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魔王を看取った男 ──介護福祉士・矢野透の異世界救済譚──  作者: もしものべりすと


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12/22

第十二章 冷たい英雄

旅立ちから十日が経った。


最初の試練の地、西の山岳神殿への道は険しかった。


最初の三日は街道を進んだ。馬車を借りて移動し、夜は宿屋に泊まった。だが街道が途切れた四日目からは、徒歩の山道だった。


山道は容赦がなかった。朝晩の気温差が大きく、昼は汗をかき、夜は震えた。野営地の選定。火の管理。食料の節約。すべての判断が命に関わった。介護現場の夜勤の判断より、もっと直接的に命に関わった。


俺たちは順調に進んでいた。


だが八日目、ファラの状態が悪くなった。


朝、彼女がテントから出てくるのが遅れた。リシェルが心配して様子を見に行った。出てきたリシェルの表情が硬かった。


「熱があります」


「どれくらい」


「触った感じでは 三十九度近く」


俺は反射的に判断した。介護現場で熱発した利用者を見るときの順番。意識レベル。呼吸。脈拍。脱水の有無。原因の特定。


「ファラ」


俺はテントに入った。


ファラはマットの上で横になっていた。顔色は青白く、唇が乾いていた。眼球の動きが鈍かった。


「いつから」


「昨日の夜から 少し」


「言わなかった」


「みんなを止めたくなかった」


俺はため息をついた。


「水を」


リシェルが革袋を差し出した。俺はファラに飲ませた。彼女は半分こぼしながらそれを飲んだ。


「今日は休む」


俺は告げた。


「でも」


「休む」


ファラは抗議しなかった。それが、彼女の状態の悪さを物語っていた。


──


その日は野営地で停滞した。


ガレンが見張りを交代で立ち、俺は薪を集め、リシェルがファラを看ていた。日中、ファラは断続的に眠った。熱は下がらなかった。


夜、焚き火を囲んでガレンが地図を広げた。


「明日もファラが回復しなければ 我々は二日遅れる」


「だな」


「神殿の試練には期日がない。だが 山岳神殿は冬になると雪で閉ざされる」


「あと何日で雪が降る」


「気候次第だ。早ければ 二週間後」


ガレンは地図に指を置いた。


「俺たちは スケジュールを再考する必要がある」


俺は焚き火を見つめた。


頭の中で、嫌な計算が始まっていた。


ファラの体力ではこれ以上の標高に耐えられないかもしれない。彼女を連れて行くことは、俺たち全員のリスクを上げる。冷静に判断すれば、彼女を山麓の集落に残して、俺たち三人で神殿に向かうのが合理的だった。


その計算を、俺は一瞬、嫌悪した。


それは倉橋の論理だった。


「効率」を優先する論理。負傷兵は救護せず後送せずその場で処分する論理。


俺はその論理を否定したかった。


だが、否定しきれなかった。


「ガレン」


「ん」


「ファラを 一旦 山麓の集落に残す という選択肢は」


その言葉を口にした瞬間、俺は自分自身に驚いた。


ガレンも驚いた顔をして俺を見た。


「お前の口からそれが出るとは」


「合理的判断だ」


「合理は 時に間違う」


「俺は 合理的じゃない判断で人生を間違えてきた。これからは合理で動く」


ガレンは何も言わなかった。


焚き火がパチリと音を立てた。


火の粉が舞い上がった。


「ファラ どう思う」


ガレンは焚き火の向こうに目をやった。


ファラがそこに立っていた。


俺は息を呑んだ。


ファラは毛布を肩にかけて、テントから出てきていた。発熱した体には冷たい山の空気は毒だった。彼女の顔は青ざめて、唇は紫に変色しかけていた。


「全部 聞こえてた」


ファラは言った。


声は静かだった。


「ファラ」


「私を置いていくのね」


「それが合理的だ」


「ヤノトオルが言うんだ」


「ああ」


ファラは焚き火に近づいて、座った。彼女の細い手が震えていた。発熱と寒気の両方からだった。


リシェルが横から毛布を彼女にもう一枚かけた。


「ファラさん 中で寝ていてください」


「リシェル 後で」


ファラはリシェルを制した。それから俺の方を真っ直ぐ見た。


「ヤノトオル」


「ん」


「あなた 約束したよね」


「何を」


「私を 海に連れて行く って」


俺は口を閉じた。


「私が 山麓の集落で死んだら 海は見られない」


「死なない」


「分からないでしょ」


ファラの目に涙が滲んだ。怒りの涙ではなかった。哀しみでもなかった。それは諦めに近い透明な涙だった。


「あなたは 倉橋になる気?」


その名前を、ファラがここで出した。


野営地に短い沈黙が降りた。


ガレンが俺を見た。倉橋の名前が出たことで、ガレンも何かを察したらしい。


俺は答えに迷った。


俺は倉橋になりたくなかった。


だが、今俺がしている提案は、倉橋がしそうな提案だった。


「ファラ それは違う」


「何が違うの」


「俺は お前を捨てるんじゃない。お前を生かすために 残すんだ」


「私を 生かすために」


「ああ」


ファラは小さく笑った。


「ヤノトオル」


「ん」


「死にゆく人を生かすために置き去りにする」


「ファラ」


「その理屈で 私は何度も置き去りにされてきたよ」


ファラの言葉は柔らかかった。


柔らかかったが、刃のように俺を刺した。


「私の母さんは 私が三歳のときに 流行り病で寝込んだ。父さんは『母さんを生かすためには 私を遠くの親戚に預けるしかない』と言った。私は預けられた。母さんは私が知らないところで死んだ」


俺は何も言えなかった。


「父さんは そのあと 私が病弱なのを知って 『お前を生かすためには 山奥の薬師の家に預けるしかない』と言った。私はまた預けられた。父さんはそのあと 戦争で死んだ」


「ファラ」


「私は 何度も『生かすため』に置き去りにされてきた。そして そのたびに 私は誰かを 失った」


ファラは涙をぬぐった。


「だから ヤノトオル」


「ん」


「私は 山麓には残らない」


「ファラ お前は」


「死んでも 一緒にいる方を選ぶ」


俺はその言葉に応える言葉を持たなかった。


ガレンが立ち上がった。


「俺は見張りを続ける」


ガレンは離れていった。気を遣ってくれていた。


リシェルもファラの肩に手を置いて、それから少しだけ離れた。彼女もまた、俺たち二人の話を邪魔しないように、距離を取った。


焚き火を挟んで、俺とファラだけが残った。


ファラは深く息を吐いた。


「ヤノトオル 私 怒ってない」


「怒っていい」


「ううん 怒ってない。ただ 哀しい」


俺は焚き火を見つめた。


俺は何かを言うべきだった。謝るべきか。撤回すべきか。それとも、もう一度合理を主張するべきか。


頭の中で言葉が回った。回って、結局、何も出てこなかった。


ファラはしばらく黙っていた。


それから立ち上がった。


「私 寝る」


「ファラ」


「明日 また 一緒に行ける? それとも 山麓の集落に残されるの?」


俺は答えるまで、長い時間がかかった。


「一緒に行く」


「よかった」


ファラはそれだけ言ってテントに戻った。


俺は一人焚き火の前に残った。


焚き火の炎は、相変わらず無心に燃えていた。


俺はずっと、自分の手のひらを見ていた。


その手のひらは、ナイフを握り、敵を倒し、ボディメカニクスで重い砂袋を持ち上げてきた手だった。同時に、フミ子さんの手を振り払い、新人若林の言葉を遮り、母さんの最期を受け止められなかった手だった。


その手で俺は、何をしているのか。


「冷たい英雄」


俺は自嘲気味に呟いた。


声に出してから、その言葉が、自分の中で奇妙に響いた。


冷たい英雄。


それは、たぶん、英雄ではないものだった。


──


その夜、俺は眠れなかった。


テントの中でファラの呼吸が浅く繰り返された。隣のリシェルは静かに寝ていた。ガレンは外で見張りに立っていた。


俺は目を開けたまま、テントの天井を見つめていた。


明日もまた、進む。


ファラを連れて、山岳神殿に向かう。


それは、俺がさっき決めた選択ではなかった。ファラが俺に選ばせた選択だった。


そのことが、奇妙に俺を救っていた。


俺一人で「正しい」を選ぶ必要がなかった。


仲間がいて、仲間が「違う」と言ってくれる。


それが、もしかしたら、倉橋と俺の唯一の違いかもしれなかった。


倉橋は、たぶん、誰にも「違う」と言われたことがない男だった。あるいは、言われても聞かない男だった。


俺は、聞ける男になれるか。


その問いを抱えたまま、俺はようやく浅い眠りに落ちた。


二つの月の光が、テントの薄い布越しに、青く差し込んでいた。


──


翌朝、ファラの熱は少し下がっていた。リシェルが夜通し看ていてくれたお陰だった。


俺たちは出発した。


ファラは自分の足で歩くと主張したが、ガレンが頑として彼女を背負った。古参の元騎士団長が、十六歳の少女を背負って山道を歩く姿は、奇妙に荘厳だった。


俺は先頭を歩いた。


リシェルは後尾でガレンとファラを支えた。


足取りは遅くなった。ガレンが背負っている分、進む距離は半分以下になった。それでも、誰も「ファラを置いていけ」とはもう言わなかった。俺は言わなかった。ガレンも言わなかった。リシェルは最初から言わなかった。


途中の岩場で、ファラがガレンの背中で目を覚まして、小さく言った。


「ヤノトオル」


「ん」


「ありがとう」


「何が」


「私を 連れてきてくれて」


俺は答えなかった。


答える資格が、俺にはなかった気がした。


連れてきたのは俺じゃなかった。ファラ自身が決めた。俺は、ファラが決めたことを尊重しただけだった。


それでも、ファラは俺に「ありがとう」と言った。


その「ありがとう」は、母さんが最後に言ったらしい「ありがとう」と、同じ音の響きを持っていた。


俺は前を向いて歩き続けた。


涙が出そうになるのを、俺は山の冷たい風のせいだと自分に言い聞かせた。


それから三日後、俺たちは西の山岳神殿の麓に到着した。


神殿は岩山の中腹に張り付くように建っていた。古代の遺跡。何百年も前のもの。あるいは、もっと古いかもしれなかった。風化した白い石。半ば崩れた柱。それでも本殿の入口には、巨大な石の扉が今も健在だった。


扉の前に、一人の老人が立っていた。


腰を曲げて杖をついた老人。長い白い髭。ぼろぼろのローブ。


「番人だな」


ガレンが小声で言った。


「番人?」


「神殿の試練を司る者だ。どの遺跡にも 守護者がいる」


俺たちは老人に近づいた。


老人はゆっくりと顔を上げた。瞳は曇って白かった。盲目だった。


「来たか 灰の翼の三人と シスター・リシェルよ」


声は深かった。彼は俺たちの名を、見ずに知っていた。


「我々は 試練を受けに参りました」


ガレンが代表して告げた。


「分かっておる。まずは 一人ずつ 神殿の中へ通る。だが」


老人は杖を地面に突いた。


「真の勇者の資質を持たぬ者は 神殿の中で 自らの罪と対峙することになる。心せよ」


俺の背筋が冷えた。


自らの罪。


それは、俺にとって、避けてきたことそのものだった。


「最初に通るのは 誰か」


老人は俺たち四人を順番に「見た」。


俺は前に進み出た。


「私が」


ガレンが何か言いたそうな顔をした。だが俺は止まらなかった。


「私が最初に 試練を受けます」


老人は満足そうに頷いた。


「では 入りなさい」


石の扉が、ゆっくりと開いた。


中から、暗い空気が流れ出てきた。


それは、俺がずっと封をしてきた段ボール箱の匂いと、奇妙に似ていた。


俺は一歩、前に踏み出した。


ファラが背後で何か言いかけて、止めた。リシェルが小さく祈りを唱える声が聞こえた。ガレンは何も言わなかった。彼は俺の選択を尊重していた。


「ヤノトオル」


ファラの声が、俺の背中に届いた。


「無事に 戻ってきて」


俺は振り返らずに頷いた。


返事はしなかった。


返事をすれば、約束になる。約束を破る可能性がある。俺はもう、彼女との約束を増やしたくなかった。


俺は神殿の闇の中に、足を踏み入れた。


扉が、後ろで閉まった。

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