第十一章 英雄叙任式
七日後、俺は白い礼服を着て王宮の謁見の間に立っていた。
俺の左にガレン。右にファラ。三人とも王宮が用意した正装をまとっていた。
謁見の間の天井は高く、ステンドグラスから差し込む光が床に色とりどりの模様を作っていた。床は磨かれた大理石。柱には金箔。介護現場の蛍光灯と樹脂の床とは、何もかも違う空間だった。
七日間の準備期間は短く感じた。装備の整備。地図の精査。携行食の調達。山岳神殿の伝承の収集。それらすべてを王宮の助力を得ながら進めた。王宮の図書館には民間では手に入らない古文書が並んでいた。エルダーズ・シールに関する記録もあった。だが核心の情報は曖昧だった。「真の勇者の資質を試される」と書かれているだけで、その「資質」が何かは記されていなかった。
ガレンが図書館で呟いた。
「真の勇者の資質。これが分からない限り 試練の準備はできない」
「実際に行ってみて 試されてみるしかないんだろう」
「行き当たりばったりだ」
「ああ」
ファラはその間、リシェルと共に治療の準備をしていた。万が一の負傷に備えて、薬草と包帯を整えた。リシェルは聖印章の予備も用意した。
そして、迎えた叙任式の朝だった。
正面の玉座の前にエミリア王女が立っていた。隣には宮廷魔術師らしき老人。後ろに儀仗兵が四人。
「灰の翼の三名 進み出よ」
エミリアの声が広間に響いた。
俺たちは三歩前に出た。
「ガレン・アスリック」
「はっ」
「ファラ・エイレン」
「はい」
「ヤノトオル」
「は」
俺の名前は他の二人と違って姓がなかった。それは、俺がこの世界の人間ではないことの密かな印だった。
「汝らに王国の名誉騎士の称号を授ける。これより汝らはエルダーズ・シール捜索の任を帯び 王国の希望を背負う者となる」
エミリアの隣の宮廷魔術師が、それぞれに金属の徽章を授けた。胸につける銀色の翼を象った印。介護福祉士の名札を初めて受け取った日のことを、俺は思い出した。あの日、母さんはまだ生きていて、俺の名札を見て嬉しそうに笑った。
「光栄でございます」
ガレンが代表して言った。
「式の最後に 一人ずつ 抱負を述べよ」
エミリアは順番に促した。
ガレンは「魔王軍を討ち 平和を取り戻すまで剣を振るう」と言った。
ファラは「私の命の続く限り 仲間と共に進む」と言った。
俺は何を言うべきか迷った。
英雄になる。そう言うべきか。母さんを看取れなかった俺の人生をやり直す、と言うべきか。あるいは、もっと大きな何かを言うべきか。
迷った末に、俺は短く言った。
「最後まで 立ち続けます」
エミリアが小さくうなずいた。
それで叙任式は終わった。
──
式の後に小宴があった。王宮の小広間で、軽い食事と酒が出た。エミリアも同席していた。
俺たちは祝いの酒を控えめに飲んだ。明日の出発に備えていた。
小広間には王宮の高官が数人いた。財務長。軍務長。それから王女の侍従。みな俺たち三人を品定めするような目で見ていた。Fランク上がりの新参の冒険者と、元騎士団長と、ハーフエルフの少女。三人組の組み合わせは、王宮の人間にとっては奇妙に映ったらしい。
軍務長らしき年配の男が俺の前に立った。
「東方の出と聞きました」
「はい」
「東方では戦士は武器を持って戦うのが伝統と聞きますが あなたの装備は軽い」
「私は介護福祉士でしたから」
「カイゴ フクシシ?」
「老人を支える仕事です」
軍務長は理解しかねた表情を見せた。だが踏み込まなかった。彼は俺の答えを「変人の答え」として処理したらしい。
エミリアが俺たちのテーブルに来た。
「ヤノトオル殿 一つ お聞きしてもよろしいですか」
「はい」
「叙任式で『最後まで 立ち続けます』と仰いましたね」
「ええ」
「最後まで とは いつまでですか」
俺はエミリアの目を見た。
彼女の目は若かったが、賢かった。
「分かりません」
俺は素直に答えた。
「ただ 倒れるまで という意味です」
エミリアは静かに頷いた。
「その答えで 十分です」
彼女は俺の前に小さな麻の袋を置いた。
「これは 王家から個人的にお渡しするものです」
俺は袋を開けた。中には小さな銀の鎖が入っていた。鎖の先に小さな宝石が付いていた。
「これは」
「王家の加護の印です。命の危機に瀕したとき 一度だけ 王宮から救援を呼ぶことができます」
「私一人にですか」
「あなたが 最後まで立ち続けると言ったから」
俺はエミリアの真意を測りかねた。
エミリアは俺の表情を見て、続けた。
「他の二人にもお渡ししました。形は違いますが 同じ機能のものです」
俺はガレンとファラの方を見た。二人ともそれぞれ小さな何かを持っていた。
俺は袋に鎖を戻した。
「ありがとうございます」
エミリアは微笑んで、テーブルを離れた。
宴の途中、俺は広間の隅でファラと二人になった。
ファラは果実水を持っていた。彼女の頬には少し赤みが差していた。
「ヤノトオル 似合わないね その服」
「自覚してる」
「変な感じ」
「そうか」
「でも嫌じゃない」
ファラはそう言って、果実水を一口飲んだ。
その時、広間の入口にリシェルが現れた。
俺は目を見開いた。
リシェルは王宮にいるはずがなかった。彼女は中央教会の治療院のシスターだ。だが彼女はそこに立っていた。白と薄水色の修道服。胸元の印章。長い銀髪は綺麗に編み上げられていた。
俺は彼女に近づいた。
「リシェル どうして」
「中央教会から派遣されました。叙任式に立ち会うように と」
「派遣」
「教会は エルダーズ・シール捜索に治癒師を一名同行させることを決めました。私が選ばれました」
「お前が」
「私です」
リシェルの目は静かだった。決意の色があった。
「治療院は」
「他のシスターに引き継ぎました。私の代わりは何人もいます」
「三つの試練は危険だ」
「分かっています」
俺は何か言いかけて止めた。
止めた理由を、自分でもうまく説明できなかった。
ただ、リシェルが同行すると聞いて、胸の奥でわずかに何かが暖まる感じがした。それを認めたくなくて、俺は別の方向に話を逸らした。
「装備は」
「治癒の杖と聖印章。それだけで十分です」
「戦闘訓練は」
「ゴブリンを倒した光の矢 覚えていますか」
「ああ」
「あれは私が自衛のために覚えた数少ない攻撃魔法です。普段は使いません」
ファラがいつの間にか俺の隣に来ていた。彼女はリシェルを見て、頭を下げた。
「シスター・リシェル様。お会いできて光栄です」
「ファラさん。あなたのことは噂で聞いています。どうぞ よろしく」
二人は握手を交わした。
──
その夜、俺は王宮が用意した部屋に泊まった。
豪華な部屋だった。介護福祉士の俺の月収三ヶ月分はする寝具。窓には絹のカーテン。壁には絵画。テーブルには果物と水差し。
俺はベッドに腰を下ろして、その部屋の豪奢さを眺めた。
これが、俺が求めていた「やり直し」の景色なのか。
冷たい男だった俺が、英雄として叙任され、王女から信頼され、伝説の遺物を求めて旅立つ。元の世界では考えられない展開だった。
しかし、何かが噛み合わなかった。
胸の奥に、奇妙な空虚があった。
俺は部屋の窓を開けた。
夜風が入ってきた。二つの月の光が王宮の庭を青く照らしていた。庭の木々の葉が風に揺れていた。
ノックの音がした。
「どなた」
「リシェルです」
俺は扉を開けた。
リシェルが廊下に立っていた。修道服のまま。手に何か持っていた。
「失礼します。少しだけ よろしいですか」
「ああ」
俺は彼女を部屋に通した。
リシェルはテーブルの椅子に座った。
「今日 あなたが叙任の言葉で『最後まで 立ち続けます』と言ったこと」
「ああ」
「それを聞いて 少し気になっていたのです」
俺は向かいに座った。
「気になる というのは」
「あなたは 何のために立ち続けるのですか」
俺は黙った。
「英雄になるため、ですか」
「ああ」
「英雄になって 何を求めるのですか」
「やり直しだ」
「何のやり直しですか」
俺はリシェルの目を見た。
彼女の目には責める色はなかった。ただ、純粋に、彼女は俺を理解しようとしていた。介護現場で利用者の人生を聞く介護士の目に似ていた。
「俺は元の世界で 母を看取れなかった」
「以前 言いましたね」
「英雄になれば その罪が 消える気がしている」
リシェルは少し考えてから、首を振った。
「消えません」
「は」
「罪は 行為で消えるものではないのです」
「じゃあ どうすれば」
「それは あなたが旅の途中で 気づくかもしれません」
リシェルは持っていた小さな袋を机に置いた。
「これは」
「お守りです。私が編んだ 治癒の力を込めた紐」
俺は袋を開けた。中には細い銀色の紐が入っていた。手首に巻ける長さ。
「ありがとう」
「明日 出発の朝にお渡ししようと思いましたが 今 渡しておきます」
「なぜ」
「なんとなく 今 渡したかったのです」
リシェルは少し笑った。
その笑顔は、グレオン老人を看取った日に俺が見た笑顔よりも、ずっと若く、ずっと普通の少女らしかった。
俺はその笑顔を見て、不意に、彼女がまだ二十二歳の女性だということを思い出した。シスターという肩書きの下に、生身の若い女性がいた。それを俺はずっと意識しないようにしていた。
リシェルは少し考えてから、もう一言だけ付け加えた。
「ヤノトオルさん 私は教会で『看取りの祈り』を学びました。本来は使い手の少ない古い祈祷です。教会では『治せない者に時間を割く』ことを無価値とみなす風潮があります」
「だが お前は使う」
「使います。なぜなら 私は妹を看取れなかったから」
俺は彼女を見た。
リシェルは静かに続けた。
「妹は十二歳で疫病で死にました。当時の私は教会で見習いをしていて 妹の臨終に間に合いませんでした。誰も妹の手を握っていなかった。妹は一人で死にました」
「お前も か」
「ええ。だから 私は誰の手も離さないシスターになろうと決めました」
俺は彼女の目を見た。
彼女の目には、俺と同じ場所から始まった人間の悲しみがあった。だが、彼女はそこから別の方向に歩いていた。俺は冷たさの方へ、彼女は温かさの方へ。
「俺は逆だった」
「逆?」
「俺は 母さんの最期に間に合わなかった日から 誰の手も握らないように生きてきた」
リシェルは驚いた顔をした。
「同じ出来事から 私たちは逆方向に進んできたのですね」
「そうらしい」
「だから 私はあなたを助けたいのかもしれません」
「助ける?」
「私と逆方向に進んだあなたが もう一度こちら側に戻れるように 隣で歩きたいのです」
その言葉が、俺の中で鈍く響いた。
俺は何も返せなかった。
リシェルは立ち上がった。
「明日 出発ですね。お休みください」
「ああ」
彼女は扉に向かいかけた。
扉の前で振り向いた。
「ヤノトオル さん」
「ん」
「あなたの『最後まで 立ち続けます』 私は素敵な言葉だと思いました」
「皮肉か」
「いいえ」
リシェルは微笑んだ。
「ただ 一つだけ お伝えしたいのは」
「なんだ」
「立ち続けることだけが 強さではないということです。座ることも 横たわることも 強さの一つの形です」
「分からん」
「分からなくて構いません。いつか 分かる日が来ます」
それだけ言って、リシェルは部屋を出た。
俺は扉が閉まった後、テーブルに置かれた銀の紐を見つめた。
紐に込められた治癒の力が、わずかに温かいオーラを放っていた。
俺はその紐を手首に巻いた。
夜の風が、また窓から入ってきた。
二つの月は変わらず空にあった。
明日の朝、俺たちは旅立つ。
英雄の証を求めて。
そして俺は、その瞬間、自分が人生で初めて「進むべき道」を持っていることに気づいた。それはたぶん、母さんが死んだ三年前の朝以来、初めての感覚だった。
しかし俺はまだ、リシェルが言った「座ることも 横たわることも 強さの一つの形」という言葉の意味を、理解していなかった。




