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魔王を看取った男 ──介護福祉士・矢野透の異世界救済譚──  作者: もしものべりすと


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第十章 北部第二街道

「血の匂いだ」


ファラがそう呟いたとき、俺はまだ何も嗅いでいなかった。


風上に立っていた彼女の鼻は、人間の俺より遥かに鋭かった。エルフの血が彼女の感覚器を強化していた。彼女が血の匂いを察知してから三十秒ほど遅れて、俺の鼻にもそれが届いた。鉄錆と、それから何か甘く腐った匂い。


「下りるか」


ガレンが小声で言った。


俺たちは丘の上の岩陰に身を伏せていた。北部第二街道は眼下に蛇行していた。石を敷き詰めた古い街道。両脇は荒れた草原。所々に岩塊。


ファラが指差した。


「あそこ」


街道の中ほど、岩塊の影に何かが転がっていた。


俺たちは慎重に距離を詰めた。岩から岩へ。一人ずつ移動して残りが援護する。介護現場でいえば、フロアの夜間巡回で複数の利用者を順番に確認する動きに似ていた。視野を切らさない。死角を作らない。一定のリズムで進む。


街道に降りると、転がっていたのは商人らしき男の遺体だった。


仰向け。胸に矢が三本。


ガレンが矢の刻印を確認した。


「魔王軍だ。間違いない」


「死んでどれくらいだ」


俺は遺体を観察した。皮膚の色。瞳孔の状態。死後硬直の進行。介護現場で死亡確認に立ち会った経験が、ここで役に立った。


「四時間以上 八時間以内」


「正確だな」


「死亡推定の訓練を受けた」


ガレンは少し驚いた顔をしたが、深くは聞かなかった。


ファラが街道の先を指差した。


「足跡が続いてる」


血の足跡だった。負傷者がいたらしい。商人を襲った魔王軍とは別に、生き残った商人の連れか、あるいは魔王軍側の負傷者か。


俺たちは足跡をたどった。


足跡は街道を外れて、低い丘を越えていた。丘の向こうには小さな谷があった。谷の底から、煙が薄く立ち上っていた。


「焚き火か」


「魔王軍の野営地」


ファラが声を落とした。


俺たちは丘の頂で身を伏せた。


谷の底に、簡素な野営地があった。革張りのテント二つ。焚き火。そこに七人ほどの兵士。装備は重装ではなかった。革鎧と弓。偵察隊にしては装備が粗末だった。


「これは 偵察隊じゃない」


ガレンが眉を寄せた。


「じゃあ」


「囮 か 別の何か」


その瞬間、後ろの茂みで何かが動いた。


俺は反射的に振り返った。


人影が二つ、俺たちの背後に立っていた。


黒い革鎧。金属の仮面。手には湾曲した剣。


魔王軍の本隊だった。


「囮だ!」


ガレンが叫んで剣を抜いた。


──


戦闘は六分以内に始まり、十二分以内に決着した。


最初の二分でガレンが背後の二人と切り結んだ。一人を斬り伏せ、もう一人を負傷させた。負傷した方は後退して谷の野営地へ向かった。


その間にファラは矢を二射した。一射目は谷から登ってきた魔王軍の兵を射抜き、二射目は別の方向から回り込もうとした影を牽制した。


俺は最初の一分間、戦況を観察した。


介護現場で多重コール対応の経験があった。ナースコールが同時に三つ鳴ったときの優先順位の決め方。生命に直結する案件を最優先。次に転倒や負傷のリスク。最後に不穏や不安への対応。


戦場でも同じ理屈が通用した。


最大の脅威はどこか。生命の危険が最も高い味方は誰か。


俺の答えはファラだった。


ファラは弓兵だ。後衛だ。彼女に近接戦闘の敵が接近すれば一瞬で死ぬ。すでに谷から登ってきた兵の一人がファラの方に走り出していた。


俺はその兵の動線に飛び込んだ。


直接斬り合うのではなく、体当たりで角度を変えた。介護現場で暴れる利用者を制止するときの動き。相手の重心を読んで、力ではなく方向で勝負する。


兵は俺の体当たりで横に飛んだ。革鎧越しの衝撃で俺の肩も痺れたが、兵の方が体勢を崩した。崩れたところにナイフを突き入れた。革鎧の隙間。脇の下。心臓の側面。


兵は短く呻いて崩れた。


血が俺の手に流れた。温かかった。


俺はその温度を、ほんの一瞬だけ意識した。


人を殺した。


だがそれを噛み締める時間はなかった。次の敵が来ていた。


ガレンがすでに二人目を斬り、三人目に向かっていた。ファラが弓を引いていた。俺は次に動くべき位置を計算した。


戦闘中、俺の頭は妙に冷たかった。


冷たさは、介護現場で身につけたものと同じだった。心を動かさない。手だけを動かす。判断だけを冷徹に下す。それが命を救う技術であり、同時に俺を壊さない技術だった。


戦闘が終わったとき、谷の中と丘の上に魔王軍の兵が九人倒れていた。


ガレンが二人重傷。ファラが矢を全弾消費。俺の腕に浅い切り傷。それが俺たちの被害だった。


「ヤノトオル」


ガレンが息を切らしながら声をかけた。


「お前 戦士か」


「介護福祉士だ」


「その動きは 介護じゃない」


「介護だ」


俺は短く答えた。


ガレンはそれ以上、聞かなかった。


俺たちは谷の野営地を捜索した。


テントの中から書類が見つかった。羊皮紙の束。地図。命令書らしきもの。文字は俺には読めなかったが、ファラが半分翻訳できた。


「これは」


ファラが眉を寄せた。


「アルデリア王都の防衛配置図」


「は」


「魔王軍がアルデリア王都の防衛配置図を持っている。誰かが内部から流した」


「内通者か」


「あるいは 帝国経由」


ガレンが呟いた。


帝国。倉橋。


俺の心臓が一度、強く打った。


──


街道沿いの集落で一晩野営し、翌朝、俺たちは王都へ戻った。


書類を持って王宮に直接報告するのが依頼の最終ステップだった。だがその前に、俺はファラとの約束を果たす必要があった。


野営の夜、俺はファラに話した。


焚き火の前で、ガレンが見張りに立っていた。彼は俺たちの距離を作るために、わざと遠くに離れていた。


ファラは膝を抱えて座っていた。月明かりが彼女の金髪を青く染めていた。


「俺は別の世界から来た」


俺はそう切り出した。


ファラは何も言わなかった。


「東方じゃない。海の向こうでもない。全く違う世界だ。剣も魔法もない。代わりに鉄の馬車が走り 空には人を運ぶ鉄の鳥が飛ぶ」


「鉄の鳥」


「飛行機 と呼んでいた」


ファラはうなずいて、続きを促した。


「俺はその世界で介護福祉士をやっていた。母親が認知症で死んで 俺は最期に立ち会えなかった。それ以来 心を動かさないように生きていた」


「冷たく」


「冷たく」


「ここに来たのは」


「バスの事故で死んだ。死ぬ間際に 人生をやり直したいと願った。気がついたらこの世界の森にいた」


ファラは焚き火を見ていた。


「だからリシェル様も信じてくれたのね」


「ああ」


「あなたが嘘をつかない人 って」


俺は黙った。


「もう一つ 話す」


「なあに」


「俺と同じバスで死んだ男も この世界に来ている」


ファラが顔を上げた。


「誰」


「クラハシ・テツヤ」


ファラは息を呑んだ。


「フェルガンドの宰相」


「あの男は 元の世界では俺の上司だった。冷たい論理で人を処理する男だった。その論理がここでは軍政に応用されている」


ファラは焚き火に薪を一本足した。火の粉が舞い上がった。


「あなたと あの宰相は 同じ世界から来た 同じ職場の人間」


「ああ」


「でも あなたは ここで戦っていて あの男は あちらで戦っている」


「ああ」


ファラは俺を見た。


「あなたが あの宰相と違う側にいる理由は 何?」


その問いに俺は答えられなかった。


俺と倉橋の違いを、俺はまだ言葉にできていなかった。


ファラはそれを察したらしい。彼女は俺を責めなかった。代わりに、ぽつりと言った。


「私は嬉しい」


「何が」


「ヤノトオルが あちら側じゃなくて こちら側に来てくれたこと」


俺は何も返せなかった。


ファラは膝に顎を乗せた。月明かりに照らされた彼女の横顔は、十六歳の少女のはずなのに、もっと年老いて見えた。あるいは、もっと幼く見えた。年齢の枠から少しだけ外れた顔だった。


「ヤノトオル」


「ん」


「私 もうすぐ死ぬよ」


「ファラ」


「分かってる。怖くないって言ったら嘘になる。でも 死ぬまでにやりたいこと 見たいものは決めてある」


「海と」


「海と あなたの隣で あなたが英雄になるところを見たい」


俺は息を止めた。


「英雄なんて」


「あなたは英雄になるよ」


「俺は 英雄じゃない」


「英雄は 強い人のことじゃない」


ファラは俺を見た。


「英雄は 一人で泣いている人の隣に座れる人のこと」


その言葉が、俺の中で長く反響した。


俺は答えなかった。


火が音を立てて爆ぜた。火の粉が夜空に舞った。


遠くでガレンが見張りの位置を変える足音がした。


俺はファラの隣に座っていた。


それだけで、何かが、母さんの最期に届かなかった距離を、ほんの数センチ縮めた気がした。


──


翌日、王都に戻った。


書類を王宮の連絡係に渡すと、係官は青ざめた顔で書類を確認し、すぐに上に報告すると言って奥に消えた。


二時間後、俺たちは王宮の応接間に通された。


そこに王女がいた。


王女エミリア。十八歳。栗色の髪。緑の瞳。簡素な白いドレス。介護現場で言うところの「家族」の役割を、彼女は王国に対して担っていた。父である国王が病床に伏してから、政務の半分は彼女が引き受けていた。


「灰の翼の三名 ですね」


王女エミリアの声は若いが落ち着いていた。


「報告書 拝見しました。あなた方の働きにより 重大な情報漏洩の証拠を得ることができました」


「光栄です」


ガレンが代表して答えた。


「報酬の金貨十枚に加えて 王宮から特別褒賞を授与します」


エミリアは机に置かれた小さな袋を指した。中身は明らかに金貨だった。十枚どころではなかった。


「もう一つ お話があります」


エミリアは姿勢を正した。


「あなた方を 王宮直属の特別任務に推薦したい」


ガレンが眉を上げた。


「内容は」


「エルダーズ・シール捜索」


その単語を聞いた瞬間、俺は息を呑んだ。


エミリアは続けた。


「魔王軍の侵攻が止まりません。アルデリアは長くは保ちません。最後の希望は伝説のエルダーズ・シール。これを掲げる者だけが 真の勇者として歴代の魔王を打倒してきたとされる古代遺物です」


「魔王城の最深部にあると」


「そこに至る前に 三つの試練があります。三つの場所に分かれた断片を集めなければなりません」


「断片」


「西の山岳神殿。南の砂漠の遺跡。北の凍土の祠。それぞれに守護者がおり、試練を経た者だけが断片を授けられます」


エミリアは机から羊皮紙を取り出した。三つの場所が記された地図だった。


「過去 数十のパーティが挑み 全員帰らぬ人となりました」


「我々が成功する根拠は」


「灰の翼の戦闘力。それと──」


エミリアは俺を見た。


「ヤノトオル殿。あなたの戦闘記録を読みました。Fランクから三週間でDランクへ。単独でゴブリン群を制圧。魔王軍との初接触で一人撃破。あなたには何か 特別なものがあると感じます」


俺は答えに迷った。


エルダーズ・シール。


俺がここに来た理由の全てだった。英雄になる。誰にも認められなかった人生をやり直す。その物理的な象徴だった。


「受けます」


俺はガレンとファラに相談する前に答えてしまった。


ガレンが俺を見た。何か言いたそうな顔をしたが、結局は頷いた。


ファラも頷いた。


「準備に七日いただきます。八日目の朝に出発します」


エミリアは安堵の表情を見せた。


「叙任式を行います。出発の前に あなた方を王宮所属の名誉騎士として正式に任命します。これにより各地の関所を自由に通過できます」


「叙任式」


ガレンが小さく呟いた。


エミリアは席を立った。


「七日後にお会いしましょう」


俺たちは応接間を出た。


宮廷の長い廊下を歩きながら、俺は胸の内で繰り返していた。


エルダーズ・シール。


ようやく、俺は伝説に手をかけた。


宮廷の出口に向かいながら、俺はガレンとファラを見た。二人の表情は、俺ほど高揚していなかった。彼らは経験豊富な冒険者だった。伝説の遺物を求めて死んだパーティの話を、たぶん幾つも聞いていた。それでも彼らは、俺と共に行くと決めていた。


その事実が、俺の胸を妙に重くした。


俺は、自分のための旅に、二人を巻き込もうとしていた。


その重さを、俺はその場では、まだ言葉にしなかった。

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