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1章7話 檻の中の道

 世界が、泥の色に沈んだ。

 刃が落ちた感覚は、すぐには消えなかった。腹を裂かれた痛み。雨に濡れた地面の冷たさ。胸元の書筒を押さえた指の感触。黒い鷲の紋章。敵兵の声。

 渡す、かよ。

 自分のものとは思えないほど掠れた声が、まだ耳の奥に残っていた。

 死んだ。また死んだ。それを理解するより早く、珪は息を吸った。


「っ、ぐ……!」


 喉に空気が入った。

 煙ではない。雨でもない。土と汗と獣の匂いが混じった、ひどく淀んだ空気だった。

 反射的に身体を起こそうとして、何かが手首に食い込んだ。じゃら、と音がする。金属の音。鎖だ。


「う、あ……」


 声が漏れる。今度の声は、少し高い。子供ではない。だが、大人とも言い切れない。喉が乾いていて、声を出すだけで痛かった。

 珪は目を開けた。

 暗い。

 真っ暗ではない。木の隙間から、細い光が何本も差し込んでいる。光は揺れていた。身体も揺れていた。地面が動いているわけではない。自分が乗せられているものが、絶えず軋みながら進んでいる。

 車輪の音。馬の蹄。古い木材が悲鳴を上げる音。それらが重なって、頭の奥を鈍く叩いていた。

 馬車。

 そう思った瞬間、胃の奥が縮んだ。

 珪は慌てて周囲を見た。

 木の檻だった。太い木枠が格子のように組まれ、その外側を錆びた鉄で補強してある。床には藁が薄く敷かれているが、湿っていて、腐った匂いがした。

 手首には鉄の枷。足首にも枷。鎖は床の金具に繋がっている。長さは、ぎりぎり座り直せる程度しかない。

 逃げられない。

 その事実が分かっただけで、呼吸が速くなる。

 まただ。

 また、逃げられない場所だ。

 断頭台。牢。火刑台。戦場。今度は檻。

 頭の奥で、何かが壊れそうになる。叫びそうになった。助けて、と。出してくれ、と。俺は何も知らない、と。

 だが、喉まで出かかった声を、珪は歯で噛み殺した。

 叫んでも、何も変わらなかった。

 牢で叫んだ。縋った。命乞いをした。誰も助けなかった。火は消えなかった。戦場で泣いていたら、書筒の意味にも気づけなかった。

 叫ぶな。

 見る。

 まず、見る。

 珪は震える息を吐いて、ゆっくり周囲を見回した。

 檻の中には、自分以外にも人がいた。

 向かい側に、痩せた女が座っている。年は分からない。三十にも四十にも見えた。髪は乱れ、頬はこけ、胸に幼い子供を抱いている。子供は眠っているのか、ぐったりしているのか分からない。

 その隣には、肩幅の広い男。髭だらけの顔に痣があり、目だけがぎらついている。両手を枷に繋がれながら、こちらをじっと見ていた。

 奥には、老人が一人。片目に布を巻いている。白い髭は汚れ、背は曲がっていたが、目つきは妙に鋭い。

 そして檻の隅に、小さな影。十歳くらいの少女だった。膝を抱え、顔を伏せている。裸足の足首には枷があり、擦れた皮膚から血が滲んでいた。

 五人。

 自分を入れて、六人。

 珪は数えた。

 女。子供。髭の男。片目の老人。少女。自分。

 この身体は誰だ。

 手を見る。細い。魔女の子ほど小さくはないが、戦場の伝令兵よりは頼りなかった。爪は割れ、指の節には古い傷がある。手の甲に、黒ずんだ焼き印のようなものがあった。文字か、紋章か。意味は分からない。

 服は粗末な布。腰には何もない。武器もない。荷物もない。名前も、ない。

 分かることは、鎖に繋がれていることだけだった。


「起きたか」


 低い声がした。

 片目の老人だった。珪は反射的に肩を跳ねさせる。老人はこちらをじっと見ていた。その目は濁っていない。諦めきった目でもなかった。観察する目だ。


「……ここは」


 言いかけて、珪は止まった。

 ここはどこだ。そう聞いてもいいのか。この身体の主なら、知っていて当然かもしれない。知らないと言えば、怪しまれる。

 けれど、何も分からないまま黙っていても死ぬ。

 いつもそうだった。何も分からないまま死んだ。断頭台では何もできず、火刑では何も変えられず、戦場では何かを掴んだ気がしただけで終わった。

 知らないなら、聞くしかない。

 珪は乾いた唇を舐めた。


「ここは、どこですか」


 檻の中の空気が、わずかに変わった。

 髭の男が鼻で笑う。


「頭でも打ったか、小僧」


 小僧。

 この身体は男らしい。少なくとも、そう見える年頃の身体。

 珪はその情報だけを拾う。

 片目の老人は、髭の男を一瞥してから答えた。


「奴隷商の馬車だ」


 奴隷。

 その言葉が、腹の奥に重く落ちる。

 珪は枷を見た。分かっていた。分かっていたはずだ。檻。鎖。馬車。それでも、言葉にされると息が詰まった。


「どこに、向かってるんですか」


「東だ」


「東……」


「ヴァエストリアの東端。国境近くの市へ向かっておる」


 ヴァエストリア。

 聞いた名だった。

 火刑台で、神官が言っていた。ヴァエストリア聖王国。黒き雨。魔女の血。厄災。

 そして戦場でも、敵兵が言っていた。ヴァエストリアの残りを探せ。書筒を持った伝令。黒鷲の陣。

 情報が、ばらばらの破片のように頭の中で鳴る。

 ここも、同じ世界だ。

 少なくとも、ヴァエストリアという国がある世界。魔女の子が焼かれた国。伝令兵が死んだ国。そして今、自分はその国のどこかで、奴隷商の馬車に乗せられている。


「おい」


 髭の男が言った。


「お前、本当に何も覚えてねぇのか」


 珪は男を見る。

 男の目には、苛立ちと警戒が混じっていた。味方ではない。だが、すぐ殺しに来る敵でもない。少なくとも今は、同じ檻の中にいる。


「……覚えてない」


 嘘ではない。

 この身体のことは、本当に何も覚えていない。

 髭の男は舌打ちした。


「使えねぇな。売られる前に頭が壊れたか」


 売られる。

 その言葉で、胸の奥が冷える。

 この身体は、今日売られるのか。それとも、その前に死ぬのか。

 今日死ぬはずだった身体。

 女はそう言っていた。

 珪が入るのは、今日死ぬはずだった者の身体。

 なら、この身体も今日死ぬ。

 奴隷として売られる前か。売られた後か。この馬車の中か。道の途中か。

 珪は檻の外を見た。

 格子の隙間から、道が見える。乾いた土。背の低い草。遠くに黒い森。空は曇っている。

 馬車は二台。今いる檻馬車の前に、荷台が一つ。その横を、剣を下げた男が歩いている。奴隷商の護衛だろうか。

 数は。

 珪は身を低くしながら、できる限り外を見る。

 一人。二人。前方に御者。後ろにもう一人。少なくとも四人。全員が武器を持っている。

 こちらは鎖に繋がれた六人。

 逃げられるわけがない。

 また、その結論が頭をよぎる。

 無理だ。どうせ死ぬ。

 そう思った瞬間、火刑台の熱が足先に蘇った。

 死にたくない。

 まだ死にたくない。

 けれど、死ぬ。

 この身体は今日死ぬ。

 珪は震える手を握り込んだ。

 死ぬのは、たぶん避けられない。

 今まで一度も避けられなかった。断頭台の男も、魔女の子も、伝令兵も死んだ。

 なら、次に考えるのは。

 何を残せるか。

 誰を。

 珪の視線が、檻の隅の少女に止まった。

 少女は顔を伏せたまま、膝を抱えている。その隣で、女が抱いている子供はまだ動かない。

 死んでいるのか。

 いや、胸がわずかに上下している。

 生きている。

 珪は息を吐いた。自分でも分からない。なぜそこで少しだけ安心したのか。


「……あの子は」


 珪が小さく言うと、片目の老人が目だけで少女を見た。


「昨日、村から連れてこられた」


「村?」


「魔女の疑いをかけられた村だ」


 心臓が嫌な音を立てた。

 魔女。

 また、その言葉。

 少女がぴくりと肩を震わせる。老人は声を落とした。


「大人は大方、焼かれた。子供は売れる。そういうことじゃ」


 珪は何も言えなかった。

 火刑台の煙が、喉の奥に蘇る。

 魔女の子。

 灰になるまで焼かれた、名前も知らない子供の身体。

 あの子も、こうして誰かに売られていれば生きたのだろうか。

 いや。

 そんなことを考えても意味はない。

 あの子は死んだ。自分が死なせたわけではない。でも、自分はあの身体で死んだ。その事実だけが残っている。


「お前、顔色が悪いぞ」


 老人が言った。


「……大丈夫です」


「大丈夫な奴は、ここにはおらん」


 老人は乾いた声で笑った。笑ったが、楽しそうではなかった。

 馬車が大きく揺れる。

 女の腕の中で、子供が小さく呻いた。


「水……」


 か細い声だった。

 女は慌てて子供を抱き直す。


「すみません、水を。少しでいいんです」


 格子の外へ向かって、女が言う。

 返事はなかった。護衛の一人がちらりとこちらを見るだけで、すぐ前へ向き直る。


「お願いします。この子、熱が」


「黙れ」


 護衛が短く言った。

 女はそれでも食い下がる。


「少しだけでいいんです。売り物でしょう。このままじゃ」


「黙れと言った」


 護衛が馬車に近づく。

 格子の隙間から、槍の柄が突き込まれた。女の肩に当たる。


「うっ」


 女が子供を庇って丸くなる。

 珪の身体が、反射的に動きかけた。鎖が鳴る。だが、届かない。檻の端まで行くことすらできない。

 護衛の目が、珪へ向く。


「何だ、小僧」


 珪は歯を食いしばった。

 何もできない。

 ここで睨んでも意味がない。殴られるだけだ。殺されるかもしれない。

 いや、どうせ今日死ぬなら。

 違う。

 無駄に死ぬな。

 まだ何も見ていない。まだ何も掴んでいない。

 珪は拳を握ったまま、視線を落とした。

 護衛は鼻で笑い、槍を引っ込める。


「市まで持てばいい。途中で死ぬなら、そこまでの商品だ」


 商品。

 その言葉に、檻の中の誰も反応しなかった。反応する力がないのか。慣れてしまったのか。

 珪だけが、奥歯を噛み締めていた。


「……水は」


 小さく呟いた。

 片目の老人がこちらを見る。


「何か持ってないんですか」


「持っていたら、とっくに飲んでおる」


「外には」


「樽がある。前の荷台だ」


 老人は顎で前を示した。

 珪は格子の隙間から前方を見る。

 荷台。布をかけられた荷。その横に、木の樽が二つ。水かどうかは分からない。でも、護衛たちが途中で飲むなら水だ。

 距離はある。

 鎖は短い。

 檻から出られない。

 無理だ。

 珪は目を閉じた。

 無理。できない。知らない。怖い。痛い。死にたくない。

 頭の中に、今までの自分の声が重なる。

 でも、戦場で自分は敵兵の手首を掴んだ。渡すかよ、と言った。

 何の意味があったのかは分からない。書筒を守れたのかも分からない。

 けれど、ただ死ぬだけではなかった。

 今度も、見る。

 考える。

 動けるものを探す。

 珪は自分の鎖を見た。

 手首の枷。足首の枷。床の金具。錆びているが、太い。素手では外せない。

 次に、檻の木枠。古い。一部が割れている。しかし人が通れるほどではない。

 少女の枷。女の枷。老人の枷。髭の男の枷。全員、同じように繋がれている。

 鍵は外。

 護衛の腰か、御者か。

 珪は護衛たちの腰を見る。

 一人の腰に、鍵束らしきものが見えた。歩くたびに、小さな金属音がする。

 鍵。

 あれがあれば、枷が外れるかもしれない。

 だが、どうやって取る。

 檻の中からは届かない。外に出るには鍵がいる。鍵を取るには外に出る必要がある。

 馬鹿みたいな袋小路だった。

 珪は額を木枠に押し当てる。

 木の匂い。汗。血。土。

 その奥に、別の匂いが混じっている。

 焦げたような匂い。

 珪は顔を上げた。


「……煙?」


 小さく呟く。

 片目の老人が目を細めた。


「鼻が利くな」


「煙の匂いがする」


 老人は黙って外を見た。

 髭の男も、初めて真面目な顔をする。


「おい、じじい」


「騒ぐな」


「煙って、何だよ」


 老人は答えない。

 珪は格子の隙間から、進行方向を見る。

 道の先。黒い森の手前。空へ細い煙が上がっている。

 焚き火か。

 野営か。

 村か。

 それとも。

 馬車の外で、護衛の一人が御者へ声をかけた。


「煙だ」


「ああ」


「誰かいるぞ」


「盗賊か?」


「この辺りなら、いてもおかしくない」


 盗賊。

 檻の中で、女が息を呑んだ。少女が顔を上げる。髭の男が低く唸った。


「まずいな」


 片目の老人が呟く。

 珪は老人を見る。


「盗賊が出るんですか」


「この道はな」


「奴隷商を襲うんですか」


「奴隷商だから襲うんじゃ。荷も馬も人も売れる」


 老人は淡々と言った。


「だが、奴隷は邪魔になることもある」


「邪魔?」


「逃げられぬ奴隷を連れて逃げるのは手間じゃ。檻ごと焼く。あるいは、斬る。死体になれば追ってこぬ」


 檻ごと焼く。

 その言葉で、珪の身体が固まった。

 火刑台。薪。煙。焼ける足。死にたいわけじゃないのに、早く終わってほしいと願った炎。

 呼吸が乱れる。

 嫌だ。

 火は嫌だ。

 もう嫌だ。

 だが、視界の端で少女が震えているのが見えた。女が子供を抱きしめている。老人が外を睨んでいる。髭の男が鎖を引いている。

 ここにいる全員が、死ぬかもしれない。

 いや。

 珪は唇を噛んだ。

 違う。

 この身体は今日死ぬはずだった。

 だが、この檻の中の全員がそうとは限らない。

 それでも、盗賊が来れば死ぬ。自分だけではない。他の誰かも。

 珪は、自分の手を見た。

 細い手。力のない手。誰かの身体。名前も知らない、今日死ぬはずだった身体。

 この身体で、何ができる。

 何もできないかもしれない。

 また失敗するかもしれない。

 また誰も助けられないかもしれない。

 でも。

 戦場の泥の中で、珪は書筒を押さえた。渡すかよ、と言った。

 火刑台では何もできなかった。

 でも今は、まだ火は来ていない。まだ刃も届いていない。まだ、見えている。

 なら、考えろ。

 自分が今日死ぬ理由。

 この檻が燃える理由。

 誰が鍵を持っているか。

 どうすれば一人でも外へ出せるか。

 珪は片目の老人へ顔を向けた。


「鍵を取れれば、枷は外せますか」


 老人の目がわずかに開く。


「……お前」


「外せますか」


「鍵が合えばな」


「檻の扉も?」


「同じ束なら、おそらく」


 珪は護衛の腰を見た。

 鍵束。

 距離。

 格子の隙間。

 届かない。

 でも、盗賊が来れば護衛は乱れる。馬車が止まる。誰かが近づく。檻が開けられるかもしれない。

 燃やされる前に。

 斬られる前に。

 その一瞬。

 そこで、動くしかない。


「盗賊が来たら、馬車は止まりますよね」


「止まるじゃろうな」


「護衛は檻から離れる?」


「状況による」


「盗賊は奴隷をすぐ殺しますか」


「金になると思えば殺さん。邪魔だと思えば殺す」


「じゃあ、殺される前に、檻を開けさせる必要がある」


 髭の男が笑った。


「どうやってだよ、小僧。お前が泣いて頼むのか?」


 珪は男を見た。

 怖い。

 正直、怖い。

 この男も信用できない。だが、力はありそうだった。鎖さえ外れれば、珪よりずっと動ける。


「あなた、枷が外れたら戦えますか」


 髭の男の笑みが消えた。


「……何?」


「戦えるかって聞いてます」


「小僧」


「俺は戦えない」


 珪は正直に言った。


「走るのも遅い。たぶん力もない。武器も使えない」


「だろうな」


「でも、見ることはできます」


 髭の男が黙る。

 片目の老人も、こちらを見ていた。


「鍵を取る方法を探す。檻が燃やされる前に。誰かが斬られる前に。もし枷が外れたら、あなたが動いてください」


「命令か」


「お願いです」


 珪は頭を下げた。

 プライドなんてなかった。

 断頭台で首を落とされた。火刑台で焼かれた。戦場で腹を裂かれた。今さら、頭を下げることくらい何でもない。


「お願いします」


 髭の男はしばらく珪を見ていた。

 やがて、舌打ちした。


「枷が外れたらな」


「はい」


「俺は俺が逃げるために動く。ガキや女を助けるためじゃねぇ」


「それでいいです」


「いいのかよ」


「あなたが動けば、檻は混乱する。混乱すれば、逃げられる人が出るかもしれない」


 髭の男は、今度こそ黙った。

 片目の老人が小さく笑った。


「妙な小僧じゃ」


 珪は答えなかった。

 外の護衛たちが声を荒げている。馬車の速度が落ちる。車輪の音が鈍くなる。煙は近づいている。森の方から、鳥が一斉に飛び立った。

 空気が変わった。

 肌が粟立つ。

 来る。

 何かが来る。

 少女が、小さく泣き始めた。女が子供の口を押さえる。髭の男が鎖を握る。老人が片目を細める。

 珪は震える手を、自分の膝の上で握り締めた。

 怖い。

 死にたくない。

 焼かれたくない。

 斬られたくない。

 また痛いのは嫌だ。

 それでも、目を逸らすな。

 見る。

 考える。

 拾う。

 死ぬ前に。

 次へ行く前に。

 誰かの死を、そのままにしないために。

 馬が甲高く嘶いた。

 次の瞬間、前方で怒号が上がった。


「伏せろ!」


 護衛の叫びと同時に、何かが空を裂いた。

 矢だった。

 御者の肩に突き刺さる。馬車が大きく傾いた。

 檻の中で、全員の身体が投げ出される。鎖が鳴り、誰かが悲鳴を上げた。

 珪は床に肩を打ちつけながら、それでも顔を上げた。

 道の先。黒い森の陰から、人影が出てくる。

 一人。

 二人。

 三人。

 もっと。

 刃が光る。護衛が剣を抜く。馬が暴れる。馬車が止まる。煙の匂いが濃くなる。

 そして、盗賊の一人が叫んだ。


「檻に火をつけろ! 動く荷はいらねぇ!」


 檻の中の空気が凍った。

 珪の喉が引きつる。

 やっぱり。

 この身体は、ここで死ぬ。

 檻の中で。

 炎に巻かれて。

 他の誰かと一緒に。

 足先が焼ける記憶が蘇る。吐き気がする。泣きそうになる。

 でも、珪は格子の向こうを見た。

 鍵束を持った護衛が、剣を抜いて檻の近くに立っている。盗賊の矢を避けるため、こちらへ背を向けている。

 距離は、近い。

 さっきより、ずっと近い。

 鎖は短い。手は届かない。

 だが、格子の隙間からなら。

 珪は息を吸った。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 それでも、手を伸ばせ。

 死ぬ前に。

 珪は床を蹴った。鎖が手首に食い込む。肩が外れそうな痛みが走る。

 それでも、格子の隙間から腕を伸ばした。

 指先が、護衛の腰に揺れる鍵束へ向かう。

 届かない。

 あと少し。

 鎖が皮膚を裂く。

 血が流れる。

 それでも。


「っ、届、け……!」


 指先が、冷たい金属に触れた。

 その瞬間、護衛が振り返った。


「てめぇ!」


 目が合う。

 珪は鍵束を掴んだ。

 護衛の拳が、格子越しに珪の顔へ向かって振り下ろされる。避けられない。痛みが来る。

 それでも、珪は鍵を離さなかった。

 口の中に血の味が広がる。視界が白く弾ける。

 檻の外で、火のついた松明が投げられた。乾いた藁が燃え始める。煙が上がる。

 少女が悲鳴を上げる。女が子供を抱いて叫ぶ。髭の男が鎖を引き千切ろうと唸る。

 片目の老人が、珪を見て叫んだ。


「鍵だ! こっちへ投げろ!」


 珪は血を吐きながら、掴んだ鍵束を握り締めた。

 手が震える。意識が揺れる。火が近い。

 また、火だ。

 でも今度は、まだ終わっていない。

 珪は、檻の中へ鍵束を投げた。

 金属音が、炎の音の中で鳴った。

 片目の老人がそれを拾う。

 珪は床に倒れた。頬が熱い。煙が喉に入る。視界の端で、少女が泣いている。

 でも、老人の手が動いていた。

 鍵を選んでいる。

 枷へ差し込んでいる。

 髭の男が身を乗り出している。

 まだ。

 まだ、誰も死んでいない。

 珪は、血まみれの口で笑いそうになった。

 笑う余裕なんてないのに。

 ただ、少しだけ思った。

 今度は、何かが変わるかもしれない。

 炎が、檻の隅を舐め始めた。

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