。
ただし、それは新しい器の俺ではなかった。
二十八歳の、介護福祉士の白衣を着た俺だった。元の世界の俺。バスの事故で死んだはずの俺。
像の中の俺は、こちらの俺を見ていた。
「久しぶりだな 矢野透」
像の中の俺が、口を開いた。
「お前は 誰だ」
「お前だ」
「俺は ここにいる」
「そっちのお前は 仮の姿だ。本物のお前は こっちだ」
俺は祭壇に手を伸ばしかけて、止めた。
像の中の俺が、続けた。
「お前は逃げてきた」
「逃げて」
「母さんの最期から逃げた。フミ子さんの手から逃げた。新人の若林の言葉から逃げた。沢田の青臭い言葉から逃げた。そして 死んでも まだ逃げている」
「俺は」
「異世界に来て 英雄ごっこをしている。それが お前の『やり直し』か」
俺はその言葉に、反論できなかった。
「ファラは死ぬ」
像の中の俺が告げた。
「お前は知っている。リシェルも知っている。ガレンも知っている。あと数年で 彼女は死ぬ」
「だから何だ」
「お前は 彼女を 看取れるのか」
その問いに、俺は息を止めた。
像の中の俺は冷たく続けた。
「お前は 母さんを看取れなかった男だ。施設に入れて 仕事を理由に面会を減らして 急変の電話に渋滞のタクシーで間に合わなかった。それが お前だ」
「分かっている」
「分かっていて 同じことを繰り返そうとしている」
「違う」
「違わない」
像の中の俺は、白衣の襟を整えた。介護現場で何度も見た俺自身の所作。
「ファラに『海に連れて行く』と約束したな」
「した」
「『最後まで立ち続ける』と王女に誓ったな」
「誓った」
「お前は 約束を増やすのが昔から得意だった。守らないことも昔から得意だった」
「俺は」
「ファラが死ぬ瞬間 お前はどこにいる? エルダーズ・シールを取りに 別の場所にいるんじゃないか」
俺は祭壇に手を置いた。
冷たい石。
俺の指先は、少し震えていた。
「俺は」
俺は声を絞り出した。
「俺は 何を試されている」
像の中の俺は、笑った。
「自分の正体を 直視できるかどうか だ」
俺は像を見た。
像の中の俺の顔は、無表情だった。
俺自身が、俺自身に向けている表情。
それは、フミ子さんが「お母さん」と呼んだとき、若林が「向いていない」と言ったとき、沢田が「機械みたい」と言ったとき、俺が浮かべていたであろう表情だった。
無表情。冷たい。距離を保つ。
「俺は」
俺はもう一度言った。
「俺は そんな男じゃ ない」
「そんな男だ」
「違う」
「お前が違うと言える根拠は」
俺はその問いに答えようとした。
ファラと交わした「約束」を持ち出すか。リシェルが「あなたが嘘をつかない人」と言ったことを持ち出すか。集落の老人が「ありがとう」と言って涙を流したことを持ち出すか。
それらはすべて 表面的だった。
根本では、俺はまだ冷たい男だった。ファラを切り捨てようとした昨夜の俺が、その証拠だった。
「俺は」
俺は祭壇に膝をついた。
「俺は そういう男だ」
像の中の俺が、目を細めた。
「認めるのか」
「認める」
「逃げないのか」
「逃げない」
「では お前は どうする」
俺は祭壇から手を離した。
膝をついたまま、俺は答えた。
「変わるしかない」
「どう変わる」
「分からない。だが 変わらないと俺は ファラを看取れない」
「ファラを看取りたいのか」
「看取りたい」
その言葉を俺は人生で初めて、口に出した。
母さんを看取りたかった、と思っていながら、俺は一度もそれを言葉にしなかった。三年間、誰にも言わなかった。
その「看取りたい」という言葉は、俺の口から出た瞬間、神殿の床に転がり、響いて、再び俺の耳に戻ってきた。
「看取りたい」と俺は思っていた。
それは、母さんに対しても、ファラに対しても、本当の俺の願いだった。
冷たい男のはずだった俺の、奥底に隠れていた本心。
像の中の俺の顔が、ゆらりと変わった。
無表情だった顔が、わずかに崩れた。
笑ったのか、泣いたのか、その中間のような表情だった。
「ヤノトオル」
像の中の俺は、初めて、自分自身に向ける言葉ではない調子で言った。
「お前は 母さんに 何を言いたかった」
その問いは、俺の胸の奥の段ボール箱の封を、初めて、外側からノックした。
俺は黙った。
長い間、俺は黙った。
それから、震える声で、答えた。
「ありがとう と」
像の中の俺は、目を閉じた。
「最後に 母さんが言ったのと同じ言葉を 俺は返したかった」
俺は涙が出ていることに、自分で気づいた。
新しい器の若い目から、涙が流れていた。
「俺は 間に合わなかった。だから 一生それを言えない」
「一生」
「ああ」
像の中の俺は、ゆっくりと頷いた。
「では お前は これから 誰に それを伝えるんだ」
俺はその問いに、答えなかった。
答えがなかったのではない。
答えが、複数あったからだった。
ファラに。リシェルに。ガレンに。あの集落の老人に。フミ子さんに。沢田に。若林に。俺がこれまで「ありがとう」を返さなかったすべての人に。
その全員に、俺は伝えたかった。
伝えなければ、母さんへの「ありがとう」は、永遠に届かない。
だが、生きている人に「ありがとう」を伝えていけば、母さんへの「ありがとう」も、何かの形で、届くかもしれない。
俺は涙を拭った。
像の中の俺の姿が、ゆっくりと薄れていった。
代わりに、祭壇の表面に、小さな金属片が浮かび上がった。
三角形の銀色の金属。エルダーズ・シールの断片。
「合格だ」
声が言った。
「お前は 真の勇者の資質を 一つ示した」
「一つ」
「自分自身を 直視する勇気だ」
俺は金属片を手に取った。
それは、思ったより軽かった。だが冷たかった。冷たさは、この神殿の冷たさとは違う種類の冷たさだった。古代の意思の冷たさ。
「次の試練の場所は」
俺は声に尋ねた。
「南の砂漠の遺跡。だが お前自身も気づいているだろう。試練は 場所にあるのではない」
「どういう意味だ」
「真の勇者の資質は 三つある。一つは 自己への直視。二つ目は 仲間への態度。三つ目は その時 お前が決める」
「俺が決める」
「最後の試練は 場所が決めるのではない。お前の選択が決める」
俺は声の意味を、その場では理解できなかった。
それでも、その言葉は、俺の中で静かに重みを持った。
選択。
俺は元の世界では、一つも自分で「正しい選択」をしてこなかった。母さんを老健に入れることも、職場の数字に合わせて勤務を続けることも、流されてきた選択だった。フミ子さんの手を振り払うことも、選択ではなく、反射だった。
ここでなら、選択ができるかもしれない。
俺はそう、ぼんやりと思った。
「外で 仲間が待っている」
声が告げた。
「行くがよい」
俺は立ち上がった。
膝が震えていた。
それでも、俺は歩いた。
来たときと同じ通路を、戻った。
浮き彫りの「死にゆく者の手を握る男」の前で、俺はもう一度足を止めた。
そして、初めて、その浮き彫りに向かって、頭を下げた。
理由は、自分でも分からなかった。
ただ、頭を下げたかった。
──
扉の外に出ると、ガレンとファラとリシェルが俺を待っていた。
ファラがまず駆け寄った。
「ヤノトオル!」
「ああ」
「無事だった」
「無事だ」
ガレンが俺の顔を見て、何かに気づいた表情をした。
「お前 顔色が違う」
「変わったか」
「変わった」
ガレンはそれ以上、聞かなかった。
俺は手のひらの金属片を見せた。
「断片だ」
ファラが目を輝かせた。
リシェルは静かに微笑んだ。
老人の番人が、入口の石段の上から、俺たちを見ていた。盲目の彼の顔は、なぜか俺たちを「見て」いるように感じられた。
「次は」
ガレンが番人に尋ねた。
「南の砂漠の遺跡。そこには別の試練が待っている」
「分かった」
俺たちは神殿を後にした。
下山の道を、俺は先頭で歩いた。
ファラが俺の隣に並んだ。
「ヤノトオル」
「ん」
「私 中で 待っているとき ずっと祈ってた」
「祈り か」
「無事に戻ってきますように って」
俺は彼女を見た。
「ファラ」
「ん」
「ありがとう」
俺はその言葉を彼女に向けて言った。
人生で初めて、誰かに、本気で「ありがとう」と言った。
ファラは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「どういたしまして」
その言葉に、俺はまた涙が出そうになった。
俺は急いで前を向いて、歩く速度を上げた。
ガレンとリシェルが背後で、何か小さく囁き合っていた。
何を話しているか、聞かなくても、なんとなく分かる気がした。
下山の途中、ガレンが俺の隣に並んだ。
「ヤノトオル」
「ん」
「中で 何があった」
「自分と話した」
「自分?」
「元の世界の俺と」
ガレンは首を傾げた。
「分からん話だ」
「俺にも分からん。だが 一つ 分かったことがある」
「何だ」
「俺は 母さんに『ありがとう』と返したかった」
ガレンは少し黙った。
それから、低い声で言った。
「俺も 妻と子に『すまなかった』と返したかった」
「お前も か」
「ああ」
ガレンは前を見たまま、続けた。
「冒険者ってのは 結局 死んだ誰かに何かを返したい人間の集まりだ。死者に届かない言葉を 生者に届ける旅をしている」
その言葉を俺は山の斜面で、深く呑み込んだ。
下山の道の途中、ファラが何度も俺の顔を見上げた。
俺の表情の変化を、彼女は見つけたらしい。
何も言わなかったが、彼女は時々小さく微笑んだ。
その微笑みは、俺の中で、新しい何かに、形を与えていた。




