1章9話 星の女神様
森の中は暗かった。
日が沈んだわけではない。木々の枝葉が空を覆い、昼の光を細かく裂いているだけだ。それでも、薄暗い森の中を進むたびに、珪は何度も背後を振り返った。
炎の音は、もう遠い。
怒号も、馬の嘶きも、剣がぶつかる音も、ほとんど聞こえなくなっていた。
けれど、安心はできなかった。
盗賊は言っていた。
ガキどもは後で探せばいい、と。
つまり、今は追ってこないだけだ。
あとで探される。見つかれば、今度こそ殺されるか、また売られる。
珪は焼けた背中の痛みに顔を歪めながら、木の幹に手をついた。
息が苦しい。
煙を吸った喉がひゅうひゅうと鳴る。殴られた頬は熱く、裂けた手首は血でべたついていた。
それでも歩いた。
隣では、ミナが珪の服の裾を掴んでいる。
檻の中で震えていた少女。
魔女の疑いをかけられた村から連れてこられ、奴隷商の馬車に乗せられていた子供。
年は十歳くらいだろうか。
足首には、枷で擦れた血が滲んでいる。ただ、裸足ではなかった。薄汚れた布靴を履いている。底は薄く、森を歩くには頼りない。それでも、ないよりはずっとましだった。
ミナは歩くたびに小さく肩を跳ねさせていた。
痛いのだろう。
それでも泣き言は言わなかった。
いや、言えないだけかもしれない。
珪も、何を言えばいいのか分からなかった。
森の中に道はない。
どちらに進めば安全なのかも分からない。街があるのか。村があるのか。川があるのか。全部分からない。
それでも、燃える檻の近くにいるよりはましだった。
「……ミナ」
声を出すと、喉が痛んだ。
ミナが顔を上げる。
「この辺りに、村とか街とかあるか」
ミナは少し考えてから、首を横に振った。
「分からない」
「分からないか」
「連れてこられる時、袋をかぶせられたから」
珪は言葉を失った。
袋。
子供の頭に袋をかぶせて、どこを通っているのか分からないように連れてきた。
想像しただけで、胸の奥が嫌な音を立てる。
「でも」
ミナが小さく言った。
「川の音は、聞こえた」
「川?」
「馬車に乗せられる前。たぶん、朝。水の音がしてた。あと、鐘の音」
「鐘……」
「村か、神殿だと思う」
神殿。
その言葉で、珪は眉を寄せた。
火刑台。
白い衣の神官。
魔女の血が厄災を呼ぶ、と叫んでいた声。
あれも神殿の人間だったのだろうか。
できれば近づきたくない。
だが、村も街も神殿の近くにあるなら、避け続けることもできない。
「鐘が聞こえた方角は分かるか」
ミナは周囲を見回した。
森の中はどこも似ている。木と草と影ばかりで、方角など分かるはずもない。
それでもミナは、しばらく耳を澄ませるように黙っていた。
「あっち……かも」
ミナが指を差す。
確信はなさそうだった。
「かも、でいい」
珪は頷いた。
「とりあえず、川か道を探そう。川があれば、人がいる場所に繋がってるかもしれない」
「うん」
「あと、足が痛かったら言え」
ミナは少し驚いたように珪を見た。
「……痛い」
「だよな」
「でも、言ったら怒られると思った」
珪は一瞬、返事に詰まった。
檻の中で、珪はミナに言った。
痛くても立て。
外で泣け。
あれは間違いではなかったと思う。
あの時、立たなければ焼け死んでいた。
でも、ミナはその言葉をまだ引きずっているのかもしれない。
「怒らない」
珪は言った。
「でも、止まるのは少しだけだ。追われるかもしれないから」
「うん」
二人は木の根元に腰を下ろした。
座った瞬間、体中の痛みが一斉に重くなる。立っている間は無理やり誤魔化していたものが、全部押し寄せてきた。
珪は自分の手首を見る。
枷で裂けた皮膚から、まだ血が滲んでいる。深い傷ではない。だが、歩くたびに袖口へ赤い染みが広がっていた。
止血。
その言葉が頭に浮かんだ。
医者ではない。
詳しい知識があるわけでもない。
ただ、学校の授業か、避難訓練か、ネットで見た何かで聞いたことがある。
血が出たら、押さえる。
傷口を、できるだけ汚さない。
強く縛りすぎると、たぶんよくない。
その程度だ。
それでも、このまま何もしないよりはましだった。
「ミナ、布を少し使っていいか」
「布?」
「破ってもいいところ」
ミナは少し迷ってから、自分の服の裾を見た。
「これ?」
「なるべく汚れてないところがいい」
珪は自分の服を見下ろした。
煤と血と泥でひどい状態だった。使えないことはないが、傷口に当てるには汚すぎる。
ミナの服も似たようなものだ。
それでも、裾の内側だけはまだましだった。
「少しだけ借りる」
珪はミナの服の裾を細く裂いた。
ミナが小さく肩を震わせる。
「痛くないだろ」
「うん。でも、怒られるかと思った」
「誰に」
「……分からない」
珪は何も言えなかった。
裂いた布を軽く払う。清潔とは言えない。だが、何もしないよりはましだ。
傷口に直接擦りつけないよう、手首の上から布を当てて押さえる。少し痛い。息が詰まる。
血は押さえれば止まる。
自分に言い聞かせるように、珪は布を巻いた。
きつく縛りすぎない。指先が冷たくなったら緩める。たぶん、そのはずだ。
次に、ミナの足首を見る。
枷で擦れた傷があった。血は滲んでいるが、深くはない。
「歩けるか」
「痛いけど、歩ける」
「なら、布を巻くだけにする。傷口に泥が入るとまずい」
「泥が入ると、どうなるの」
「悪くなる」
「悪くなる?」
「熱が出たり、腫れたりする。たぶん」
たぶん。
自信はなかった。
でも、汚れた傷が危ないことくらいは分かる。
珪はミナの足首にも布を巻いた。強く縛りすぎない。歩いたらすぐ緩むかもしれないが、枷の跡が靴の縁に擦れるよりはいい。
「ハイバラケイ、詳しいね」
ミナがぽつりと言った。
「詳しくない」
「でも、ミナより知ってる」
「前に、聞いたことがあるだけだ」
「誰に?」
「覚えてない」
嘘ではなかった。
学校だったか、テレビだったか、ネットだったか。
どこで聞いたのかは曖昧だ。
けれど、血が出たら押さえる。
汚れた傷は、できるだけ綺麗にした方がいい。
きつく縛りすぎると、たぶんよくない。
そのくらいは覚えていた。
「大人みたい」
「大人じゃない」
「じゃあ、何?」
「……分からない」
ミナは不思議そうに首を傾げた。
珪も、自分で答えられなかった。
この身体が何歳なのかも分からない。
灰原珪としての自分は高校二年生だった。
けれど今は、名前も知らない誰かの身体で、森の中に座っている。
「少なくとも、ミナよりは少しお兄さんだ」
珪はそう言って、布の結び目を軽く引いた。
不格好だった。
雑だった。
医者が見れば怒るかもしれない。
けれど、血はさっきより少しだけ止まっている。
それだけで、今はいい。
背中の火傷は見えない。
触るのも怖い。
水があれば冷やしたい。できれば綺麗な水で。だが、今はない。
汚れた布を貼りつけるのは、たぶんよくない。焦げた服を無理に剥がすのも危ない気がする。
珪は背中に伸ばしかけた手を止めた。
「背中は、触らないでおく」
「痛い?」
「痛い」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
正直に答えると、ミナが困った顔をした。
珪は小さく息を吐く。
「でも、今すぐ死ぬ痛みじゃない」
それだけで十分だった。
今すぐ死なない。
なら、大丈夫
「ミナ」
「なに?」
「怖いか」
ミナは少し黙ってから、頷いた。
「怖い」
「俺も怖い」
ミナが顔を上げた。
「ハイバラケイも?」
「ああ。怖い」
嘘をつく必要はなかった。
怖くないと言っても、ミナには伝わらない気がした。
自分の手も、足も、声も、ずっと震えている。
「でも、怖くても歩ける」
「……うん」
「さっきも、ミナは立てた。檻から出た。ここまで歩いた」
ミナは布を巻かれた足首を見た。
「泣いてた」
「泣いてても出た」
珪は言った。
「それでいい。泣いてても、怖くても、足が痛くても、前に進めたらいい」
自分に言い聞かせているようでもあった。
死にたくない。
怖い。
何も分からない。
それでも、見る。考える。歩く。
それしかない。
「街か村まで行けば、誰かがいる」
「悪い人だったら?」
「その時は、また逃げる」
「また?」
「また」
珪は頷いた。
「逃げるのは、悪いことじゃない。生きるためなら、何回でも逃げていい」
ミナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「じゃあ、逃げる」
「ああ」
「でも、ひとりは嫌」
ミナは珪の服の裾を掴んだ。
その手は小さく、ひどく頼りなかった。
年下の女の子。
そう思った瞬間、胸の奥に少しだけ力が入った。
自分も怖い。
本当は誰かに助けてほしい。
けれど、少なくとも今は、自分がこの子の前に立たなければならない。
「今は、ひとりじゃない」
珪は言った。
「街か村までは、一緒に行く」
ミナは少しだけ目を丸くした。
それから、また小さく頷いた。
「うん」
二人は立ち上がった。
珪は巻いた布の感触を確かめる。痛みは消えない。だが、血は少しだけ止まっている。
ミナも、足を引きずりながら立った。
森の奥へ進む。
しばらく歩くと、ミナがぽつりと言った。
「ハイバラケイ」
「何だ」
「ミナの村は、麦畑があった」
「麦畑」
「あと、白い塔。星の女神さまの塔」
珪の足が止まりかけた。
「星の女神?」
ミナは頷いた。
「知らないの?」
「……知らない」
知らない。
だが、頭の奥に浮かぶものがあった。
昼なのに星が降る草原。
海色のドレスを着た女。
真珠のような白い肌。
天寿をまっとうして見せろ、と笑った声。
あの女はが思い浮かんだ。
「星の女神さまは、弱い人を見てくれるんだって」
ミナはそう言った。
「……弱い人を?」
「うん」
ミナは小さく頷く。
「泣いても誰も来てくれない時、空に星が見えたら、女神さまが見てるって。お母さんが言ってた」
珪は喉の奥が詰まるのを感じた。
星。
弱い者。
見ている女。
その三つが、頭の中で嫌な音を立てて繋がりかけていた。
ミナが祈る女神と、あの草原で笑っていた女が同じものなのかは分からない。
分からないが、無関係だとは思えなかった。
「その女神って、名前はあるのか」
「名前?」
「星の女神さまの名前」
ミナは少し考えてから、首を横に振った。
「知らない。村では、星の女神さまって呼んでた」
「……そうか」
珪はそれ以上、何も言えなかった。
あの女が神なのかは分からない。
ミナが祈る優しい女神と、あの草原で自分を見下ろしていた女が同じものなのかも分からない。
けれど、もし同じなら。
この世界の人間は、あの女に何を祈っているのだろう。
助けてください。
見捨てないでください。
生きたいです。
そんな願いを。
あの女は、どんな顔で見ているのだろう。
想像して、胸の奥が少し冷えた。
「ミナの村の人も、その女神に祈ってたのか」
「うん」
ミナは頷いた。
「黒い雨が止みますようにって。畑が腐らないようにって。子供が熱で死なないようにって」
黒い雨。
腐る畑。
熱で死ぬ子供。
火刑台で神官が叫んでいた言葉が、珪の頭の奥で繋がった。
「それで、魔女って言われたのか」
ミナは小さく頷いた。
「神官さまが来た。魔女の血が厄災を呼んだって」
「村に魔女がいたのか」
「知らない」
ミナは首を振る。
「みんな、知らないって言ってた。お母さんも、お父さんも、村長さんも。知らないって。でも、神官さまは、魔女を隠す気だって」
珪は奥歯を噛んだ。
何だ、それ。
全部、最初から決まっている。
魔女の子が焼かれた時と同じだ。
何をしたかではない。
何だと信じられているかで殺される。
「大人たちは、連れていかれたのか」
「うん」
「ミナは?」
「子供は売れるって、兵士が言ってた」
ミナは淡々と言った。
泣き疲れた声だった。
「だから、生きてる」
その言葉が、やけに重かった。
生きている。
けれど、それは助かったという意味ではない。
売れるから残された。
商品になるから殺されなかった。
珪は何も言えなかった。
「……他にも、子供はいたのか」
ミナは首を横に振った。
「分からない。袋をかぶせられてたから。でも、泣いてる声はした」
「そうか」
珪は目を閉じた。
助けられたのは、ミナだけだ。
檻の中にいた女と子供も逃げた。老人も、髭の男も逃げた。
でも、それ以外は分からない。
ミナの村の大人たちはどうなったのか。
他の子供たちはどこへ売られたのか。
知らない。
分からない。
何もできない。
それでも、ミナだけは今ここにいる。
目の前の一人を見失ったら、今度こそ何も残らない。
「街か村に着いたら、どうする」
珪が聞くと、ミナは困ったように目を伏せた。
「分からない」
「親戚とかは」
「分からない」
「頼れる人は」
「いない」
短い返事だった。
珪は頭を抱えたくなった。
自分も同じだ。
この世界に頼れる人間などいない。
金もない。
身分もない。
この身体の名前も知らない。
逃げた奴隷。
火傷だらけの少年。
魔女の村から連れてこられた少女。
街や村に着いたところで、助かる保証なんてない。
「じゃあ、まずは水だ」
珪は言った。
「水?」
「川を探す。水があれば、傷を洗える。飲めるかは分からないけど、何もないよりはいい」
「うん」
「その後、道を探す。道があれば、人が通る」
「人がいたら?」
「隠れて見る」
「話さないの?」
「いきなり話さない。いい人か悪い人か分からないから」
ミナは小さく頷いた。
「見るんだね」
「そう」
珪は少しだけ息を吐いた。
「まず、見る」
それは、自分に言い聞かせている言葉だった。
叫ぶ前に。
縋る前に。
諦める前に。
見る。
考える。
拾う。
そうしなければ、また何もできずに死ぬ。
森の奥で、かすかに水音が聞こえた気がした。
珪は足を止める。
「聞こえるか」
ミナも耳を澄ませる。
しばらくして、こくりと頷いた。
「水の音」
「あっちだ」
二人は音のする方へ歩き出した。
足元の草が濡れている。
地面が少し柔らかい。
近い。
川か、沢か。
どちらでもいい。
水がある。
その事実だけで、少しだけ胸が軽くなった。
だが、その時だった。
遠くで、何かが吠えた。
犬。
いや、狼かもしれない。
森の奥に、低い声が響く。
ミナがびくりと肩を震わせ、珪の服を強く掴んだ。
珪も息を止めた。
追手か。
盗賊が犬を使っているのか。
それとも、ただの獣か。
分からない。
分からないが、安全ではない。
珪はミナの手を握った。
「走らない」
小声で言う。
「音を立てると見つかるかもしれない。ゆっくり、水の方へ行く」
ミナは必死に頷いた。
もう一度、遠くで吠え声がした。
さっきより、少し近い気がした。
珪は喉の奥に溜まった恐怖を飲み込む。
檻から逃げた。
火から逃げた。
でも、まだ終わっていない。
今日死ぬはずだった身体。
その死は、まだどこかでこちらを待っている。
それでも、今は歩く。
隣にいる小さな手を、離さないように。
珪はミナを連れて、暗い森の奥へ進んだ。




