1章8話 燃える檻
炎が、檻の隅を舐め始めた。
乾いた藁に火が移り、黒い煙が一気に膨らむ。鼻の奥が焼けた。喉が縮む。息を吸うたびに、火刑台の記憶が肺の奥から這い上がってくる。
嫌だ。
火は嫌だ。
もう、あれは嫌だ。
珪は床に倒れたまま、必死に息を止めようとした。だが身体は勝手に空気を求める。吸えば煙が入る。咳が出る。涙が滲む。
檻の中で少女が悲鳴を上げていた。女は子供を抱きしめ、身を丸めている。髭の男は鎖を引き千切ろうと唸っていた。
その中で、片目の老人だけが動いていた。
血と煤で汚れた手が、珪の投げた鍵束を掴む。何本もある鍵の中から一本を選び、手枷へ差し込む。違う。回らない。また別の鍵を選ぶ。
遅い。
火は待ってくれない。
珪は咳き込みながら、床に手をついた。視界が揺れる。護衛に殴られた頬が熱い。口の中には血の味が広がっている。
それでも、目は逸らさなかった。
見る。
考える。
今、何が必要か。
老人が鍵を選んでいる。髭の男は力がある。女は子供を抱えている。少女は動けない。外では護衛と盗賊が斬り合っている。
鍵。
順番。
誰から外す。
全員の枷を一つずつ外していたら間に合わない。
まず、動ける人間。
髭の男だ。
「じいさん……!」
珪は声を張った。喉が煙に削られ、声が掠れる。
「そいつを先に!」
老人の片目がこちらを向く。
珪は髭の男を指した。
「力がある! そいつが動ければ、檻を壊せるかもしれない!」
「俺を先に外せってか」
髭の男が、驚いたようにこちらを見た。
「お前、俺が逃げるだけかもしれねぇぞ」
「逃げればいい!」
珪は叫んだ。
「でも、穴を開けてから逃げろ!」
髭の男は一瞬、ぽかんとした。
それから、歯を剥き出しにして笑った。
「いい度胸してるじゃねぇか、小僧」
「笑ってる場合か!」
珪が怒鳴った直後、老人の手元で鍵が回った。
がちゃり、と音がした。
髭の男の右手の枷が外れる。
「足も!」
「急かすな。手元が狂う」
「火が来てる!」
「見えておるわ」
老人の声は震えていなかった。煙で咳き込みながらも、次の鍵を差し込んでいる。
老人が鍵を回す。
髭の男の足枷が外れた瞬間、男は獣のように跳ね起きた。自由になった腕で、檻の後ろ側にある扉へ飛びつく。
だが、すぐに舌打ちした。
「開かねぇ!」
檻の扉は馬車の後ろ側にあった。
けれど、鍵穴も閂も外側だ。中から鍵束を握っていても、扉そのものにはまともに手が届かない。
枷は外せる。
だが、檻は開かない。
「ふざけんな!」
髭の男が扉を蹴る。
木枠が軋んだ。
もう一度蹴る。鉄の補強が嫌な音を立てる。だが、外側の閂はびくともしない。
無理か。
そう思った瞬間、珪は檻の隅を見た。
火が移った木枠。
炎で焦げ、黒く脆くなり始めている。
扉じゃない。
あそこだ。
「扉じゃない!」
珪は叫んだ。
「燃えてるところ! そこを壊せ!」
髭の男が振り返る。
「あそこなら、木が脆くなってる!」
「煙吸いすぎて頭おかしくなったか!」
「いいからやれ!」
髭の男は一瞬だけ珪を睨んだ。
だが、すぐに燃えている木枠へ向き直る。
「じじい、何か寄越せ!」
老人は外れた手枷を鎖ごと掴み、髭の男へ投げた。
男はそれを受け取ると、燃え始めた木枠へ叩きつける。
一度。
二度。
三度。
焦げた木が割れた。炎が散る。髭の男の腕に火の粉が飛ぶが、男は構わず叩き続ける。
穴が開いた。
人が一人、身体を捻れば通れる程度の穴。
外へ出られる。
女が息を呑んだ。
少女が顔を上げた。
珪の胸が一瞬だけ震えた。
いける。
逃げられる。
今度は、本当に。
「まず、お前が出ろ!」
珪が叫ぶと、髭の男が振り返った。
「最初からそのつもりだ!」
「出たら外で受け取れ! 子供と女を!」
「ああ?」
髭の男の顔が歪む。
「俺に子守りさせんのかよ!」
「お前しか外で受け取れない!」
「知るか! 俺は逃げるぞ!」
「逃げるなら逃げろ! でも一人受け取ってから逃げろ!」
髭の男は一瞬だけ、珪を睨んだ。
炎の音が大きくなる。
女が子供を抱いたまま咳き込み、ミナが檻の隅で震えている。
髭の男は盛大に舌打ちした。
「……一人だけだ。落としても文句言うなよ!」
「それでいい!」
髭の男は穴へ身体をねじ込み、外へ転がり出た。
すぐに身を低くして周囲を見る。
護衛も盗賊も、まだ荷台の方で斬り合っている。
「寄越せ! 早くしろ!」
女は子供を抱いたまま動けずにいた。
珪は這って近づき、女の腕に触れた。
「子供を」
「でも、この子が」
「先に子供を出して」
自分でも驚くほど、声は震えていた。
それでも、女は珪を見て、子供を差し出した。
髭の男が穴の外から子供を受け取る。子供は咳き込んでいたが、生きている。
次に女。
老人が女の枷を外す。女は腕を焦がしながら穴をくぐる。髭の男が乱暴に引っ張り出した。
「次、ガキ!」
髭の男が外から怒鳴る。
檻の隅の少女は動けなかった。
膝を抱えたまま、火を見て震えている。
「立て!」
老人が怒鳴る。
少女は泣きながら首を振った。
「むり……足、痛い……」
火が近い。
珪は少女の前まで這った。
「名前は」
少女は泣きながら珪を見る。
「……ミナ」
「ミナ、立て」
「むり……」
「痛くても立て!」
自分でも驚くほど、声が荒れた。
少女の瞳に、炎が映っている。
「ここにいたら焼ける」
その言葉だけは、低くなった。
「焼けるのは、痛いぞ」
ミナの顔が強張った。
珪は火刑台を思い出していた。
足先が炭になっていく感覚。喉が煙で塞がる感覚。死にたくないのに、早く終わってほしいと願ったこと。
「だから立て。外で泣け」
ミナは震えながら、珪の手を掴んだ。
老人がすぐに少女の足枷へ鍵を差し込む。数秒が、異様に長かった。
鍵が回る。
ミナの枷が外れた。
「行け!」
珪はミナの背中を押した。
ミナはよろけながら穴へ向かう。途中で転びかける。珪はもう一度背中を押した。
髭の男が外から少女の腕を掴み、引きずり出す。
「次、じいさん!」
珪が叫ぶ。
「お前が先に行け」
老人が言った。
珪は首を振る。
「俺は最後でいい」
「格好をつけるな。わしはもうまともに動けん」
「だから最後でいいんだよ」
老人が一瞬黙る。
その間にも、炎は天井へ伸びていた。檻の中の空気が熱い。肌が焼ける。珪の視界が滲む。
「俺が穴のところにいた方が、外に出る人を押せる」
「死ぬぞ」
「まだ死んでない」
老人は片目で珪を見た。
何かを言いかけて、やめた。
そして、自分の足枷を外すと、穴へ向かう。
「小僧」
「何ですか」
「名は」
珪は一瞬、息を止めた。
この身体の名は知らない。
だが、答えられる名は一つだけあった。
「灰原、珪」
「ハイバラ……ケイ」
老人は聞き慣れない音を繰り返し、小さく頷いた。
「妙な名じゃ」
「よく言われます」
「生きておったら、また聞かせろ」
老人はそう言って、穴をくぐった。
外から髭の男が老人を引きずり出す。
残ったのは、珪だけだった。
火が、すぐそこまで来ていた。
熱い。
熱い。
熱い。
身体が勝手に後ずさろうとする。けれど後ろは火だ。前も火だ。煙で何も見えない。
外から声がした。
「小僧! 早くしろ!」
髭の男の声だ。
珪は這って穴へ向かった。
腕が動かない。手首は裂け、血で滑る。さっき殴られた頭がぼんやりしている。
それでも、穴の縁に手をかけた。
外の空気が見える。
土の匂い。
血の匂い。
草の匂い。
炎ではない空気。
あと少し。
珪は身体を押し込んだ。
焼けた木枠が背中に触れる。
「っ、あああああ!」
肉が焼ける匂いがした。
自分の身体の匂いだった。
叫びながらも、珪は前へ進む。
外から誰かが腕を掴んだ。
髭の男だった。
「踏ん張れ!」
「無理、だ……!」
「無理でも出ろ!」
力任せに引っ張られる。
肩が抜けるような痛みが走った。
次の瞬間、珪の身体は地面へ転がった。
外だった。
檻の外。
燃える木の檻を背に、珪は土の上に倒れ込んだ。
空気がある。
煙ではない。
火刑台ではない。
生きている。
まだ、生きている。
「立て!」
髭の男が珪の襟を掴んだ。
「ここで寝たら盗賊に斬られるぞ!」
分かっている。
だが、身体が動かない。
周囲ではまだ戦いが続いていた。護衛は盗賊の相手で手一杯だった。荷台に群がる者。馬を奪おうとする者。倒れた護衛から剣を剥ぐ者。誰も奴隷たちを追っていない。
今なら逃げられる。
今だけなら。
「散れ!」
老人が叫んだ。
「一箇所に固まるな! 森へ走れ!」
髭の男は女と子供を一瞥した。
助ける気はない、と言っていた男だった。
だが、子供を抱いた女がよろけると、舌打ちして子供を奪うように抱えた。
「走れ、女!」
「でも」
「でもじゃねぇ!」
男は子供を抱えたまま森へ走った。
女が泣きながら追う。
ミナは立ち尽くしていた。老人がその背を叩く。
「行け!」
「おじいさんは」
「わしは勝手に逃げる!」
ミナが走る。
老人も反対方向へ走り出した。
散り散りに。
それぞれが、自分の命を抱えて逃げていく。
珪は地面に手をつき、必死に身体を起こした。
逃げろ。
自分も。
今なら逃げられる。
盗賊も護衛も、誰もこちらを見ていない。
珪は立ち上がろうとして、膝から崩れた。
足に力が入らない。
煙を吸いすぎた。殴られた。焼かれた。血も流れている。
でも、まだ死んでいない。
死んでいないなら、動け。
珪は歯を食いしばり、地面を掴んだ。
その時、背後で馬が暴れた。
燃える檻の横に繋がれていた馬が、炎に怯えて嘶く。馬車が大きく揺れ、燃えた木材が崩れ落ちる。
盗賊の一人が叫んだ。
「おい、奴隷が逃げてるぞ!」
気づかれた。
珪の心臓が跳ねる。
だが、すぐに別の怒号が飛ぶ。
「放っとけ! 荷を先に押さえろ!」
「ガキどもは後で探せばいい!」
後で。
その言葉が、冷たく残った。
今は逃げられる。
でも、後で追われる。
森に入っても終わりじゃない。
それでも、今ここで焼け死ぬよりはいい。
珪は立ち上がった。
一歩。
足が震える。
二歩。
背中が焼けるように痛む。
三歩。
呼吸がひゅうひゅうと鳴る。
目の前には森がある。
黒く、深く、どこへ続くのか分からない森。
怖い。
でも、火よりはましだ。
珪は走った。
走った、というより、転がるように前へ進んだ。
草むらに飛び込み、枝で頬を切り、泥に足を取られながら、それでも檻から離れる。
あの中に、もう誰もいない。
その事実だけが、珪の胸を強く打った。
助かった。
少なくとも、今は。
女も。
子供も。
ミナも。
老人も。
髭の男も。
全員、檻の中では死ななかった。
珪は木の幹に手をつき、荒く息を吐いた。
肺が痛い。喉が焼ける。身体中が悲鳴を上げている。
けれど、生きている。
珪も、生きている。
初めてかもしれない。
誰かを助け、自分もまだ死んでいない。
そう思った瞬間、膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ちる。
「……生き、てる」
掠れた声が漏れた。
笑いそうになった。
泣きそうにもなった。
だが、次の瞬間、近くの茂みが揺れた。
珪は息を止める。
誰かいる。
盗賊か。
護衛か。
逃げた誰かか。
身体は動かない。
逃げられない。
枝を踏む音が近づく。
珪は震える手で、地面の石を掴んだ。
武器にもならない小石。
それでも、何もないよりはましだった。
茂みの向こうから、小さな影が現れた。
少女だった。
ミナ。
檻の隅で震えていた、あの少女。
彼女は珪を見つけると、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「ハイバラ、ケイ……!」
聞き慣れない発音で、少女が名前を呼んだ。
珪は、少しだけ目を見開いた。
この世界で初めて、自分の名前を呼ばれた気がした。
身体の名ではない。
誰かの器の名でもない。
灰原珪。
自分の名前。
「……逃げろって、言っただろ」
「ひとりじゃ、分からない」
ミナは震えながら言った。
「森、怖い」
珪は何も言えなかった。
自分だって怖い。足も震えている。今すぐ誰かに助けてほしい。
でも、ミナは珪の服を掴んでいた。
助けを求める手だった。
守ってくれと縋る手だった。
重い。
怖い。
逃げたい。
けれど、振り払えなかった。
珪は小石を捨て、木の幹に手をついて立ち上がる。
「……歩けるか」
ミナは小さく頷いた。
「じゃあ、歩く。走れなくてもいい。音を立てないで、檻から離れる」
「どこへ」
「分からない」
正直に言った。
「でも、ここにいたら見つかる」
ミナは唇を噛み、珪の服を掴む手に力を込めた。
珪は森の奥を見た。
暗い。
道はない。
どちらが安全かも分からない。
それでも、檻は燃えた。
他の奴隷たちは逃げた。
自分も、まだ生きている。
なら、次を見る。
次を考える。
死はまだ来ていない。
来ていないなら、歩くしかない。
珪はミナの手を引き、森の奥へ足を踏み出した。
背後では、まだ炎と怒号が上がっていた。
けれど、その音は少しずつ遠ざかっていく。
今日死ぬはずだった檻から、珪たちは逃げ出した。
その先に何が待っているのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ、分かることがある。
あの檻の中で死ぬはずだった誰かの今日を、確かに少しだけ先へ押し出した。
それだけで、今は十分だった。




